俊明の話から三日後、春麗は今まで着たことのないような豪華な襦裙を身に纏い、後宮へと向かった。見送りには誰も来ず、荷物も小さな風呂敷が一つあるのみ。これには迎えに来た侍従も驚いていたが春麗は気にならなかった。
 目を隠すための麻布は屋敷を出るときに外すよう俊明から命じられていた。
 不安を抱えたまま麻布を外し、そして俯いたまま後宮へと上がることとなった。春麗はせめてと、前髪をなるべく前に下ろした。目が隠れるように。
 後宮では春麗がいた物置のような部屋と比べることが失礼なほど広い部屋が与えられ、侍女もつけられた。
 食事もきちんと出る。咎める者もいない。生まれて初めて、春麗はこんなにも平和な日々を過ごした。けれど春麗の気が休まることはなかった。いつ皇帝陛下から呼び出されるか、そればかりが気がかりだった。
 花琳や屋敷の侍女たちの言うことがどこまで本当かはわからない。けれど、後宮だというのに人気(ひとけ)がなく、寒々とした空気が流れている。何かあると言われても仕方ないのかも知れない。
 ただ……。
 
(誰も死にそうな人はいない、よね)

 春麗は侍女やここまで案内してくれた宦官の姿を思い出す。見ようと思ったわけではない。けれど必要に駆られ顔を上げた際に見たその顔には死の文字は出ていなかった。花琳は妃が次々と死んだと言っていたし周りの人間も同様だと言っていたからもっと死相が蔓延しているのかと思っていたけれど。
 それとも皇帝陛下に近づかなければ大丈夫ということなのだろうか。
 春麗に与えられた部屋は後宮の奥にある一室だった。皇帝陛下の日桜宮からは随分と遠い場所にある。皇后となるのであればそれ相応の部屋が用意されても不思議ではない。なのになぜか。答えは簡単だ。誰も春麗が本当の皇后となるとは思っていない。ただそこに皇后となる妃がいるというだけでいい。なので死んでしまう春麗を皇后の部屋に入れることを嫌ったのだ。穢れがついてしまうから。そのせいで、未だに春麗は後宮における位すら与えられていなかった。
 とはいえ、今の春麗に死相はない。今までいたたくさんの妃は死んだというのに。
 真相はわからない。けれど死ねるのならそれはそれでよかった。こんな目を持って生きていてもそこに幸せなどありはしないのだから。
 そんなことを思いながら後宮で過ごして早10日。どれだけ待っても皇帝陛下からの呼び出しはないままだった。
 さすがにご挨拶ぐらいしなくてもいいのだろうかと思うけれど、侍女に尋ねてみても「この部屋でお過ごしください」と言われるだけだった。
 そんな生活をしばらく続けていた春麗に、ある日侍女の(しゅう)佳蓉(かよう)が声をかけた。
 本来であれば屋敷から侍女を連れてくることもできた。けれど誰も春麗に付き従いたくなかったこと、何より春麗へ何かを与えることを嫌った白露の意向で後宮に残っていた下級貴族の娘である佳蓉を侍女とすることになった。
 けれどこれは春麗にとって居心地の悪いものだった。佳蓉は春麗を妃として扱う。まるでどこかの令嬢のように扱われることに未だになれずそして戸惑うばかりだった。

「春麗様、少し外に出てみませんか?」
「いいの、ですか?」
「ええ。ようやく許可が下りました。それから何度もお伝えしましたが私に敬語はおやめください」
「あ、えっと……わかった、わ」

 躊躇いながらも春麗は頷く。そもそも人とこんなふうに誰かと長時間一緒にいる、ということが春麗にとっては十数年ぶりのことなのだ。戸惑い緊張するなと言う方が無理だ。
 佳蓉は春麗の身支度を調えると、与えられた部屋の扉を開けた。
 その花々に、思わず春麗は顔を上げた。
 後宮に上がったその日も思ったけれど、庭にはたくさんの花が咲き誇っていた。春麗の屋敷にも手入れされた花がたくさんあったはずだ。春麗が見たことがあるのは井戸の周りだけだがそれでも数え切れないほどの花があった。が、今の時期はどこか殺風景だった。それなのにここは。

「綺麗……。あれはなんという花ですか? ……花、なの?」
蝋梅(ろうばい)でございます」

 教えられた花の名を口の中で何度か呟くと春麗は微笑んだ。花を見て綺麗だと思うこともその花の名を知りたいと思うことも初めてだった。
 それと同時に自分自身がこんなことを思っていいのかという不安に襲われる、呪われた目を持つ自分がこんな風に何かに心を動かされることがあってもいいのだろうか、と。

