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「……太政……大臣」

 維月と対していた時と違い、朱音は緊迫した表情で父を見据えた。
 父は常のように、透明な笑みを湛えたままだ。

「成程。ここまで貴方様を誘導したのは、瀬野ですか。生前、貴方様の母上と交流があったとか。賢い女性ですが、私の言いつけをいつも破ってしまうのは、困りものですね」
「ご存知だったのか……」

 朱音が自嘲を込めて呟く。
 二人の駆け引きの中身は、維月にはよく分からなかったが、瀬野のことを通して、父は朱音を試しているようだった。
 出仕する際と同じ直衣姿の父は、随分前から、朱音の来訪を知り、身支度していたのだろう。
 昔から、父には何でもお見通しだった。
 くだらない維月の気持ちなんて、とっくに見抜いていたに違いない。

「父様」
「東宮さま、娘は言いにくいようなので、私からご説明しましょう。いずれにしろ、貴方様の即位が決まったら、お話しするつもりでした」

 父の無機質な声が、質素な室内に響いた。

「この都には結界が張られているのです。外部から、怨霊が入らないよう、呪術を駆使した完璧な護りです。しかし、残念なことに内側から発生したものについては、出口がなく、篭もりやすい。現在、都は内側に怨念を溜めたまま、今にも破裂しそうな勢いです。そして、その怨念の矛先は、この国の頂きである帝に向かう」
「莫迦な。そんなことが本当に? 帝はご存知なのですか?」
「無論。陰陽師や民間の呪禁師なども動員して、結界の調整を行っている段階です。貴方様のことを呪詛していた女も、平時であれば、そこまで怨念を膨らませることはなかったかもしれません」
「そんな……」
「ですが、呪いは罪です。裁かれる必要がある。破った時点で、相手に返すことは必須です。そう、口を酸っぱくして言い聞かせていたのに、維月も二年前と同じことをしでかすとは」
「父様。朱音さまには……」
「どうせ、分かることだ」
「維月……貴方は?」

 朱音が眉をひそめて、維月を一瞥した。

「貴方の身体の不調は、呪いを受けたせいなのですか? いや、しかし、桐壷の更衣殿は、私に向けて呪いを放ったはずです。関係ない貴方にどうして呪いが?」

 と、そこまで言いかけて、朱音は額に手を当てた。

「……そう……いう……ことか。維月は私の」

 信じられないとばかりに、朱音は維月の手を強く握りしめた。

「父様!」

 維月は初めて父を怒鳴ったが、しかし、父は朱音を追い詰めることを、止めてくれなかった。

「ええ。維月は貴方様の身代わり、形代です。貴方様に向けられた呪いは、維月が受けるよう、仕組んでいる」
「ふざけるなっ!」

 瞬間、朱音はその場で立ち上がり、父を一喝した。

「太政大臣、貴方は……。私の身代わりにするために子を浚い、私の盾に使っていたのか!?」
「何を激昂しておりますのやら。貴方がずっと目を背けていたことではないですか」
「私は、そんなこと頼んでない!」

 肩で息を吐いている朱音を、父は淡々と眺めていた。

「それがもっとも、効果的だったのです。紙の形代で済ますことも出来ないことはありませんが、どうしても反応が遅れます。形代が人間であれば、呪詛の相手を探ることも出来ますし、何かあれば返すことも可能です。むしろ、皇族である私だからこそ、内裏の中でも動きやすい」
「では、二年前に亡くなった貴方の息子も、私を庇って?」
「返せば良かったのですが。侮ったのかもしれません。桐壷の更衣に同調してしまったのでしょう。貴方様の弟君は敏感な御方でした。母君の異変に感づいていたらしい。私にも探りを入れられて……。すぐに感づいたのかもしれませんね」
「弟は、自ら命を絶ったと?」
「断言はできませんが、おそらく」
「最低だ!」

 朱音の身体がぶるぶると震えている。心配になるくらい、顔が真っ青だった。

「私などの為に死ぬことが、幸せのはずがないでしょう?」

 泣きそうな顔で見つめられて、維月は息を呑んだ。
 優しい方だから、すべてを話したら絶対に傷つくだろうと思っていた。

(だから、お伝えしたくなかったのに)

 おろおろしながら、父に視線を向けても、今回ばかりは解決しなかった。

「維月。貴方は私が桐壷の更衣について、好意的なことを話したから、彼女に呪いを返さずに自分で受けることにしたのでしょう?」
「朱音さまにとって、大切な御方だと思ったのです」
「兄君のように、貴方は死んでいたのかもしれないのですよ?」
「仕方ありません。そういうものですから」

 微笑みながら、朱音を見上げると、辛そうに顔を歪められてしまった。

「もう二度と……維月にこんなことは、させませんよ。太政大臣」
「まるで、宣戦布告のようですね。私は、貴方様の母君のたっての願いで、ずっと貴方様をお護りしてきたのに」
「母の……?」
「貴方様のお美しい母君の最期の願いでもなければ、私だってこんな面倒なことしませんでしたよ。帝を恨んでいたわけでありませんが、この国も貴方だって、どうでも良かったのです」
「父様……」

 知らなかった。
 朱音の母君と父は繋がりがあったらしい。
 だが、朱音の怒りは収まるどころか、更に燃え上がっていた。
 
「ならば、もう、そんな面倒なことはしないで良い! 冗談じゃない。貴方に維月は任せられません。彼女は今から私が引き取ります」
「……えっ?」
「行きましょう! 維月」

 ――行く? 
 何処に行くのだろう。
 維月は、朱音の妃にはなれない。
 第三者の立ち会いのもと交わされた誓約は、有効なはずだ。
 だけど、維月に拒否権はなかった。
 朱音は言うや否や、維月をひょいと抱き上げてしまったのだ。
 ずんずんと前に進み、座ったままの父を追い越して、渡殿まで出てしまった。
 あと少しで屋敷の外に出る。……その直前に父の声が追いかけてきた。

「東宮を降りるのですか? 大勢の犠牲の上に貴方は生きていたのに?」
「……私は」

 刹那、足を止めた朱音だったが、しかし、すぐに維月を抱き直し、何事もなかったかのように歩き始めた。

「しっかり、掴まっていて下さいね、維月。絶対に私から離れないように」

 まるで、自分に言い聞かせるような物言いに、維月は抵抗するのも忘れて、強く朱音にしがみついた。
 ……満月。
 外に出て、仰いだ月は清かに満ちていた。
 胸の奥で、不安と、恐怖と、甘酸っぱい痛みが混ざり合って、維月の涙は止まらなかった。