四方をコンクリートの壁で囲まれた四畳半ほどの狭い部屋に、オウガはいた。
部屋の真ん中には小学校の教室にあるようなスチール製の机が二つ、向かい合うように置かれてあり、その片方にオウガが、もう片方には、さっきまで、矢島という中年刑事が座っていた。今は一人だ。
正確には、供述を記録する警察官もいるので、一人ではないが、彼はオウガに話しかけてこないし、見もしない、一人でいるようなものなので、周りを気にせず考え事が出来た。
──さよなら、オウガ。
最後に囁かれた言葉が甦る。
あのときのフィーンは、本当に晴々と、嬉しそうな顔をしていた。全ての柵《しがらみ》から解き放たれる喜びに満ちていた。
彼女は自由になったのだ。自分や、ゼノから離れ、自由に。
だが自由と孤独は裏表、彼女は自由を得、その代わりに一人になった。
一人でなにをするというのだろう。
自分らは三位一体、一人では何もできない。動くことさえ憚られる脆弱な存在だ。それはフィーンだってわかっているはずではないか。それなのになぜ、裏切った?
さよなら、オウガ。
それを最後に、彼女は消えた。そもそもそれがおかしい。彼女には生活能力がない。行く当てなどあるわけがない。離れ離れになって、一番困るのはフィーンではないか。
それなのに、出て行った……ということは、まさかとは思うが、行く当てを確保してある。ということか?
オウガがその可能性に気づいたとき、なんの前触れもなく、部屋の戸が開いた。
矢島が戻って来たのかと思ったオウガは、思考を中断して顔を上げる。だが、そこにいたのは、見知らぬ男だ。
年齢は四十前後、いかにもエリートといった風情で、仕立ての良さそうなスーツを着たその男は、オウガが絶句するほど、嬉々とした、異様な表情で立っていた。
「宮田刑事? え、どうしたんですか……?」
記録係の警官が驚いて立ち上がる。問われた宮田は、ああと片手を上げ、慌てるなと答えた。
「FOXの相手ばかりじゃ気が滅入るだろ、こっちの取り調べを手伝ってやるよ、なにちょっとした気晴らしだ」
「いや、でも……」
この事件の担当は矢島だ。今は席を外しているが、矢島に断りもなく、被疑者と話をさせるわけにはいかないと立ち合いの警官は口ごもる。だが宮田は矢島には話を通してあると答え、警官を立ち退かせた。
宮田は一応キャリアで、退けと言われては逆らえない。立ち合い警官も腑に落ちない表情で着席した。
「さて……」
警官が着席したのを確認した宮田は、湧き上がる興奮を抑えきれないといったように頬を紅潮させ、部屋の中央、オウガの目前へと歩いてきた。
「真夜中の殺人鬼くん、気分はどうだ?」
宮田はオウガの座る机の上にバンと手を突き、嬉しそうに訊ねた。なにを孕んでか、その目は爛々と光って見える。妙に固執的で落ち着けない。まるで何十年もの因縁ある相手と出会ったかのようだ。
オウガもどこかで会っていたろうかと思い巡らすが、なにも思いつかない。
「どうした? 返事くらいしろよ」
黙ったままのオウガに痺れを切らせたのか、宮田は急に険しい表情になった。それでも返事をしないでいると、瞳を血走らせ、掴みかかってくる。
「なんで返事をしない! 私を馬鹿にしてるのか!」
いきなりの恫喝に驚いた。こいつは何者なのだと首を捻るが、どう考えても覚えはない。
覚えはないが、何か似た空気を感じる。だがなにに似ているのか、考えようとしても、宮田がそれを許さない。ふざけるな、無視するんじゃないと叫んで拳を振り回した。その表情は真剣で、拳の雨も止むことがない。
あまりの猛攻にオウガがよろめき倒れる。見ていた警官も、最初呆気にとられ、竦んでいたが、さすがに不味いと慌てて止めに入った。宮田はそれをも跳ね除け怒鳴り散らす。
「邪魔すんじゃねえ! こいつが犯人なんだよ、殺人鬼さ!」
「宮田さん、やめてください! ダメです」
「うるせえ!」
背後から抱え込むようにして止めようとする警官を突き飛ばし宮田は叫んだ。突き飛ばされた警官は壁際まで飛ばされ、尻と背中を打ったようだ。低く呻いて項垂れる。それを気にもかけず、宮田はオウガを殴り続けた。
「あぁ? どうしたよ、やり返さないのか、殺人鬼! 自分はやってませんってか? 今更いい子ぶるんじゃねえよ、テメエも一緒なんだよ、ヒトゴロシ野郎が!」
早く吐けと喚きながら殴りかかってくる宮田を、オウガは不思議な面持ちで見返していた。なにかおかしい。自分はこの男に初めて会ったはずだ。だが胸の内側で、それは違うと声がする。
自分は、こいつに、会ったことがある。
根拠のない確信が、身体に満ちた。
「なんとか言ったらどうなんだ、それとも死にてえのか? 死ぬか?」
オウガが返事をしないので、宮田の興奮も収まらない。ますます激昂して喚き散らす。その瞳は、どこか病的で赤い。
血走り、白目の部分まで赤く染まって見える目が、どこか怯えている。
そう感じたとき、オウガはその奇妙な感覚に納得した。
この魂を、自分は知っている。
考えている間にも宮田の猛攻は止むことがなく、その拳は矢のようにオウガの身体に、顔面に突き刺さった。次第に意識も遠のいてくる。霞む瞳でただぼんやりと宮田を見ていた。
「なんだ? なに見てやがる」
逃げることも抵抗することもなく、オウガはただじっと宮田を見つめる。それに苛立ったのか、宮田はさらに怒り、オウガを突き飛ばした。
「見てんじゃねえ!」
突き飛ばされたオウガは、取調室の壁に頭をぶつけ、倒れこむ。だがまだ意識は失くせないと、首を振りながらも、ゆっくり顔を上げた。その執拗な視線に気圧されたのか、宮田は髪を振り乱し、怒鳴りながらも、なにかを恐れるように後ずさる。
「見てんじゃねえっつってんだろ!」
と、そのとき、足先が、さっき暴れたはずみで転がったパイプ椅子に当たった。怯えていた宮田は、無我夢中でそれを掴み、振り上げる。
「糞野郎!」
「宮田さん、やめてください!」
「うるせえ! 引っ込んでろ!」
刑事が取調室で被疑者に暴力。それだけでも不味いのに、パイプ椅子で殴るなど言語道断、これではリンチだ。警官も慌てて止めに入る。だが宮田は、それをも薙ぎ倒し、椅子を振り下ろした。オウガのひたいは切れ、飛び散った血で取調室は赤く染まる。
「やめて……くださぃ」
薙ぎ倒された警官が、弱弱しく叫ぶ。宮田はそんな声には耳もかさず、パイプ椅子を振るい続けた。
このままでは不味い。自分ではダメだ悟った付き添いの警官はよろよろと立ち上がり、ドア口へと向かう。そして、そのドアを開けようとした時だ、予期せずして、先にドアは開き、矢島が戻って来た。
「おっ……っ」
中へ入るなり飛び込んで来た異常な光景に、矢島も絶句する。
自分もよく知っている同僚刑事、宮田が、さっきまで自分が取り調べていた被疑者、オウガをパイプ椅子で殴りつけている。それも、ちょいと当てたなどというレベルではない。オウガは血まみれで蹲り、飛び散った血で室内は真っ赤だ。
「お前ッ、なにやってんだ、やめろ!」
いきなりの侵入者に、宮田の動きも止まる。矢島は、勢いの落ちた宮田を羽交い絞めにして、オウガから引き離した。
「離せ! 離せ、糞野郎! 離せ!」
押さえ付けられた宮田は、汚らしい言葉で喚き散らし、暴れる。だが、その力は、思いのほか、強くはない。矢島は、少し拍子抜けしたような気分で、それでも応援を呼んだ。
しばらくしてわらわらと到着した同僚、上司が、集団で宮田を拘束し、連れ去って行く。それを少し奇妙な思いで見送った。
宮田とはそう親しいわけではないが、それでもその人となりはそれなりにわかる。
彼は、こんな単純で愚かな暴力を振るうような人間ではなかったはずだ。虫も殺さぬとは言わないが、少なくとも、やたら人に手を上げるような奴ではない。どちらかといえば、上品ぶってエリート風が鼻につくくらいだった。
それがなぜ、こんなことをしたのかと考えたとき、ついさっき、重田に聞かされた話を思い出した。あまり眉唾なので、半信半疑、聞き流していた話だ。だが、今の光景を見た後となると、信じられそうな気になる。
首を捻りながら取調室へ戻った矢島は、床に座り込んだまま、部屋の壁に背を預けているオウガを見返した。オウガは、頭や口元から血を流しながらも、、意識はしゃんとしていそうだ。なにか思いつめたような真剣な瞳で、取調室のドアを見ていた。
「やれやれ、災難だったな、オウガ……大丈夫か?」
血塗れのオウガに声をかけた。大丈夫なはずはないとわかっていて言った言葉だ。
だがオウガは、真顔で大丈夫だと答えた。
「なにがあった?」
思うところあり気な表情が気になり、神妙に訊ねると、オウガはまただんまりを決め込んだ。
彼が黙るときは、なにかを隠しているか、迷っているときだ。もしくは、庇っている……誰をと考えれば、もうそれはフィーンかゼノのどちらかでしかあり得ない。
「答えられないか、じゃあ質問を変えてやるよ」
姿勢を低くした矢島は、思い切って確信をついた。
「お前は……誰だ?」
誰だと問われると、オウガは怪訝そうな顔をした。さっきも答えたではないかと言いたいらしい。だが聞きたいのはそんなことではない。
矢島はもう一度、さらに姿勢を低くし、俯くオウガの顔を覗き込むようにして訊ねた。
「もう一度聞く、お前は、何者だ?」
「オウガだ」
矢島の問いの意味が掴めないらしいオウガは、平坦な声で答える。矢島はそうじゃないだろと、首を振った。
「お前は石崎夫婦の子供だ、そうだろ?」
「え……?」
***
ゼノをFOXと決めつけ、待ち伏せた重田は、会うなり問い詰め、追いつめ、そして殺されかけた。だが、結局は殺されずに生きている。
なぜ殺されなかったのか、ずっと考えていた。そして、もしかしたら、殺せなかったのではないかと思い立った。
息苦しさが見せた幻かもしれないが、あのとき、自分に向かって来ようとしていたゼノは、形を変えようとしていた。
ぐにゃぐにゃと、ぞわぞわと、聳《そばだ》つように膨らむ影。
風もないのに舞い上がろうとする髪。
血走った赤い目……そして、気の遠くなるような圧縮された空気の中、誰かが叫んだのだ。
──やめろ!
それが誰の声なのか、そもそも本当に叫んだのか、記憶も曖昧で、自信がなかった。だが今ならわかる。あれはゼノの声だ。
叫んだのがゼノであるなら、あのときそこにいたのはゼノではない。では誰だ? それこそが、フィーンなのではないのか?
だとしたら、どれがホンモノなんだ?
重田の話を聞いた矢島は、息を飲んだ。背中に冷たいものが這い登る。
生意気な口を利く子供。
赤い髪の少女。
フードの男。
浮かんでは消える影がくるくると回り、頭の中であり得ない像を結ぶ。そこにいるのは阿修羅のごとく、三面に顔を持つ鬼だ。
脳天から氷の矢が差し込まれたような寒気に襲われ、髄液が凍った。いてもたってもいられなくなった矢島は、喫煙もそこそこに資料室へ走る。
そこで探したのは、重田の話した五年前の若夫婦殺害事件の捜査資料だ。
狭い室内の両壁設置してあるスチール製の棚の戸を荒々しく開き、中のファイルを繰り探す。びっしりと詰め込まれた過去数年分の捜査資料、調書、記録類、そのすべてに手を伸ばし、捲っては投げ捨てた。
一応年代順に区分けはされていたが、五年前となると、さすがにごちゃごちゃしてくる。お蔵入りする凶悪犯罪の多さに、整理しきれないというのが現状だろう。矢島は四苦八苦しながら両側にある棚を引っ掻き回し、ようやく見つけたそれらしきファイルを読み漁った。
―千代田区狐火殺人事件―
現場が千代田区の貸家で、事件発覚の数日前、付近で狐火(ひとだま?)らしきものを見たという証言があったため、この名称がつけられた。また「狐」かと、矢島は背筋を震わせる。
事件の被害者はまだ若い石崎夫妻、記録では子供はないとある。だが家にはわずかながら子供用の衣服や玩具などがあり、当時の捜査本部もその存在を疑ってはいたようだ。しかし事件には直接関係ないので、深く掘り下げて調べることはしなかったらしい。
気になる点はいくつかある。その中で一番奇妙なのは、夫婦の寝室の押し入れに小動物を飼っていたような跡があったことだ。
猫か犬、もしくはウサギなど、小さな生き物がそこにいた形跡があった。だが動物の毛のようなものは見つかっていない。夫婦にペットを飼っていた様子はなかったと付近の住人も証言している。
ペットでないなら、それはなんだ?
そこまで考えたとき、嘘寒さで、鳥肌がたった。そんな馬鹿なと心で否定しながら、矢島は取調室へと駆け戻る。
そこにいたのは、猫でもウサギでもない。猫と見紛《みまご》うほど、小さく痩せた子供だったのではないか?
その子はどうなった?
今、どこにいる?
それがゼノだとしたら、フィーンはどこにいる? オウガは? 彼は何者だ?
ゼノ、フィーン、オウガ、この三人は実在してるのか? 寒気とともに、襲ってきた疑問を胸に、矢島は取調室のドアを開けた。
「お……っ」
飛び込んだ取調室に、オウガの姿はなかった。いたのは、痩せた、小さな子供だ。
頬の肉は薄く、唇も渇き、目ばかり大きく見える子供が、部屋の隅で蹲っていた。頭や口元、身体のあちこちから血を流し、無表情に虚を見ている。
立ち合いの警官は腰でも抜けたのか、尻餅をついたままだ。矢島が入って来たことで、気を取り直したのだろう、慌てて立ち上がろうとしている。
子供は幼い顔つきのわりに、冷え切った眼が印象的で、背格好は小学生程度だが、実際いくつなのかは想像もつかなかった。
誰だ?
思わず口に出しかけたとき、子供はふっと目線をあげた。瞬間、部屋の空気が軋み、斜めに捻じれて千切れ飛ぶ。プツッと小さな音がして、あたりは黒く染まった。
そして再び明るくなった世界に、パイプ椅子でブチのめされているオウガと、凶行を振るう宮田がいた。あたりは無音で、誰も動かない。
小さな窓からは、傾きかけた昼の日差しが入り込み、オレンジの部屋に長く薄い影を作っている。
壁掛け時計の進む音はやけに煩く、カチカチと聞こえた。まだ日差しも高く、白々しいくらい現実的な部屋が、オウガの血で赤く染められていく。
ここはどこだ?
これはなんだ?
わけがわからず、瞬きを繰り返すと、いきなり時は動き出した。
急いで宮田を止め、外へと引きずり出して振り向けば、オウガは平然とした表情でこちらを見ていた。いや、見ていたのは外だ。外へ連れ出されていった宮田の背を、彼は見ていたのだ。
「お前は誰だ?」
再び訊ねると、オウガはなんでそんなことを聞くのだという表情で、オウム返しに答えた。
「オウガだ」
「違うだろ、本名を言ってみろ、忘れたか?」
「本名……」
「そうだ、生まれたとき、石崎夫妻がつけた、お前の名前だ、なんという?」
話が進まないことに少し苛立ち、矢島が問い詰めると、オウガはチラリと目線を上げ、すぐに下げた。そしてしばらく黙り込んだあと、決心したように静かに答える。
「沢村《さわむら》だ」
「え?」
「沢村銀《さわむらぎん》、それが俺の名だ」
「沢村……?」
その答えに、矢島は再び凍りついた。それは、三浦が最後に出向いた現場、旭ビルで、五年前におきたという殺人事件の被害者夫婦と同じ苗字だ。まさか、そうなのかと狼狽える。
沢村夫婦殺害事件も、狐火事件と同じく犯人は捕まっていない。だがそうだ。沢村夫婦のほうには、子供がいた。それはちゃんと記録されている。名前までは憶えていないが、たしか当時十五歳……だった?
「お前……なのか?」
「そうだ」
問われている意味がわかっているのかいないのか、オウガはまっすぐな目をしていた。だが、ことは重大だ。沢村夫妻が殺されたのは、狐火事件のおきたのと同じ年、前後しておきた二つの事件は繋がっていたということになるではないか。
オウガが沢村夫妻の子供だとしたら、ゼノは石崎夫妻の子供だろう。ではフィーンは?
重田はゼノという子供がFOXだと睨んでいた。オウガ、フィーンはその協力者、もしくは共犯だと……しかしおそらく、実行犯はゼノではない。オウガでもない。たぶん、フィーンだ。
彼女《フィーン》はどこだ?