「春麗様?」
「……部屋に戻るわ」
「かしこまりました」

 佳蓉に告げると春麗は与えられた部屋へと戻った。
 ただその日から、日に何度か庭に出ては蝋梅を見上げるようになった。寒い中でも咲き誇るその花から春蘭はなぜか目が離せなかった。


 そんな日々を送っていたある日、いつものように春蘭が庭へ出て蝋梅を見上げていると、足下がおそろかになっていたようで、気づくと体勢を崩していた。転ぶ、と思ったときにはすでに遅く春麗の身体は地面に倒れ込んでいた。

「っ……」
「春麗様!」

 真っ青になった佳蓉が慌てて駆けつけ春麗を起こす。大丈夫だと伝えようとした春麗の掌には血が滲んでいた。

「お、お怪我を……!」
「これぐらい平気よ」
「そんなわけにはいきません! 誰か! 誰か春麗様が!」

 佳蓉の声に慌てて人が集まる。その様子を春麗はどうすることもできず見ていることしかできなかった。
 結局、春麗の怪我は掌を軽く切っただけだった。けれど医者が薬を塗りそして包帯を大げさなほど巻いた。
 こんなにしなくても、と思う春麗とは裏腹にそれらは行われていく。

「傷が治るまでは手を使うことはお控えください」
「わかりました」

 医者の言葉に春麗は素直に頷いた。不便はあるけれど仕方がない。何よりも自分の不注意のせいで佳蓉が身体を震わせ真っ青な顔をしていることのほうが春麗は気になっていた。

「佳蓉のせいじゃないのだからそんな顔しないで」
「いえ、私のせいです。私がついていながら春麗様に怪我を」
「私が足下を見ていなかったのが悪いのだから、本当に気にしないで」

 まだ食い下がろうとする佳蓉に「この話はこれでおしまい」と話を終えようとする。そんな春麗の耳に、何やら騒がしい声が聞こえてきた。
 どうやら部屋の外からのようだけれど一体何が……。
 佳蓉もその声に気づいたようで「少し様子を見てきます」と部屋の外へと向かった。そして――。

「しゅ、春麗様!」
「佳蓉?」
「い、今外に……!」
「佳蓉、どうしたの? 落ち着いて」
「ですから!」

 佳蓉が言い終わらないうちに扉が再び開きそして、一人の男性が部屋に入ってきた。大きな音につられ春麗は真正面からその人を見た。
 真っ白の襦裙を身に纏ったその人は黒い髪を背に垂らし、形のいい眉を歪め春麗を見下ろしていた。整った顔立ちのその人は、翡翠色の目をしていた。この人は、まさか。春麗の思考が追いつくよりも早く、佳蓉が頭を下げた。

「主上!」

 その人の後ろから侍従だろうか、男性が慌てて追いかけてくる。主上、という言葉に春麗は慌てて佳蓉に倣い頭を下げた。

「頭を上げよ」
「……はい」

 恐る恐る顔を上げると、青藍は春麗をジッと見つめていた。突然どうしたというのだろうか。今の状況が理解できない春麗に皇帝陛下は口を開いた。

「怪我をしたと聞いたが」
「え、あ、その」
「大事はないのか」
「は、はい。その石に躓いて……」
「石?」

 少し考え込んだあと、皇帝陛下はそばに控えていた男性に声をかけた。

浩然(こうねん)
「はっ」

 名前を呼ばれただけで全てを理解したのか、浩然は部屋を出てどこかへと向かった。

「あの……」
「後宮の庭の石は全て片付けさせておく」
「へ?」
「大事がないのであれば問題ない。では」

 そう言ったかと思うと、皇帝陛下は春麗の部屋を出て行った。残された春麗は佳蓉の方を向いた。佳蓉はそんな春麗に小さく微笑む。

「心配しておいでだったのだと思います」
「心配……? 陛下が、私を……?」

 今までお目通りもなく後宮の一室に押し込んでいた春麗を皇帝陛下が心配する、なんていうことがあるのだろうか。
 けれど嬉しそうに笑う佳蓉に春麗はそういうことにしておこうと思った。先程まで自分のせいで春麗が怪我をしたと真っ青になっていた佳蓉が今は皇帝陛下がいらっしゃったことでこんなにも嬉しそうな顔をしているのだから。

