「いなかっただろ?」
 空振りをバカにするように、慧が聞くと、岩瀬はむっとした顔で睨み返してきた。
「調子に乗るなよ、ガキが」
 岩瀬はなにも見つけられなかった腹立ち紛れか、無駄に凄む。それが頭にきたののだろう、慧が口を開く前に横にいた石田が飛び出した。お互い面子にかけて引けないので、睨み合いになる。
「調子こいてんのはそっちだろ、他人んちに土足で上がりこんで家捜しまでしたんだ、なにも出てこなかったら、すみませんくらい言うのが本当じゃねえのか?」
「なんだあ? 腰巾着が偉そうに、なに吼えてんだよ、テメエに用はねえんだ、すっこんでな!」
「テメエこそ鵜飼さんの腰巾着のクセに一人前に凄むんじゃねえよ! 他人の権力を笠にきなきゃ、なにも出来ねえお子様ランチが!」
 直接身長のことを言ったわけではないが、岩瀬はやはり内心気にしているのだろう、お子様という台詞にカッときたようだ。目を血走らせて怒鳴る。
「ふざけんじゃねえぞ! 大目に見てやってると思って図に乗りやがって! ガキは痛い目見なきゃわかんねえってか?」
「上等だ、やるか?」
 二人の怒鳴り合いは治まらず、このまま第二戦かと思われた。だがそのとき石田の背後にいた慧が一歩前に出る。
「悪い、岩瀬、こいつはバカなんだ、取り合わないでやってくれ」
 石田の肩に手を当て、ぐいと後ろへ引き下げた慧は、特別謙るでもなく、相手をバカにするでもなく、自分達に敵意がないことをアピールした。その対応に岩瀬も勢いを落す。
 ここでさらにふざけるなと騒げば男を下げるだけだと気づいたのだろう、表情は和らいだ。
「躾がなってねえぞ、バカはバカなりに、仕込めば使えるもんだ、もう少し礼儀を弁えられるようにしとくんだな」
「日々仕込んでるんだがな、なかなか上手くいかない、すまん、あとで言って聞かす」
「ああ、そうしろ、鵜飼さんには、お前が曽我部を隠してるわけじゃないとだけ、言っといてやるよ」
「そうしてもらうと助かる」
 慧が頭を下げると、それに気を良くしたのだろう、岩瀬は機嫌よく階段を下り、出口へと向かった。だが、そこでなにを思ったのか、手下どもに先に帰れと告げて下がらせ、佇む慧に話しかける。
「藤宮、俺はお前がその気なら、盃をやってもいいと思ってんだ、いつまでもガキのお守りは疲れるだろ、どうだ?」
「いい話だな……けど俺は組織ってのに向いてない、窮屈なのが嫌いなんだ」
「ここだって立派に組織だろ、組の名前がないだけで、やってることは俺たちと同じだ」
「そこが肝心なんだよ、名前なんか要らないんだ、俺も、ここにいる連中も、誰一人、名前なんか欲しがってない」
 ただ自由でいたいんだと話すと、岩瀬は少しだけ面白くなさそうに眉間に皺を寄せた。そして浅い溜息をつき、慧の背をぽんと叩く。
「いつまでもガキのまんまでいられるわけじゃない、お前だってわかってるはずだ、その気になったらいつでも言えよ?」
「そうだな、ここまで世話になってるんだ、他に身を寄せる気はないよ、万が一、そんな気になったらあんたに話す」
「期待してるぜ」
「ああ」

 ***

「澤田、そこらに塩でも撒いとけ」

 慧が呟くと、さっきまで勇敢に戦っていた澤田は、人の良さそうな表情ではいと最敬礼をした。
 澤田にとって慧は神にも等しい相手なのだろう。神の命令は絶対だ。命令でなくとも、彼が願うなら何でもする。殴られてさえ嬉しい。そんな顔をしていた。
 なんでそこまで、と考えて、裕二は密かに苦笑した。紗枝に言われた言葉を思い出したのだ。

――じゃあ、アンタはなんで慧について来たのよ?

