「降沢さん、失礼します!」

 美聖は、ダイブするような形で室内に飛び込んだ。
 一筋の細長い光が、真っ暗闇の部屋の中を仄かに明るく染める。

「どこですか!? 降沢さん!」

 廊下の明かりが差しこんではいるものの、部屋の奥には届いていない。
 暗いところがそこまで苦手ではない美聖だったが、この室内のひやりとした冷たい空気は嫌いだ。
 美聖は電気のスイッチを探して、室内を警戒しながら歩いた。
 一間(ひとま)の部屋は、果てがない程広く感じる。

「ひっ!」

 思わず、転びそうになったのは、床に打ち捨てられている栄養ドリンクの空き瓶に足を取られたからだ。
 しかし、言い様のない寒気と、眩暈を覚えるのは何故なのだろう……。

 ――黒い煙。

 無造作に置かれているキャンバスを取り囲むように、吐き出されている。
 目で見える訳ではない。
 美聖がそのように感じてしまうのだ。

(…………ああ、そうか)

 分かった。

「そういう……ことなんだ」

 その時になって、美聖は、トウコが頑なに美聖をアトリエに入れない理由に気づいてしまった。
 降沢がいわくありげな物を描きたがるのだとしたら、それをモデルにして描いた絵も同じだ。

(触れてはいけない……ものなんだ)

 ――このままだと、持って行かれる。

 以前、トウコが口にしていた言葉。
 このアトリエに足を踏み入れてみるまで、半信半疑だった本当の恐怖が美聖に襲いかかっている。

(そうよね……)

 こんな強烈な物を相手にしていたら、寿命も縮むに決まっている。

(駄目だ)

 心は進むつもり満々だが、身体がこれ以上進むことを拒否している。
 冷や汗が滴り落ち、頻脈と共に、視界がぐるぐる回る。
 酸欠のような状態だ。

(変な薬品を使っているわけでもなさそうだし……やっぱり、これって降沢さんの絵のせいなんだよね?)

 美聖自身、霊感なんてないと思っていたが、さすがにこの先は無理だ。
 多分、どんな人でも、逃げ出したくなる本能的な恐ろしさなのではないだろうか?

「降沢さん!! お願いですから、返事をして!!」

 暗闇の中で、名前を呼んだ。
 出来れば、この場から立ち去りたい。
 だけど、ここには絶対に降沢がいるのだ。
 彼と言葉を交わすまで、この場から逃げたくなかった。

(………………もう二度と、逃げないって決めたじゃない)

 過去に後悔していることと、降沢とのことは、まったく別の問題だ。
 それでも、美聖は意地になっていた。
 降沢の安否にこだわるのも、そのためだ。
 ここで彼を見捨てたら…………。

(また……二の舞になってしまうもの)

 ……だから。

 美聖はすうっと、息を大きく吸って、吐いた。 

「降沢さんっ!!!」

 渾身の力で、名前を呼ぶ。

 ――と、ごとっと何かにぶつかった音がした。

「…………いたっ」

 場の空気を打ち破るような、間抜けな声だった。
 でも、なんだかひどく懐かしい。

「降沢さん! 大丈夫ですか!?」

 何処か痛むのだろうか……。
 心配して、声がした方に駆け寄ると、頭を押さえて、もぞもぞと上体を起こそうとしている人影があった。

 小さい頃、迷子になっていたところに、両親が現れた時のような安堵感に、美聖は腰を抜かしそうになった。

「何しているんですか? 貴方は…………」

 ホッとした感で息を吐いたのだが、溜息のようになってしまったかもしれない。
 降沢は、僅かな光にも慣れていないのだろう。
 両目を眇めている。 

「……頭……ぶつけてしまいました。二回も」
「…………はっ?」
「この椅子で」
「ああ」

 そう言って、アンティークの椅子の立派な脇息を擦った。
 すっかり床で眠ってしまっていた降沢が、慌てて起き上がろうとした時に、椅子に頭をぶつけてしまったということらしい。
 学習能力もなく、二回も……。

「大丈夫なんですか?」
「いや……。大丈夫ではないですよ。まさか一ノ清さんがここに来るとは思ってもいなかったので、声がするけど、夢だろうと思っていたら、本当にいるんですから」

 どうやら、大丈夫ではないのは、頭の中のようだ。