その日の練習があらかた終わった。オレは一足先に部室を追い出された。
「楽器だけで、もう一回、合わせるから」
 オレも加わると言ったが、却下された。喉を労われ、とのことだ。代わりに兄貴に宿題を出された。
「新曲の詞、そろそろ書けよ。ガレージライヴには間に合わせたい」
 兄貴が書けばいいのに、と反抗を試みる。全員に却下された。オレの乱雑でひねくれた詞の、どこがいいんだ?
 仕方ない。薄暗くなった校舎の中を図書室へ向かった。鈴蘭と合流するためだ。
 図書室の引き戸を開ける。カウンターの連中がビクッとする。怖がられるのはいつものことだ。慣れてる。
 図書室は二つのエリアに分かれている。ずらりと本棚が並ぶ書架エリア。読書や勉強をするための閲覧エリア。閲覧エリアには、八人掛けの机が八つある。鈴蘭はいつも、閲覧エリアの窓際の席にいる。
 下校時刻が迫っていた。閲覧エリアには鈴蘭一人がいた。おい、と声をかけようとして、オレは息を止めた。
 鈴蘭が眠っている。
 読みかけの本が伏せてある。そのそばで、右の頬を下にして、左向きの横顔を表に見せながら、鈴蘭はしなやかな寝息をたてている。
 襲われたらどうするんだと、とっさに思った。違うと気付いた。オレ、今、襲いそうになった?
 つやつやした黒髪。白い肌。頬は、うっすら赤く色づいている。まつげが頬に影を落としている。唇が意外にふっくらしている。
 触れたい。急激で唐突な衝動が起こった。手を伸ばしそうになる。細い首。小さな肩。吐息。偶然に触れたことがあって、知ってる。鈴蘭の体が、どこもかしこも柔らかいこと。
 風が吹くと、鈴蘭の髪の甘い香りを感じる。肌も同じ香りがするんだろうか?
 騒ぐ心臓に困惑する。触れたい。でも、触れたくない、壊したくない、汚したくない。手を伸ばせば届く。なのに、遠すぎて触れられない。
 不意に、切れ切れの言葉が頭をかすめた。そうか、これだ。これを詞にしたらいい。オレはカバンからメモ帳を出した。鈴蘭の向かいの席に座る。
 あぶくみたいに、湧いて消える言葉。消える寸前に、ペンでメモ帳につかまえる。今、感じたこと。目に見える距離と、見えない距離。見つめ返されないときだけ、安全。
 まるで、子どもの遊びだ。だ・る・ま・さ・ん・が・こ・ろ・ん・だ。振り返られないうちに。見つめられないうちに。初めて、じっと、こんなに長く誰かを見つめている。息を詰めて、胸を押さえて。
 オレの髪が銀じゃなければ、オレの目が金じゃなければ、見つめ返されることも、きっと平気なのに。
 殴り書きの言葉がメモ帳にあふれる。
 詞を綴るときのオレは無防備だ。今まで、誰かのそばで書いたことなんかない。なのに、どうして? 鈴蘭の目の前だから、詞が浮かんできた。そのくせ、鈴蘭に贈る詞でもない。ただの、オレ自身の臆病さを歌った詞だ。
「バカか、オレ」
 出て来た言葉の軟弱さに、ため息をついた。そのときだった。
「んんっ」
 鈴蘭が、くぐもった声を漏らした。また、オレはドキリとする。自分の心臓に舌打ちしたくなった。まじめに仕事しろ。
 オレが見ている目の前で、鈴蘭はゆっくりとまぶたを開けた。
「あっ、煥先輩。来てたんですか? お待たせしてました?」
「い、いや、別に」
 鈴蘭の右の頬が赤くなっている。右を下にして寝ていたせいだ。本人も察してるんだろう。手のひらで頬を包んだ。
「わぁ、しっかり寝ちゃってた。本、読もうと思ってたのに」
 読みかけの本の背表紙へと、鈴蘭は目を伏せる。口元は少し笑っている。照れ笑い、か? 見たことのない表情で、目が惹き付けられる。
「あ……」
 オレは何かを言いかけて、言葉に迷う。
「何ですか?」
「……帰る」
 わかり切った用件だけ告げた。オレは歌詞のメモ帳をカバンにしまった。