「またいらしてくださるといいですね」
「そう、ね」

 佳蓉にはそう返事をしたけれど、こんなことはもうないだろうと春麗は思っていた。春麗を見下ろす皇帝陛下の目は冷たく、一切の興味も関心も感じられなかったから。
 今回の訪れもきっと気まぐれだろう。春麗はそう思っていた。
 けれど、その気まぐれが二度三度と続くことをこのとき春麗はまだ知らなかった。


 その日から春麗が怪我をする度に皇帝陛下は春麗の元を訪れるようになった。怪我だけでなく、咳をしただけで風邪を引いたのではと薬師を連れてくる程だった。

「どうしてこんなにもよくしてくださるのですか?」

 一度、あまりにも度々訪れてくれる皇帝陛下に春麗がそう尋ねたことがある。けれど皇帝陛下はその問には答えてはくれなかった。
 そのうち、一日に一度、陛下が春麗の様子を見るために部屋を訪れるのが日常となってしまった。

「主上」
「どうした?」

 皇帝陛下、ではなく主上と呼ぶことに春麗が慣れた頃には庭に咲いていた蝋梅は散り、代わりに梅桃(ゆすらうめ)が見頃となっていた。
 今日は庭の木に手を伸ばそうとした春麗の手首に枝が当たり、薄らと切り傷ができてしまった。切り傷といってもよく見なければ傷があることすらわからない程だ。にもかかわらず、青藍は本気で心配しているように春麗には見える。

「主上は優しい方ですね」
「……何を唐突に」
「私のようなものをこのように心配してくださるので……」
「……優しくなどはない」

 青藍は春麗から視線をそらすと佳蓉に入れさせた茶碗を手に取った。それを口につけようとし、何かを考え込むかのようにもう一度小卓へとそれを戻した。

「主上?」
「……私を優しいなどと言う者はいない。お前も私のことを知ればそのようなことを言えなくなる」
「ええ、私は主上のことを何も存じ上げません」
「噂ぐらいは聞いたことがあろう」
「噂は、噂です」

 言い切る春麗へ物珍しそうな視線を青藍は向けた。どちらかというとおどおどしていて自分の意見をハッキリ言わない春麗が、こんなふうに言い切る姿を見たことがなかったからだろう。
 春麗はその視線をそらすことなく真っ直ぐ見据えた。

「噂が真実だとは限りません」
「噂が出るには何か理由があるとは考えないのか」
「理由を知らない私にとっては目の前にあること以外、真実ではありません」
「では、お前には私はどう映る。その金色の目には」
「……私には心配性で優しくて、そして何かに怯えているように見えます」
「なっ」
「――よい」

 春麗の言葉に、そばに控えていた浩然が立ち上がろうとした。おそらく不敬であると思ったのであろう。けれど、青藍はそれを制した。

「怯えている、か」

 青藍はそう呟くと声を上げて笑った。その様子に、春麗を初め周りの人間は驚きを隠せなかった。ひとしきり笑うと、青藍は先程置いた茶碗を手に取り、その中身を飲み干した。

「噂は全て本当だ」
「主上! それは……」
「浩然、黙れ」
「……はっ」

 何か言いたそうな浩然の口を再び塞ぐと、青藍は春麗に顔を近づけた。まるでわざと怖がらせようとしているかのように。

「母は私を産んだ直後に死んだ。側近も、父上も、そして妃たちもだ。この後宮だけで何人死んだと思う? 両の手では足りぬほどだ。全て私が死に魅入られているせいだ。死の呪いが私にはかけられている。それでもお前は私のせいではないと言うのか?」
「ええ。その証拠に、私は死んではおりません」
「明日死ぬかもしれん。いや、今日このあとかもしれんぞ。私がお前のそばにいる時間が長くなればきっとお前も」
「いえ、私は死にません」
「なぜそう言い切れるのだ」

 あまりにもきっぱりと言い切る春麗に、青藍は眉をひそめた。春麗は一瞬の迷いのあと、前髪を上げた。そこにある金色の目に、息をのむ音が聞こえた。けれどそれは青藍の者ではなかった。青藍は春麗の目をマジマジと見た後、興味深げに呟いた。

