姉貴の声が、飾り彫りの天井に反響した。
 それ以外の音がないことに気が付いた。総統が自分を抑え切れずに立てていた地響きも、スマホから無機的に流れて続けていた電子音声も、ない。
 静まり返っている。誰かが呼吸する音が聞こえる。
 スマホが雑音交じりに告げた。
〈時間がない。願いがある。叶えねばならない。何に代えても〉
 男の声がそれだけ言って、あらかじめ作ってあったんだろう電子音声のメッセージに再び切り替わる。
〈本日正午、もう一度、平井鉄真に連絡する。そのときまでに宝珠を用意せよ。こちらの要求に応じない場合は、本日午後三時、娘に苦痛を与える〉
 ブツンと、通話が途絶えた。
 わかっちゃいたけどさ。
 実際にその声、聞いちゃうとね。
「絶望的すぎて笑うしかねぇよなー。うちの親父どの、長江孝興《ながえ・たかおき》が誘拐犯だって。警察に通報したら、一発じゃん。自分が経営してる学園に通う美少女を誘拐しましたーって、笑えなすぎて笑えるだろ。サイッコーのネタじゃん。ヤベー、笑える」
 制約が消えたばっかりの、痺れの残った体で。うまく呼吸できなかった喉の、かすれて裏返りがちな声で。おれは、畳に這いつくばったまま笑った。痙攣するみたいなぶっ壊れたリズムで、げらげらひーひー言いながら笑った。
 視線が集まって痛い。だけど、おれはそんなの気にしないふりで、狂ってるかのようなポーズを取って、そのまま笑い続けて。
 肩をつかまれた。文徳《ふみのり》がおれの目をのぞき込もうとする。
「理仁《りひと》!」
 おれは、どこでもない斜めを向いて、へらへら笑いの仮面を外さない。
「何だよ?」
「笑うな」
「どーして? 笑えるじゃん」
「笑えない。おまえ、そこは笑うところじゃない。笑うな」
 文徳はおれの両方の肩をガッチリとつかんで、揺さぶった。視界の端に、ギターだこのある大きな手。いつの間にかおれより体格がよくなっていた文徳の手は、きっと、おれがちょっと身じろぎしたくらいでは振りほどけない。
 反射的に声が出た。
【放せよ】
 他人に命じるための、チカラある声。
 一瞬、文徳の手がピクリとして、すぐにそれまで以上の力が込められた。
「こっち向け。怒りたいときも泣きたいときも笑う癖、やめてくれよ」
「自分だってそうだろ。文徳だって、いつもカリスマ優等生の役を上手に演じるために、どんな場面でも笑ってみせるだろ。ムカつくほど余裕しゃくしゃくの顔でさ」
「余裕ね。ないよ、そんなもの。だけど、余裕っていうのは、あるように見せかけてるうちに、後からついてくる。俺は兄貴だしバンドのリーダーだし、煥《あきら》の前でまっすぐ立ってみせるために、強がることに決めたんだよ」
「おれだってさ~、それなりに理由あって、こーいうキャラなんだけど?」
 違う。
 おれの笑顔と文徳の笑顔では、仮面っぽいところは同じでも、意味合いが全然違う。おれは、痛いのもキツいのもまともに受け取りたくないから、笑ってごまかしてんだ。文徳は正反対で、痛くてもキツくても笑っていようって決めたから、仮面をかぶる。
 自分の顔が歪むのがわかった。笑みを押し通したい唇が勝手にひん曲がって、眉間にしわが寄って、顔の中でも普段使わないような変なとこに力がかかって、自分の表情がどんなふうなのか、まったくわからない。
 おれはきつく目を閉じた。文徳の声が聞こえる。
「理仁の気持ちは、俺にはわからないよ。俺には両親がいない。生きてたころの父親はカッコよくて、よく遊んでくれて、子どものころの俺にとって憧れの存在だった。理仁が今どんな気持ちで笑ったのか、怒ってるのか、俺は共感するための素養を持たない」
 文徳の静かな声はグッサリとおれを刺して、ザクザク音を立てながら、傷口をえぐっていく。痛くてキツい。何でこんなもんを正面から受け止めなきゃいけないんだ。
 肩を揺さぶられる。おれはまぶたを開ける。文徳がおれの顔をのぞき込んでいる。明るい茶色の目。文徳のまなざしが涙でうるんでいることに、向き合って初めて気付く。
「何で泣いてんだよ?」
「もどかしいから。俺は何のチカラも持たないし、理仁の境遇を知ってても共感できずにいるし、理仁が俺にも誰にも心を開こうとしてくれないし、どうすればいいのかわからなくて、もどかしいんだよ」
「心を開く?」
 他人に心を開かせるのが、号令《コマンド》使いのおれのチカラで、心を開くってえげつないことだなって、昔から思い知っている。だから、おれはよっぽどの相手じゃないと、そんなことしたくなくて。
 あれ? でも、文徳にはけっこう腹を割って話さなかったっけ?
 チカラのせいでいろいろあれこれ苦労してきたこととか。おれも姉貴も親父のこと嫌ってることとか。ペットが軒並み早死にしたこととか、母親が入院してることとか。親父が朱獣珠を使いまくってジャンキーになってることとか。
 ああ、そうだ。
「家族のこと、話してなかったんだ、おれ」
 いつかは話そうと思っていた。でも、時間が足りなかった。おれは、自分が本当に文徳を信頼できるようになるまで待とうと思って、待って待って待って、一年が経過して、そのままろくに挨拶もせずに日本を離れた。