それからぼくは部屋に戻って、授業の課題を片付けた。
理系科目は、途中の計算式を書くのが面倒で仕方ない。問題を見ただけで答えがわかるのに、ひたすら徒労。この面倒があるから、理系科目は案外嫌いかもしれない。
全国模試の順位はいつも一桁だ。中学時代からずっと、学校の定期試験で一番以外を取ったことがない。
理系科目は言うまでもなく、絶大なアドバンテージがある。文系科目はそれなりにきちんと勉強している。でも、普段から膨大な情報量に接しているぼくは、現代日本語だろうが古語だろうが英語だろうが、読んで理解するスピードが速い。
文字を読めるようになるのは、実はけっこう遅かった。紙に書かれた文字が情報を持つことを、なかなか理解できなかった。素材である紙やインクの情報にばかりに目が行っていた。
どうやって文字というものを理解したんだっけ? たぶん、母の手作りクッキーが最初だ。真ん中にひらがなが一文字浮き出る、タイル状の型抜きクッキーだった。
美人だけれど気が弱くておとなしい母は、知恵の付き方がとてつもなくアンバランスなぼくを持て余していた。しょっちゅう泣きながら、毎日のように、ひらがなのクッキーを焼いて、ぼくに文字を教えた。
あるとき唐突に、ぼくは、自分の名前を並べることができたんだ。何度も何度も目にしてきた形の並びが「かいが」を表す記号であると、いきなりわかった。
文字から構成される世界、文章によって表現される世界を知ると、少し楽になった。その世界に没頭している間は、情報量が制限される。他人と同じ情報量を仮想的に体験できる。
だから、理系なのにと言われるけれど、読書は好きだ。漫画よりも、文字だけの小説のほうが集中できる。粗が気になるSFよりは、違う世界を描いたファンタジーがいい。
文字の世界より楽なのは、当然ながら、視界をゼロにすることだ。目を閉じているときは、多すぎる情報を見ずに済む。
でもまあ、何だかんだ言っても、情報量の多さはメリットのほうが大きい。例えば、今日、リアさんを数値的に精密に見て記憶しておいたから、かなり確度の高い脳内再現が可能だ。
逆に不思議に思うのだけれど、ぼくのような正確な視覚を持たない普通の人々は、どんな基準で以て「美人だ」「スタイル抜群だ」と判断するんだろう? ずいぶん曖昧な評価しかできないはずだ。
「そうだ、リアさんに連絡」
ぼくは椅子から立って、ベッドに腰掛けた。かわいくないイヌワシは、枕の上に転がしてあった。懐に突っ込んだままの紙片を開く。「ナガエ リア」とカタカナ書きの名前の下に、電話番号。メールアドレスと、トークアプリの検索IDも添えてある。
ぼくは、いちばん手頃なトークにメッセージを打ち込んだ。
〈こんばんは、午後にお会いした阿里海牙です〉
すぐに既読になった。同じタイミングでスマホをいじっているんだな、と思うと、妙に嬉しい。
〈こんばんは、連絡ありがとう!〉
〈リアさんが起きていてよかったです〉
〈まだ寝ないよ〉
リアさんは、仕事に必要な調べ物の最中だったらしい。
〈お仕事ですか?〉
〈美容師。つい昨日、友達のサロンで働くことになったの〉
〈調べ物が必要なんですか?〉
〈トレンドの調査とか〉
〈なるほど〉
住む世界が違う人だな、と感じた。
オシャレとかトレンドとか、どちらかというと、面倒くさい。自分の容姿はそれなりに気にするけれど、ワンシーズンで賞味期限の切れる流行を追い続けるなんて時間がもったいない。もっと普遍的に通用する美しさや格好よさがあるだろう、と思う。
〈海牙くん、カットモデルやらない?〉
〈夕方に「髪を切れ」と言われたばかりです〉
〈賛成。わたしが切ってあげる〉
〈本当ですか?〉
〈本当です。きみの髪、天然パーマ?〉
〈天然パーマです。見えないでしょう?〉
〈見えない。ちょっと形を変えるだけで、すごく垢抜けるはずよ。そういうの、自分で研究するのは面倒くさいって思ってるでしょ。素材そのままで十分カッコいいからって〉
〈読心術ですか? 全部バレてる〉
〈きみみたいな人のために、わたしみたいなプロがいるの。髪も服も、自分で決めるのが面倒だと思うなら、全部相談して〉
画面を見ながら一人で笑っている自分に、ふと気付いた。
今日初めて会った人と、画面越しに、文字だけの会話をしている。その他愛ないやり取りが、心地いい。
〈じゃあ今度、髪のカット、よろしくお願いします〉
〈ついでに写真も撮らせてもらっていい?〉
〈撮ってどうするんですか?〉
〈サロンに飾って客引きするの〉
リアという名前は、琳安と表記すること。でも、当て字っぽいから嫌いだということ。カタカナで書かれるほうが気に入っていること。
そんな雑談をして、トークを終えた。髪は、サロンが休みの月曜の夕方に切ってもらうことになった。
「おやすみ、また明日、か」
スタンプのメッセージを読み上げてみる。
リアさんの年齢、いくつなんだろう? 十歳近く離れていると思う。リアさんの弟の理仁くんは、ぼくと同い年だ。十七歳なんて、かなり子どもに見えるだろう。ちょっとへこむ。
目を閉じてみる。処理すべき情報が遮断されて、静かだ。
ああ、そうか。電話すればよかった。目を閉じて声だけを聞いたら、ぼくは鮮やかに彼女を思い描けたのに。
「明日、そうしようかな」
セリフを考えておこう。からかうような、生意気なセリフを。
リアさんを驚かせたり慌てさせたりしてみたい。この手で何気なく彼女のピアスに触れた、あのときみたいに。
