◇◇
――維月を攫って、照陽舎に連れ戻してしまった。
朱音が何かやらかすだろうと想定していたらしい、優秀な近従と女房のおかげで、こっそり、運び込むことには成功したが……。
(明日には、騒ぎになるのは必至だな)
別にそれは構わない。
重要なのは、そんなことではない。
維月のことだ。
(……無理をさせてしまったか)
彼女は、牛車の中で気を失ってしまった。
短い距離とはいえ、二度も移動することは、維月の肉体に大きな負担になったに違いない。心配したくせに、自分が率先して無茶をさせてしまった。
(何が大丈夫だ。まったく大丈夫ではないだろうが……)
維月が背負う苦痛は、朱音のせいだと思うと、悔しくて、やるせなかった。
二度と離すまいと、柔らかな手を握りしめると、維月がふっと目を覚ました。
「……朱音さま。ここは?」
呟いてから、御簾台の装飾で分かったのだろう。
「照陽舎……ですね」
呆然と呟く。維月の不安を払拭したくて、朱音は彼女の頬を優しく撫でた。
「心配いりません。当面は、私付きの女房が貴方の面倒を見ます。すぐに瀬野も合流するでしょう」
「……瀬野。朱音さまは、瀬野と古くからのお知り合いなのですね? 父は知っていた?」
「ええ、まあ。黙っていて、申し訳ない。でも、勘違いしないで下さい。瀬野は協力者なだけですから。あの人、性格的には難がありますが、並の男より優秀で勇ましいのですよ」
変な誤解をされたくなかったので、慌てて否定したら、上体を起こした維月が、くすくす声をあげて笑った。
「ああ、そうですよね。瀬野は勇ましい。心強いです」
屈託のない笑顔。この人の安らいだ表情を見るだけで、朱音は強くなれる気がした。
「維月。どうか、気にしないで下さい。貴方が言っていた誓約なんて、どうにでも反故にするやり方がありますから」
「しかし、それでは……」
「それと……」
朱音は先回りして、維月の反論を封じた。
「出生のことも、気にする必要はありません。貴方の今の立場は太政大臣の娘です。私以外には黙っていれば良い」
「あっ、はい。そのことについては、前々から父が……」
「父君のことは、禁句です」
朱音は憚ることなく、むっとした。
ここで、太政大臣の名前なんて出して欲しくなかった。
実力行使とばかりに、朱音は維月を掻き抱く。
「維月」
「わっ! 朱音さま?」
息が詰まるほどの密着に、素直に動揺している維月が愛らしかった。
「今後は、何事も維月の意思で決めていくように努めて下さい。貴方はもう、身を挺して私を護る必要はないのです。太政大臣は貴方のことを「形代」だとか言っていましたが、必ずそんな術は解除させます。どんな手を使っても、私は貴方を自由にします」
「どうして? 私が貴方様をお護りする方が利に繋がるはずです」
「妻に盾になって欲しいと願う夫がいますか?」
「……妻?」
維月の頬が紅潮している。
だが、嬉しそうなのに、過度なほど自虐的な彼女は、すんなり朱音の言葉を受け入れないのだ。
「いけませんね。朱音さまは、お優しいから。私のような者にも情をかけて下さるのに」
「莫迦なことを」
朱音は、腕の力を強めた。
維月の体調が万全であったのなら、とっくに彼女のすべてを自分のものにしていただろう。
「私は情けだけで、こんなことをするほど、酔狂ではありません。初めて会った時から、貴方のことが気になっていました。それが、貴方と淑景舎で会った時に、恋心だって自覚したんです。本気なんです」
「思い込み……かもしれません」
「そう思うのなら、それで結構。一生かけて、真実だと証明してみせますから」
そっと囁いてから、朱音は耳朶に口づけた。
維月と出会う前に、弟の死の真相を知っていたら、罪悪感に潰れて、出家していたかもしれない。
だけど今は、どんなに狡いと罵られ、殺されかけても……。
東宮という地位にいることで、彼女のすべてを手に入れることが出来るのなら、狡猾で卑怯者にもなってやろうと思えてしまうのだ。
(結局、それを伝えたかったんだろう。帝も、太政大臣も)
真実を暴露して、朱音に帝としての覚悟を促した。
帝や太政大臣の行為に、嫌悪感を抱いているのなら、尚更権力を持って、抗わなければならない。
維月の価値観を変えるためにも、負けるわけにはいかないのだ。
「維月、これからは、私のために生きて欲しいのです。私の妃として、私の子供を生んで……。ずっと一緒に生きていくのです。貴方はどうなのですか? 私と共に生きてはくれないのですか?」
「私は」
長い沈黙だった。
多分、生まれて初めて、維月は自分の気持ちと対峙している。
何度か頭を横に振って、葛藤を繰り返して、そして、見つけた答えに殉ずるように、維月は朱音の袖を握りしめた。
「朱音さまと、一緒にいられたら。たとえ、そんなことが罷り通らなくても、私は……」
「罷り通しますよ。……私は、きっと帝になりますから」
高く昇った月の光が、薄暗い御帳台の中に差し込んでいる。
光を纏った彼女は、天女のように美しかった。
朱音にとって維月は「月草」ではない。
高い山の頂に登ってようやく届くかもしれない、天上の月なのだ。
