◆◆◆
「私……降沢さんが分かりません」
閉店後の店内で、美聖はバレッタをじっと観察している降沢に、呆然と声をかけた。
降沢の肩書は『画家』だったはずだ。
しかも、気に入ったモデル=モチーフ(いわくありげなもの)以外、滅多に絵を描かないと公言していたはずだ。
前回の最上の件は別として、バレッタなんぞを描きたいと女子高生に申し入れたのには、美聖でなくとも仰天してしまうことだろう。
「確か、モチーフになる素材が安全であるかどうかの判断をゆだねるとか、何とか言われたような気がしたのですが……」
「ああ、もちろん、そうですよ。君は占い師でもあり、僕の絵のモチーフの危険度を察知してくれる貴重な人です」
間髪入れず、胡散臭い笑顔で模範回答されると、美聖の気持ちは一気に萎えた。
「……まあ、いいんですけどね。何も感じないっていうことは、悪いものではない……という判断で良いのなら、降沢さんが何を描こうが、ぜんぜん私はどうでも良いのですけど」
――だけど、やっぱり『バレッタ』というのが、納得できない。
(よりにもよって、バレッタよ。……バレッタ)
ヒマワリの柄は珍しいかもしれないし、独特の紋様のように見えて、煌びやかで可愛いのは確かだが、近くのデパートに行けば、どんなに高くても数千円前後で購入できる代物だ。
それを描きたいと懇願する画家もどうなのだろう。
ある種の変態と捉えられても仕方ないのではないか……。
机の上で、女性のバレッタを上から横から、じろじろと観察している降沢が、どうしようもなく痛い。
「うーん、僕にも、今回ばかりは、よく分からないんですよねえ」
「…………はっ?」
「君が何も感じないというものを、描きたい理由が僕にも分からないのです。でも、あの時、心からこのヒマワリを描きたいと思ってしまったのだから、仕方ないのです」
「つまり、今回のことは、ただの直感で……衝動だと?」
「はい。僕は、主に衝動と欲望に忠実に生きていますから」
どうしたって草食系に見えない男の口から『欲望』なんて言葉が出てきたので、美聖は目を丸くしてしまった。
「何か?」
「いや……。益々、分からないなって思いまして」
「うふふ。美聖ちゃんは分からなくて、当然だけど、在季はとっくに分かっているんじゃないの?」
「えっ?」
「ちなみに、私には、すぐに分かったわよ」
「トウコさん?」
トウコがエプロンで手を拭いながら、定位置に座っている降沢の前にやって来た。
洗い物を終えて、仕事が終了したのだろう。海の男らしい外見と、お似合いの缶ビールを握りしめている。
「自分の胸に手を当てて聞いてみたら? 本当は、分かっているくせに……ね」
「高校生の髪留めを描きたくなった理由……ですか?」
「簡単でしょ?」
トウコは降沢の背後に飾ってある『慕情』を顎で示した。
そのユリの絵は、降沢の作品である。
降沢は、今までにない程、険しい表情で黙り込んでしまった。
「もしかして、トウコさん、あの絵と今回のことと関係があるのですか?」
「多分……ね。じゃなきゃ、いくらアイツでも女子高生に話しかける勇気はないでしょうよ」
二人で内緒話をしている姿を、降沢が機嫌悪そうに睨んでいる。
「何よ。わたし達の仲に、嫉妬しているの?」
「……やっぱり、僕には分かりませんね」
「懇切丁寧に、そのバレッタを描きたくなった理由を、私に語って欲しいってこと?」
「違いますよ。浩介」
「えっ?」
違う……ということは、その理由は分かった……ということだろうか?