「どうした? 問題があるのか?」
矢島が黙り込むと、オウガは不思議そうな顔つきで首をかしげる。火傷のせいで一見恐ろし気に見えるが、彼には意外に素直で幼い部分がある。自分がなにをしでかしているのか、その自覚さえないように思えた。
根拠はない。これは単なる個人的感想と勘だ。だがたぶん外れではない。
彼がFOXだ。それは間違いない。しかし新貝が無関係とも思えない。それに、フィーンとゼノはどこだ? それが知りたい。
「お前がFOXなのか?」
「フォックスは新貝さんだろ」
「新貝がFOXなのか?」
「そうだろ、違うのか?」
「あ、いやそういう意味じゃなく……というか、お前、新貝のことも知ってるんだな」
「ああ」
新貝の通り名がフォックスなのは誰もが知っている。オウガはFOXと聞いて、そのままフォックスととったらしい。矢島は、そういう意味ではない、こちらのいうFOXとは、連続猟奇殺人犯のことだと話した。するとオウガは妙に落ち着いた表情で、ああと頷く。
「そいつは俺だ」
「お前が? 本当に?」
「ああ、FOXと名乗った覚えはないが、俺だな」
オウガは、聞いた矢島が拍子抜けして脱力するほどあっさりと、自分がFOXだと認めた。だが、そう素直に認められると、逆に疑いたくなる。
まず、オウガがFOXなら、なぜ今更こんなドジを踏んで捕まったのかががわからない。それに、ウサ子の言うフードの男がオウガだとして、もう一人、赤い髪の女子高生はどうなるのだ。その女こそがフィーンのはずだ。
そのフィーンはオウガを裏切った。彼女は自分が裏切ってもオウガは喋らないと踏んで、彼を罠にかけたのだ。
狙い通り、オウガは喋らない。このまま彼がFOXは自分だと認めてしまえば事件はここで終わる。世間を騒がせたFOXは逮捕され、時間はかかるだろうが事件の謎も不自然でない程度に解明され、終わってしまう。
そうなれば彼女は自由だ。何十人も殺しておきながら、なんの罰も受けず、オウガの犠牲をなんとも思わず、易々と生き延びることが出来る。
いや、それだけではない。ほとぼりが冷めたころ、再び殺戮を開始するだろう。完全に彼女の思う壺ではないか。
「嘘だな、お前はやってない、少なくとも、FOXの手口はお前の仕業じゃあない」
「あなたがどう思うおうと、殺したのは俺だ」
「嘘つけ、あんな残虐なやり口、お前に出来るわけがない」
「なんでそう思う?」
「何年刑事やってんと思うんだ? 舐めんじゃねえぞ、そんなの顔見りゃわかる、お前には出来ない」
「それなら刑事なぞやめることだな、殺したのは俺だ」
「違う」
「違わない、あなた方の探してるFOXは俺だ」
何度否定しても、オウガは自分が犯人であるとの主張を譲らなかった。だが矢島も譲れない。もはや希望に近い想像ではあるが、やったのは彼じゃない。少なくとも、FOXと呼ばれ。捜査本部を恐れ慄かせている猟奇犯ではない。
犯人は別にいる。
その確信のもと、矢島はオウガに詰め寄った。
「FOXは複数犯だとのタレこみがある、それにな、数は少ないが、目撃者もいるんだ」
「バカな、そんなものいない」
目撃者などいるはずがない。オウガはその確信からくる傲慢さで、太々しく凄んだ。だがそれもすぐに不安に変わる。息を飲み、視線を下げて顔を逸らす様子は、万引きを見咎められ、引き立てられてきた不良少年のそれによく似ていた。
「現場では、赤い髪の女子高生を見たという者が多い、俺はそれがFOXだと思っている」
「あんな殺し、女子高生に出来ると思うのか?」
「普通は出来ないな」
「当たり前だ、出来ない、つまり、そんな奴はいないってことだよ」
「まあそう早まるな、普通はと言っただろ、彼女は普通じゃないんだ、そう思えば出来るかもしれない」
「屁理屈だ!」
オウガは椅子から立ち上がり、取り調べ室の机を叩いた。あり得ないだろと話す声は少し上擦っていて、落ち着きがない。
矢島はオウガの反応を観察しながら、目撃者がいるんだぞと指をさす。それに対するオウガの反論は理論的でなく、言い逃れの類だ。
バカバカしい、そいつが見間違ってるんだ、見ているはずがない、嘘だと喚き散らした。
「面白いな」
「え?」
彼が感情を露わにするのは初めてだった。矢島はさらなる一手をかける。
「お前たち……あえてお前たちと言わせてもらうが、お前たちのボスは誰だ? その女なんじゃないのか?」
「違う! そんな女いないと言ってるだろ、俺がFOXだ!」
「お前はその女に操られてるんだ、そいつはお前が裏切らないと知ってて陥れたんだぞ」
「違うと言ってるだろ! そんな女はいない!」
「女はいるんだよ、そしてお前らを操ってる」
「違う!」
声を荒げ、拳を振り上げるオウガを見つめ、矢島はため息をついた。ただ哀れだと思った。
もはや、矢島を動かすのは、正義感などではない。一人の男としての感情だ。義侠心と言ってもいい。
彼が本当に殺人者だとしても、まずはその女のほうを捕らえたい。どんな顔であんな残虐な遺体を作るのか、見てやりたいのだ。
「そいつに操られてるのはお前だけじゃないぞ」
「え……?」
「もう一人いるだろ……ゼノだ」
ゼノの名を出すと、オウガは見事に反応した。それまでの反抗的で興奮した様子は一変し、瞳を見開いて首を振る。ここが落としどころだと感じた矢島は、そこで最後のカードを開いて見せた。
「ゼノ、そしてフィーン、それがお前の仲間なんだろ? お前はフィーンに陥れられた、そうだな?」
「なぜ……?」
「お前、最初に、密告者は女かって聞いたよな? そいつがフィーンなんだろ?」
問いかけると、オウガは唇を固く結んで視線を下げた。
おそらく、オウガにとってフィーンの裏切りは予想外だったのだ。裏切られるとは思ってもいなかった。今も信じられない。だから庇う。
だが、心のどこかで、信じきれずにいる。だから迷う。その証拠に、オウガの視線は彷徨い続けている。
矢島は、俯くオウガと視線が近くなるように椅子に腰かけ、顔を近づけた。
覗き込んで見た彼の顔は、火傷の痕さえなければ、純真無垢な少年のようだ。本当に、まだずっと若いのかもしれない。
十五歳とは言わないが、それに近い幼さを感じ、矢島はやり方を変えた。被疑者の取り調べをするのではなく、保護された非行少年の事情を聞くように、穏やかに、じっくりと話しかける。
「フィーンは逃げたんだ、お前らは見限られたんだよ、庇いだてする義理はないぞ」
逮捕されて数時間、おそらくオウガ自身も、薄々と気づきはじめていたのだろう。心当たりのありそうな、複雑な表情になった。今なら話すかもしれない。
「彼女の目的はなんだ? ゼノはどこにいる? 教えてくれ、早くしないと、彼女はゼノのことも裏切るぞ」
そうなる前に助けたいんだと話すと、オウガは瞠目しながらも、矢島をの目を見返して来た。信じるべきか否か、彼の中にも迷いはあるのだろう。それは仕方がないと割り切り、矢島は根気強く訊ね続けた。それに釣られたのか、いや、たぶん、彼にも、フィーンの危険性が理解出来たのだ。オウガは少しずつ、話しはじめる。
「なぜ、あなたがゼノを知ってるんだ? 会ったことはないはずだ」
問い返すオウガの目は、もう彷徨うこともなく、冷静さを取り戻していた。ちょっと不味い傾向だと思いつつ、矢島も丁寧に答える。
「俺の知り合いが会ってるんだよ、彼は、ゼノ少年に殺されかけたと言ってる」
「まさか、重田か?」
「お、なんだ、お前も知ってるんだ? そうだ、重田、俺の……まあ、旧友だな」
旧友という言葉を、オウガは噛み締めるように反復した。そこには大きな戸惑いと、小さな憧憬が見える。
彼から見れば、矢島も重田も等しくただの中年男で、頭の固い、いけ好かない大人なのだろう。その「大人」に、友だちなどという存在がいるのが、意外に思えるのかもしれない。
多くの子供は誤解している。大人は子供とは違う別の生き物だと思っている。だが、実際は違う、大人は子供の延長線上にある存在だ。あんな大人にはならないと、大人たちを憎む子供らも、いつか、時が経てば、大人になる。精神はともかく、肉体的には成人し、そして老いていく。
誰だって、老いたいわけではない。いつまでも子供でいられるなら、それが一番幸せかもしれない。しかし人は変わるのだ。生きている限り、大人になることを拒否はできない。
出来ないが、子供のときの心を、思いを、失くさないでいることは、出来る。
歳をとり、素直に友を友と呼べなくなったとしても、胸の内では、やはり友だちだと思える。そういう存在が、大人にだっているのだ。
自分で導き出したその答えに、半ば驚きながら、矢島は戸惑うオウガに語りかけた。
俺たちは、お前たちの敵ではない。
「だがまあ結果的には殺されすに済んだ、お前がFOXだというなら、なぜ、あいつを殺さなかったのかな?」
「なぜ……」
「そう、なぜ、だ?」
矢島の問いに、オウガは長く沈黙した。それは、黙秘とか、拒否ではなく、迷いと戸惑いのためだ。彼は自分でも自分の思いを整理しきれていないのだ。
そう感じた矢島は、オウガが自分から話し出すのを辛抱強く待った。
オウガは、瞳を開いたまま、静かに、真剣に、自分自身の内面を探るように、じっとしていた。
その時間は、数十分にも及んだかもしれない。その間、矢島は、催促することも、話しかけることもせず、ただ黙って彼の口が開くのを待っていた。
その甲斐あってか、オウガはやがて、潔く顔を上げた。
「重田さんを殺さないと決めたのは、ゼノだ」
「ほう」
素直な反応に内心驚きつつ、表面では冷静な顔を作って相槌を打つ。オウガの話す気分を壊さぬように、細心の注意を払い、最小限の反応で、矢島は先を促した。
その誘いに乗り、オウガはゆるゆると話し続ける。
「俺たちは殺すべきだと話した、だがゼノは殺さないと言い張った、理由は聞いてない、だがたぶん、ゼノは、彼を好きだったんだと思う」
「好き? 重田をか?」
「ああ、気に入っていると言い換えてもいい、理屈としては、殺すべきだと話した、だが心がそれを拒否した、そういうところだと思う」
心が拒否した。
オウガの言葉に、矢島は半ば驚き、半ば頷いた。
ゼノという少年に会ったことはないが、重田の口ぶりでわかる。彼もオウガと同じ、純粋で未熟な子供なのだ。純粋だから傷つく、未熟だから考えが狭い。そしてその狭さゆえ、間違う。
「言い分はわかった、だがもう一つわからないことがある」
「なんだ?」
「重田を殺すことは躊躇ったのに、三浦を殺したのはなぜた? あれもお前らの仕業だろ?」
「三浦?」
問い詰める矢島に、オウガは邪気のない瞳を向け、首を傾げた。惚けているのかとも思ったが、そうではないようだ。たぶん本当に知らないのだ。標的とした男に、なんの興味もなかったというのが、正解のような気がした。
「お前たちが殺した若い刑事だよ」
「……三浦というのか」
「そうだ、知らなかったのか? まだ若い、前途ある若者だった」
「前途? では、死んだ子供には前途はないとでも?」
そこまでどちらかといえば、協力的な態度で話していたオウガは、そこでいきなり表情を変えた。なぜか三浦への評価にだけ厳しい。酷く冷たく、残忍なくらいに突き放した表情だった。
「今わかったよ、なぜゼノが重田を殺すなと言ったのか」
「なぜだ?」
「重田は執念深くて厄介な男だ、だが、ちゃんと見てたんだ」
「見て? なにを?」
「自分の目で見て、耳で聞いて、動いた、彼は、ラウじゃない」
「ラウ? なんだそれは……」
「あんたも、俺たちの仕事を捜査しているなら、見たはずだ、そこにはいつも、子供がいた」
「子供……」
子供なんてと言いかけて、ふと、FOXが最初に署名を残した事件、瀬乃夫婦殺害事件のことを思い出した。そこで初めて、FOXは署名を残している。
――Fiend Ogre Xeno~
通報者は隣人。小さな子供に泣きつかれ、隣の家へ様子を見に行ったと言っている。子供は瀬乃夫婦の子だと推察されたが、記録としては、夫婦に子供はないとされていた。
「重田はちゃんと見て、俺たちを追って来た、だがあんたの言う、前途ある若者は、なにも見なかった、なにもしなかった! 自分に害がないと思って知らんふりだ、そんなヤツ、なんの役に立つ!」
死んで当然だとオウガは怒鳴った。矢島も言葉に詰まる。
言いたいことはわかるが、納得は出来ない。それは逆恨みだ。死に値するほどの罪とは到底思えない。
しかし、反論する言葉が見つからなかった。
正論ならいくらでも吐ける。
人殺しはいけないことだ、なにがあってもやってはダメだ。殺された人のことも考えろ。被害者にだって人生がある。それを絶つ権利は誰にもないぞ。
全部綺麗ごとだ。少なくともオウガには響かない。
矢島は混乱を解きほぐそうと頭を振り、そしてさっき部屋から連れ出されて行った宮田の背を、思い出した。
なぜか……。
嫌な予感に鳥肌が立つ。
「オウガ、お前、さっきお前を殴った刑事が誰なのか知ってるんじゃないのか?」
自分が知る限り、宮田はやたらと暴力を振るう人間ではない。出世も遅いくせに、エリートぶって、キャリアを鼻にかける小心者だが、あんな理不尽な攻撃はしない。あれは宮田の顔をした別の誰かだとしか思えない。半信半疑で聞いた問いに、オウガは知っていると答えた。
「知ってる? 誰だ?」
「わかってるんじゃないのか?」
「いいから、言え」
まさか、そんなことあるはずがないと何度も思い。それでも拭えない疑惑とともに、矢島は訊ねた。するとオウガは、開き直ったように答える。
「アレは、フィーンだ」
「フィーン……」
さっき聞いた重田の話を思い出した。
絶体絶命、ここで自分は死ぬのだと重田が覚悟を決めたとき、ゼノがなにか叫んだという。そして彼は生き残った。
そのときゼノが叫んだ言葉は「やめろ」だったが、もしかしたらそのあとに、フィーンと続いていたのではないのか?
──やめろ、フィーン!
だとすれば納得がいく。
つまり、フィーンはゼノの中にいる、いや、あの時点ではいた。そして今は宮田の中にいる?
自由に他人に成り代わることが出来る人間などいるはずがない。というより、もしいるとしたら、そいつを捕まえることはきわめて困難だ。
仮に捕まえらえれたとしても、取り調べをするころ、そいつはもうそこにいない。そこにいるのは、そいつに姿を借りられていただけの、なにも知らない人間ということになってしまう……。
「まさか……」
「なんだ?」
ふと思い当たった可能性に矢島が黙り込むと、オウガは顔をあげた。それを船に聞き返す。
「昨夜、逮捕されたとき、フィーンはお前の中にいたのか?」
「ああ」
半分以上眉唾だと思いながら聞いた問いに、オウガはそうだと頷いた。一段と背筋が寒くなる。これではオカルトだ。そんな話はあり得ない。
矢島は自分の中にある一般常識と、今聞いた事実を照らし合わせ、可能性だけを探した。しかし、どう考えても、あり得ないものはあり得ない。
犯人には、捕まえられる手と足があり、現実世界に存在しているはずだ。幽霊が犯人では、警察など意味がなくなってしまう。
何度も、あり得ないぞと頭で繰り返しながら、矢島はさらに聞いた。
「彼女はナニモノだ? 実態はないのか? まさか本当に鬼か悪魔とでも言うんじゃないだろうな?」
「鬼か魔か……そうだな、もしかしたらそうなのかもしれないな」
「そうなのか?」
驚いて聞き返すと、オウガは憐れむような視線を向け、口先だけで、少し笑った。
「俺がフィーンに初めて会ったのは五年前だ、そのとき彼女はゼノと共にいた、ゼノのことは少し前から知ってたんだが、フィーンには会ったことがなかった、だから彼女がナニモノなのかは、俺も知らない」
「なんだそれは」
誤魔化す気かと問い詰めてみたが、どうもそうではないらしい。オウガは本当に、フィーンの正体を知らないようだ。
わかるならとっくにどうにかしていると話した。
「彼女がナニモノなのか、ゼノならわかるのかもしれないが……」
「ゼノ……」
重田の話では、ゼノは小学生くらいの子供ということだった。だとすれば、もしかしたらゼノが石崎夫妻の子供なのかもしれない。
石崎夫妻は、押し入れに小さな生き物を飼っていた。それが子供だったとする。と、その子は五年後、何歳だ?