【了】
――維月を攫って、照陽舎に連れ戻してしまった。
朱音が何かやらかすだろうと想定していたらしい、優秀な近従と女房のおかげで、こっそり、運び込むことには成功したが……。
(明日には、騒ぎになるのは必至だな)
別にそれは構わない。
重要なのは、そんなことではない。
維月のことだ。
(……無理をさせてしまったか)
彼女は、牛車の中で気を失ってしまった。
短い距離とはいえ、二度も移動することは、維月の肉体に大きな負担になったに違いない。心配したくせに、自分が率先して無茶をさせてしまった。
(何が大丈夫だ。まったく大丈夫ではないだろうが……)
維月が背負う苦痛は、朱音のせいだと思うと、悔しくて、やるせなかった。
二度と離すまいと、柔らかな手を握りしめると、維月がふっと目を覚ました。
「……朱音さま。ここは?」
呟いてから、御簾台の装飾で分かったのだろう。
「照陽舎……ですね」
呆然と呟く。維月の不安を払拭したくて、朱音は彼女の頬を優しく撫でた。
「心配いりません。当面は、私付きの女房が貴方の面倒を見ます。すぐに瀬野も合流するでしょう」
「……瀬野。朱音さまは、瀬野と古くからのお知り合いなのですね? 父は知っていた?」
「ええ、まあ。黙っていて、申し訳ない。でも、勘違いしないで下さい。瀬野は協力者なだけですから。あの人、性格的には難がありますが、並の男より優秀で勇ましいのですよ」
変な誤解をされたくなかったので、慌てて否定したら、上体を起こした維月が、くすくす声をあげて笑った。
「ああ、そうですよね。瀬野は勇ましい。心強いです」
屈託のない笑顔。この人の安らいだ表情を見るだけで、朱音は強くなれる気がした。
「維月。どうか、気にしないで下さい。貴方が言っていた誓約なんて、どうにでも反故にするやり方がありますから」
「しかし、それでは……」
「それと……」
朱音は先回りして、維月の反論を封じた。
「出生のことも、気にする必要はありません。貴方の今の立場は太政大臣の娘です。私以外には黙っていれば良い」
「あっ、はい。そのことについては、前々から父が……」
「父君のことは、禁句です」
朱音は憚ることなく、むっとした。
ここで、太政大臣の名前なんて出して欲しくなかった。
実力行使とばかりに、朱音は維月を掻き抱く。
「維月」
「わっ! 朱音さま?」
息が詰まるほどの密着に、素直に動揺している維月が愛らしかった。
「今後は、何事も維月の意思で決めていくように努めて下さい。貴方はもう、身を挺して私を護る必要はないのです。太政大臣は貴方のことを「形代」だとか言っていましたが、必ずそんな術は解除させます。どんな手を使っても、私は貴方を自由にします」
「どうして? 私が貴方様をお護りする方が利に繋がるはずです」
「妻に盾になって欲しいと願う夫がいますか?」
「……妻?」
維月の頬が紅潮している。
だが、嬉しそうなのに、過度なほど自虐的な彼女は、すんなり朱音の言葉を受け入れないのだ。
「いけませんね。朱音さまは、お優しいから。私のような者にも情をかけて下さるのに」
「莫迦なことを」
朱音は、腕の力を強めた。
維月の体調が万全であったのなら、とっくに彼女のすべてを自分のものにしていただろう。
「私は情けだけで、こんなことをするほど、酔狂ではありません。初めて会った時から、貴方のことが気になっていました。それが、貴方と淑景舎で会った時に、恋心だって自覚したんです。本気なんです」
「思い込み……かもしれません」
「そう思うのなら、それで結構。一生かけて、真実だと証明してみせますから」
そっと囁いてから、朱音は耳朶に口づけた。
維月と出会う前に、弟の死の真相を知っていたら、罪悪感に潰れて、出家していたかもしれない。
だけど今は、どんなに狡いと罵られ、殺されかけても……。
東宮という地位にいることで、彼女のすべてを手に入れることが出来るのなら、狡猾で卑怯者にもなってやろうと思えてしまうのだ。
(結局、それを伝えたかったんだろう。帝も、太政大臣も)
真実を暴露して、朱音に帝としての覚悟を促した。
帝や太政大臣の行為に、嫌悪感を抱いているのなら、尚更権力を持って、抗わなければならない。
維月の価値観を変えるためにも、負けるわけにはいかないのだ。
「維月、これからは、私のために生きて欲しいのです。私の妃として、私の子供を生んで……。ずっと一緒に生きていくのです。貴方はどうなのですか? 私と共に生きてはくれないのですか?」
「私は」
長い沈黙だった。
多分、生まれて初めて、維月は自分の気持ちと対峙している。
何度か頭を横に振って、葛藤を繰り返して、そして、見つけた答えに殉ずるように、維月は朱音の袖を握りしめた。
「朱音さまと、一緒にいられたら。たとえ、そんなことが罷り通らなくても、私は……」
「罷り通しますよ。……私は、きっと帝になりますから」
高く昇った月の光が、薄暗い御帳台の中に差し込んでいる。
光を纏った彼女は、天女のように美しかった。
朱音にとって維月は「月草」ではない。
高い山の頂に登ってようやく届くかもしれない、天上の月なのだ。
【了】