「こんな僕ですら、思います。もしも…………会心の一枚を一生のうちに一枚でも描くことが出来たのなら、死んだって構わないんだって」

 ………………ぞわり……とする。

 プロとしての心構えのようなもの……ではなかった。
 それこそ、踏み込めない降沢の本心のような気がして、美聖は怖気を覚えた。

 ――近づいてはいけない。

 まるで、身体を通して警告を受けているような、危険な香りがしていた。
 だけど、美聖は席を立つことなんて、出来なかった。
 完全に、二人の間に立ち込めている緊迫感に、飲みこまれていたのだ。

「………………俺は」

 最上が唇を噛んでいる。
 降沢の穏やかだが、迫力のこもった一言が琴線に触れたらしい。
 やがて、ぽつりと彼が零した言葉は、美聖が女の子から聞いた情報と同じだった。

「元カノが昔、鎌倉の降沢って画家に絵を描いてもらうと、幸せになれるって話をしてたのを思い出して、ここに来たんだ。本当は絵なんて、どうでも良かったのかもしれないな」
「最上……さん」
「……て、別に未練のようなものがあったわけじゃないぞ。けど……。ただ……噂で、婚約寸前の彼氏がいるとか聞いて、すごく懐かしくなったったってわけさ」

(なるほど……)

 やはり、最上は降沢の絵が目的ではなく、彼女の面影を求めていたのだ。

「最上さん……。残念ですけど、その元彼女さんが話していたのは、おそらく、僕の祖母のことだと思います。祖母の絵が幸せになるものなのかはともかく、僕の絵は誰かを幸せにするような代物ではありませんから」
「…………何だ。あいつが言っていたのは、あんたじゃなかったのか」
「だとしたら、どうします? やっぱり、僕に絵を描かせるのは、やめておきますか?」

 降沢は挑戦的に体を前に乗り出した。

「選択するのは、貴方自身ですけど?」
「おいおい、何だよ。急に営業トークみたいだな? あんた金がなさそうだから、高く買えって言いたいんだろう?」
「そう見えます?」

 本心なのか、きょとんとしている降沢に……

「だから、いつも言っているのに。格好くらいどうにかしろって……」

 特製のチェリータルトを、人数分配りながらトウコが母親モードで降沢に説教をした。
 美聖もトウコに便乗する形で、普段言えなかったことを口にする。

「少しくらい、前髪切ったら良いんじゃないですか?」 
「ああ、そうか。鬱陶しいですよね。最後に切ったのは、いつだったかな……」

 その物言いがすでに、心配なレベルである。
 飾り気の一つもない降沢の格好は、憐れですらあった。
 細っこい身体をしているせいもあって、栄養状態を疑ってしまうレベルだ。

「大丈夫なのかよ。画家先生は」

 皮肉たっぷり口元を歪めた最上に、美聖はハラハラするものの、彼なりのブラックジョークだったのだろう。
 すぐに、テレビで見たことのある飄然とした顔つきに戻った。

「あの絵……。あんたが描いたのか?」
「ええ」

 丁度、ユリの絵が見える位置に着座していた最上が立ち上がった。

「ふーん……。これのタイトルは?」
「…………『慕情』よ」

 降沢でなく、トウコが答えた。

「慕情……ねえ」

 最上は、そのまま仁王立ちで、しばらく絵を眺めていた。
 陽光が最上の黒いブーツの足元を照らす。
 それを皆で黙って、見守っている。
 美聖がなかなか直視できない、その作品をたっぷり鑑賞した最上は、やがて、おもむろに、左手の指輪をはずした。

「あのさ……。知っての通り、バンドは活動休止ってことで、俺……行き詰っているわけよ」
「…………そうなんですか」

 淡々と相槌を打っている降沢の態度に、最上は溜息を零した。

「あんたみたいな反応、マジで新鮮だな」

 最上は、投げるようにして、ぞんざいに髑髏の指輪を降沢に渡した。

「こんな外国の土産程度の指輪でどこまで描けるか分からないけど、先生の好きなように描いてくれよ」
「分かりました。当然、そうさせて頂きます」

 銀色の指輪を掌で包み込んだ降沢は、最上に向かって、ぺこりと小さく一礼した。


 ……………………そうして。
 その日から、降沢は離れの作業場から出て来なくなってしまった。