ふと。
 ファミレスの店員の「いらっしゃいませー」にピンと来て、おれは問題集から顔を上げた。
 勘が当たった。八月最初の月曜日、夕方四時の空調が生ぬるいファミレスに入ってきたのは、文徳《ふみのり》と海牙だ。
 おれが手を挙げて合図すると、二人ともそれぞれの仕草で手を挙げて応えた。
「遅いよ~、二人とも。数学の課題、フォローしてくれるって言ったじゃん。時間ないよー。これ、夜の待ち合わせまでに終わんねえって」
「悪い悪い。こっちの用事が予想以上に時間かかっちゃってさ」
「意外とまじめなんですね、リヒちゃんは」
「だって受験生だよ、おれら。志望校が決まったからには、どうにか頑張ってみるしかないでしょ? っつっても、文徳も海ちゃんも成績いいんだよねー。余裕で合格圏内なんだよねー。不公平だよねー」
「理仁《りひと》だって、文系科目は問題ないんだろ?」
「ですよね。現代文も古文も英語も、読んで理解するのはテレパシーが飛び込んでくる感じで簡単なことだって、言ってたじゃないですか」
「言ったけどさ~、読んで理解できるだけなんだってば~。書くのがネックなの、マジで。英作文とか、ほんっとヤバい」
「頑張れ。気合いだ」
「英語の教科書を丸暗記するだけで、ある程度、書けるようになりますよ」
「教科書丸暗記とか、鬼! 数学もあるのに!」
「文系の数学こそ、パターンをいくつか丸暗記するだけで、どうにかなるぞ」
「それとも、ぼくが全部、一から十までみっちり解説してあげましょうか?」
「もうやだー! 頭いいやつらがいじめるー!」
「あっ、注文いいですか? ドリンクバーを二つ」
「リヒちゃんのぶんも何か取ってきましょうか?」
「いや、自分で行く。変なもの作ってくる気まんまんでしょ」
「ええー、心外だなー」
「おや、バレましたか」
 ファミレスのボックス席。広げた数学の問題集。たびたび新着通知が鳴るスマホが三つ。氷で薄まったアイスコーヒー。眠気覚ましと称した、ウーロン茶とメロンソーダと何かと何かのヤバげなミックス。
 小声で始めた会話が、いつの間にか無遠慮なボリュームになってしまう。貫禄のあるおばちゃん店員ににらまれて、口を押さえて首をすくめる。ニマッと笑い合って、反省なんか全然してない。
 居心地バツグンの、しょうもない時間。
 今日はこの後、総統の家に招かれている。さよ子と鈴蘭が一緒にごはん食べようって約束してたのが最初で、そこに姉貴も招かれて、ついでだから男どもも呼んでやろうってことになったらしい。
 平井家での夕食は三回目だ。ファミレスや食べ放題で全員集合したことなら、昼も夜も何回かある。伊呂波兄弟や海牙とだったら、週に二回か三回は一緒に飯を食ってる。親に食事を作ってもらう家庭環境じゃないから、集まりやすくて。
 文徳と海牙が、ふっと真顔になって目配せをし合った。うなずいた文徳が口を開く。
「煥《あきら》が来る前に話しておく。リアさんには、海牙が後で話すって。だから、理仁にはおれが話すし、まずは謝るよ。俺と海牙で勝手なことしてきたんだ。ごめん」
 文徳と海牙は神妙に頭を下げた。
「え、何? どういうこと? 何の話?」
 イヤな予感。胸騒ぎ。おれは思わず身構える。
 文徳はおもむろに言った。
「理仁の親父さんに会ってきた」
「マジで?」
「ああ。何日か前から連絡を取って、時間を作ってもらって、一緒に昼飯に行ってきた。味なんか全然わからなかったけど。で、話してるうちに、気付いたら時間オーバーしちゃって、理仁との待ち合わせに遅れることになった。ごめん」
 おれは、笑ったまんまの顔を自覚した。頬が冷えてこわばっている。
「何をそんなに話し込んだんだよ?」
 迷うような間が落ちる。文徳は、話すべきかどうかを迷ったんじゃなくて、話す順番を迷ったんだろう。おれは何となく、そう感じた。
 文徳は言った。