「ほう? お前は藍旺国の血を引いているのか」
「……はい。母方の祖先が」
「そうか」
「主上は、この目が気味が悪くはないのですか?」
「なぜだ。異国の血が混じるものなどどこにでもいよう。それが今は滅びた国であるというだけだ。それよりその目がどうしたというのだ。異国の血が混じっているから死なないとでも言いたいのか?」

 本当のことを話したとして、信じてもらえるのだろうか。そんな躊躇いを覚えたことに春麗は戸惑った。
 信じてもらいたいと、思っているのだろうか。目の前のこの人に。自分の言うことを

(なぜ……? どうして、私は……)
 
 その疑問に答えが出るより早く、青藍はもう一度春麗の名を呼んだ。その声に、春麗は覚悟を決めた。
 信じてもらえようがもらえなかろうが、関係ない。本当のことを話すだけだ。
 でも……。

(信じて、ほしい……)

 春麗は自分自身の掌をギュッと握りしめ、口を開いた。
 
「この目は……死を映します」
「死を?」
「はい。そのせいで、私は忌み嫌われてきました。呪われた目を持つ子だと。この目に映された人は……死ぬ、と」
「……だからここに送られたのか」

 春麗の言葉で、青藍は全てを悟ったようだった。
 春麗は後宮に送られることになったことが決まったときから考えていたことがあった。もしかすると俊明は青藍を……。考えたくはないけれど、俊明がこの目を、人を死に至らしめるとそう思っていたとするならば、利用しない手はなかったと思う。
 その相手が、例え青藍であろうとも――。
 そしておそらく、青藍も同じことを考えたのだろう。俯く春麗に青藍は少し考え込むと、口を開いた。

「死を映すというのはどういうことだ」
「そのままの意味です。私の目にはその人の死が見えるのです。家の者は私の目に映ると死ぬとそう思っていたようですが、事実ではありません。ただ死ぬ者の顔にそれが浮かんで見えるだけなのです」
「では、この部屋に死にそうなものは」
「おりません。私自身にもそして主上にも死の文字は見えておりません。もちろん、浩然様や佳蓉にも」
「……そうか」
「ただ……」

 言うべきか、一瞬迷った。そんな春麗の迷いを読み取ったように青藍は人払いをする。部屋には春麗と青藍の二人だけが残った。

「この部屋にいないものに死の色が見えたのか」
「……ええ」

 春麗は青藍が部屋にやってきたとき、扉のそばに控えていた人のことを思い出していた。どんな顔をしていたかはもうわからない。ただ顔に書かれた文字。あれは。

「自死を、するのだと思います」
「呪いではなく、か?」
「呪いでしたらそう書かれているはずです。ですがあの人の顔には黒い文字で『自死』と書かれておりました。自死、すなわち自らの手で命を絶つ、と」
「そうか……。わかった。こちらで対処しよう」
「……信じてくださるのですか?」
「何をだ」
「この目に見えるもののことです」

 人の死を映す、など滑稽無稽なことを言っている自覚はある。さらにその死の方法が浮かび上がって見えるなど、嘘をつくならもっとマシな嘘をつけと言われても不思議ではない、なのに青藍はすんなりと信じた上、対処をするとまで言ってくれる。いったいどうして。
 春麗の疑問に、青藍はふっと微笑んだ。

「私はこれでも人を見る目はあるつもりだ。お前は嘘をついているように見えない。それにもしもついていたとしても」
「……いたと、しても?」
「騙された私が阿呆なだけだ。人が死なないのであればそれでいい」

 その言葉に春麗はもしかしてと思う。青藍が怯えているように見えたその理由は、自分のせいで人が死んだと、そう思っているからなのではないか。だから春麗に対してもちょっとした怪我や咳一つで心配して春麗の元へと駆けつけてくれていたのだと。
 春麗が見た限りでは、青藍の周りに呪いで死にそうになっている人はいない。浩然は以前から青藍に仕えていると聞いたことがある。もしも呪いが本当にあるのだとしたら今一番可能性があるのは唯一、後宮で妃として残っている春麗そして春麗に仕える佳蓉だけだ。

「また来る」
「主上!」

 春麗の部屋を出ようとする。そんな青藍の背中に、春麗は声をかけた。

「……なんだ」
「主上は呪われてなどいません」
「…………」
「その証拠に私は死にません。お約束致します」

 春麗の言葉に返事をすることなく、青藍は部屋をあとにした。
 本当の青藍はきっと、とても優しい人なのだ。だからこそ、自分のせいで誰かが死んでいるかもしれないということに心を痛めていたのかもしれない。自分のせいだと、自分自身を責めて、そして周りから人を遠ざけた。これ以上死者を出さないために。

