ぼくは総統の書斎を訪ねた。総統は忙しい人だ。でも、事前に予約を入れる必要はない。総統は万事の掌握者だ。ぼくの行動くらい、何もかも見透かしている。
ノックをして扉を開ける。総統は、くつろいだ和服姿で執務机に向かっていた。
「お仕事中、失礼します。お耳に入れておきたいことがあるので」
総統の顔立ちが不思議な印象を持つのは、左右の誤差がきわめて小さいせいだ。頭蓋骨の形状も東アジア人として理想的なバランスを成しているから、文字どおりの意味で、総統は格好がいい。四十代後半。加齢による皮膚の緩み具合さえ、計算したように端正だ。
「そろそろ来るころだと思っていたよ。ゲームセンターでのデートは楽しかったかい?」
総統の能力は計り知れない。心の声も記憶も読まれてしまう。まあ、報告の手間が省けるから楽だと思っておこう。そうでなければ、強大なチカラへの恐怖に負ける。
「ほんの二十分程度でしたが、楽しめました。女性は年上のほうがいいですね」
年上だから、だと思う。リアさんに近寄られても、手を握られたことさえ、不快じゃなかった。
「またすぐに会えるよ。彼女やその弟は、海牙くんの行く末に多大な影響を与える。今、運命が分岐するポイントに差し掛かったようでね」
「運命が分岐、ですか?」
「正確には、運命の一枝《ひとえだ》の分岐だな。何が起こり得るか、『秘録』で読んだことがあるだろう?」
「ええ。四獣珠を始めとする宝珠について記されていて、その来歴や預かり手の役割にも言及されていましたね」
「運命の一枝、と例えられる、この世界の在り方についても」
「記憶しています」
運命は、多数の可能性の枝を持つ大樹の姿をしている。ぼくが生きるこの世界は、ある一枝の上に存在する。別の一枝の上には別の世界があって、別のぼくが生きている。
総統には、この一枝の生長が見て取れるという。それが総統のチカラだ。
日常的に知覚することのできない運命の一枝なんてものを、一体、どんな姿でとらえているのか。好奇心に駆られて、総統に「ぼくも見てみたい」と言ったことがある。
総統は見せてくれた。いや、見せてくれようとした。
ぼくの額にかざされた総統の手のひらから、凄まじい量の情報がぼくの脳へと叩き込まれた。読解できない、うごめく文字の、途方もない奔流。ぼくは一瞬も耐えられず、意識を失った。
あんなものを、総統はいつも見ている。肉体こそ人間のものだけれど、チカラは人間であり得ない。
総統は普段、チカラを外に漏らすこともなく、ひっそりと常人のふりをしている。たまにチカラの片鱗をのぞかせることがあって、そんなとき、ぼくはどうしても目をそらしてしまう。処理できない情報の怒涛が視界を占領してしまうから、ただただ怖い。
けれども、その総統を以てしても、未来が少しもわからないときもあるという。
総統は静かな目をしてぼくを見た。
「まもなく、この一枝は分岐すべきポイントに差し掛かる。四獣珠が互いに呼び合い、預かり手たちを引き会わせ、さる問題に立ち向かわせる。きみたちの勝率は、どうも高くないようだがね」
「不利とわかっている勝負に突っ込むのは、ぼくの主義ではありません。避けられるのなら避けたいものです」
「残念ながら、人生は、残機ゼロの強制スクロールだよ。ステージを進めば勝手にセーブされ、リセットはできない。進める限りに進むしかなく、手にするクレジットはゲームクリアかゲームオーバーか、二者択一だ」
「システムにバグがあったとしても、それが仕様であるとの一点張りで、お詫びのボーナスアイテムも支給されないクソゲーですよね」
「散々な低評価レビューが続けば、その一枝というクソゲーも、さすがに配信と運営をストップせざるを得ない。生長に失敗した一枝たちは淘汰され、より遠い未来へと生長し得る一枝たちが次の世代へと伸びていく」
「淘汰に、世代か。まるで機械学習の物理演算ですね。最近、人工知能の機械学習について書かれた本を読んだんです。人工知能の学習の過程は、遺伝学になぞらえた言葉で表現されるんですよね」
思いがけず、総統が嬉しそうに微笑んだ。
「私も、ちょうど今、AIの本を読んだり動画を観たりするのにハマっていてね。あれはおもしろいな。ビジネスのどういう分野にAIが導入できるかという視点ではなく、科学技術として純粋におもしろい。もっともっと知りたくなる」
総統は運命の一枝も人の心も知覚できる一方で、学術を身に付けるためには、ごく当たり前の努力をしなければならないそうだ。国立大学の文系学部を出たという割に、サイエンスの話題に食い付くことが多い。
ぼくは話のテーマをもとの軌道に戻した。
「この一枝も、淘汰される可能性があるんですね?」
「あるだろう。私には見えないけれども」
「どんな条件を満たすことができれば、適応度の高い解として評価され、この一枝を次の世代につなぐことができるんでしょうか?」
「さて、どうすればいいんだろうね?」
「総統にもおわかりにならないんですか?」
「私は、少し先の未来における最適解を知っている。しかし、一枝たちがディープラーニングをおこなう間、その過程はブラックボックスの中だ。プログラムの設計を知る私にさえ、ブラックボックスを開けることができない」
「具体的に何がおこなわれているのか……いや、ぼくたちがこの一枝の上で何をおこなうべきなのか、わからない」