「長江さんはさ……理仁の親父さんのこと、とりあえずそう呼ぶことにしたんだけど、長江さんは、しょっちゅう奥さんのお見舞いに行ってるって。でも、理仁やリアさんがいるときは、病院のスタッフに挨拶だけして帰るんだって」
「へえ。何それ。あいつ、おれらのこと避けてんの?」
「避けてるし、逃げてる。でも、めちゃくちゃ後悔してたよ。子どもたちが家出したのは自分のせいだ、自分は教育者失格なのに学園を経営している矛盾した人間だ、って」
「あいつ、あの件のこと思い出してた?」
「いや、覚えてないみたいだった」
 さよ子の誘拐の一件は、なかったことにされた。さよ子がそれを強く望んだからだ。ショックが大きかったせいか、さよ子は一週間くらい寝込んだ。そんなこんなで、そっとして忘れてしまおうってことに落ち着いた。
 親父のサイドもまったく動きがなかった。警戒して様子を探ってはいたんだけど、ちょっと異様な結論を出すに至った。
 どうやら、親父の頭からは、あの一件が完璧に抹消されているらしい。
 おれは笑ってみせた。
「何にせよ、あのクソ親父も、教育者失格ってか人間失格レベルのクズだって自覚はあるわけか」
「そういう言い方は痛々しいからやめろって」
「事実じゃん」
「長江さん、前に見たときよりやつれてたよ。四月に、奥さんに快復のきざしが見え始めたのは理仁とリアさんが帰ってきたからだろうって思ったとき、急に自分の身勝手さを痛感したんだって」
「は?」
「奥さんにも、理仁やリアさんにも、家に帰ってきてほしいけど、それを望むのはどうしようもない身勝手だって言ってた。涙交じりで」
「今さらかよ。遅いって。完全に手遅れ。あいつが朱獣珠を使いまくるせいで、おれらがどんだけ迷惑してきたか」
 文徳と海牙が顔を見合わせた。微妙で慎重な表情をしている。文徳が言葉を選ぶ様子でおれに告げた。
「そのことだけどさ、長江さんは宝珠のことをまったく覚えてないぞ。というか、まったく知らないって言うほうが正しいかな」
「宝珠を知らない?」
「ああ。誘拐の一件と同じだ。本当に、まったく記憶がない」
「じゃあ、飼ってた動物のことは? あいつが全部、手を下したんだぞ。自分の都合のためにさ。それだけじゃない。おかあさんのことも……おかあさんが何で倒れたか、あいつ、覚えてなかったってのか?」
 思わず声が高くなってしまった。テーブル越しの海牙が立ち上がっておれの肩を押さえて、それで、おれは言葉を呑み込んだ。
 文徳は周囲をはばかる声音でささやいた。
「長江さんは人払いをした後、俺たちに、自分が振るった家庭内暴力のことを告白したよ。ペットの命を奪ったことは暴力衝動のはけ口だったっていうふうに、記憶が書き換えられてるみたいだった」
「嘘だろ?」
「本当だって。朱獣珠が作用した結果じゃないのかな」
「そんなの、都合よすぎる」
「理仁がチカラを持ってることは、長江さんもわかってたよ。小さいころの理仁を洗脳するようにしてチカラを利用していたことも覚えていた。ひどいことをしていたっていう自覚はあるみたいだった」
 闘いが終わった、っていう直感はあった。その直感の中身がどうなってるのか、具体的なところが、今ここで初めてわかったわけだ。
 さよ子と朱獣珠が言葉を交わしたとき、朱獣珠がこの話を持ち掛けたんだろう。親父の中から宝珠に関する知識をゴッソリ引き抜くこと。
 そんじゃ、おかあさんの件は?
 いや、あれも朱獣珠のチカラだよね。だって、あれは奇跡としか思えない。おれと姉貴がどんだけ願い続けても叶わなかったことが、急に叶ったんだから。
 でも、そうだとしたら、ずいぶんな出血大サービスじゃねーの? 失礼な言い方だけど、持ってった代償、さよ子の髪だけでしょ? たかが髪だけで、完全とはいえないまでも、ある程度の希望が持てる現実を創り出してくれたわけ?
 それとも、さよ子はほかにも持ってかれてんのかな。おれらに何も教えてくれないだけで、もっと痛い代償を払ってくれたりとか、してんのかな。
 わかんねぇや。朱獣珠も寝てるし。