「呪い……」

 春麗は一度だけ呪いで死んだ人間を見たことがある。あれはまだ母である玉林が生きていたころだ。呪殺と顔に書かれたその人は屋敷に出入りする呪術師だった。そんな文字を見たことがなかった春麗は何が起きるのか怖くて仕方がなかった。数日の後、呪術師が呪いを受けて死んだと聞いたときはあれはそういうことだったのだとわかり臥牀(べっど)の中で泣いたのを今でも覚えている。
 けれど少なくとも今日見たあの人は呪いではない。青藍の手はずが上手くいき、あの人の命が助かれば青藍の自分を責める気持ちも少しは和らぐかもしれない。

(死なないでほしい……。主上のために……)

 自ら死にたいと願っている人に対してそう望むのは勝手なことだとわかっている。でも、それでも春麗はそう願わずにいられなかった。心優しき青藍が、これ以上胸を痛めることが亡いように。


 それから数日は特に変わりのない日々を過ごした。なんだかんだ理由をつけて青藍は春麗のことを気にかけてくれた。そして五日が経った頃――。

「この間、言っていた男が自殺をした」
「なっ……。そ、それで……その方は……」
「お前のおかげで発見が早く助かった。礼を言う」
「い、いえ。ですが助かったのであればよかったです」

 自殺しようとするほど追い込まれていたその人は助かってよかったと思っているかどうかはわからない。けれど助けられたことで青藍は安堵の表情を浮かべていた。きっとその人の今後も青藍がなんとかしてくれるはずだ。

「春麗」
「は、はい」

 青藍は春麗の名を呼びその目をジッと見つめる。そしてそっと手を伸ばした。

「今もお前には死の文字は見えてはいないか」
「はい。主上に死の文字は見えておりません」

 春麗の言葉に青藍は眉をひそめ、そして首を振った。

「私ではない」
「え?」
「お前自身に死の文字は見えてないかと聞いているのだ」
「え、あ、はい。私にも見えてはおりませんが」

 質問の意図がわからず、春麗は首をかしげてしまう。けれど青藍は春麗の言葉に息を吐くと、躊躇いがちに口を開いた。
 
「……では、触れてもよいか」
「え? え、ええ?」

 戸惑いながらも頷く春麗の手に、青藍は自分の掌を重ねた。まるで春の日だまりのようなあたたかい掌。そのぬくもりは掌を通じて春麗の心をもあたためてくれるかのようだった。

「……あたたかいな」
「そうで、しょうか」
「ああ。……それに、小さな手だ」

 春麗は自分のかさつきあかぎれた手を思い出し慌てて引っ込めようとした。けれどしっかりと握りしめた青藍の手は春麗の手が逃げるのを許さなかった。
 それどころか逃がすまいと指先を春麗の手へと絡める。

「しゅ、主上」
「なんだ」
「い、いえ。その……」

 ジッと春麗を見つめるその視線から逃げることはできず、それでも何か言わなくてはと春麗は必死に考えた。けれど心臓の音がうるさくて頭の中がまとまらない。指先から伝わる熱は春麗の手をどんどん温めていく。これは春麗の熱なのかそれとも――。
 
「主上の手も、その、あたたかい、です……」
「……そうか」
「はい……」

 一瞬、面食らったような表情を青藍は浮かべ、それでもどこか嬉しそうに微笑んだ。その笑みに春麗は目を奪われる。
 掌から伝わってくるぬくもりはあたたかくて心地いい。それは春麗にとって物心ついて初めて触れる人のぬくもりだった。
 そしてまた、青藍にとっても――。


 相変わらず春麗は庭で花を愛でるか、もしくは部屋の中で一日を過ごしていた。ただ一つ変わったことがあった。

「綺麗だな」
「ええ」

 梅桃を見る春麗の隣には青藍の姿があった。一日に一度、春麗の様子を確認に来るだけだったのが、今では時間ができると春麗の元を訪れる。二人で花を見たり、庭を散歩したり、部屋の中で二人和やかな時間を過ごしたりと、二人で過ごす時間が増えていた。