事件当時、そこ(押し入れ)にいた。そして、事件後、そこから消えた。
消えたということは、自力で立ち去れるだけの体力と知恵があったはずだ。少なくとも、赤子ではない。小さく見積もっても五歳か六歳。その五年後なら十歳か、いってても十二歳。小学生くらいという重田の証言とも合う。そう考えれば、ゼノが石崎夫妻の子である可能性は高い。
「ゼノくんは、今、どこに?」
訊ねると、オウガはちょっと困ったというように、首を傾げた。居場所はわかるが、会えないだろうと話す。
「なぜ会えない?」
「ゼノは今、心を閉ざしている、話ができる状態じゃない」
「なぜだ、そういうことはよくあるのか?」
「いや……ゼノはアレで結構社交的なんだ、俺たちの中じゃ一番外向きだ」
「それが今は自閉症……フィーンのせいか?」
「だろうな、ゼノはフィーンを信じてた、いや、崇拝とでも言うか、彼女の意に反することはしなかった、今回だって、最大限許せる範囲で、フィーンの言うとおりにしたはずなんだ、それなのに、彼女は俺たちを裏切った……俺だけじゃない、ゼノも裏切られたんだ、だから……」
「自閉した?」
「ああ」
「ガキだな」
「ガキだよ、ゼノも、フィーンも……俺もな」
一度話し始めたオウガはそれからも素直に取り調べに応じた。矢島の質問にも、答えられる範囲で答える。だが、肝心な部分にくると、わからないを連発した。
それが保身からくる言い逃れや誤魔化しであれば、やり様はある。叩けば埃も出るだろう。しかしそうでない場合、いくら聞いても核心は掴めない。取り調べはいっこうに進まなかった。
そして……。
何日経っても、初日以上の話は聞けず、このままでは、なにもわからないままオウガの勾留期限が切れてしまうと、矢島が焦り始めるころ、本部からの横やりが入った。
証拠不十分で、不起訴、オウガを釈放しろとのお達しだ。
「釈放だぁ? ふざけんな!」
たしかに証拠は不十分かもしれないが、仮にも現行犯逮捕だ。オウガは傷害事件の現場で、血のついたナイフを手に立っているところを逮捕されている。その傍には、オウガの持つナイフで切り付けられたと見える被害者女性が倒れていた。監察医の判断でも、凶器はオウガの持つナイフで間違いないとされている。だからこその現行犯逮捕だ。
そして、現行犯ということは、その罪状は疑うべくもない……はずだ。矢島はそう主張した。
しかし聞き入れられなかった。被害者女性が、犯人は女だと証言したからだ。
犯人は女性で、体格は小柄。髪はかなり長く、血のような赤い色だった。
病院で意識を取り戻した被害者女性、佐藤順子が、そうはっきりと証言したらしい。そうなると、オウガは犯人足り得ない。あまりに目撃証言と違い過ぎる。誤認逮捕だ。早々に釈放しろと言われた。
「くそっ、なんだってんだ」
これまでの話を総合して、犯人はオウガではないかもしれないと考えてはいた。だが、無関係でもないはずだ。
仮にやったのがフィーンだとして、オウガはその裏を知っている。今は会えないとしても、ゼノとの繋がりもある。オウガとフィーンとゼノの関係、その謎を解き明かすためにも、オウガへの尋問は続けたい。それが矢島の考えだったが、本部はそれをNOと言う。
「お前は凶器のナイフを持っていた」
「ああ」
「本来ならそれで決まりなんだ、だが今回は……」
「なにか問題があるのか? 俺は認めてる、犯人は俺でいいじゃないか」
「そうもいかねえんだよ」
「いかない? なんで?」
なんで……。
それこそ、何故……だ。いかに被害者の証言があったとしても、物的証拠は揃っている。本人も自分がやったと認めている。たとえ、実行犯ではないといても、血の付いた凶器を持って現場にいたのだ、犯人と繋がりがないわけがない。それを釈放などあり得ない。
だが上層部はオウガの釈放を決めた。
なぜだ?
***
「警部、大変です!」
「なんだ、騒がしい」
暗い取調室の中で、新貝を取り知らべていた年配の刑事は、飛び込んで来た部下の言葉に、少しほっとした面持ちで振り向いた。
なにを聞いても暖簾に腕押し、のらりくらりと話を逸らす新貝の相手をしていると、頭がおかしくなる。それもへらへら笑いながら話してくれればまだ感情も乗るのに、まるで無表情の能面、姿勢すらほとんど変えない。
背筋をピンと伸ばし、正面を向いたまま淡々と話されると気持ち悪くなってくる。
事実、これまで取り調べにあたっていた捜査員は一日と持たなかった。ほぼ全員が、精神不安と体調不良を訴え、戦線離脱。そこでお鉢が回って来た年配の警部も、地下室の空気のせいか、新貝の態度のせいか、気が滅入り、胃のあたりがじくじくと疼きだす始末。いったんここから出ないと吐きそうだと思っていたところだったので、部下が飛び込んできてくれたのは渡りに船だ。自分がここから出なければならなくなるような、大きな事件の話でも持ってきてくれればなお嬉しいとさえ思いながら振り向いた。
少し不謹慎だが、得体の知れない殺人鬼と向き合い続けるよりマシだと、詳細を訊ねると、飛び込んで来た若い刑事は、酷く慌てた早口で答えた。
「宮田刑事が、人を刺したって!」
「なんだと?」
大きな事件とは思ったが、大き過ぎだ。現役刑事の殺傷事件など一番あってはならない。なんでそんなことになったと聞き返すと若い刑事も、わけがわからないんですと口ごもる。
「被害者は宮田さんとは面識がないって、宮田さんも、自分は知らないって言い張ってて」
「どういうことだ?」
「わかりませんよ、でも現行犯なんです、目撃者もいて……」
若い刑事も狼狽えていたが、それを聞いた年配の警部も混乱した。そんな馬鹿な話あるものかと何度もつぶやき、首を振る。そして何気なく背後の新貝に振り返ってゾッとした。新貝は、口の両端を大きく上げ、不気味なほど笑っていた。その顔は派手なメイクを塗り重ね、素顔を隠したクレイジーピエロのようだ。
背筋が凍り、警部は大きく身震いする。
「なんだ、なに、笑ってやがる?」
思わず詰め寄ると、新貝はいえ別にと口を閉ざした。だが張りついたような笑みはきえない。ますます薄気味悪くなり、胸倉を掴む。
「なにがおかしい? お前、なんか知ってるのか!」
「なにか……そうですね、少し」
年配の警部は、新貝の持つ不気味な空気に毒され、震えながら身を乗り出す。
逮捕されてから数日間、新貝はこの地下室を出てない。宮田刑事とも、取り調べのときに初めて会い、以来は会っていない。なにを知り様もないはずだ。だがそのときはなぜか信じられた。
こいつは何かを知っている。
「少し、なんだ?」
「言ってもいいんですが、きっと信じませんよ、あなた方は」
「いいから言え!」
「そうですか、では……」
新貝はもともと吊り上がった細い目をさらに細め、本当にいいんですねと芝居がかった前置きをして話し始めた。
「犯人は宮田刑事ではありません、しかし目撃者がいる、お気の毒ですが、それは証明できないでしょう」
「なぜだ、いや、お前は真犯人を知ってるのか?」
「知ってますよ」
「誰だっ?」
「あなた方がお探しの殺人鬼、FOXです」
「はァ?」
意外な答えに警部も思わず首を捻る。その間抜けを見つめる新貝は、これまでとは打って変わり、リラックスした表情で足を組んだ。机の上に片手を置き、右手で口元を覆っているが、その陰で笑っているのがわかる。真剣になる刑事たちをバカにするような、憐れむような、嫌な笑い方だ。
「フォックスはお前だろ、新貝」
ムッとした警部が、睨み返す。だが新貝も動じなかった。
「いかにも、私の通り名はフォックスですが、それはただの仇名だ、あなた方の言うFOXではない、そんな野蛮じゃないですよ」
「バカ言え! お前が自分の邪魔になる人間を幾人も殺ってるのは知ってるんだぞ!」
「それは憶測でしょう? 証拠でもあるんですか?」
「貴様!」
やれやれと、大げさに肩を竦めて見せる仕草が、気に障り、さすがに頭にきた。だが、人をバカにするのもいい加減にしろと怒鳴りかけたところで、新貝が再び口を挟む。
「あなたは私がお嫌いだ、それはよくわかってます、だが今はそんな話をしているときではない、そうでしょう?」
細い目をさらに細め、口元で手を組んだ新貝は、相手の出方を誘うように、エレガントに首を傾げて話した。百戦錬磨の警部も気圧されて口を閉じる。
たしかに、宮田刑事が犯人ではないという話も、真犯人はFOXだという話も、信ぴょう性はともかく気にはなる。本当に宮田が犯人でないなら、警察としても助かる話だ。聞かないわけにはいかなかった。警部は忌々しさを押さえて先を続けろと促す。
すると新貝は満足したように、狐顔でニコリと笑った。
「では続けます……」
警察はFOXを一人の人間と思っている、そもそもそこが間違いだ。FOXは一人でもなければ、人間でもない。FOXに実体などないのだ。
ではなにか? その正体は知れないが、おそらくは後催眠のようなものだと思われる。
目と目を合わすことで、または、特定のキーワードを与えることで、暗示が発動する。操られた本人は、自分でもなぜなのかわからぬうちに凶器を手に入れ、標的を探し出し、殺す。それも、出来得る限り残酷に、手酷い方法で……だが所詮は暗示、本人の意思ではない。だから今回のように、正義感の強い相手だと、失敗する。
宮田の正義感が、FOXの邪悪な念に勝ったのだ。だから被害者は死なず、事件は明るみに出た。
たぶん、宮田は自分がやったと自覚している。理由はわからなくても、やったということだけは覚えている。だから動機以外は素直に自供してくれるだろうし、それで事件は解決するだろう。
だが、真犯人、FOXを捉えない限り、同じような事件はまたすぐ起きる。トカゲのしっぽなど、いくら捕まえても本体が捕まえられなければ、なんの足しにもならないですよと新貝は言った。それが事実だとすれば、たしかにその通りだ。
「宮田刑事はそうとう強い心の持ち主だったのでしょうね、だから、FOXも操り切れなかった、素晴らしい正義感です、称賛されていい」
新貝は取り調べのときと同じく、真正面を見据え、宮田を称えた。だがその様子はそれまでと大きく違う。背もたれによりかかり、足を組んで、笑みさえ浮かべている。己の優位を確信した尊大な態度だ。取り調べに当たった警部も、内心ムカムカいながら、聞き返した。
宮田の無実を晴らせるのは、この男だけなのだ。
「そこまで知っているなら、FOXの居場所も知ってるんじゃないのか? そいつはどこにいる?」
「まさか、私はこの地下室にもう二週間も閉じ込められてるんですよ、それで居場所まで知ってたら神様だ」
「嘘つけ! ……いや、居場所じゃなくてもいい、なにか、そいつを捕まえるヒントはないのか? それぐらいあるんだろ!」
「そうですね、では大ヒントだ、宮田刑事は、ここを出てからどこに行きました?」
「ここを出てから?」
「ええ」
取り調べ中に錯乱して新貝に暴力を振るった宮田は、いったんFOX事件から離された。だがもともとエリートで、将来を期待されていた彼は、本来なら戒告処分となるところ、暫く休めとの通達だけにとどめられた。所謂、自宅謹慎だ。
しかし彼はおとなしく自宅には向かわなかった。
何を思ったのか、正規取調室へ向かい、そこで殺人の容疑で取り調べ中だった男に暴行し、つまみ出されている。そのときも、常軌を逸していたらしい。
そう話すと新貝は、暴行された被疑者の名を聞いた。
「名前? たしか、オウガ……だったかな、ふざけた名だ、おそらく本名じゃないだろ」
聞かれた警部も首を傾げながら答える。
そのときもおかしいとは思ったのだ。宮田はやたらと暴力をふるうタイプではない。出世欲も強かったし、常に自分が他人からどう見られているかを気にしていた。ましてや自分が関係していない事件にわざわざ首を突っ込み、その容疑者を暴行など、するわけがない。
あのときは、新貝《フォックス》の取り調べに疲れ、どうかしていたのだろうと軽く考えていたが、もしかしたら違うのか? ふと思い立ち、顔を上げると、新貝は正解ですと微笑んだ。
「その男、犯人じゃないですよ」
「現行犯だぞ」
「宮田刑事も現行犯でしょう?」
「え……」
その返事に背中が凍り付く。嫌な予感が這い登る。思わず俯くと、頭上から新貝の明解なアンサーが聞こえてきた。
「その事件も同じです、犯人はその男じゃない」
「まさか……」
「FOXですよ」
「そっ……っ」
そんな馬鹿な、とは言えなかった。言えないだけの説得力と、迫真性が、その声にはある。
それに……。
もしも一連の事件の犯人がFOXであるなら、宮田を救えるかもしれない。新貝はFOXを知っている。それを証明できさえすれば、FOXは捕まえられる。警部はそう読んだ。
「それが本当だという証拠は?」
「証拠ですか、そうですね、そう例えば、目撃者の証言などどうでしょう?」
「目撃者なんか……」
「いますよ、一番身近でその事件を見てた目撃者が」
「なんだと? 誰だ?」
「事件の被害者ですよ、彼女、生きてるんでしょう? 意識が戻ったら聞いてみればいい、面白い証言が聞けるはずです」
それはまさに鶴の一声だった。
警部はそれまで半信半疑だったのが嘘のように、新貝の言葉を鵜呑みにし、慌てて取調室を出る。そして意識の戻った被害者、佐藤順子から、逮捕された男とはまるで違う犯人像を聞かされ、愕然とした。
佐藤順子の件は、冤罪の可能性が高い。
その冤罪はFOXが仕掛けたモノらしい。
それを、新貝は知っていた。
新貝を叩けば必ず埃が出る。だが彼もあの若さで暴力団と対等以上に渡り歩いてきた男だ。ただでは話さないだろう。新貝の機嫌を損ねず、美味く話させるようにするには、どうすればいいのか、警部も真剣に考えた。その挙句、本人に聞いたのだ。
「お前はもっと話を知ってる、そうだろ?」
「おや、私を信じるんですか? こんな何の根拠もなさそうな与太話を? あなた方(警察)は何事も証拠でしょう? 証拠がなければ動けないし動く気もないんだ、そうじゃないんですか?」
「遠回しはいい、俺はその話を聞きたいんだ、どうしたら話す気になる?」
「そうですねえ……」
そして新貝は、本気で自分の話を聞き、動く気があるというなら、それを目に見える形で示せと言った。目に見える形とはなんだ? それは自分たち(警察)が、新貝の言葉どおりに動いて見せることだ。多少大げさでもいい、こちらが本気だというパフォーマンスが必要なのだ。
「どうすればいい?」
「では、佐藤順子の件で逮捕された若い男の釈放を」
「なんだと?」
「別に問題ないでしょう? 彼は犯人じゃない、あなた方も、私の話を信じるというならわかるはずです、これは冤罪だ、即時釈放を要求します」
***
オウガの不起訴が決まり、釈放が迫ったその日、矢島はこれを最後にと、再び尋問した。せめて三浦殺しの件だけでも、裏が欲しい。
だが、一時素直に話し始めていたオウガは、なぜか口が重くなった。椅子の背に深く腰を預け、どこか虚ろな瞳で宙を見つめるだけだ。
「佐藤順子さんの件は不起訴だが、三浦の件はまた別だ、あれはお前がやった、そうだな?」
狭い取調室で向かい合い、霞がかかったように濁った目をしたオウガの顔を覗き込む。至近距離で瞳を合わせると、濁りはいっそう深く見えた。返事は返ってこない。
なにを考えているのだろう? 一抹の薄ら寒さを感じながら、矢島はさらに訊ねた。
「お前が自分で言ったんだぞ、三浦を殺したんだろ」
返事をしないオウガの態度に焦れた矢島は、少しきつい言い回しで突っ込む。すると、今の今までだんまりだったオウガも顔を上げた。瞳はまだ濁ったままだ。