総統はうなずいた。そして一つだけ、曖昧な予言をくれた。
「事件が起こるよ。きっと、すぐに」
ノックをして扉を開ける。総統は、くつろいだ和服姿で執務机に向かっていた。
「お仕事中、失礼します。お耳に入れておきたいことがあるので」
総統の顔立ちが不思議な印象を持つのは、左右の誤差がきわめて小さいせいだ。頭蓋骨の形状も東アジア人として理想的なバランスを成しているから、文字どおりの意味で、総統は格好がいい。四十代後半。加齢による皮膚の緩み具合さえ、計算したように端正だ。
「そろそろ来るころだと思っていたよ。ゲームセンターでのデートは楽しかったかい?」
総統の能力は計り知れない。心の声も記憶も読まれてしまう。まあ、報告の手間が省けるから楽だと思っておこう。そうでなければ、強大なチカラへの恐怖に負ける。
「ほんの二十分程度でしたが、楽しめました。女性は年上のほうがいいですね」
年上だから、だと思う。リアさんに近寄られても、手を握られたことさえ、不快じゃなかった。
「またすぐに会えるよ。彼女やその弟は、海牙くんの行く末に多大な影響を与える。今、運命が分岐するポイントに差し掛かったようでね」
「運命が分岐、ですか?」
「正確には、運命の一枝《ひとえだ》の分岐だな。何が起こり得るか、『秘録』で読んだことがあるだろう?」
「ええ。四獣珠を始めとする宝珠について記されていて、その来歴や預かり手の役割にも言及されていましたね」
「運命の一枝、と例えられる、この世界の在り方についても」
「記憶しています」
運命は、多数の可能性の枝を持つ大樹の姿をしている。ぼくが生きるこの世界は、ある一枝の上に存在する。別の一枝の上には別の世界があって、別のぼくが生きている。
総統には、この一枝の生長が見て取れるという。それが総統のチカラだ。
日常的に知覚することのできない運命の一枝なんてものを、一体、どんな姿でとらえているのか。好奇心に駆られて、総統に「ぼくも見てみたい」と言ったことがある。
総統は見せてくれた。いや、見せてくれようとした。
ぼくの額にかざされた総統の手のひらから、凄まじい量の情報がぼくの脳へと叩き込まれた。読解できない、うごめく文字の、途方もない奔流。ぼくは一瞬も耐えられず、意識を失った。
あんなものを、総統はいつも見ている。肉体こそ人間のものだけれど、チカラは人間であり得ない。
総統は普段、チカラを外に漏らすこともなく、ひっそりと常人のふりをしている。たまにチカラの片鱗をのぞかせることがあって、そんなとき、ぼくはどうしても目をそらしてしまう。処理できない情報の怒涛が視界を占領してしまうから、ただただ怖い。
けれども、その総統を以てしても、未来が少しもわからないときもあるという。
総統は静かな目をしてぼくを見た。
「まもなく、この一枝は分岐すべきポイントに差し掛かる。四獣珠が互いに呼び合い、預かり手たちを引き会わせ、さる問題に立ち向かわせる。きみたちの勝率は、どうも高くないようだがね」
「不利とわかっている勝負に突っ込むのは、ぼくの主義ではありません。避けられるのなら避けたいものです」
「残念ながら、人生は、残機ゼロの強制スクロールだよ。ステージを進めば勝手にセーブされ、リセットはできない。進める限りに進むしかなく、手にするクレジットはゲームクリアかゲームオーバーか、二者択一だ」
「システムにバグがあったとしても、それが仕様であるとの一点張りで、お詫びのボーナスアイテムも支給されないクソゲーですよね」
「散々な低評価レビューが続けば、その一枝というクソゲーも、さすがに配信と運営をストップせざるを得ない。生長に失敗した一枝たちは淘汰され、より遠い未来へと生長し得る一枝たちが次の世代へと伸びていく」
「淘汰に、世代か。まるで機械学習の物理演算ですね。最近、人工知能の機械学習について書かれた本を読んだんです。人工知能の学習の過程は、遺伝学になぞらえた言葉で表現されるんですよね」
思いがけず、総統が嬉しそうに微笑んだ。
「私も、ちょうど今、AIの本を読んだり動画を観たりするのにハマっていてね。あれはおもしろいな。ビジネスのどういう分野にAIが導入できるかという視点ではなく、科学技術として純粋におもしろい。もっともっと知りたくなる」
総統は運命の一枝も人の心も知覚できる一方で、学術を身に付けるためには、ごく当たり前の努力をしなければならないそうだ。国立大学の文系学部を出たという割に、サイエンスの話題に食い付くことが多い。
ぼくは話のテーマをもとの軌道に戻した。
「この一枝も、淘汰される可能性があるんですね?」
「あるだろう。私には見えないけれども」
「どんな条件を満たすことができれば、適応度の高い解として評価され、この一枝を次の世代につなぐことができるんでしょうか?」
「さて、どうすればいいんだろうね?」
「総統にもおわかりにならないんですか?」
「私は、少し先の未来における最適解を知っている。しかし、一枝たちがディープラーニングをおこなう間、その過程はブラックボックスの中だ。プログラムの設計を知る私にさえ、ブラックボックスを開けることができない」
「具体的に何がおこなわれているのか……いや、ぼくたちがこの一枝の上で何をおこなうべきなのか、わからない」
総統はうなずいた。そして一つだけ、曖昧な予言をくれた。
「事件が起こるよ。きっと、すぐに」