むしろ、その件について、ものすごく知りたい……美聖なのだが、降沢が口にしたことは、まったく別のことだった。
「あの子は、本当に先生のことが好きなのでしょうか?」
「……はっ?」
美聖は首を傾げる。
「だって、先生のことを想って、彼女は泣いていましたよ?」
「高校生だから、ある程度大人でしょうけどね。でも、自分の前に、共通の目指すものを持っていて、年上で優しくて何でも知ってそうな人がいたとしたら、その人を特別に想わない人はいないでしょう……」
「それが……恋愛感情って言うんじゃないんですか?」
美聖があっけらかんと返すと、降沢はそっと目を横に逸らした。
「…………そういうものなのでしょうか」
「降沢さん……。もしかして、その恋愛経験とか……そういうのが……あの?」
どきどきと、心音が高鳴る。
いくら、なんでも三十路過ぎの男性に恋愛経験の一つもないはずがないのだが、それでも、美聖の心は、自分でも分からないくらいに動揺していた。
「ああ」
降沢は、自身の頭を撫でながら、にっこりと微笑んだ。
「高校の時の自分を思い出していたんですよ。僕はどちらかというと、そういう恋バナとかをする同級生たちを冷ややかに見ているいけ好かない子供だったので……」
「それは……本当に、いけ好かない子供ですね」
思ったままに言葉を返すと、降沢は肩を揺らして笑った。
「……ですよね。僕もそう思います」
くしゃりと目尻に皺を寄せて、笑う。
明け透けな笑い声に、美聖は単純に嬉しくなった。
「私……降沢さんが分かりません」
閉店後の店内で、美聖はバレッタをじっと観察している降沢に、呆然と声をかけた。
降沢の肩書は『画家』だったはずだ。
しかも、気に入ったモデル=モチーフ(いわくありげなもの)以外、滅多に絵を描かないと公言していたはずだ。
前回の最上の件は別として、バレッタなんぞを描きたいと女子高生に申し入れたのには、美聖でなくとも仰天してしまうことだろう。
「確か、モチーフになる素材が安全であるかどうかの判断をゆだねるとか、何とか言われたような気がしたのですが……」
「ああ、もちろん、そうですよ。君は占い師でもあり、僕の絵のモチーフの危険度を察知してくれる貴重な人です」
間髪入れず、胡散臭い笑顔で模範回答されると、美聖の気持ちは一気に萎えた。
「……まあ、いいんですけどね。何も感じないっていうことは、悪いものではない……という判断で良いのなら、降沢さんが何を描こうが、ぜんぜん私はどうでも良いのですけど」
――だけど、やっぱり『バレッタ』というのが、納得できない。
(よりにもよって、バレッタよ。……バレッタ)
ヒマワリの柄は珍しいかもしれないし、独特の紋様のように見えて、煌びやかで可愛いのは確かだが、近くのデパートに行けば、どんなに高くても数千円前後で購入できる代物だ。
それを描きたいと懇願する画家もどうなのだろう。
ある種の変態と捉えられても仕方ないのではないか……。
机の上で、女性のバレッタを上から横から、じろじろと観察している降沢が、どうしようもなく痛い。
「うーん、僕にも、今回ばかりは、よく分からないんですよねえ」
「…………はっ?」
「君が何も感じないというものを、描きたい理由が僕にも分からないのです。でも、あの時、心からこのヒマワリを描きたいと思ってしまったのだから、仕方ないのです」
「つまり、今回のことは、ただの直感で……衝動だと?」
「はい。僕は、主に衝動と欲望に忠実に生きていますから」
どうしたって草食系に見えない男の口から『欲望』なんて言葉が出てきたので、美聖は目を丸くしてしまった。
「何か?」
「いや……。益々、分からないなって思いまして」
「うふふ。美聖ちゃんは分からなくて、当然だけど、在季はとっくに分かっているんじゃないの?」
「えっ?」
「ちなみに、私には、すぐに分かったわよ」
「トウコさん?」
トウコがエプロンで手を拭いながら、定位置に座っている降沢の前にやって来た。
洗い物を終えて、仕事が終了したのだろう。海の男らしい外見と、お似合いの缶ビールを握りしめている。
「自分の胸に手を当てて聞いてみたら? 本当は、分かっているくせに……ね」
「高校生の髪留めを描きたくなった理由……ですか?」
「簡単でしょ?」
トウコは降沢の背後に飾ってある『慕情』を顎で示した。
そのユリの絵は、降沢の作品である。
降沢は、今までにない程、険しい表情で黙り込んでしまった。
「もしかして、トウコさん、あの絵と今回のことと関係があるのですか?」
「多分……ね。じゃなきゃ、いくらアイツでも女子高生に話しかける勇気はないでしょうよ」
二人で内緒話をしている姿を、降沢が機嫌悪そうに睨んでいる。
「何よ。わたし達の仲に、嫉妬しているの?」
「……やっぱり、僕には分かりませんね」
「懇切丁寧に、そのバレッタを描きたくなった理由を、私に語って欲しいってこと?」
「違いますよ。浩介」
「えっ?」
違う……ということは、その理由は分かった……ということだろうか?
むしろ、その件について、ものすごく知りたい……美聖なのだが、降沢が口にしたことは、まったく別のことだった。
「あの子は、本当に先生のことが好きなのでしょうか?」
「……はっ?」
美聖は首を傾げる。
「だって、先生のことを想って、彼女は泣いていましたよ?」
「高校生だから、ある程度大人でしょうけどね。でも、自分の前に、共通の目指すものを持っていて、年上で優しくて何でも知ってそうな人がいたとしたら、その人を特別に想わない人はいないでしょう……」
「それが……恋愛感情って言うんじゃないんですか?」
美聖があっけらかんと返すと、降沢はそっと目を横に逸らした。
「…………そういうものなのでしょうか」
「降沢さん……。もしかして、その恋愛経験とか……そういうのが……あの?」
どきどきと、心音が高鳴る。
いくら、なんでも三十路過ぎの男性に恋愛経験の一つもないはずがないのだが、それでも、美聖の心は、自分でも分からないくらいに動揺していた。
「ああ」
降沢は、自身の頭を撫でながら、にっこりと微笑んだ。
「高校の時の自分を思い出していたんですよ。僕はどちらかというと、そういう恋バナとかをする同級生たちを冷ややかに見ているいけ好かない子供だったので……」
「それは……本当に、いけ好かない子供ですね」
思ったままに言葉を返すと、降沢は肩を揺らして笑った。
「……ですよね。僕もそう思います」
くしゃりと目尻に皺を寄せて、笑う。
明け透けな笑い声に、美聖は単純に嬉しくなった。