「さあ、覚えてないな」
「なにが! いまさら惚けるつもりか? お前は自分が三浦を殺したと認めたはずだ」
「そんなこと言ったか? 俺はただ、殺されて当然だと言っただけじゃなかったか?」
「それは……だが!」
やはりオウガはすっ呆ける。たしかに、話の流れや言い回しから、自供したも同然だが、直接、殺したとは言わなかった。否定されると苦しい。
矢島はそこで、ではどこを攻めるべきかと考えた。 曖昧な言い回しやニュアンスではダメだ。確実に、彼が言った言葉で攻めなければ効かないだろう。なにかないかとよくよく考えて、ようやく思い出した。
FOXだ。
「お前はFOXだ、それは認めるな?」
「そう名乗った覚えはない、俺はオウガ、それ以外のナニモノでもない」
「たしかにそうだ、だが警察内部で騒がれている殺人鬼、FOXの話をしたとき、お前はそれは自分のことだと認めただろ」
「そうだったかな……」
「そうだ、自分がFOXで、本名は沢村銀、そう言った」
「沢村銀……」
「そうだ」
沢村の名をだすと、オウガは少しだけ表情を変えた。俯き加減に視線だけ上げる様子は、追い詰められたときの不良少年のそれと似ている。
やはり彼には、迷いがある。自分のしていることが本当に正しいのかわからなくなってきているのだ。矢島はそう確信したが、当のオウガは、当然という顔で首を振った。
「その名は捨てた」
「だが戸籍上は沢村だろ」
「戸籍なんて意味はないぞ、親が届けなければ登録もされないんだ、この世に無戸籍児が何人いると思う?」
オウガはまるで、自分がそうだとでも言いたげに世間へと毒を吐いた。その言い草が引っかかる。
彼には立派な戸籍があり、休みがちだったとはいえ、学校にも通っていた。両親が殺された事件のあと、行方不明になってはいるが、それまでは普通に生活できていたはずだ。その憎しみがどこから来るのかが今一つピンとこない。
「なに、けっこう役に立つ、名前と戸籍がわかればお前がそれまでどう生きてきたのかが大まかでもわかる、それがわかれば、なぜ罪を犯したのか、その心理が見えてくる」
少し説教じみた言いまわしでそう話すと、オウガはじゃあ当ててみろと言った。
「俺が今日までどう生きてきたか、あんた、わかるのか?」
「いや、それは……だが五年前までのことなら多少はわかるぞ、お前は沢村夫妻の一人息子で、中央区のマンションに両親と三人で住んでた、事件当時は新聞配達のバイトで暮らしを支えてた、なかなか感心な子供だ」
「やはりわかってないな」
「なにが? どこか違うか?」
「違わないさ」
違わないと言いながら、オウガは不愉快そうに矢島を睨んだ。憎まれる理由がわからない。ただその憎悪だけは針のように皮膚に突き刺さった。
なにが違うのか、なにが気に障ったのか、なにを見落としているのか、それがわからないまま、矢島も黙り込む。
それからオウガは一言もしゃべらず、時間だけが過ぎた。そしてとうとう時間切れ、釈放のときとなる。
オウガの持ち物……と言っても、凶器のナイフは返せないので、着ていた服と靴、カーキ色のフード付きコートだけが返却される。オウガは何の感動もなさそうな濁った瞳でそれらを受け取り、立ち上がった。枯れ果てたその姿を、矢島は割り切れない思いで見つめる
取調室を出て、警察署の廊下を通り、表玄関へと歩く短い道のりを、オウガは本当にゆっくりと歩いた。出て行きたくないのかと聞きたくなるくらい、その足取りは重い。
外には、絶望だけが待っている。
彼の背は、そう言いたげに見えた。
なにか言いたいのに言葉が浮かばない。深酒のあとの胸焼けのような、嫌な感覚を引き摺りながら、矢島もそのあとに続いた。
警察署の分厚いガラス戸がすうっと開き、オウガが外へと出て行く。真昼の太陽は頭上高く輝き、外は呆れるくらいの晴天だ。眩しい太陽の光に目を細めながら、離れていくオウガを見つめた。
一瞬……ほんの一瞬、明る過ぎる日の光に、オウガの姿が溶け込むように消えていく幻が見えた。
「おい!」
慌てて声をかけると、オウガはピタリと足を止め、無表情に振り向いた。その無心な表情に、胸が締め付けられる。
助けてくれと、言われている気がした。
だが、どうすれば彼を救えるのか、思い浮かばない。妙に喉が渇き、自分の心臓の音がくっきりと聞こえる。
なにか、言わなければならない。
「オウガ、最後にもう一度だけ、聞かせてくれ」
「なんだ?」
相変わらず無感動にオウガは聞き返す。
おかしい、どうかしている……まさか、あり得ないぞと繰り返しながら、矢島は口を開いた。
「お前はFOXだな?」
「ああ、そうだ」
取調室ではすっ呆けていたというのに、オウガは呆れるくらいあっさりそうだと頷いた。今なら、答えるのかもしれない。
期待で掌に熱い汗が滲み出る。指先は震え、喉はカラカラだ。張り付きそうなくらい乾ききった唇をこじ開け、矢島は核心を訊ねた。
「フィーンは今、どこにいる?」
「たぶん……」
「たぶん?」
「いや、今はわからない、だが、おそらく、すぐ戻ってくる」
「戻る? どこへ?」
「ここへ」
ここ、と言って、オウガは自分の胸を指差した。静かな瞳に青白い炎が宿る。それを見つめる矢島の背には、冷たい汗が流れた。オウガの灯す青く冷たい炎に焼かれ、心臓が凍りつきそうだ。
「お前はナニモンだ?」
「俺はオウガだ」
オウガは表情を変えない。その分だけ、矢島は動揺した。そこにいる青年、オウガの姿が、日の光に透けて見える。これではまるで……。
這い登る嫌な予感を振り払うように、矢島は叫んだ。
「お前は本当にそこにいるのか?」
「いるだろ、見えないのか?」
「見えない! いや、見える……が、見えない」
「どっちなんだ?」
「見えてるが見えない、いや、お前……」
「お前? なんだ?」
自分でも、理不尽で不合理なことを言っているとわかっていたが、抑えきれず矢島は叫んだ。背中に這い登る虫唾が、理性を飛ばす。
「お前! 本当は誰なんだ!」
「はっ」
矢島の叫びに、オウガは虚を突かれたように目を丸くし、息を吐いた。
そして、たっぷりと間を空けてから、静かに答える。
「……FOXだよ」
オウガは、壮絶な瞳でニヤリと笑った。なぜか胸騒ぎがして、矢島も思わず怒鳴り返す。
「そうじゃない! 俺が聞きたいのはお前の……っ!」
お前の正体が知りたいのではない。追い詰め、捉えたいのではない。ただ、真実が知りたいだけだ。知らなければならないと思っただけだ。そう叫びかけた。
だが、オウガは足を止めることなく立ち去り、言いかけた言葉は、虚しく宙に消えた。
なにもかもが気に食わない。全てが上手くいかない。行き詰まり、追い詰められたフィーンは、忌々しく地面を蹴り、天空を見上げた。
嵐にでもなれば、気分も乗るのに生憎の晴天、雲一つない青空で、余計にムカムカする。
オウガが消えれば、全て上手くいくと思っていた。ゼノは自分の言うことに反対はしない。邪魔するのはオウガだけだ。だからオウガを消そうと思った。
だが、その結果、消えたのは、オウガではなく、ゼノだった。
ゼノの消失はフィーンに大きな打撃を与えた。絶対に裏切らない、いなくならないと思い込んでいた存在が消えたのだ。心の平安は崩れ去り、精神は昂るばかりだ。
誰の血でもいい、とにかく血が見たい。誰かを殴りたい。
追い詰められ、切羽詰まったフィーンは、宮田刑事を使い、その欲求を晴らそうとした。だが出来なかったのだ。宮田が言うことを聞かなかった。襲撃は失敗し、宮田は逮捕された。
このままでは自由を失う。仕方なくフィーンは宮田から離れた。
「クソッ!」
霧のように淡く儚く、霧散していこうとする掌を見つめ、忌々しく唸る。一番嫌な手だが、それしかないらしい。
覚悟を決めたフィーンは、幹線道路脇で彼を待った。早く来い、早く来いと待つ時間は長い。じりじりと消えてゆく掌に焦りを覚えながらただひたすらに待つ。そして小指が消えかける頃、彼は現れた。銀杏並木が続く道を無表情に歩いて来る。
自分の勝ちを確信し、フィーンはニタリと笑いを噛み殺す。だが、彼に声をかけようとした瞬間、他方向から別の人間の声がした。
「ゼノ!」
話しかけられた少年は不思議そうに口を開き、呆然とした瞳を向ける。そして、自分に話しかける相手が誰なのか、思考を巡らすように暫く見つめ、だいぶ経ってから、ようやく答えた。
「草薙、さん……?」
驚いたように呟くゼノに、草薙は泣きそうな目をして駆け寄った。ゼノがいなくなったのは、僅か三週間前だが、それが悠久の過去に思える。
もう会えないと思っていた。だから尚更、この偶然の再会が嬉しい。
「よかった、もう会えないと思ってたんだ」
「俺が、ゼノに見えるのか」
「なんだよ、まだ怒ってるのか? 悪かった、謝るよ」
「別に、怒ってやしない」
「じゃあなんで出て行ったんだ、気に障ったからじゃないのか?」
ゼノの表情は、怒っていないというわりに固く、冷たかった。
「(ゼノが)なぜ出て行ったのか、教えてやろうか?」
芝居がかった仕草でゼノは聞き返す。草薙は教えてくれと即答した。いつでも真剣で大真面目、それがこの若者の短所でもあり、長所でもある。
真面目に突っ込まれれば、突っ込まれたほうも真面目に答えなければいけない気分になる。知らず知らずに本音が出る。思わず言ってはならない真実を口にしてしまいそうで、醜い自身を晒してしまいそうで怖くなるのだ。それはゼノも例外ではない。
「あんたに、見られたくないからさ」
「え……?」
見られたくないから逃げた。
憶測だが、たぶんそれは正解だ。大人は信じないといいながら、ゼノは草薙を信じた。だからこそ彼の言い分を聞き、同居の提案に応じた。その彼に背かれる、それが怖いのだ。
自分もそうだが、ゼノは特にそうかもしれない。侵入を許し、心を開いた相手に嫌われ、恐怖されるのが怖い。信じて愛して、挙句捨てられるのが怖いのだ。だから逃げた。それが正解だ。
「全てを知ったあんたに、見放されるのが怖かったんだよ」
「え、あの……なんで」
それまでとは全然違うゼノの態度、物言いに、草薙も戸惑う。見放されたと思ったのは、自分のほうだ。
無理強いはしない。言いたくないだろうとわかっていることはしつこく探らない。嫌がることはしない。それが最初からの約束だった。それを破ったのは自分のほうだ。信じられないと見限られても仕方ないと思っていた。
全面的に自分が悪い。だが心配だ。
だからせめて、謝りたい。もしまた会えるのなら、きちんと謝り、また一緒に暮らしてくれないかと頼むつもりでいた。
「本当に心配したんだ、俺が悪かった、もうキミが嫌がることはしないから、帰ってきてくれないか?」
「どうして……」
「心配だから……乗りかかった船だし、というか、ほんとに」
「なんの得にもならないぞ」
「得をしようなんて思ってないよ」
「だろうな」
「え?」
「いや、何でもない」
草薙の真剣さと実直に、心が揺れる。全て話してしまいたくなる。
だがその結果、何がどう転ぶかは、予想もつかない。
ただ一つ言えることは、このまま彼を突き放しても、ゼノは戻って来ないということだ。
ゼノの消失は自分らの消失にもつながる。そうさせないためには、彼を救うためには、どうずればいいのか、そこを考えたとき、草薙は必要なパーツだと思えた。
だがことは重大だ。そう簡単には信じられない。
「あんたはゼノが好きなのか?」
思わず訊ねた質問に、草薙は少し戸惑った表情で頷いた。
「は? や、まあ、そりゃ当然……いや、別に変な意味じゃないぞ」
「わかってる」
「……なら、いいんだけど」
「帰ってきて、くれるかい?」
「そうだな……とりあえず、あんたの家に行こうか、詳しい話はそのあとだ」
「詳しい?」
「ああ、いろいろとな、あんたには話しとかなきゃならないと思う」
「いろいろって、なにを……?」
「それはあとで、ゆっくりと話そう」
大人びた表情のゼノは、顔を動かさず、視線だけであたりを覗いながら話した。時折小さな肩がピクリと震え、なにかを警戒しているように見える。
「なに、なんかあるのか?」
最初会ったときも、彼はやくざ者らしき男たちとトラブルを起こしていたようだった。結局あのときの理由も聞かせてもらっていないが、家に保護していたときも傷を負ってくることが多かった。
もしかしたらあれは終わっていなかったのではないか? あのときの連中は全部死んでいるが、他に仲間がいないとも限らない。
もしゼノが何らかのトラブルに巻き込まれ、やくざ者に追われているとしたら、家になかなか帰って来なかったのも、自分を巻き込むまいとしてのことだったのかも……。
思い描いた想像が正解のような気がして、草薙は息を飲んだ。今も何者かがこの子を狙っているのかもしれないと思えば背筋も寒くなる。
「追われてるとか?」
思わず訊ねると、ゼノは仔細ありげな目をしてそっけなく、別にと答えた。だがさらに突っ込むと、今度は目を伏せ、少し低くなった声で、あとで話すと答え、先に立って歩き出す。それが正解なのだと判断した草薙も後を追った。今度は彼も話してくれるだろう。
全ては、家に帰ってからだ。
そこから草薙の家までは電車を乗り継ぎ、駅からも少し歩く。その間ゼノはずっと黙っていたが、電車を降り際、草薙の存在を無視するかのように、前方を見つめたまま、急に口をきいた。
「あんた、なぜあそこにいた?」
「え?」
さっきゼノを見かけ、声をかけたのは、同じ都内ではあるが、草薙のアパートとはかなり離れている。バイト先からも遠い。それなのになぜと言うのだろう。静かながらも、有無を言わせない威圧感のある問いに、ドキリとした。
ここで返事を間違えてはいけない。間違えれば彼はまた自分から離れてしまうだろう。離れたら最後、今度こそ見つけられなくなる。
そう考えた草薙は、全てを正直に話すことにした。相手の誠意を得たいなら、こちらがまず誠意を尽くさなければならない。
「実はね、重田さんから聞いたんだ」
「重田? 奴がなんと?」
「うん、僕がキミを探してるって話したら、あのへんにいるかもしれないって」
東京都渋谷区、渋谷駅を挟んで、ハチ公広場と点対称になるあたり、有態に言えば渋谷警察署付近だ。重田は、その日、そのあたりにゼノがいるかもしれないと草薙に話した。
彼がなぜそんなことを知っているのかわからないが、それを頼りに捜し歩き、偶然出会えた。そう話すと、ゼノはさっきより少し視線を落とし、ポケットに両手を突っ込んだまま、早足で歩いた。
「どうしたんだ、なにか引っかかる?」
「やはり殺しておくべきだったな」
「え?」
物騒なセリフにドキリといて、思わず前を行くゼノの腕を引く。すると彼は静かに振り返り、子供とも思えない力で草薙の手を外した。その目は憎しみと軽蔑に満ち、気のせいか青く光って見えた。
「あの刑事に俺たちの情報を流したのは重田ってことさ、いや、最初からつるんでたのかもな」
「なに、情報? なんの話なんだ」
「……なんでもない」
それきりゼノはなにも言わなくなった。黙ったまま、先へ先へと急ぐ。また失敗したかなと不安になる。
だが彼は話してくれると言った。だから信じようと思い、草薙は後を追った。
***
家につくと、ゼノは一変して所在なげな顔であたりをきょろきょろと見回した。どこに居ればいいのかわからない。そんな感じだ。
「どうした? 座っていいんだぞ」
彼がいつも座っていた長椅子を指して話すと、ゼノは今気が付いたというように小さく頷き、恐る恐ると腰かける。まるで借りてきた猫だ。
彼は、こんなに他人行儀だったろうか?
