鎌倉では狐ではなくて、狸に化かされるのだと聞いたことがあったが、まさしく、その通りのようであった。
 一ノ清(いちのせ) 美聖(みさと)は困惑していた。
 人生で一番というわけではないけれど、間違いなくベストテンに入るくらいには、記憶に残る出来事であった。

(まさか、親しくして下さった方がこんな……)

 狸……ではないものの、恰幅は良く、肩幅は広く、顔も大きい。
 サングラス越しに、薄ら見える目は垂れていて、愛嬌はあるが……。
 どう見たところで、男性だった。

「あら? 話してなかったかしら?」
「……話してはなかったですね」

 話したことはなかった。 メールやラインでやりとりをするくらいで……。
 こうして実際、この人にお目にかかるのは、初めてだったのだ。
 美聖は初めましての挨拶の後、半ば放心状態となっていたが、大男に覗きこまれたことで、やっと我に返った。

「ト、トウコさんって、男の人だったんですか?」
「…………嫌だわ。心は女よ」
「女性です……か?」

 やりとりはすべて、女言葉だった。
 更に名前が『トウコ』だったので、勝手に女だと思い込んでしまっていた。
しかも、本人が女のつもりだったのなら、超能力者でもない限り、美聖がトウコの正体を見抜けるはずもない。

(……だけどねえ)

 結構、プライベートなことも突っ込んで話してしまった相手が、まさかメタルフレームのサングラスを掛けているだけでなく、アロハシャツまで着用している怪しげな男だったとは……。

「まあ、細かいことは良いじゃないの」
「……細かい……こと」

 そうだろうか……。
 結構、重要な問題だと思うのだが……。

「ほら、疲れちゃったんじゃない? ここまで来るの大変だものねえ」
「それは……まあ……はい」

 トウコの優しい声に、美聖も、性別のことなどどうでも良くなりそうだった。
 生温かい風に、汗ばんだ髪がふわりと待った。振り返ると、見渡す限りの緑の中だった。

 ――北鎌倉の山の中。
 住宅街の中に森があって、その中に、この築数百年の古民家がぽつんと存在していた。
 駅から歩いて行くうちに怖くなって、何度もスマホの地図を見つめ返したのは、つい先程のことだった。