「春麗、これを知っているか」

 そう言って青藍が差し出す砂糖菓子はどれも春麗が食べたことのないものばかりだった。

「存じません」
「そうか。ならば口を開けよ」
「え?」

 意図がわからず思わず口を開けた春麗の口内に甘味が広がる。初めて味わう菓子の甘さに春麗は動きを止めた。

「どうだ?」
「ふ……あ……」
「美味いか?」

 美味しいという言葉さえ出ず、首を必死に縦に振る春麗に青藍は微笑むと一つもう一つと口に入れる。飲み込みきれず頬を膨れさせて頬張る春麗に、青藍は噴き出した。

「ふっ……くっ……くくっ」
()ほはみ(おかみ)!」
「すまん……くっ……ふは……」
「酷いです……!」

 春麗はお返しとばかりに青藍の手にあった砂糖菓子を取ると、そのまま青藍の顔の前に持って行った。

「ん?」
「口、開けてください」
「ほお? 食べさせてくれるのか? ほら」
「なっ……!」

 口を開けて待たれてしまうと春麗は自分のしようとしたことの恥ずかしさに耐えきれず腕を上げたまま固まってしまう。そんな春麗の態度に青藍は笑うと、挙げたままになっていた腕をそっと掴んだ。

「え?」
「食べさせてくれるのだろう?」
「まっ……」

 春麗の手首を持ったままその手を自身の口に運び、そして砂糖菓子を口に入れた。ご丁寧に春麗の指先についたものまで舐め取り、青藍は口角を上げて笑った。

「甘いな」
「な、な、なにをするのですか!」
「食べさせてくれるのではなかったのか?」
「そ、それはそうですけど! でも、それは……!」
「春麗が食べさせてくれると美味いな。これからも頼もうか」
「やめてください!」

 喉を鳴らし笑う青藍に、春麗はからかわれたことに気づく。頬を膨らませる春麗に青藍はもう一度笑った。その笑顔に目を奪われる。そして気づけば春麗自身も笑っていた。
 こんなふうに誰かと笑い合える日が来るなんて思ってもいなかった。
 もしかしたら幸せとはこういう時間のことをいうのかもしれない。だとしたら。

(ずっと、こんな時間が続けばいいのに)

 そう願わずにはいられなかった。
 けれど、幸せとは儚いものだ。こうであればいい、そう願えば願うほどその想いとは裏腹に砕け散っていく。
 春麗が自分自身の異変に気づいたのは、梅桃が散り始め白い小さな花弁より葉の緑が多くなり始めた頃だった。

「嘘……」

 鏡に映る自分自身の顔に真っ黒の文字が浮かび上がっていた。自分自身にこの文字が見えるのは初めてで、後宮に上がってからは初めてのことだった。

(他殺……。私は、誰かに殺されるのね)

 誰かの悪意が詰まったようなその二文字に、春麗は身を震わせる。このままでは自分は数日のうちに死んでしまうだろう。それは後宮に上がる前の、いや上がった直後の春麗なら喜んだかも知れない。けれど、今は。

(怖い……死んでしまうのが、そしてまた主上を一人にしてしまうのが……怖くて怖くて仕方がない)

 震える身体を抑えようと春麗は両手で自分自身を抱きしめた。今、春麗が死んでしまえば青藍は自分自身を責めるだろう。それだけは嫌だ。

「春麗?」
「あ……」

 どうすればいいか、そればかりを考えていた春麗は青藍が部屋に来てもボーッとしてしまっていた。返事をしない春麗に、青藍は眉をひそめるとそっと額に手を当てた。

「熱はないようだが」
「も、申し訳ございません」
「具合が悪いのか?」
「いえ、その少し考え事を」
「……気に入らん」

 一言呟くと、青藍は隣に座る春麗の膝に頭を乗せ長椅子に寝転んだ。さらりと流れる髪の毛が春麗の襦裙を滑り落ちる。

「しゅ、主上!?」
「何かあったのならきちんと話せ。そんな顔、お前には似合わない」
「……私は、普段どんな顔をしていますか?」
「お前は梅桃に似ている。小さく頼りなさげに見えるのに空に向かって咲き誇る梅桃。可憐な花を咲かせるその花弁はお前の笑った顔のようだ」
「ゆすら、うめ……」

 思いも寄らない言葉に、春麗は戸惑い、そして後宮の庭に咲く梅桃を思い出す。あれに自分が似ていると青藍は言った。

(あの小さく可愛い花に、私が?)