横柄な態度でも、冷たい対応をしていたとしても、これまでのゼノには、こちらに対する親しみというか、一種甘えに似た身内感があった。憎まれ口もそっけない態度も、気を許しているからこそのもののように見えた。だが、今の彼にはそれがない。初めて会った他人のようだ。いや、もともと他人だが、それにしても……。
なんとなく妙だなと思った。
思ったとたん、本当に彼が別人に見えてきた。
浅黒い肌。
薄く灰色っぽく見える髪。
緑がかった色の薄い瞳。
筋肉の発達した腕。
どんより曇った生気のない表情。
全身から感じられる異常なまでの警戒心。
そのすべてがそれまでのゼノのイメージからかけ離れている。もはや別人。逆に、よくこれで彼をゼノだと確信できたものだと思いたくなる。
それほど、今、目の前にいる彼は他人だ。
「キミは……誰だ?」
思わず口に出た。
普通なら、これまでのゼノなら、なに言ってんですかと半分呆れたように肩を竦めて答えたはずだ。だが今ここにいる彼は、真顔のまま、黙って見返すだけだ。背中に冷たいムズ痒さが奔る。
「ゼノ……じゃ、ない、のか?」
絞り出すように訊ねた。すると彼は、真正面から草薙を見つめ、答える。
「ようやく気づいたか」
「気づいたって……なにに?」
静かな瞳で自分を見返し、熱のない言葉で淡々と答える目の前の子供に、草薙は戦慄した。姿かたちはたしかにゼノなのに、違う。どこが違うと聞かれれば上手くは答えられないが、違う。醸し出す空気は完全に別人だ。だがまさかそうとも言えない。在り得ない。
自分で導き出した答えが信じられず、問い返した。するとゼノは、自分の生死にさえ興味なさそうな冷たく乾いた声で答えた。
「今、自分で言っただろ」
「自分で? え、や、ゼノ……」
「ゼノじゃない」
「え……」
「俺はゼノじゃない」
ゼノの顔をした見知らぬ子供は、静かに、だがはっきりと、自分はゼノではないと言った。その答えに草薙が動揺する。しかし彼はさほど表情を変えず、真顔のまま淡々と話を続けた。
「ゼノはあんたを気に入っていた、いや、懐いていたと言ってもいい」
「え、や、そんな」
懐かれていた覚えはない。
草薙はそう思ったが、目の前の子供はそうだと頷く。
「暗黙の了解で、俺たちの中で意見が割れたとき、最終判断はゼノに任せるというのがあった」
「うん?」
「ゼノはあんたを信頼していた、俺もあんたを信じる、だからあんたも、ちゃんと聞かなきゃいけない」
「よくわからないけど、わかったよ、ちゃんと聞く、話してくれ」
俺たちとは誰と誰のことだろうと思いつつ、相槌を打った。なにがどうなっているのかはわからないが、これは聞かなければならない話だと思ったからだ。それをある種の覚悟と受け取ったのか、子供はゆっくり話し始める。
「俺たちの出会いは五年前、季節は夏だった」
お腹、空いたな……。
目を覚ますと真っ先に考える。というより、腹の痛みで目が覚めると言ったほうが正しいかもしれない。
胃の中になにも入っていないので、腹が空き過ぎて痛むのだ。
家にはいつも食べるものがない。たまにはなにか食事にありつけることもあるが、たいていの場合、母か父が全部食べてしまう。夕べも、鳥の唐揚げを頬張る父親に、お腹が空いたと訴えたが、意地汚い奴だと罵られ、殴られただけだった。
仕方なく幼い妹と二人、腹を空かせたまま眠り込んだ。そして次の朝、埃だらけで薄汚れた床の上に、珈琲の染みがあるのを見つけた。
おそらく夕べのうちに、父か母が零したのだろう。腹が減っていた晴《はる》は、床に這い蹲ってその染みを舐めた。
甘い。
珈琲に含まれた僅かな砂糖の甘さが、乾いた舌にチリチリと甘味を伝えた。
僅かな甘味を得ると、今度は喉の渇きに気づく。いつも不機嫌な父は、些細なことで怒り狂い、晴を殴る。昨日もなにが気に障ったのか、機嫌が悪く、お腹が空いたと言ったら殴られた。平謝りでその場を逃れたが、父の機嫌は悪いままだった。
姿を見られたらまた殴られる。危険を感じた晴は、小さな妹、ヒナを連れ、押入れの中に隠れた。それから朝までずっと押入れの中だ。空腹も限界だった。
「ヒナ、ヒナ、来てごらん」
妹のヒナは、五歳、普通なら幼稚園に通っている歳で、言葉も達者になる頃だ。だがヒナは未だ片言しか喋れない。声も小さい。こちらの言っていることはわかるので、知能が遅れているというわけではないだろう。おそらく、いつも母親に、声を出すな、静かにしていろと言われているせいだ。喋る機会がないから喋れない。
「おいで、いいものがあるよ」
「んまんま?」
拙い足取りで、ほんの数歩歩いたヒナは、すぐ床に尻をついた。
彼女は足の力が弱く、長い時間歩けない。両手を床につき、座り込んだ姿勢のまま、ずりずりと躄《いざ》る。そのほうが早い。殆ど歩けないヒナは、躄《いざ》ることでしか移動出来ない。ようやく近くへ来た彼女に、晴は茶色い染みを示した。
「そう、まんまだよ、甘いよ、舐めてみて」
「ん、ん、ん……んまんま」
ゴミも泥も一緒くたにして、ヒナはその染みを舐めた。
零れてから半日経った珈琲の染みだ、味などわかるはずがない。そも、それはただの汚れだ。だが彼女の干乾びた舌は、その甘味を感じ取ったのだろう。夢中でそれを舐め続ける。
「美味しい? ヒナ、甘い?」
「んまんま、ま」
晴は妹が床を舐めるのを、傍に屈んでジッと見ていた。鳩尾のあたりが、きりきりと痛む。痛みと吐き気で胸が焼けつきそうだ。なにか口に入れたい。お腹に入れたい。せめて味だけでも感じたい。だが僅かな珈琲の染みは、全部ヒナが舐めてしまった。
「にいに、んまんま」
「美味しかった? 良かったね」
味がしなくなった床から離れ、ヒナが顔を上げる。晴は小さな妹の痩せこけた頬を、そっと撫でた。
彼女はまだ物足りないのだろう、もっと甘味をくれと晴の袖を掴む。その手はかさかさで、栄養が足らず生えそろうことができなかった髪は薄い。だが瞳は大きくて、可愛らしかった。小さな顔に、目だけがあるような、アンバランスな顔だが、晴は可愛いと思った。母親を別にすれば、世界で一番可愛い。と言っても、実際は世界なんて知らないし、あまり外には出たことがないので、世界がどんなものなのかもわからない。だがきっとそうに違いないと思っていた。
「んま、ま、にいに、ま、ま」
小さなヒナが空腹を訴える。しかし目に付く場所に食べ物はない。どこかに砂糖があったハズだと思ったが、置き場がわからない。
せめて水が欲しい。
水分を求め、晴は流し台に向かった。食卓の椅子を引っ張ってきてそれに乗り、手を伸ばすと、ようやく蛇口まで手が届く。キュッと捻ると、勢いよく水が流れ出した。
晴は身を乗り出し、それを夢中で飲んだ。いくら飲んでも水は水。腹の足しにはならないが、渇きは癒せる。鳩尾の痛みを癒すやため、たらふく飲んだ。そうして自分の腹が膨れるころ、椅子の傍で掴まり立ちしているヒナを思い出す。
「ごめん、ヒナ」
ヒナにも水を飲ませてやらなければと考えた晴は、食器棚から硝子のコップ取り出し、それに水を満たした。そして床で待つ妹の傍にしゃがみこむ。
「ほら水だよ、ヒナ」
両手でしっかりとコップを握り、妹の小さな口元に宛がう。彼女はほぼ一日ぶりの水を、ぺちゃぺちゃと舐め、啜った。ごくごくと喉を鳴らして飲むには、留飲する力が足らないのだ。
栄養不良で標準よりずっと小さなヒナは、目もよく見えていないし、手の力も弱い。水の入ったコップを持たせると、落としてしまう。そうなると、水は飲めなくなるし、床を濡らすことになる。そんなところを父親に見つかったら一大事だ。大きな手で、気絶するまで殴られる。
自分はまだいい。だが、小さなヒナが蹴り回されるのだけは見たくない。だから慎重に慎重にと気を使い、万が一にもコップを落とさないように気を張った。
しかし、そういうときに限って、悪いことは起きるものだ。奥の部屋で眠っていた父親が起きたのだろう、寝室のドアが開く音がした。
父親が来る。また殴られる。
ギクリとした晴は、思わず手の力を緩める。その途端、水を求めるヒナの勢いに押され、コップを取り落とした。重力に負け、コップは床に落ちる。割れることはなかったが、床は水浸しになった。
「あー、ああー」
水が零れ、飲めなくなったことで、ヒナが泣く。その声と、コップの落ちる音を聞きつけ、父親がなにか怒鳴り散らしながら台所へやってくる。晴は歩けない妹の手をギュッと握った。
「ヒナ、おいで!」
床に零れた水や、落ちたコップを、父親が来る前に片付けるのは無理だ。責められるのは、避けられない。それならせめて、ヒナだけでも助けたい。咄嗟にそう考えた晴は、嫌がる妹の手を握り、半ば引き摺るようにして台所の収納戸棚を開けた。そして鍋やまな板が収められている収納庫の小さな隙間に、妹の身体を押し込む。
「鬼が来る、ヒナはいい子でそこにいな」
見つかったらぶたれるから出てきちゃダメだ、声も出すなと念を押し、急いで収納庫の戸を閉めた。それとほぼ同時に、台所のドアが開き、父親が現れる。
「晴か? お前、そこで何してる!」
水浸しの床と、転がるコップ。それに怯えた晴を睨み、父親が怒鳴る。背後にいるヒナに、気づかれちゃダメだ。晴は、ドキドキしながら首を振った。
「なにも……なにもしてないよ、お父さん」
小さなヒナがぶたれるのを見るのは嫌だ。だが自分もぶたれたくない。晴は必死でなんでもないと言い張った。だが床は水浸しだ。父親はそれに気づき、目を吊り上げた。
「これはお前の仕業か? そうだろ? 誤魔化しやがって、この極潰しが!」
「ごめんなさい、お父さん、ごめんなさい!」
怒鳴り声を上げた父親が殴りかる。晴は咄嗟に頭を抱え、身体を丸めて蹲った。小さく丸まった晴を、父親はムキになって殴りつける。なかなか打撃を与えられないので、意地になり、今度は蹴りつけてきた。大きな足で横腹を蹴られ、晴は床に転がった。ひっくり返った晴を、父親は容赦なく蹴りつけてくる。晴は命の危険に怯えながらも、必死に謝った。
「ごめんなさい! ごめんなさい! もうしません、ごめんなさい!」
――喉が渇いてたんだ、だから水を飲んだ、それのどこが悪い!
――子供を罵ることしか出来ないのか、能無しめ!
頭の隅で、高圧的な声がする。
父の暴力が止まなかったとき、腹が空き過ぎたとき、詰られた時、ナニモノかの声が、そんな奴、殺してしまえと囁いた。そのたび晴は、その声を振り切ろうと、心の中で叫び返す。
お父さんが怒るのは、僕が悪い子だからだ。お父さんが悪いんじゃない、お父さんが悪いんじゃない!
「ごめんなさい! ごめんなさい、許してください、もうしません、ごめんなさい!」
「うるせえ! 本当に悪いと思うならさっさと死ねよ!」
何度謝っても、父親の怒りは治まらなかった。彼の耳には晴の口から出る言葉が全て、自分への非難、嘲りに聞えるのだろう。謝れば謝るほど、何か言えば言うほど、怒り狂った。
「お前なんか生まれて来なきゃよかったんだよ!」
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
身体を丸め、蹲り、晴はただ、父親の気が治まるのを待った。逆らえば長引く、ジッとしていればわりと早く終わる。少しの間、耐えていればいいんだと目を閉じ続ける。
閉じられた瞼の裏に、己の死と、ヒナの顔が浮かんだ。
殴られるのが嫌なら、逃げればいい。外へ出て、助けを求めればいい。だが、それは出来なかった。
別に監禁されているわけではない、出ようと思えばいつでも出られる。しかし、出られない。
それは晴が幽霊だからだ。
晴が生まれたとき、家は今よりさらに貧乏で、晴の母は誰にも内緒で晴を生み落とした。出生届も出されていない。家には子供などいないことになっている。
いないはずの子供にちょろちょろされると迷惑だ。だから勝手に外に出るなと、日頃から煩く言いつけられていた。それを破ることは出来ない。
「お前が悪いんだ、全部お前が悪いんだ、悪魔め! ふざけんじゃねえぞ!」
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
止むことのない激しい暴行に、晴は蹲る。自分はこのまま死ぬのかもしれないと思った。
死にたくないなら家を出るしかない。頭ではわかっていたが、それも出来ない。自分が逃げれば妹は一人になってしまう。
彼女は満足に歩けない。口も回らない。目もほとんど見えていない。とても外には出られない。ヒナをおいては行けない。
彼女を護るために、自分は生きなければならない。それが晴の枷だった。
「死ねよ! さっさと死ね! 死んじまえ!」
罵りとしても低俗な言葉を吐き散らしながら、父親は晴を殴り、蹴り回し続ける。身体を丸め、蹲った晴は、ただ父親の気が治まるのを待ち続け、やがて気を失った。
銀《ぎん》の父、俊夫《としお》は、小さな畳店に勤務する畳職人だった。
俊夫は当時、店で事務のアルバイトをしていた女性、瞳子《とうこ》に一目惚れし、積極的に求愛を繰り返した。それに押される形で瞳子も絆され、二人は同棲を始め、彼女が妊娠したのを機に結婚、銀が生まれる。
始めは幸せだった。
だが妻の瞳子は派手好きの遊び好き、二人の暮らしはすぐに行き詰まった。
資産家の一人娘として生まれた瞳子は、事務の仕事を始めるまで一度も働いたことがなかったらしい。元々働くことが好きではなかったのだろう。銀を生んだあとは専業主婦に納まり、いっさい働かなくなった。美しいが世間知らずで浪費家な彼女は毎日毎日呆れるほど金を使い、暮らしは忽ち困窮した。
このままではダメだ。俊夫は家計の管理を自分でやると決めた。そして改めて見た預金通帳の残高がゼロになっていることに驚く。
毎日使っている金はどこから出ているのか、問い質すと、瞳子はカード払いだと答えた。
ほどなく家にはカード会社からの督促状が毎日のように届き、元々困窮していた家計はますます圧迫される。
どうにもやりくりができなくなった俊夫は疲れ果て、瞳子の親に資金の援助を申し入れた。瞳子の両親は、娘可愛さで援助を了承したが、それも二度、三度となると融通も効かなくなって来る。
義父たちは、借金をすべて俊夫の稼ぎが悪いからだと決め付け、その度に責めた。
冗談じゃない、あんたらの娘がこさえた借金だと怒鳴りたかったが、大金を出してもらう身としては、そんなことは言えない。鬱積は溜まり続け、借金は何とかなっても、神経が持たなくなってくる。俊夫は徐々に追い込まれていった。
どうせ働いても雀の涙、瞳子の贅沢で雪だるま式に作られる借金も、本人の実家が清算してくれるのだ。なにもちまちま働く必要はないと自棄になった俊夫は、仕事も辞め、ふらふらと遊び呆けるようになる。
しかしそれから半年後、堪忍袋の緒が切れたのか、瞳子の両親は娘夫婦に絶縁を言い渡した。
一切の援助がなくなり、食料も尽きる。仕事はない、金もない。あるのは借金だけという生活になり、暮らしは荒れた。
焦った俊夫は日雇いのバイトを始めたが、それでも瞳子の浪費は止まない。
いくら言い聞かせても、自由にさせれば彼女はすぐ金を使う。まさか縛っておくわけにも行かず、どうにもならなくなった。
二人の間に生まれた息子、銀は、そのころ十歳になろうとしていた。子供一人といえど、生きていれば食い扶ちだ。食べさせないわけにもいかないし、学費もかかる。瞳子一人養うので手一杯のこの家で、子供まで面倒見る余力はない。この子が死んでくれれば、その分、金が浮く。それだけでもだいぶ違う。そんな考えが頭を過ぎった。
時は冬、部屋にはストーブがあり、灯油の入ったポリタンクがある。
子供は悪戯好きだ。親のいない間に、好奇心にかられ、マッチ遊びを始めても、なんらおかしくはない。何度も火をつけては消し、皿の上に燃え滓になったマッチを並べる。そんなくだらない遊びだ。
そして、何度目かのマッチを擦った時、手元が狂い、火のついたマッチが落ちる。忽ち火は燃え広がり、子供はめでたく焼死。
子供を焼いた火は、燃え広がり、家も焼け落ちる。家が焼ければ、火災保険が下りる。厄介者が消え、金も手に入る。金が手に入れば、瞳子も戻ってくるかもしれない。
浅はかに、非情に、なんの呵責《かしゃく》もなくそう結論した俊夫は、ポケットからハンカチを取り出した。それに僅か、灯油を垂らし、子供の懐に押し込む。そしてストーブの横から持ち出して来たマッチを擦った。
ポッと小さな炎があがり、気分が高揚する。昂った気分のまま、押し込んだハンカチに火をつける……と同時に、部屋の戸が開き、瞳子が帰って来た。
「きゃあっ!」
部屋に入るなり、目の前に燃え上がる炎を見つけ、瞳子は反射的に叫び声を上げた。俊夫も慌てて消火に回る。だが慌ててしまい、全てにもたつく。火が消えたのは数分後のことだった。。
***
最初の計画が破綻したことで、俊夫も直接銀を殺すことは諦めた。だが、事態はずっと悪くなった。
瞳子は、俊夫が銀を焼き殺そうとしたとヒステリックに喚き、そのうち私も殺す気でしょうと叫ぶ。あれは事故だと言い訳をしたが聞かず、殺人鬼のいる家なんかに居られないわと、家には殆ど戻らなくなった。
自棄になった俊夫は、日雇いの仕事で得た金を、全部酒に変えて飲んだくれる。
母親は出て行く、父親は飲んだくれ、その狭間で、一人取り残された銀は途方に暮れた。両親の無関心は幼い銀にとって死活問題だ。
それまでも父親との仲はそう良くはなかったが、母親との関係は良好だった。
母親は銀の可愛らしく整った顔と、ふっくらした柔らかそうな頬がお気に入りで、お前はいい子、可愛い子と、まるでペットのように抱きしめた。だがそれは自分に似合いのブランド物を愛でるのと同じ行為だ。お気に入りの顔に大きなケロイド痕が張り付いた途端、彼女は驚くほど無関心になった。
両親に見捨てられた銀は、その日食べる物にも困るようになった。そこで銀の境遇に同情してくれた新聞屋の男に無理を言い、チラシ折込などの雑用をする代わりにと、僅かばかりの金を得て、それで食い繋ぐ。
だが困るのは食事だけではない。銀の住む家は都内の高層マンションで、しかも賃貸だ。家賃も決して安くはない。その上都会のど真ん中、電気、ガス、水道と、光熱費だってバカにはならない。
必要に迫られた銀は、中学に入学する頃には新聞配達や集金業務までやるようになり、家賃も光熱費も自分の食費も全てそれで賄うようになった。おかげで学校へは殆ど行かれない。当然友だちは一人もいなかった。
友達がいない理由はそれだけではない。銀の顔半面には、醜く引き攣れ、青黒くなった火傷の痕があり、それを気味悪がって誰も近づいては来ないのだ。
最初は、それを淋しいと思ったが、すぐに慣れた。
友だちなどいらない。
ただひたすらに金を稼ぎ、食い繋ぐ。
そんな銀を、父、俊夫は、可愛げのない奴と罵り、銀の稼いだ金で暮らせているにもかかわらず、生意気だ、お前は親をバカにしてるんだろうと怒鳴りつけた。だが、そんなことにかまってはいられない。どうでもいい。僕を嫌いなら嫌いでいい、好かれようとは思ってない。そう自分に言い聞かせ、懸命に心を閉ざした。
そんなある日のこと、収入を上げるため、自主的に新規開拓も行っていた銀は、いつもより少しだけ足を伸ばし、隣町まで歩いた。
新聞にもいろいろあり、銀の店ではスポーツ新聞や、普通の新聞の他に、女性向けや子供新聞なども取り扱っていた。それぞれの読者層に合わせ、ファッションや芸能、子ども向けなら有名私立小学校や中学の入試問題、その対策なども掲載し、購買欲をそそっている。そこでその家に適した新聞を勧めるため、各家庭の収入、暮らしぶり、家族構成などを調べていた。そして行き当たったのがその貸家だ。
その家には若夫婦が二人だけで住んでいるとのことだが、どうも夫婦だけでなく、子供もいるようなのだ。
夫らしき男がいるときは感じないが、妻が一人で家にいるときや、妻の気配もないとき、そっと近づくと薄い壁越しに子供の泣き声が聞える。その声は、子供というよりは仔猫のような感じで、小さく弱々しかった。
近所で聞いてみても、その家に子供はないと言うが、確かに聞える。
どうせ他人事、気にしないで放りだしておいても良かったのだが、声の弱々しさが気になった。
そこで、夫婦共に留守らしいと判断したある夏の夕方、その泣き声に話しかけてみた。
貸家には、車が一台停められる程度の小さな前庭と、物干しなどをするためのスペースか、同じ位の広さの裏庭があった。裏庭の後ろは雑木林で、その境にはキッチリと茶の木が植わっている。安い賃貸にしてはいい感じだ。
こんなところを誰かに見られたら泥棒扱いを受けそうだなとドキドキしながら、小さな物音と泣き声が聞える壁に張り付く。
「誰かいるの?」
小声で話しかけてみた。その途端、物音と声はピタリと止む。どうも警戒しているようだ。
銀は根気強く話しかけ、なにか困ったことがあるのかと聞いた。すると何度目かの問いに、家の中から遠慮がちな返事がかえって来た。
「なにか、食べるもの、持ってないですか?」
「え?」
「妹が、お腹を空かせてるんです、泣くなって言ってもぐずっちゃって……煩くしてごめんなさい」
それは自身もまだ幼そうな子供の声だった。話を聞く限り、兄のほうは小さいに合わず、礼儀正しい。こんな幼い兄妹が、両親の留守に物乞いをする。それはよほどのことだ。
自分より不幸な状況の子供がいる。その事実に衝撃を受けた銀は、その日もらったばかりの給料袋を開けた。
「ここ、開けて」
寄りかかった部屋の小さな窓を叩き話すと、窓はほんの少し開いた。そこから中を覗きこむ。僅かな隙間から見える部屋は散らかり放題で、腐臭と熱気が漂っていた。
これが人の住む家か?