 彼女の言葉が全てを言い当てている。たしかにその通りだ、自分は慧を護ることばかりを考えている。
 ここに至るまでの半生は我侭で子供で自分のことばかり考えて生きてきた。少しばかりモノを書くのが好きだっただけでそれほどの才能もないくせに自分は文豪になれると勝手に自惚れ、それが達せられないのは周りの見る目がないからだと捻くれていた。
 まだ結果も出ていないのに書くことだけに熱中した結果、成績は下がり大学は卒業を前に留年が決まった。
 それを知った父親に書くことを止められ、パソコンを取り上げられ、絶望して死のうとさえした愚か者だ。
 だがそんな愚か者が今、慧のためになにかしたいと考えている。
 彼の負う荷を軽くしてやりたい。少しでも安らいでもらいたい。そのために自分が出来ることなら何でもしたい。気持ちは澤田や石田と同じだ。
 だから澤田の気持ちはわかる。気分が悪いから塩を撒け、そんな些細なことでも自分に言い付けてくれる、彼の役に立てる。それが嬉しいのだ。
 自分もそれと同じだ。自分がいることで彼が少しでも安らげるなら、少しでも役に立てるなら、何でもしたいと考えている。そう考えれば澤田と自分の立場は似ているのかもしれない。
 一方的親近感を持った裕二は、ほかの連中が一階ロビーから消えるのを待って、慧の言いつけどおり、本当に塩を撒き始めた澤田に話しかけた。

「あの……」
 声が小さ過ぎたのか澤田は裕二に背を向けたまま返事をしない。節分の豆まきのように四方に塩を撒き、ご丁寧に出入り口には盛り塩までしている。なかなか几帳面だ。いったいどんな顔をしてやっているんだろうかと前へ回り覗きこんだ。
 彼は、とても真剣な顔をしていた。荒れた花壇を手入れする庭師のような、真摯で誠実な顔だ。与えられた仕事に全力を尽くし、誰が見ていても見ていなくても、決して手を抜かない。ひたいに汗さえ滲ませ、黙々と作業を続けている。
 それを見て、裕二も身体の奥が熱くなるのを感じた。自分も同じだ。彼のようになにかしたい。慧のためになにか、なんでもいい、たとえただの使い走りでも、やれと命じてくれれば走る。
 急に、慧に命じられそれを遂行する立場にある澤田が羨ましくなった。
 憂さ晴らしに殴られ、腹立ち紛れに難題を押し付けられ、些細な仕事を任され……そして彼の微笑む顔をほんの一瞬でも垣間見る。そんな存在になりたい。それはまさしく澤田の位置だ。
 彼になりたい。彼のようになりたい。そのために盃が欲しい。
 そこで裕二はここにいる男達の思いをようやく完全に理解した。
 みな思いは同じだ。慧に魅かれ、ここに居つき、そしていつか盃を求める。彼の役に立てる人間になりたいと願うのだ。その罠に自分も堕ちた。
 だが盃は求めない。
 喉から手が出るほど欲しいがそれをくれとは言わない。盃を受けてしまえば自分は部外者ではなくなる。友人でもなくなる。その瞬間から部下になり、慧はまた孤独に苛まれることになる。そうはさせられない。
 慧が自分を部外者としておきたいのは部下ではなく、友がほしいからだ。それだけは自分にしか叶えられない願いだ。だから必ず叶える。
 自分は慧の部下にはならない。そう決意しながら裕二はもう一度、今度は正面から澤田によく聞こえるように大きな声で話しかけた。
「あの! 澤田さんは、何歳なんですか?」
「なんだ……急に」
 急に話かけられた澤田は少し構えた雰囲気で顔を上げた。緊張しているのか、それとも心を開いていないからか、その表情は硬い。裕二もあまり押しの強いほうではないので、普段ならそこで引っ込むところだ。だが今回は頑張った。
「いえ、なんか、澤田さんに興味があって、もっとよく知りたいって言うか……おいくつなんですか?」
 急すぎたろうかと思いながらもさらに聞くと、澤田はこちらの考えを量りかねるといった顔で言葉少なく答える。
「……二十二だ」
「あ、じゃあ僕と同い年だ」
「だからなんだ?」
「えっと、じゃ、あの、学校はどこ? この辺りなの?」
「浜工……二年で中退したけどな」
「浜工、あ、じゃあ近いね、僕は鎌高……」
「鎌高? ふざけてんのか? 鎌高と浜工じゃ偏差値が二十以上違うじゃねえか、似てんのは発音くらいだ」
 澤田の返事は取り付く島もない。しかしここでくじけていては先がない。話してもらいたい一心で、裕二は身を乗り出した。
「ごめん、ただちょっと話をしたくて」
「部外者に話す話なんかなにもないぜ」
「そう言わないでよ、僕も慧の役にたちたいんだ、だからキミのことも知りたい、ね、キミはどうしてここに住むようになったの? 慧とはどうして知り合ったの?」
 歳は離れている。四歳違えば学校でも一緒にはならなかったはずだ。どこでどうやって知り合ったのだと訊ねると、彼は不機嫌そうにジロリと裕二を睨み、それでも話してくれた。
「藤宮さんは俺の命の恩人だ、殺される所だった俺を助けて引き取ってくれた、俺はあの人の為ならなんでもする」