響告《きょうこく》大学附属病院。
 病院としても研究機関としても国内最先端で、特に人工細胞を使った難病治療は世界的に有名だ。
 この響告大附属病院が、あたしのかかりつけの病院だ。あたしの居場所、と言ってもいいかもしれない。
 朝ごはんの後、あたしは自分の病室で服を着替える。
 白いカッターシャツ、赤いリボンネクタイ、チェック柄のワンピース、白いソックスと黒いローファー。前髪をヘアピンで留めたら、ちょっとレトロな女子高生の出来上がり。
 とはいっても、これは本物の制服ではなくて。だって、あたしが在籍しているのは、課題のデータを送信するだけの通信制高校。課題送信型で、出席の必要がなかったのは、小学校のころからずっとだ。
「望ちゃん、行きましょう?」
「うん!」
 望ちゃんが病室から飛び出してきた。セーラー服っぽいワンピースだ。ベリーショートの髪は、ようやくここまで伸びたところで、帽子をかぶらなくてもよくなった。
 あたしたちは並んで院内学園へ向かう。途中で合流した勇大くんは詰襟の上着で、ズボンにはセンタープレスがキッチリ入っている。
 院内学園では、いつしか、みんな制服ごっこをするようになった。ママたちも協力してくれている。あたしたちが学校生活を送れる場所は、ここだけしかないかもしれない。だから精いっぱい、普通に楽しみたい。
 朝綺先生はもう、教室でスタンバイしていた。挨拶をすると、チラッと右手を挙げて笑ってくれる。座っているのは普通のいすだ。車いすを転がすんじゃなくて、歩いてここまで来たらしい。
 下は五歳から、最年長は十七歳のあたし。勉強する内容は一人ひとり違う。学校に通えなくて勉強が遅れている子が多い。逆のパターンもあって、勉強が闘病の息抜きになっているっていう賢い子もいる。
 朝綺先生は、教えることにおいては完璧だけれど、できないこともある。
「おーい、優歌。ちょっと助けてくれ」
「はい。何ですか?」
「理生《りお》にひらがなの書き順、教えてやってくれ」
「わかりました。おいで、理生くん」
 朝綺先生は、病気の後遺症で筋力が弱い。車いすを使うのも、そのせいだ。
 完全な寝たきり状態を脱して、リハビリ生活に入ってから、まだ一年。荷物はほとんど持てない。たぶん食事も不自由だと思う。その証拠に、あたしたちの前では食事をしない。
 六歳の理生くんが、あたしを見上げてニコッとする。
「優歌ちゃん、お願いしまーす」
 あたしは理生くんの後ろに立った。コンピュータを広げて、タッチペンを握る理生くんの手を、あたしの手で包み込む。
「じゃあ、一緒に書いてみましょうか」
 コンピュータに表示されているのは、ひらがなワークだ。「な」の字のお手本の下に、二人で「な」を書いていく。
「一画目は横。二画目は斜め。三画目は点。四画目は、くるっと穴を作ります。穴の形は、丸じゃなくて三角がきれいですよ」
 実際に手を動かすワークは、朝綺先生にはできない。だから、あたしが代わりに教えるの。
 三回一緒にくり返して、最後に理生くんひとりで「な」を書いた。最初より、ずっと上手になった。理生くんのお礼の言葉を受け取って、あたしは自分の席に戻る。
 ちょっと手が空いてから、朝綺先生は立ち上がって、ゆっくりとあたしのところへやって来た。
「ありがとな、優歌。いつも助かる」
 朝綺先生の笑顔はクッキリしている。口角がキュッと上がって、えくぼができて、大きな両目が弓なりにやわらぐ。筋力が弱いはずなのに、表情筋は誰よりもよく動くんじゃないかな? そう思うくらいの、パッと明るい笑顔だ。
 ドキドキするのを隠して、あたしも笑う。
「どういたしまして。教えるのは楽しいから好きです」
「でも、自分のぶんの勉強、進まねぇだろ? 悪いな」
「ちゃんと自分でやってますから、大丈夫です。三角関数だけ、後で少し教えてください」
「りょーかい。ほんと、優歌は頼りになるし、優秀だよ」
「そ、そんなことないですよ」
「謙虚だよな。もっと自信持てよ。優歌はみんなのステキなおねえちゃんだよ」
 朝綺先生は誉める。ひたすら誉める。誉め言葉も殺し文句も、恥ずかしいほど口にする。
 半年くらい前だけど、あたしはどうにも照れくさくなって、やめてくださいって言ってしまったことがある。そうしたら、朝綺先生はニヤッとした。
「やめねぇよ。おれには口しかねぇからな。頭ポンポンしてやりたくても、手がうまく上がらねえ。だから、そのぶん口で伝えるんだよ」
 すごく、すごく当たり前のことだ。でも、普通はできないこと。それをサラッとやってしまう朝綺先生は、考え方や生き方がやっぱりカッコいい。