自分の家もあまり綺麗ではないが、この比ではない。あまりの酷さに心臓が押し潰されそうな衝撃を受けた銀は、胸が痛くなるような動悸を抑え、千円札を握り締めた。
「これ、あげるから、なんか買って食べな」
だが、差し入れた金を、中の子供は受け取らなかった。自分たちは外に出られない。だから買い物にはいけないんだと答える。外に出られないとは、どういう状況なのだろうかと考えると、恐ろしさで背筋がゾッとした。
自分もたいがい酷い暮らしをしていると思っていたが、それどころではない。自分は外に出られるし働ける。暮らしは大変だし、仕事も辛いが、家にはエアコンもあるし、食うにも困らない。自分はまだ幸せだったんだと気づき、なんの謂われなく罪悪感さえ覚えた。背中には脂汗が滲み、札を握った手も震える。辺りには真夏の熱風が吹き抜け、滲んだ汗は止まらない。
「ちょっと待ってて」
風の音にはっと我に帰った銀は、子供にそういい残し、近くのコンビニへと走った。そこでおにぎりとペットボトルの飲み物を買い込み、急いで戻る。そして細く開けられた窓からそれを渡した。子供はありがとうとそれを受け取ったが、外の人に会っていると知られたら殴られるからごめんなさいとすぐに窓を閉じた。
この子らの存在は世間に秘密なのだ。
だがでは、誰がこの子らを心配し、面倒を見るのだろう? 放っておいたら死ぬんじゃないか?
テレビのニュースでは、子供の虐待死や、家庭内事故死などがちょくちょく報じられている。この子らも、いつかそうなる。きっと、それほど遠くない未来に……。
「また来るよ、妹さんの面倒見るの、大変だろうけど、キミも、元気でね」
自分で想像した結末にドキドキしながら、それだけを言い残し、銀は逃げるようにその場を離れた。
帰宅すると、今度は、いつも不機嫌な父親に、帰りが遅いと殴られた。彼はその日が銀の給料日と知っていて、集ろうと考えていたらしい。殴り倒した銀から給料袋を取り上げる。
「なにするの! 返してよ!」
「うるせえな、子供は金なんか持つもんじゃねよ、はいどうぞと親に渡しとくもんだぜ」
「お父さん、渡したら全部使っちゃうじゃないか!」
「うるせえっつってんだろ! 金は使う為にあんだよ!」
「ダメだってば! 家賃とか電気代とかあるんだから、返して!」
「しつけえな、ちっと借りるだけだ、返すよ!」
父親は、給料袋から札を数枚取り出し、これだけあれば足りるだろと残りを投げ返す。拾い上げた中味は、半分以下になっていた。これでは家賃は払えても、光熱費が出ない。足りないよと怒鳴り返し、少しは戻してもらったが、食費はいつもの半分になった。
「お父さん、最低だ……」
「あ? なんだって?」
「……なんでもない」
言っても無駄だ。反抗すれば余計に怒らせるだけでいいことはない。咄嗟にそう思った銀は口を噤んだ。だがそれも気に喰わなかったのだろう。父親はそれが親を見る目か、化け物めと激昂し、殴りかかってきた。
その頃すでに父を越すほど背が高くなっていた銀は、自分が本気で抵抗すれば父を負かすことも出来るとわかっていたがそれはしたくなかった。子供にやり返されて負けては父だって立場がないだろう。どんな人間でも子供にとっては親だ。親には立派であってほしい。尊敬できる人であって欲しかった。
だが、子の心、親知らず、それからも父親は、銀の様子を監視し、給料日と見ればその金を毟り取る。自由になる金は殆ど手元に残らず、銀も自分が生きていくだけで精一杯になった。
そしていつしか、心にかかっていた幼い兄妹のことを忘れた。
金を稼いではその殆どを父親に取られるという生活は、銀の気力を剥ぎ取っていく。救いは、金を得た事で、余裕が出来たせいか、父親も少しは働くようになり、それに伴って母親も家に戻る日が多くなってきたことだ。
学校に行けないことや、仕事が大変で身体がきついということを覗けば、一見平和な日々が続き、それは銀の心身を麻痺させた。
自分さえ我慢していれば家は平和だ。父も働くし、母も家に戻る日が多くなる。だからこれで良いんだと、ただひたすらに働く。
父も母も喜んでくれている。自分たちは上手くやっている。
そう思い込もうとした。
――おにいちゃん。
夢の中で、自分を呼ぶヒナの声がした。そっと目を開け、声のするほうを見ると、そこには妹の可愛らしい顔があった。
髪もきちんと生え揃い、おかっぱ頭にピンク色の小さなリボンをしている。服もリボンとお揃いのベビーピンクで、手には小さなぬいぐるみを持っていた。いつだか部屋に放り出してあった雑誌に載っていた、小振りのテディベアだ。ぬいぐるみのくせに、ヒナと同じデザインの服をつけている。
「ヒナ……どうしたの? 可愛いね」
問いかけてもヒナは答えず、ただニコニコと笑っていた。酷く身体がだるかったが、ヒナが幸せそうに笑うので、晴も嬉しくなった。
無理して起き上がろうとすると、彼女はそれを制し、小さなポシェットからパステルカラーに輝く飴玉《あめだま》を取り出す。
「はい」
「どうしたの、これ、くれるの?」
「うん、あげる」
飴玉なんて、ずいぶん久しぶりに見た。うちにお菓子があるなんて、いったいどこから見つけてきたのだろう。もしかしたらお母さんがくれたのかな? でも、そんなことあるかな? 不思議に思いながらも、晴は差し出された飴玉をヒナの手元に押し返した。
「僕はいいよ、ヒナ食べな?」
「いい、ヒナたくさんもってるから、おにいちゃんたべて」
「でも……」
「おにいちゃん、いつもヒナをまもってくれて、ありがとうね」
「当たり前だよ、僕はお兄ちゃんなんだから」
「ヒナ、おにいちゃんのいもうとでよかった、おにいちゃん、だいすき」
だからあげると、ヒナは飴玉を差し出す。不思議な虹色をした小さな飴は、硝子細工のビー玉のように、きらきら光って見えた。恐る恐る、その珠を手に取る。
「ありがとう」
「どういたしまして」
晴に飴玉を手渡したヒナは、大人びた口調でおしゃまに答え、とても幸せそうに微笑んだ。その微笑が眩しくて、晴は目を細める。小さいはずの妹が、とても大きく、美しく見えた。
手の中の飴玉が熱い。
「ごめんヒナ、お兄ちゃん、ちょっと眠い……」
「うん、ねていいよ、ヒナここにいるから」
「ごめんねヒナ」
「へいき、おやすみ、おにいちゃん」
「うん、おやすみ、ヒナ」
妹から飴玉を貰い、晴はそれを握り締めて目を閉じた。
きっと、お父さんが改心してくれたんだ。ヒナやお母さんを可哀想に思って、うんと働いてくれたんだ。
もう、お腹が空いて泣くこともない。お母さんも、ヒナも、みんな幸せになれるんだ。
良かった。
安らかな気持ちで目を閉じた晴は、それからまたずいぶんと長く、眠り続けた。そして、引き攣るような胃の痛みと、頭痛で目を覚ます。
目の前が暗い。ここはどこだと首を捻る。
そっと手を伸ばすと、木で出来た梁と、和紙に触れた。いつもの押入れだ。ではあれは夢か……?
そういえば、ヒナはあんなにすらすらと喋れない。満足に歩くこともできない。髪も、ばさばさで薄い。あれは、こうであって欲しいと願う、自分の願望が見せた夢だったのだ。
でも、幸せな夢だったなと口を硬く結び、晴は半身を起こした。そして反射的に伸ばした手の先に、ヒナがいないと気づく。
「ヒナ?」
慌てて起き上がり、晴は傍らを手探りで探した。だが隅から隅まで探しても、ヒナの小さな身体にはつき当たらない。
「ヒナ、ヒナ、どこ? ヒナ、返事して!」
妹を探し、声を上げる。するとその声を聞きつけたのか、押入れの襖が僅かに開いた。
「ダメよ晴、お父さん、今寝てるの、静かにして」
「お母さん……?」
顔を出したのは母親だった。細い手をした母親は、押入れの中の晴にそっと触れ、怯えた声で、大丈夫かと聞いた。開けられた襖の隙間から入る光で、晴は自分の惨状に気づく。手足は内出血で変色し、ところどころ腫れ上がって、まるで怪物のようだ。着ている服は、傷から染み出た血で汚れ、ごわごわと固まっていた。
「お母さんが、助けてくれたの?」
その惨状を見て、晴はようやく思い出した。自分はあの時、怒り狂った父親に殴られ、気を失ったのだ。あのあと、どうなったのだろう? 父親は、動かなくなった自分を見て、それ以上殴るのをやめ、放り捨てていったに違いない。そして母がそれを見つけ、匿ってくれた……だが、では、ヒナは?
突然その疑問に突き当たった晴は、怯えた目をして、ただおろおろと座り込んでいる母親に叫んだ。
「お母さん、ヒナは? ヒナはどこ?」
「ヒナ? え、知らないわ」
「知らないって、そんな、ヒナだよ、お母さん、見てないの?」
「やめて! 怒鳴らないでよ、お前までお母さんを責めるの?」
「お母さん……」
食事も満足に取れず、いつも夫に責められ詰られ続けた母親は、精神を病んでいた。大きな物音に怯え、子供の泣き声に怯え、何かあれば自分の殻に閉じこもる。
今も、彼女は晴の叫びを聞いてはいない。耳を塞ぎ、目を固く閉じている。
「知らない、知らない……知りません」
ブツブツと何かを繰り返し、耳をふさいで蹲る母親を、晴は悲しく見つめた。
これ以上、お母さんになにかを聞いてはいけない。聞けば彼女は壊れてしまう。
蹲る母親の横をすり抜け、晴は押入れの外に這い出た。
「ヒナ、ヒナ、どこ? 返事して」
父親に気づかれれば、また殴られる。気づかれちゃダメだ。晴は小さな声で妹を呼び、家中探し回った。だが、彼女の姿はどこにもない。
どこへ消えた? どこに消えた? ヒナの不在に焦りを覚えた晴は、寝ているはずの父親の部屋に駆け込んだ。
「お父さん、起きて、ヒナがいないんだ、ヒナはどこ?」
真夜中、就寝中をいきなり起こされた父親は煩いと怒り、大きな手を振り回す。晴はそれもかまわず、父親にヒナの不在を訴えた。母親は当てに出来ない。となれば、父に聞くしかない。
「お願い、ヒナを探して、ヒナが見つからないんだ」
「ヒナァ? いねえなら丁度いいじゃねえか、そのまま消えちまえっての」
「そんなのダメだよ、ねえ、お父さんはヒナが可愛くないの!」
「可愛いわけねえだろ、あんな出来損ないのクソチビ、いないなら放っとけ」
「お父さん!」
自分が殴られるのも顧みず、妹を探してくれと縋る晴に根負けしたのか、父は珍しく腰を上げ、晴を連れて家の中を歩き回った。部屋の隅やテーブルの下、押入れの中、あちこち探し回ったが見つからない。
早々に探し飽きた父は、喉が渇いたと台所に歩き、水道の蛇口を捻る。
そして……。
「まさか、こんなとこにいねえよな?」
なにか予感めいたものを感じたのか、首を捻りながら身を屈め、水道下の小さな戸棚を開けた。
「うわっ……わっ!」
戸を開けたとたん、彼は情けない悲鳴を上げて尻餅をついた。驚いた拍子に腰でも抜けたのか、あわあわと、言葉にならない声をあげながら、戸棚の中を指差す。
「あれ……あれ」
それにつられ、晴もその中を見た。
薄暗い部屋の、さらに暗い流し台下、その戸棚の奥。ジメジメとした空気に混じり、胸が悪くなりそうな臭気が漂う。下水管にこびり付くヘドロの臭いだ。
気持ち悪くて、目も口も開けていられない。晴は顔を顰め、目を細めて中を覗いた。
なにかある。
なにかいる。
排水溝に寄りかかるように、小さく黒い、ぶよぶよした塊がある。
これは、なんだ……? 嫌な予感に動機が早まる。まさかという思いでドキドキしながら、晴はその塊を見つめた。そして、その塊がなんなのかに気づき、大声で泣いた。
「わああぁあっ!」
青黒く変色し、すでに腐りかけているそれは、晴が必死で護り、捜し求めた、ヒナだった。
「ヒナ、ヒナ……ヒナ、ごめん」
小さな妹の乾き、痛み、苦しさを思い、晴は泣いた。ごめんなさい、ごめんさないと、頭の中で繰り返し、ただ泣いた。
と、そのとき、背後に佇む父、父親が、晴の肩を突く。
「晴、いますぐ北側の茶の木んとこ、掘って来い、こいつを埋めるぞ」
「え……?」
「これ以上腐ったら始末に負えねえ、とにかくさっさと埋めちまおう、まったく、なんでこんなとこで死んでんだ、猫だって死ぬときは家から消えるっていうぜ、こいつは猫以下だな」
父親は、やれやれという口調で、蔑むように話す。その顔は、笑ってさえいた。
この父は、娘の死に嘆き哀しむどころか笑うのか。自分の娘が死んだのに笑うのか。こみ上げる怒りで、身体が震えた。
「どうした? 早く行け」
動かない晴に、父親が行けと命令する。だが晴は聞かなかった。
許せない。
こんなところで一人寂しく、惨めに死んだ彼女に、もっと言うことがあるはずだ。憤り、昂り、父親を睨む。その目に気づき、父親も眉間に皺を寄せた。
「なに睨んでんだ、さっさと行け!」
「嫌だ!」
「……なに?」
晴の拒絶の声に、父は首を捻り、間抜けに口を開いた。彼の中には、晴が口答えをするという展開はないのだろう。聞き慣れない異国の言葉を聞くように、首を傾げ、その言葉の意味を反復していた。
「なんだ? なんと言った?」
その問いかけに、晴は首を振る。ヒナが死んだのに、父はなぜ、こんなに平然としていられるのだ。あの小さな子はもういない。いつかお金持ちになって、お腹一杯ご飯が食べられる日が来たとしても、彼女はそれを食べることも出来ない。
可愛らしい服も、ささやかな玩具も、揺ぎ無い愛情も、何一つ得られないまま、腹を空かせ、乾き、死んだ。
この先なにがあっても、彼女は笑わない。
哀れとは思わないのか?
悲しみはないのか?
彼女はなんのために生まれたのだ?