理系科目は、途中の計算式を書くのが面倒で仕方ない。問題を見ただけで答えがわかるのに、ひたすら徒労。この面倒があるから、理系科目は案外嫌いかもしれない。
全国模試の順位はいつも一桁だ。中学時代からずっと、学校の定期試験で一番以外を取ったことがない。
理系科目は言うまでもなく、絶大なアドバンテージがある。文系科目はそれなりにきちんと勉強している。でも、普段から膨大な情報量に接しているぼくは、現代日本語だろうが古語だろうが英語だろうが、読んで理解するスピードが速い。
文字を読めるようになるのは、実はけっこう遅かった。紙に書かれた文字が情報を持つことを、なかなか理解できなかった。素材である紙やインクの情報にばかりに目が行っていた。
どうやって文字というものを理解したんだっけ? たぶん、母の手作りクッキーが最初だ。真ん中にひらがなが一文字浮き出る、タイル状の型抜きクッキーだった。
美人だけれど気が弱くておとなしい母は、知恵の付き方がとてつもなくアンバランスなぼくを持て余していた。しょっちゅう泣きながら、毎日のように、ひらがなのクッキーを焼いて、ぼくに文字を教えた。
あるとき唐突に、ぼくは、自分の名前を並べることができたんだ。何度も何度も目にしてきた形の並びが「かいが」を表す記号であると、いきなりわかった。
文字から構成される世界、文章によって表現される世界を知ると、少し楽になった。その世界に没頭している間は、情報量が制限される。他人と同じ情報量を仮想的に体験できる。
だから、理系なのにと言われるけれど、読書は好きだ。漫画よりも、文字だけの小説のほうが集中できる。粗が気になるSFよりは、違う世界を描いたファンタジーがいい。
文字の世界より楽なのは、当然ながら、視界をゼロにすることだ。目を閉じているときは、多すぎる情報を見ずに済む。
でもまあ、何だかんだ言っても、情報量の多さはメリットのほうが大きい。例えば、今日、リアさんを数値的に精密に見て記憶しておいたから、かなり確度の高い脳内再現が可能だ。
逆に不思議に思うのだけれど、ぼくのような正確な視覚を持たない普通の人々は、どんな基準で以て「美人だ」「スタイル抜群だ」と判断するんだろう? ずいぶん曖昧な評価しかできないはずだ。
「そうだ、リアさんに連絡」
ぼくは椅子から立って、ベッドに腰掛けた。かわいくないイヌワシは、枕の上に転がしてあった。懐に突っ込んだままの紙片を開く。「ナガエ リア」とカタカナ書きの名前の下に、電話番号。メールアドレスと、トークアプリの検索IDも添えてある。
ぼくは、いちばん手頃なトークにメッセージを打ち込んだ。
〈こんばんは、午後にお会いした阿里海牙です〉
すぐに既読になった。同じタイミングでスマホをいじっているんだな、と思うと、妙に嬉しい。
〈こんばんは、連絡ありがとう!〉
〈リアさんが起きていてよかったです〉
〈まだ寝ないよ〉
リアさんは、仕事に必要な調べ物の最中だったらしい。
〈お仕事ですか?〉
〈美容師。つい昨日、友達のサロンで働くことになったの〉
〈調べ物が必要なんですか?〉
〈トレンドの調査とか〉
〈なるほど〉
住む世界が違う人だな、と感じた。
オシャレとかトレンドとか、どちらかというと、面倒くさい。自分の容姿はそれなりに気にするけれど、ワンシーズンで賞味期限の切れる流行を追い続けるなんて時間がもったいない。もっと普遍的に通用する美しさや格好よさがあるだろう、と思う。
〈海牙くん、カットモデルやらない?〉
〈夕方に「髪を切れ」と言われたばかりです〉
〈賛成。わたしが切ってあげる〉
〈本当ですか?〉
〈本当です。きみの髪、天然パーマ?〉
〈天然パーマです。見えないでしょう?〉
〈見えない。ちょっと形を変えるだけで、すごく垢抜けるはずよ。そういうの、自分で研究するのは面倒くさいって思ってるでしょ。素材そのままで十分カッコいいからって〉
〈読心術ですか? 全部バレてる〉
〈きみみたいな人のために、わたしみたいなプロがいるの。髪も服も、自分で決めるのが面倒だと思うなら、全部相談して〉
画面を見ながら一人で笑っている自分に、ふと気付いた。
今日初めて会った人と、画面越しに、文字だけの会話をしている。その他愛ないやり取りが、心地いい。
〈じゃあ今度、髪のカット、よろしくお願いします〉
〈ついでに写真も撮らせてもらっていい?〉
〈撮ってどうするんですか?〉
〈サロンに飾って客引きするの〉
リアという名前は、琳安と表記すること。でも、当て字っぽいから嫌いだということ。カタカナで書かれるほうが気に入っていること。
そんな雑談をして、トークを終えた。髪は、サロンが休みの月曜の夕方に切ってもらうことになった。
「おやすみ、また明日、か」
スタンプのメッセージを読み上げてみる。
リアさんの年齢、いくつなんだろう? 十歳近く離れていると思う。リアさんの弟の理仁くんは、ぼくと同い年だ。十七歳なんて、かなり子どもに見えるだろう。ちょっとへこむ。
目を閉じてみる。処理すべき情報が遮断されて、静かだ。
ああ、そうか。電話すればよかった。目を閉じて声だけを聞いたら、ぼくは鮮やかに彼女を思い描けたのに。
「明日、そうしようかな」
セリフを考えておこう。からかうような、生意気なセリフを。
リアさんを驚かせたり慌てさせたりしてみたい。この手で何気なく彼女のピアスに触れた、あのときみたいに。