◆◇◆

 誰も寄せ付けず、例によって自室にこもっていた。
 この場所しか、僕にとって安心できる場所がないからだ。

 残照がカーテンの隙間を縫って、真っ直ぐ室内に差しこんでいる。
 湿った風が室内を吹き抜け、横になっていた僕の髪を撫でていた。

(何だ……。生きているのか……)

 現実と夢の境が曖昧だ。
 いっそのこと、ずっと眠ったままでいたいけれど、悪夢を見るので、意味もないだろう。

 ならば、僕に生きている価値などあるのだろうか? 


「まーた、独りで勝手に、ふさぎ込んでいるわけ? ……在季」

 不躾に、僕の領域に侵入してくるのは、厄介な身内一人しかいなかった。
 今日がいつなのか忘れてしまったけれど、彼女は最近足しげく、僕のところにやってくる。
 横になっている僕の真ん前に立つから、露出の多い服から覗く長い手足を否が応でも目に入れなければならない。

(健康的な小麦色……だな)

 決して、いやらしい意味ではなく、純粋に羨ましかった。
 僕の生白い皮膚の色とは大違いだ。
 ほとんど、家から出ることも出来ず、人と会うことにすら抵抗を覚える僕とは真逆の女性。
 いつだって活動的で、誰からも好かれて、必要にされていて、頭も良くて、美人な僕の唯一の理解者。
 すべてを滅する太陽のように、輝いている。
 だから、邪悪な物は彼女に寄りつくことも出来ないのだろう。
 それなのに、彼女を表す名前が『夜』というのも、不思議な話だった。

「…………別に。沙夜子(さやこ)姉さんには、関係ないでしょう?」 

 僕は上体だけ起こして、沙夜子姉さんを睨みつけた。 
 そんな僕の威嚇に、彼女は怯みもしない。

「関係なくはないわよ。従姉なんだから! せっかく、頭の良い高校入ったんだからさ、卒業くらいしとかなきゃ勿体ないじゃない?」
「それは、沙夜子姉さんの価値観じゃないですか。僕には無理です。高校に入ったら、少しは体質も変わるかなって思ったんですけど、まったく、変わりませんでした」
「…………あの話、やっぱり、本当なの?」

 沙夜子姉さんが、僕の背後で仁王立ちしている。
 細長く伸びた影が、僕の上に乗っかっていた。
 わずかに感じた彼女の心の揺れを、残念なことに、僕は敏感に察知してしまうのだ。

(……気づかなければ、良いのに)

 他人の考えなんて、見通さなくて良いのだ。
 分かってしまうから、怖くなる。
 そうして、怖いから、僕は逆毛を立てて、今にも噛みつくような脅しをかけて、誰も来ないように遠ざけてしまうのだ。

「別に……。本当でも、嘘でも良いでしょう。姉さんにとっては、どうでもいいことなんですから。僕の頭がどうかしているって言うのなら、病院にでも連れて行ったら良いんじゃないですか。……でも、安定剤は勘弁してくださいね。かえって、きつくなるので……」
「…………本当に、どうしようもない子ね」

 沙夜子姉さんは、どんよりとした溜息を吐いた。
 その態度は、一貫していて、僕が子供の頃からブレがなかった。
 一瞬見えた彼女の深奥の怯えは、綺麗に消え去っていることに、僕は気づいていた。

「分かったわよ。信じるって。信じてあげるわよ。私、貴方がちゃんと日常生活を送ることができるように、何か手を探してみるから……」
「そんなこと、出来るわけが……」
「大丈夫。任せて! 出来るわよ。だって、貴方がそういう目を持っているのなら、同じ人がこの世には必ずいるはずでしょう?」
「ただ単に、僕が本当に変なだけかもしれませんよ……」
「まあね。確かに、貴方は変わっている。……けど、ちゃんと勉強だって出来るし、誰かと普通に話すことができる程度には、普通だと思うわよ」
「沙夜子姉さん……」
「だから……ほら」

 沙夜子姉さんは、肩掛けの大きな鞄から、A4サイズのスケッチブックを取り出した。

「ここで毎日、ぼけっとしていたら、普通にボケるわよ。このスケッチブックで絵でも描いてなさいよ。あんた、絵だけは上手いんだからさ」
「絵なんて、ぜんぜん興味ない……」
「何よ。せっかく、上手いって誉めてあげたのに……。私だって絵描く人間なんだから、人の絵を誉めるのって、結構屈辱的なことなのよ。分からない?」
「別に、誉めて欲しいなんて、頼んでもいないし……」
「本当―に、可愛くないわね! 精々自分の子が出来た時に、反抗期に手間取って、苦労すれば良いのよ!」
「僕は結婚なんてしないし、誰かと付き合おうとも思いません。子供なんて出来やしませんよ」
「そんなこと分からないじゃないの。いつか一緒にいたいって思える人が出来て、その人との子供なら育てることが出来るかもしれないって思う時が来るかもしれないわよ?」
「偉そうにお説教するのなら、沙夜子姉さんこそ、自分の結婚の心配をしたら、どうなんです?」
「あのね……。それ、めちゃくちゃ余計なお世話だから!」

 ――ああ。まったく。
 どうして、ここまで捻くれているんだろうと、情けなくなるくらい、僕の口からは滑らかに、反抗的な言葉が飛び出していってしまう。

(馬鹿だな)

 感謝しておけばいいのに……。
 僕の味方は小さい頃から、彼女と祖母の二人だけだった。
 その祖母はもういないのだから、彼女しか今の僕には家族がいないのだ。
 無条件に愛情を与えてくれる存在の……その尊さを理解できず、僕は甘えで返してしまっていた。
 沙夜子姉さんが呆れつつも、笑っている。
 白いワンピースが橙色に染まっていた。
 この日常が崩れ去る日が来るなんて、予想もしていなかった。
 永遠がないことを、僕は嫌と言うほど知っていたはずなのに……。

 ――どうして?