半身とも言える妹を失った悲しみは、怒りに変わり、晴は己を顧みず、叫んだ。
「ヒナは妹だよ、お父さんの子供じゃないか! なんでお父さんは笑ってるの? 酷いよ、ヒナが可哀想だ!」
「は? なにが可哀想だ? 可哀想なのは俺のほうだぜ、この忙しいのになんで死体の始末までしなきゃなんねえんだ、最低じゃねえか」
「なにが忙しいの? お父さん寝てたじゃないか! お父さんがお金をくれないから、お母さんだって、いつも困ってるのに、少しはみんなのことも考えてよ!」
「ふざけんな! てめえ、親に意見する気か!」
それまでいっさい自分たちに逆らわなかった晴の思わぬ反抗にカッときた父親は、大きな手で胸座を掴んだ。それでも晴は怯まない。
「ヒナに謝ってよ! ごめんなさいって言ってよ!」
「なに調子こいてんだ? 自分がお情けで生かされてるってわかってんのか? いっぺん死ぬか?」
「怒鳴ったって怖くないからね! お父さんなんて、ヒナやお母さんみたいに弱い人を苛めることしか出来ない、弱虫じゃないか!」
「なんだと?」
感情に任せ叫んだ晴を、父親は睨んだ。困惑は怒りに、怒りは憎しみに変わる。
「ちっと優しくしてやりゃあ、いい気になりやがって、無駄飯食うしか能がねえくせに! 人に文句言えた立場かよ!」
「ご飯なんか、食べさせてもらったことないよ!」
部屋の隅でいじけて縮こまった母親は、ほんの少しの食料を全部食べてしまう。だから自分はいつだってお腹が空いていた。家中這い回り、ようやく見つけた食べ物も、横で泣く妹に全部あげた。
自分の腹に入って来るのは最後の最後、ひもじさをやり過ごすため、野菜屑でも弁当の食べ滓でも、見つけられれば何でも食べた。それでも、渇きと飢えは癒せない。お腹が空いて、苦しくて、意識も遠のく毎日で、何度も死ぬことを考えた。
それを思いとどまらせ、生きる気力を与えてくれたのはヒナだ。
あの子の微笑みが、あの子の温もりが、生きる力をくれた。
「ヒナを返して! ヒナを返してよ!」
「ふざけやがってガキが偉そうに! 誰のお陰で生きてると思ってんだ!」
理不尽に身勝手に憤った父親は、ほとんど無意識に拳を握り締め、思い切り振り下ろした。拳は晴の頭に、頭蓋を砕く勢いでぶち当たり、晴はその場に崩れ落ちる。
――おにいちゃん!
遠くで、ヒナの叫ぶ声がした。
***
――おにいちゃん。
どこかで、自分を呼ぶ声が聞こえた気がして、晴はそっと瞼を開く。だがあたりに人の気配はなく、物音一つしなかった。
ここはどこだ?
自分のいる場所を確認しようとして身体を捻ると、全身がギシギシと痛んだ。父親に殴られて、気を失ったらしいということはわかったが、今がどういう状態なのかわからない。ここは押入れの中か? 確かめようと手を伸ばし、指先が地面に当たってようやく思い出した。
殴られ蹴られ、追い詰められたあのとき、ヒナの声が聞えたのだ。
「おにいちゃん、がんばって、ここから、にげて」
――でもヒナ、お兄ちゃん、もう動けないんだ。
絶望と諦めだけが身体を支配し、晴が自ら目を閉じようとしたときだった。すぐ近くで、ヒナとは違う、また別の声がした。どこかで聞いたことのあるような、独特のイントネーションを持った男の声だ。
――お前、本当にそれでいいのか?
「誰?」
――立てよ、奴らに、思い知らせてやるんだ。
「思い知らせる? 誰に?」
――奴らだ。
「奴ら? 奴らって誰?」
聞き返す晴に、その声は返事をしなかった。代わりに聞こえてきたのはヒナの声だ。
「おにいちゃんにげて、おとうさんなんかやっつけてにげて」
――ヒナ……。
「にげて」
――無理だよ。
ヒナは死んだのだ、彼女の声が聞こえるはずはない。押入れの隅にも、納戸にも、流し台の下にも、母親のベッドの下にも、どこにもいない。これは幻聴だ。だがわかっていても胸が締め付けられる。
「ヒナ、ヒナ、泣かないで? ヒナが泣くと辛いよ」
「じゃあにげてよ、ヒナのためににげてよ」
「ヒナ……」
「おとうさんなんかやっつけてよ」
「……わかった」
これは、死に際の夢かもしれない。心のどこかで思ったが、そうだとしてもヒナが望むなら、叶えてやりたい。
それまでずっと、父親の暴力に耐え続けてきた晴は、その時初めて、自らの拳を握り締めた。
それから自分がなにをどうしたのかはよく憶えていない。気づいた時にはもうここにいた。腫れた瞼の間から見える空は薄暗く、手には土の感触がする。
逃げられたのか?
お父さんはどうしただろう?
ヒナは?
晴は暗闇に妹の姿を探そうとした。だがどこにも見えない。さっきまで聞こえていたはずの声も聞えなかった。
あたりを覗ってみても、暗い空が見えるばかりだ。ではアレは夢、幻だったのか?
晴は失望し、小さな息をつく。
そして再び目を閉じたとき、チリッとこめかみが痛み、世界に亀裂の入る音がした。
遠くで獣の唸り声がする。
そんな気がして開きかけた瞼は、しかし開かなかった。熱を持って腫れあがり、目が開けられない。僅かに動いた指先であたりを探るが、少し湿った土の感触がするだけだ。仕方ないと諦めて息をつくと、さっきまで遠かった唸り声が急に近くで聞こえて来た。耳元に、足元に、獣の声が響く。
囲まれている。
そう感じたとたん、怖くなった。だが身体は動かない。獣の声はさらに近づいてくる。
僕はこのまま死ぬんだ。漠然とそう思い、やがてそれも麻痺して消えた。
もういいや。
今日まで生きてきても、良いことなど一つもなかった。きっとこれからもないだろう。もういい、終わりにしよう。
この世の全てに別れを告げ、晴は先に逝った妹、ヒナの待つ場所へと意識を移そうとした。
そのとき……。
――ハ・ル!
誰かに呼ばれたような気がして思わず目を開ける。その途端、地面は底無し沼のように緩くなり、身体は沈んでいく。獣の気配も消し飛んだ。
「ぅわっ……っ」
ズブズブと減り込み沈んだ晴は、そのまま際限なく落ちていった。果てしない闇に飲み込まれるように、急降下だ。
暗闇に放り出され落下しながらも、そこがどこなのかを知ろうとした。
目を凝らせば見えてくる。そこは真の闇ではなく、辺りには疎らな灯りがある。地面に沈んだ気がしたが、どうやら上空から落ちているようだ。遠くに小さく光るものがある。あれはネオンか夜空の星か……光が点在する空間を見渡し、晴は、自分が落ちて行くその地を見下ろした。
下は河原だった。いつか新貝に出会った、そして初めて琥珀にあった、あの河川敷だ。夏は雑草が生い茂った河原も、今は枯れ果て、見る影もない。
枯れた雑草の狭間に、何かが転がっているのが見える……いや、誰かが、倒れている。
あれは誰だ?
考える前に、答えを知っているような気がして、戦慄が奔った。地面には長い黒髪が乱れ散り、均整のとれた細い手足は無造作に投げ出されている。
女の子だ。
大きな白っぽいシャツをワンピースのように着て、遠目でも綺麗な顔が見て取れる。
まさか……そう思った途端、それは確信に変わった。
「琥珀!」
思わずあげた自分の声で、晴は意識を戻す。気づけばあたりは夜の闇に包まれ、空には疎らな星と、異様に大きな赤い月が見えた。
たった今、夢幻の中で見たビジョンが頭を過ぎり、背中に冷や汗が流れる。嘘だ、あり得ないと心が叫び、心臓がバクバクと音を立てて波立った。
幻の中で、琥珀は死にかけていた。もしあれは現実だとしたら、放ってはおけない。彼女は以前、自分を助けてくれた。今度はこちらが助ける番だ。
「っ……」
立ち上がった途端、背中と手足が酷く痛んだ。激痛に顔を歪め、晴はまた動けなくなった。ほんの少し身体を動かすだけでも、全身がズキズキと痛む。痛くて歩けない。どこか折れているのかもしれない。
どうしよう。
途方に暮れ、夜空を見上げた。
都会の星々は疎らで小さい。だが彼方の山間近くには、闇を飲み込むように巨大な赤い月が不気味に光って見えた。胸騒ぎが止まらない。
行かなくては……殆ど強迫観念のような、言い知れぬ使命感で、晴はじりじりと歩き出した。痛む身体を引き摺り、一足毎に休みながら、前へ前へと進み、かの地を目指す。
そうしてようやく目指す河川敷が見えてきたのは、すでに朝日も昇ろうという時刻だった。
東の空から太陽も顔を出し始め、闇に包まれていた世界は一変していく。薄く赤く滲んだ空は、やがて透き通るように明るくなり、あたりは薄いオレンジに染まる。
光に満ちた新しい朝、その日の朝日を浴びながら、晴はまるで蛆が這うようにのろのろと進み、ようやく辿り着いたその地に、彼女はいた。
「琥珀! 琥珀……っ」
乱れ散る黒髪、投げ出された手足、血……。
倒れている彼女の下へ、晴は駆けた。身体の痛みも忘れ、夢中で走り、物言わぬ琥珀に取り縋る。呼んでも無駄なことは、子供でもわかった。
来ているシャツのボタンは弾け、まだ未成熟な膨らみかけた乳房が覗いて見える。そして緩やかな隆起の上には、既に黒くなりかけた血の塊があった。
白い胸に赤黒い染み。それは今咲いたばかりの黒薔薇のように琥珀の肌を彩る。取り縋り抱えた彼女の身体は、冷たく、固かった。
嘘だ嘘だと心で叫び、既に色も変わり始めている頬を掴んだ。怒りと悲しみで身体が震える。
ぼろぼろになった衣服と、胸の傷、手にも顔にも、殴られたような痕や細かな傷があり、暴行をうけたのは確実だ。いったい誰がなんの目的でと考えたが真実はわからない。ただ漠然と、胸の中に陰湿な妄想が湧き上がった。その理不尽と、琥珀の無念を思い、晴はまだ小さな拳を握り締める。
怒りが沸点を越え、正体の知れぬ相手への殺意が明確な形になったとき、耳元で琥珀の声がした。
「なにを見てるの? 私はこっち」
え?
「怖い顔してるわね、晴」
驚いて振り向くと、そこには、以前と変わらぬ琥珀がいた。いや、違う。以前よりずっと、綺麗で大人っぽく見える。髪も記憶していたより長い、背丈すらも、少し伸びているような気がした。
落ちてくる髪を耳にかけ、どうかした? と首を傾げる仕草は妖艶で、語りかける唇は赤い。
まるで、数年も先回りして生きたかのようだ。
「琥珀……今、そこに」
「そこに?」
そこ、と言って振り返った地には、枯れ草が風に靡いているだけで、他になにもない。
そんなばかなと、晴は目を見張る。目の前の琥珀と、先ほど見たはずの血塗れの琥珀。どちらが本物なのかわからなくなった。
呆然とする晴に、琥珀はバカねと笑った。そして棲家である排水口へと誘う。だがその中へは入らず、コンクリートの上に座り込んだ。
「なにか見たの?」
「さっき、キミが倒れてるのを見た……気がしたんだ」
「私が?」
「うん、血塗れだった、死んじゃったんじゃないかと思って、僕」
大丈夫かと聞くと、琥珀はあんまり大丈夫でもなかったわと肩を竦めた。真剣な表情で朝日を見つめる横顔は、少し青ざめて見える。
琥珀は座り込んだコンクリートの上で、膝を抱えた。指先が微かに震えている。
「あんたが見たのは数時間前の私、ゴミみたいな男にやられてさんざんだったわ」
「大丈夫、なの?」
「大丈夫じゃないって言ったでしょ」
「どこか痛い? 血、出てたよね、お医者さんには行った?」
「血……ああ、そうね、あのクソみたいな男、こんなでっかいナイフ、持ってたのよ、あり得ないわ!」
「ナイフ……刺されたの?」
幻で見た琥珀は、胸から血を流していたように見えた。もしもあれが現実なら彼女は死んでいる。死なないまでも、かなりの重傷の筈だ。とてもここで話などしていられはしないだろう。だからあれはただの夢、幻だ。だが、それにしては鮮やか過ぎた。
思い出せばまた怖くなる。身体が震え、脳髄が冷たく沸騰する。もしもあれが現実なら、琥珀をそんな目にあわせた男を放ってはおけない。必ず同じ目に、いや、倍の痛みを与えてやらなければ気が済まない。
怒りで我を忘れそうになる晴に、琥珀はやめなさいと話した。その視線は母のように優しい。
「あんたがすることじゃないわ、やられたのは私よ、だから私がするの」
「するって、なにを?」
「復讐よ、身の程知らずの男と、浅はかな母親にね」
「お母さん……?」
聞き返すと琥珀は、暗く沈んだ目でそうよと答えた。彼女の母親は、自分の幸せを守るため、娘を殺そうと考えたのだ。
琥珀の母、紗江子《さえこ》は、当時付き合っていた男に捨てられ、誰にも告げず、たった一人で琥珀を生んだ。そして生み捨てたまま出生届も出さず、世間に隠して生きた。
だが女手一つ、生活するにも金はいる。乳飲み子を抱え、生活に困窮した紗江子は、やがて娘の死を夢見るようになる。
この子さえいなければ自分は自由だ、もっと楽に生きられる。夢にもそう考え始める頃、努めていた会社の社長子息に見初められた。そして情熱的な求愛を受け、玉の輿に乗ることになる。
そこで子供が邪魔になり、紗江子はまだ一歳だった琥珀の首を絞め、ゴミ捨て場に放置して逃げたのだ。
晴れて独り身となった紗江子は、めでたく社長夫人になった。夫との間に一児を儲け、幸せの絶頂だ。だがそこへ琥珀が現れた。紗江子の動揺は見るも哀れなほどだった。
「あの女、私を知らないと言ったのよ、知らないはずないわ、知らないならあんなに動揺するわけないじゃない」
最初、琥珀が訪ねて行っても、紗江子は誰だかわからないらしく、きょとんとしていた。生まれも育ちもいい上流の婦人のように、首を傾げ、どなたかしらと問う母に、琥珀は十三年前、あなたが置き去りにした娘ですと答えた。その途端、紗江子は血相を変え、あんたなんか知らないわと怒鳴った。それまでの上品さはどこへやら、玄関に飾られていた花瓶や美しい絵の填め込まれた額縁を投げつけながら、帰って、帰ってと叫んだ。
「バカよね、嘘をつくにしても、もう少し利口な嘘にして欲しいわ」
琥珀は腹立たしげに呟き、足元に転がる小石を投げる。小石は思いのほか遠くまで飛んだらしい、はるか先の川辺で小さな水音が響いた。風がそよぎ、どこか生臭い匂いが漂う。晴はわけもなくどきどきしながら、朝日に照らされる琥珀の顔を見つめた。
「挙句どうしたと思う? あの女、昔馴染みのチンピラに、娘を殺してくれって頼んだのよ」
「えっ?」
「勝手に作って、いらないからって勝手に捨てて、今度は思い出したくもないって殺すんだって、最低だわ、ほんと最低、生きる価値ない」
だから死んでもらうのよと、琥珀はこともなげに言った。その言葉にはなんの躊躇いもなかった。
彼女は本気だ。本気で母親を殺そうと考えている。瞬時にそれを理解した晴は、その手助けをしたいと思った。彼女の望みは全て叶えてやりたい。
思いつめ、そう申し出ると、琥珀はそう言ってくれると信じてたわと、口角を上げた。その唇は赤く、晴を見つめる瞳は万華鏡のごとく輝いて見える。
薄茶色の瞳が徐々に輝きを増し、濃い金になる。そしてその金さえも押し退け、瞳全体が赤く燃えた。
「琥珀……?」
瞳の色が赤に染まる頃、川からの風に靡く黒髪は、その風に煽られるように逆立っていった。そして、毛先から徐々に血の赤に染まる。
それは、それまで硬い蕾だった大輪の薔薇が、突然開花したような、異様だった。
「最初はあの男よ、母はその後」
「あの男?」
「ええ、私を襲った男、どぶねずみよりも汚い、蛆のような奴よ」
さっきまでとは打って変わり、憎しみの篭った低い声で、琥珀は答えた。
「あの男、私を刺したのよ、何度も何度も……切りつけて、引裂いて、笑いながら犯した、絶対に、ユルサナイ」
赤く染まった目で叫ぶ琥珀の声は震えていた。その震えが、彼女の無念と怒り、そして僅かな恐れを表している。
この仕事は、彼女一人では無理だ。そう感じた晴は、自ら支えとなることを誓い、願った。その決意に、琥珀も頷く。
「晴、あんたがいてくれてよかったわ、一緒に、戦いましょう、あんたも、妹の仇を討ちたいでしょう?」
「え、なんでそれを?」
妹が死んだという話は、まだ彼女にしていない。それなのになぜわかるのだと問うと、琥珀はわかるわよと、赤く染まった瞳で答えた。
「私は私の敵を討つ、あんたはそれに協力してくれればいいの、そしたら次はあんたの敵を討ってやるわ、どう?」
「どうって……」
父親を殺したいかと聞かれ、晴は黙り込んだ。たしかに憎い、死ねばいいのにと思うこともある。だが、本当にそれでいいのかと考えると、心に小さな迷いが生じる。
優しくされたことなどない。父はいつも不機嫌で、怒鳴ってばかりだし、母は縮こまったまま、自分たちを見ようともしなかった。
いつもお腹を空かせていた。いつも殴られてばかりいた。生きる意味など見出せることはなく、ただ妹だけが生甲斐だった。
その妹も、もういない。一滴の水も与えられることなく、干乾びて死んだ。
殺したのは誰だ?
父か?
母か?
自分か?
その結論は出せなかった。
だがそれであの両親を殺していいのかと考えると迷う。
死ねばいいと願い、殺せとどこかで声がする。その一方でまた、殺さないでと泣く声もあった。
「迷うことないわ、やっていいのよ、あんたの妹を殺したのは誰? あんたじゃないわ、奴らよ!」
「でも……」
悪いのは誰だ?
本当に父親が悪なのか?
