「降沢さん。響子ちゃんは、それが目的で、ここに来たわけではありませんからね?」
「でも、僕が描くことで心情に変化が起きるかもしれません」
「……バレッタを描いて、心情に変化が起こるとか、意味が分かりませんよ」
「僕は感情のこもった物を描くことが好きなのです。おそらく、この髪留めには先生の感情がこもっているのでしょう」
「でも……降沢さん、私は何も」

 ――何も感じない。
 美聖が言いかけたところで、響子が先に口を開いた。

「そんなこと……急に言われても、困ります」

 当然の返答だった。
 そんなことを突然口走る人を、信用できるはずがない

(バレッタを描かせろって、何だそれの世界よ……)

 彼女がもう少し年を重ねていたら、開口一番断っているはずだ。
 しかし、普段の降沢とは違い、彼の方もなかなか引き下がらない。

「響子……さんでしたね。ほんの数日で構いません。僕にこのバレッタ、貸して下さいませんか? 素描程度、描ければ良いのです」
「そびょ……う?」
「鉛筆とかで描く……下描きみたいなものですよ」 
「でも、待ってください、降沢さん。わたしはこのバレッタには何も……分からいんですよ」

 いわくつきの物を描くのが好きだという降沢の試金石のような存在で、美聖は採用されたのだ。
 どの程度のいわくなら、降沢が描いても良い許容範囲なのか、美聖にも分からないのだが、とりあえず、降沢が興味を抱く物に対して、報告の義務はあるはずだ。
 この業務に関しては、美聖自身、ちょっと複雑な気持ちも持っているが、お金をもらっている以上、役目は果たすつもりでいる。
 少しでも降沢の意図が読めるように、頑張ろうと、感覚を研ぎ澄まし、心眼とやらでバレッタを見てやろうとしたが、本当に何も伝わっては来なかったのだ。

「そう……ですか。一ノ清さんは、何も感じないのですね」
「はい、さっぱりです。だから、降沢さんが興味を持つ理由が分かりません」
「ええ。僕にも分かりませんが、猛烈に描きたいと思ってしまったので……」 
「はっ?」

 ……おかしい。
 いつもの覇気のなさは、何処に行ったのだろう。
 情熱が滾り、生き生きとしている。
 ここまでやる気だと、逆にその理由を知りたくなってしまう。
 仕方ない。ここまで降沢が積極的ならば、美聖は援護射撃をするしかないのだ。
 大体、何も感じないということは、きっと悪いものではないのだ。

「ごめんね。響子ちゃん、困らせちゃって。でも、降沢さん……この辺りでは有名な画家で、滅多に自分からモデルを見つけて描きたいって言わない人だから。お金をいくら積んでも描いて欲しいって言う人もいたりして……さ」
「本当に、返してくれるの?」

 不信感を抱きながらも、変化が起こるのなら、それを試したいと望む好奇心に揺さぶられているのだろう。
 降沢と共に大きく頷いた美聖を見届けた響子は、必ず返して欲しいと念を押して、バレッタを降沢に預けたのだった。