 言葉に詰まる春麗に、青藍はふっと笑った。

「そんなことないと言いたげな顔をしているな。私の言葉を否定するか?」
「そ、そういう訳ではありませんが……ですが、私など花にたとえられるのもおこがましく……」
「お前は自分を卑下しすぎだ。お前は私の唯一の妃だ。違うか?」
「それ……は……そう、ですが」

 唯一の妃だと言われたところで、それが形だけのものでしかないことは誰でもない春麗が一番よく知っていた。青藍が春麗の元を訪れるのもその身に危険がないか、それを確認しに来ているだけだと。
 それを自分が本当の妃になっただなどと勘違いするほど春麗は愚かではない。それに本当に妃であれば、位が与えられるはずがそれすら春麗にはないのだ。なのに……。

「仕方ないな」

 微笑みながら青藍は春麗の頬に手を伸ばす。その表情に春麗の胸は酷く痛んだ。
 出会った頃とは違う、優しくてあたたかい表情。こんなに優しい人が自分のせいでまた辛い想いをしてしまう。春麗だから、なんて思い上がるわけではない。でも、それでもきっと春麗が死ねば、青藍は自分のせめるだろう。傷つき、胸を痛めるだろう。

(そんなの……嫌だ)

「っ……」
「――よし、決めたぞ」
「え?」
「浩然」
「はっ」

 扉の向こうで控えていた浩然は、青藍の呼びかけにそっと扉を開けた。青藍は身体を起こすと、扉のそばで頭を下げる浩然へ視線を向けた。

「どうされましたか」
「今日は春麗の部屋で休むことにする」
「承知致しました」
「えぇっ!?」

 青藍と浩然の会話を聞きながら、春麗は思わず声を上げた。聞き間違いかと青藍の方を見ると、口角を上げて笑っていた。

「なんだ? 何か問題でも?」
「も、問題というか」
「皇帝が妃の部屋に泊まって何が悪い?」
「何も……悪くございません」

 春麗に青藍の言葉を否定することも拒否することもできない。そのまま準備が整えられ、普段一人で眠っている臥牀に二人で眠ることとなった。

「なぜ、そのように離れるのだ」
「な、なぜって……」
「こっちに来い」

 臥牀の落ちそうなぐらい端で眠ろうとする春麗の手を引き、青藍は自分の腕の中へと引き寄せた。春麗に抗えるわけがなく、為す術もないまますっぽりと腕の中に包まれた。
 まるで全身が心臓になってしまったかのように鳴り響きうるさい。こんな状態で本当に眠れるのだろうか。そんなことを考えていると頭上からふっと漏れるような笑い声が聞こえた。

「主上?」
「ああ、いや。心臓の音が凄いなと思ってな」
「それは……このような状態では仕方がないかと……」
「そうか。そうだな」

(あ……)

 春麗の心臓の音とは別に、心地よい響きで鳴るもう一つの音に気づく。それはすぐそばから聞こえてくるもので。
 春麗のもののように早くはないけれど、とくんとくんと脈打つ音が聞こえる。
 どこか心地のよいその音に、気づけば春麗は微睡んでいた。


 ふと気づいたのは日が昇るにはまだ随分と時間のある頃だった。まるで包み込むように春麗の身体を抱きしめたその腕の持ち主は、小さく寝息を立てていた。
 その頬に、春麗はそっと手を伸ばす。
 こんなふうに人と眠ることは春麗にとっては初めてのことだった。人と一緒に眠るというのは、その人を信頼していないとできない行為だ。本来であればこんなふうに青藍が誰かのそばで眠るなんてことはないのかもしれないし、好ましくないのだろう。
 青藍がこの部屋で眠ると伝えたとき、浩然の表情が一瞬曇ったのを春麗は見逃さなかった。それは浩然にとって春麗が信頼に値する人物ではないから、というだけでなく青藍が誰かと眠りを共にすることがあまりよろしくないのだと、そう思う。そしてそれをわかっていない青藍ではない。

(つまり、私のため……)

 春麗はふいに泣きそうになった。目の前のこの人が再び一人になり、冷たい臥牀で眠るところを想像すると胸が苦しくて涙が溢れそうになる。
 思い上がるなと笑われるかもしれない。けれど、今この人は春麗を求めている。そう思うと、今まで感じたことのない感情が身体中を駆け巡る。
 この感情を人は、何と呼ぶのだろう。胸の奥が熱くて苦しくて切なくて愛しくて涙がこぼれそうなこの感情を――。

