思いのほか、この人が優しいのは、罪悪感からだ。
 他意はない。
 いつもぼうっとしていて、女っ気の一つもない降沢が意識して、こんなことをするはずはない。
 意識してやっていたら、大変だ。

 そんなことよりも、この程度のことで、どきどきしてしまう自分が痛かった。

「ありがとう……」

 美聖の頭上から、言葉が降ってくる。
 多分それが、降沢の本音だ。
 どこかよそよそしい笑顔や、一線画しているような敬語とも違う。
 そのまま、頭を下げたらしい降沢の前髪が美聖の首筋にかかって、くすぐったくなった。

(絶対に、ほだされちゃ駄目なヤツなのよ。こいつは………)

 何にほだされるのか、分からないままに、美聖は石像のように、硬直した。
 その頃には、もう恐怖心も、この部屋の嫌な感じも何もかもがすっ飛んでいた。
 現金な女だと自嘲してしまうほどに……。
 降沢が微かに口元をほころばせたような気がしたのは、美聖の内心を見抜いたわけではないからだと信じたかった。

「さっ、ここには、色々と因縁めいたものが多い。一ノ清さん、ひとまず、ここを出ましょうか?」
「あっ、そうですね」

 そうだ。早くここから出るべきなのだ。
 そっと手を離して、入口の方に向いた降沢の背中に目を向ける。
 けれど……。

(一つだけ……)

 美聖は問わずにはいられなかった。

「…………降沢さん、最上さんの絵は完成したんですよね?」
「ああ」

 頷いた降沢がいきなりよろけたので、美聖は急いで支えた。

「何やっているんですか? 降沢さん」
「すいません。何かにつまずいて」
「何かって……何なんですか。この床は……。怖いじゃないですか?」
「掃除しないと、ダメですね」

 言いながら、降沢は美聖の手を離さない。
 降沢と二人、どちらが支えているのか分からない感じで、よろけながら窓際に向かった。
 閉めきっていた暗幕のような分厚いカーテンを、降沢が開けると、にわかに月明かりが差し込んで視界が良くなった。

「これは……?」

 最上から借りた髑髏の指輪が、散らかった絵の具や、パレットと一緒に、丸机の上にちょこんと置かれていることを、美聖は確認した。
 不思議なことに、その指輪には先日の黒い靄も、金色の光も一切何も感じなかった。

 ――代わりに。

「あれです」

 降沢の指差す方向に、それらがあった。
 あの黒い靄、金色の光……すべての色彩を吸収したように、最上が持っていた「髑髏」がキャンバスの中に棲みついている。

「…………降沢さん、これは?」

 美聖は驚愕した。
 こんなことが……あり得るのか?
 フィクションのような現実を前に愕然としている美聖に、降沢は淡々と話してくれた。

「一ノ清さん。君の推測通りです。僕は、因縁もしがらみも、呪いも、悪魔も、神様も……すべてを、絵の中に落とし込んでしまう絵描きなんです。悪魔降ろしの絵とか、神降ろしの絵だとか、色々言われたりするんですけどね。……ある意味、究極の霊媒体質なんだって、浩介には言われます」
「霊媒……?」
「一度、念を自分に寄りつかせて、キャンバスにぶつけますからね。そうして描いた絵を良い値で欲しいと言う人もいますし、二度と見たくないと逃げ出す人もいます」

 キャンバスの下方に描かれた髑髏。その上には、大輪のユリの花が咲き誇っている。
 描き方によっては、グロテスクに感じる髑髏が聖なる遺物のように感じるほどに、昇華させているのは、降沢の才能なのだろう。

「あの髑髏は、ある意味彼にとって必要なものだったのでしょうね。確かに、彼が何もかも捨て去って、裸一貫で成功するのに、必要なほど力の強いアイテムだった。だから、金色にも輝いていた。……でも、やがて彼の考え方が変わってきて……。成功だけではない。何かを欲するようになった」
「それが……ユリの花ということですか?」

 降沢は、淡い微笑みで肯定した。
 その横顔は、魅惑的だったけれど、どこか破壊的な微笑だった。

(やっぱり、ダメだ)

 部屋全体に漂う、淫靡で甘美な香りに、再び眩暈が激しくなった。

(だから、私、この人には、近づきたくなかったんだ……)

 怖いくせに、目が離せなくて……。
 どうしようもなく、惹かれてしまいそうな予感がしたから……。
 トウコの言うとおりだった。

 ――――美聖は本能的に、降沢を避けていたのだ。