「泣くな」
「っ……しゅ、じょ……」
「泣くな、春麗」

 青藍の指先は春麗の瞳に触れると、溢れだした涙を優しく拭った。
 そして身じろぎすれば鼻先が触れあいそうな距離で、青藍は春麗を見つめた。

「何があった」
「な、にも……」
「こんな顔で、何も亡いと(うそぶ)く気か」
「それは……」
「……気づいてないと思っていたのか」

 その言葉は、あまりにも優しく、春麗の胸を揺さぶった。

「何があったか、話せ」
「ですが……」
「春麗」

 名を呼ばれ、真っ直ぐに瞳を射貫かれ、春麗にはもう抗えなかった。

「……死の文字が見えました」
「私に、か」
「いえ。……私に、です」

 青藍の瞳が揺れた。けれどその同様の色をすぐに隠すと、青藍は少しだけこわばった声で春麗に尋ねた。

「なぜだ」
「他殺とありますので、誰かが私を、殺すようです」
「いつかはわからぬのか」
「……はい」
「くそっ」

 声を荒らげた青藍に、春麗は慌てて口を開いた。

「わ、私が死んだとしても主上のせいではございません。ですので、主上の呪いなどやはり存在は――」
「そのようなことを言っているのではない!」
「え?」

 けれど、春麗の言葉は的外れだったようで、青藍は声を遮るようにそう言うと身体を起こした。春麗もつられるようにして臥牀の上に身体を起こす。そして春麗を見つめる青藍を恐る恐る見返した。

「で、ではいったい……」
「お前は! どうしてそんな大事なことを黙っていたのだ! まさか自分一人で死ぬ気だったのか!?」
「い、いえ。もしも私が死んでしまったとしても犯人の手がかり一つでも掴めたらとは思っておりましたが……」
「っ……そんなことはどうだっていい! 犯人などどうだっていいんだ……それよりもお前が死なないことの方が大事だろう!?」
「え……?」

(私が、死なないことの、方が……?)

 それは春麗にとって思いも寄らない言葉だった。

「で、ですが犯人がわかればもしかすると今まで主上の呪いだと言われていたことの真実がわかるかもしれません」
「だがその最中に、お前が命を落としたらどうする」
「私などの命なんて、主上の前ではたいしたことでは――」
「お前はもっと自分自身を大事にしろ!」

 青藍の言葉は、春麗にとって戸惑うばかりでどうしていいかわからなかった。
 そんなふうに大事に育てられてなどこなかった。それどころか、こんな命、いつなくなってもいいとその方がいいとさえ思っていた。なのに、目の前のこと人は自分の恐ろしい噂よりも春麗の命の方が大事だと言ってくれる。これは夢だろうか。都合のいい夢を見ているのではないだろうか……。


 その日から、青藍は春麗の部屋で眠るようになった。朝が来ると、春麗の部屋から自分の宮へと戻っていく。
 朝が来る度に「今日は変わりはないか」と春麗に尋ねるのが日課となった。春麗は曖昧に頷いて見せるけれど、本当は鏡の中の文字はどんどんと濃くなっていっていた。
 そろそろ最後の日が来るのも近い。春麗は、くっきりと見える文字に、一つの考えを思いついた。

「今、なんと言った?」

 青藍が春麗の部屋で眠るようになって5日が経ったころ、臥牀の中で春麗は青藍に提案した。

「ですから……囮に、なろうと思います」
「囮だと? そんな馬鹿なこと……」
「ですが」
「そんなことさせられるわけがないだろう。万が一があったらどうする」
「……ですが、それしか方法はないのです」

 春麗としてもいつ襲われるかわからない状態で日々を過ごすのは限界が来ていた。それよりはいっそ囮になり、片付けてしまえればと思ったのだ。
 万が一、自分の命は助からなかったとしてもそれなら犯人は確実に捕まえられるだろうから。
 そんな春麗の考えを読んだかのように、青藍はジッと春麗の金色の目を見つめた。

「死ぬ気か」
「……いえ」
「嘘じゃないだろうな?」
「はい。……それに、万が一のときは、守ってくださるのでしょう? 私は――あなたの妃ですから」

 春麗の言葉に、青藍はあっけにとられたような表情を浮かべ、口角を上げた。

「初めて言った我が侭がこれか」
「嫌いになられますか?」
「……いや? ますますお前を死なせたくなくなった」

 青藍は春麗の顎を上に向かせると、そっと口づけた。

「必ず死なせない。約束だ」

 初めて触れた唇は、指先と同じぐらいに熱かった。