まだ迷いのある晴を見越し、琥珀はスイと立ち上がる。
「いいわ、じゃあまずは私のほうを殺る、あんたのほうはその後で考えましょう」
いいわねと念を押す琥珀の左手には、どこから持ち出したのか、大きなハンティングナイフが握られていた。その刃に銀の輝きはなく、錆び付いたように赤黒い。
「それ……」
「ああ、これ? あの男が私を刺すときに使ったヤツよ、ほら、ここんとこ、黒いでしょ? これは私の血」
金属の刃にびっしりとこびり付く赤黒い染み。それが本当に琥珀の血だとしたら、彼女は相当な深手の筈だ。こんなに普通に喋れるわけがない。だが彼女の赤い目が、赤い唇が、その異様を嘘ではないと悟らせた。それを証拠に、琥珀の胸には、今しも赤黒い染みが滲み出している。
真新しく滴る血を意にも介さず、琥珀は天にナイフを翳す。
「この世界は狂ってるわ、大人は快楽を追うことばかり考えて、親は子供を愛さない、誰も彼も、自分が幸せならそれでいいと思ってるのよ、割りを食うのはいつも子供だわ」
「そうかもしれないね」
「かもじゃない、そうなのよ、だからあんたの妹も死んだのよ」
「ヒナ……」
ほんの数時間前に見た幼いヒナの惨たらしい遺体を思い出し、晴の胸にも青白い種火が灯る。
あの子を殺したのは誰だ? 勝手に作り、勝手に生んで、飢えも乾きもする子供を、まるでゴミのように疎んじた奴ら……なのではないのか?
どんな命でも、たとえ犬猫でも、あんな死に方をしていいわけがない。
根暗い憎しみが晴の中に満ち、そして琥珀は、翳したナイフに、復讐を誓った。
「世界の汚れは、全て私が打ち払う、私はこの世界を破壊する者、フィーンドになる」
「フィーン……?」
「ええ、FIEND……鬼って意味よ」
「なんで! キミは鬼なんかじゃないよ、鬼はキミを傷つけた奴らのほうでしょ?」
「……そうね、鬼は奴らだわ」
妙に納得した表情で、琥珀は頷いた。晴はそんな彼女をそれ以上傷付けたくないと、血染めのナイフを握る琥珀の手を取った。
「一人でやろうとしないで、琥珀、僕も一緒だ」
「私は鬼、フィーンよ、それでも?」
「キミが鬼なら、僕も鬼だよ、僕はキミの夢を叶えるための鬼だ」
「ずいぶん優しい鬼ね、晴」
「キミとヒナのためなら、僕はなんでも出来るよ」
「ありがとう」
晴の申し出にフィーンはニコリと笑い、そして再びナイフを握り締めた。
フィーンの長い髪が朝日を受け、赤く燃え上がりながら逆立つ。
平穏な河原に錆びた鉄のような臭気が漂い、細い身体からは赤い蒸気が立ち上るのが見えた。
それは、異様に赤い朝日の照り返しが見せた幻かもしれない。だが、晴の目には赤に染まる彼女が、たしかに見えていた。
銀は十五歳を迎えた。
年齢的に言えば中学も卒業しようという歳だ。だが実際は殆ど学校へは行っていない。まともに出たのは小学校までだ。当然学業も身に付かず、卒業しても行き場もない状態だった。
だが、中学入学当初から世話になっていた新聞店では、稼ぎ頭の銀を手放す気はなく、卒業後も雇い続けると言ってくれているので、それほど心配はしていない。
大丈夫、自分はまだまだやってける。そう信じていた。
ところが、中学卒業を控えた二月、状況は一変した。
その日は、その冬一番の冷え込みだとかで、芯まで冷える寒い日だった。外では雪が降っていて、配達にも苦労した。自転車では回れなくて、歩きで配るはめになったので、全身びしょ濡れだし、なにしろ疲れた。早く部屋に戻り、つかの間でもゆっくり眠りたいと、身体を引き摺るように家に戻る。
「ただいま」
どうせ誰もいないだろうと思いながら習慣的にただいまと呟くと、いつもは何の反応もない室内から、衣擦れの音がし、お帰りなさいと返事が返ってきた。銀は驚いて顔を上げる。
「……お母さん」
そこには、滅多に顔を合わせない母がいた。
「フフッ、おかえり銀、いつも良い子ね」
とても一児の母とは思えない美しい顔で、彼女は微笑む。その微笑に目を奪われ、銀は知らずと俯いた。
子供の頃からずっと、母の美しさが密かな自慢だった。だが思春期に入り、少し心持が変わったのかもしれない、謂《い》われなく、ドキドキした。
「なに? どうしたの」
「なにが?」
「だってお母さん、家にいるの、珍しいじゃない、それに……」
「それに?」
愛くるしい大きな瞳に見つめられ、赤面する。いい子だなどと言われたのは久しぶりだ。
顔に火傷を負ったあの日から、母は銀の顔を直視しなくなった。どこか忌々しいモノを見るように顔を顰め、チラリと覗いてはすぐ顔を背ける、それが常だ。
近くに来ることさえ稀なのに、声までかけられては戸惑うばかり、必要以上に高鳴る心臓の音を意識しながら、銀は顔を背けた。
「なんでもないよ」
「ふふ、やあね、変な子」
顔を背ける銀を追うように、瞳子は先回りして前に立ち、戸惑う銀の前髪をくすくす笑いながら指で掬う。
サラリと持ち上げられた長い前髪の下から、醜いケロイドが顔を出す。銀は慌てて首を振った。
「やめてよ」
美しい母に、醜い自分を見られたくないと、反射的に振り払った母の手は、一瞬、宙に彷徨い、また戻ってきた。逃げ回る銀を追って迫ってくる指先に、心臓は音を立てて跳ね上がる。知らず知らず、血流もあがった。
顔が赤く火照るのを隠そうと銀は俯く。母、瞳子は、逃げる銀の肩を捕まえ、口を尖らせた。
「なんで逃げるのかしら?」
「別に! 逃げてないよ、お母さんこそなに? なんか変だよ」
「変じゃないでしょ、息子の顔が見たいだけ、ね、いい子だからこっちいらっしゃい、抱いてあげる」
「いいってば!」
いつになく、母は、しつこく絡む。両手を広げ、おいでと囁く顔は、妙に色っぽく、身体がカッと熱くなった。泣きそうな気分で勢いよく振り払うと、母は不愉快そうに顔を顰める。そしてまた手を伸ばして来た。
「なに、あんた照れてるの? お母さんよ私は、母親が息子を抱き締めてなにがおかしいのかしら?」
「おかしいよ! 僕もう十五だよ、中学だってもうすぐ卒業なんだからね」
「あら……そう?」
子供じゃないんだと話すと、母親はニタリと笑った。その笑顔が爬虫類のようで、とても嫌な感じがした。本能的に下がる。
だが母は容赦なく近づき、銀の肩を背中から抱いた。ピタリと張り付いてきた女の体温が、火照った身体をさらに熱くさせる。全身から汗がどっと噴出し、息苦しくなった。
瞳子は銀の動揺を楽しむように掌を這わせる。耳元で、彼女のクスクス笑う小さな声がした。
「子供じゃないの? そうね、大きくなったわね銀、もう一人前の男だわ」
「お母さん……」
「ああ、そんなに緊張しないで、ただちょっとお願いを聞いて欲しくて」
「お願い?」
「ええ、簡単なことよ」
母は懐から細長く光るものを取り出し、ドキドキしながら振り向く銀に手渡した。
「これで、お父さんを殺してちょうだい」
「え……?」
手渡されたモノは、父の商売道具の一つ、「縁引き針」だ。
縁引き針とは、畳の縁を畳床に打ちつけ仮留めしたり、縁を引っ張るために使う道具で、針というよりは錐のような形状をしている。柄の長さが約七センチ、針の部分が十二センチほどで、根元の直径は十五ミリ程度ある。しかしこれでは人を刺すことは出来ても、殺すことは難しい。
「無理だ」
「なんで? 無理じゃないわよ、あなたなら出来るわ」
「無理だって!」
「大丈夫、今夜はあの人にお酒をたっぷり飲ませるわ、寝こんだところを狙えばいいのよ」
「お母さん……」
「必ずキミを幸せにするとか言ってあの甲斐性なし、大嘘じゃない、ぜんぜん幸せなんかじゃないわ、貧乏なんてまっぴらよ、でもね、あいつが死ねば保険金が入るのよ、三千万よ、どうしようもない役立たずだけど、死ねば三千万、笑っちゃうけど、最後くらいは役に立ってもらわなきゃね」
遊び過ぎて金が尽きた。それは母にもわかるのだろう、最近はあまり金を使わなくなっていた。元が浪費家の彼女は、それが我慢出来ない。外に男を作り、今度はそいつに貢がせていたらしい。しかし名ばかりとはいえ、夫がいては自由に遊べない。だから邪魔な夫を殺し、金も手に入れられる方法をと、彼女なりに考えたのだろう。
自分の夫の殺人計画を、彼女は嬉々として話す。そんな母を見つめ、眩暈がした。
出来る出来ないの話ではない。人殺し、それも父親殺しを息子に依頼する母親がどこにいるだろう。依頼されて、はいわかりましたと頷いたら、自分はもう人間ではない。
出来ないと首を振る銀を見て、瞳子は凶器がこれでは難しいと言っているのかと思ったらしい、包丁のほうがよかったかしらと首を傾げる。
「でもほら、包丁だと血もたくさん出そうだし、後々面倒だわ、その点、あの人の仕事道具でやれば、誤魔化しもききそうじゃない?」
「何言ってるのお母さん、お父さんだよ? 出来るわけないじゃない、お母さん、お父さんを好きじゃないの?」
父と母は愛し合っている。この期に及んで、銀はそれを幻想していた。だが母、瞳子は、バカじゃないのと首を振る。
「好きなわけないじゃない、いい男だと思ったんだけど、とんだ外れクジだったわ、口煩くて嫉妬深い上に甲斐性もないんじゃ話にならないわよ」
「お母さん……」
この家ははまだ大丈夫、自分たちはまだまだやっていける。父も母も自分も、最悪ではない。そう思ってきたのは幻、間違いだったのか……。
銀は、母の言葉に耳を塞ぎ、これは嘘だ、幻だと目も瞑ろうとした。
……そのとき、一仕事終えた父がってきた。
「なんだ、そこでなにやってやがる?」
「なにも、なにもしてないよ、お父さん」
帰って来た父親は、部屋の真ん中にいる瞳子と銀を見つけ、怪訝な顔で近づいてくる。銀は今話していたばかりの父の帰宅に戸惑い、口ごもる。その隙に瞳子は縁引き針を銀に手渡した。渡されて困るのは銀だ、慌てて後ろ手に隠す。
「てめえ、今なんか隠しただろ!」
「違う、知らないよ!」
「嘘つけ! いいから見せろ!」
「知らないってば、やめて!」
掴みかかられ、揉み合いになり、隠し持っていた縁引き針が露見する。父親は、驚きつつも目を吊り上げた。
「こいつはなんだ、銀」
「知らない」
「何が知らないだ、まさかお前、こいつで俺を刺そうって魂胆か?」
「違うっ、違うよ!」
「なにが違う、ならなんでこんなもん持ってたのか言って見ろ」
「それは……っ」
お母さんが持って来たんだ。お母さんが、これでお父さんを殺せって言ったんだよ。
喉元まで出かかった言葉は、父の顔色を見て留まった。
父は母を愛している。母が自分を殺そうとしていると知れば、きっと哀しむ。父親を悲しませたくない一心で、銀は口を閉ざした。しかし俊夫は、ますます激しく怒る。
「ガキのクセにふざけやがって! お前なんか、生まれて来なきゃよかったんだよ!」
子供にバカにされていると思いこんだ俊夫は、殺意のない銀から縁引き針を奪い取る。そして激情のまま、針を振り翳し、襲い掛かって来た。
背後にいた瞳子は大げさにキャアキャアと叫び、部屋の隅へと下がる。チラリと振り返って見た彼女の目は、期待に満ちていた。
「やめてよ、お父さん!」
母の顔をちらちら見ながら、銀はやめてくれと叫んだ。瞳子は恐ろしさで身が竦んでいるかのように両手で顔を覆っていたが、その隙間から見える瞳は笑っている。
目的は夫殺しだが、最悪、子供のほうでもいい。どちらが死んでも保険は下りる。保険金さえ出れば自分は楽が出来る。それを想像しての笑いだ。
銀は哀しく首を振った。
お母さんはどうかしてる。本当にいいの? 僕やお父さんが死んでもいいって、本気で思うの? そんなの酷いよ。
「やめて、お父さん、お父さん!」
冷静になってと叫んだが、俊夫は聞かなかった。おそらく頭に血が上っているのだろう、苛々した口調で怒鳴り散らしながら縁引き針を振り下ろす。
「お父さんっ!」
鈍く光る針先が目前に迫り、背中に緊張が走る。胸が痛み、目の前は真っ暗になった。
お父さんは本気だ。このままでは殺される。
銀は父の手を押さえ、その針先から逃れようと必死になった。遠慮なんかしていたら押し負ける。死ぬのは嫌だ。
「やめて、お父さんっ……やめろ!」
死にたくない一心で、父を突き飛ばし、銀は床にへたり込む。息は上がり、顔も上げられない。逃げなきゃやられる、殺される。だが身体は動こうとしなかった。
僕は死ぬんだ。ここで殺されるんだ。
どうせ死ぬなら一瞬で死にたい。ジッとしていれば早く済む。
覚悟を決めた銀は、固く目を閉じる。
だが、針はいっこうに襲って来なかった。
なにがあった?
恐る恐ると顔を上げ、瞼を開く。目に映ったのは、胸元を押さえ、もがき苦しむ父の姿だった。
「おとうさん……?」
床に倒れ、もがく父の胸には、縁引き針が突き刺さっていた。どうやら、突き飛ばされた勢いで、持っていた針を自分の胸に刺してしまったようだ。
どうしよう、どうしたらいい?
動転する銀の後ろで母はヒステリックに叫ぶ。
「なにしてるの銀、まだ死んでないわ、早くとどめを刺して!」
「え……?」
「えじゃないわよ! 中途半端に生きてられちゃ困るでしょ! 早く!」
早く殺せと母は叫ぶ。目の前が真っ暗になった。
彼女は、ひと欠片も夫を愛していないのだ。
こんなのおかしいよ……その言葉を飲み込んだ銀は、のっそりと立ち上がる。
足が重い。
床はごく普通のフローリングなのに、薄日もささない湿地帯を歩いているようだ。
一歩進む毎に足は重くなり、動悸は高まる。自分の心臓の音が耳元でドンドンと大きな音を立て、血流が上がってくるのがわかる。
身体は酷く冷たいのに、汗だけがだらだらと流れ落ち、視界は赤く染まって見えた。
銀はよろよろと歩き、苦しむ父の胸から縁引き針を引き抜いた。そして暫し、ほんの数秒、涙を溜めた瞳で父を見つめる。
「お父さん……ごめん」
小さく呟いた銀は、父、俊夫の喉元に、勢いよく、縁引き針を振り下ろした。
ズチャッ……と、鈍い音がして、魂が悲鳴をあげる。生きた肉に突き刺さった針からは、掌を通して、父の脈拍まで伝わってくる。
喉を突かれた父は悲鳴をあげることも出来ない。ヒュウと息を吸い込むような音が聞こえただけだ。そのまま、二度、三度と針を突き刺す。
何度目かに振り下ろした針は父の心臓を貫き、瞬間、血走った瞳を見開いた父、俊夫は、僅かに痙攣しながら絶命した。
父の命を奪った針を、銀は泣きながら引き抜く。息子の嘆きを考えもせず、母、瞳子は緊張した声でやったのかと訊ねた。銀は無言で振り返る。
もうなにも耳に入らない。耳は機能を失った。
涙で滲んだ視界に映りこむ母の顔も歪んで見える。
全てが虚しい。
全てが哀しい。
「お母さん……ごめんなさい」
銀の涙声に、瞳子は一瞬不思議そうな顔をした。大きく開かれた瞳も、僅かに首を傾げた可愛らしい仕草も、綺麗な顔も、全てが憧れで、全てを愛していた。
綺麗な母が自慢だった。
ごめんなさい。
もう一度、心の中だけで呟き、銀は縁引き針を振り下ろした。
矢島はオウガを釈放してからすぐ、重田の指摘した夫婦殺害事件の調査を始めていた。
石崎夫婦が殺されたのは、今から五年前の冬だ。異臭がするとの通報を受けた警邏中の警察官により、妻の遺体は台所、夫のほうは居間で発見されている。部屋のテレビはつきっぱなしで、発見当時、凄惨な現場にそぐわないお笑い番組が映し出されていたという。
凶器は鋭い刃物とみられるも、それがなんであるかは特定できていない。
夫婦の家からは異様に小さな生き物のミイラ化した遺体も発見されている。当初猫か何かと思われたそのミイラは、のちに人間の子供であると判明。夫婦には子供はなかったとされているため、捜査は混乱した。
しかし夫妻は近所づきあいもあまりなく、夫妻の暮らしの実情を知る者はほとんどいなかった。ただ、結婚してすぐに夫の会社が倒産したため金には困っていたようだ。
妻のほうはもともと世間知らずのお嬢様だったらしく、暮らしに困窮しても自ら働くこともなく、夫のほうもうだつが上がらず、しがない日雇いで食いつなぐのみ。借金だけが嵩んで取り立ても毎日のようにやってきていたという。
事件のとき発見された子供のミイラについては、夫妻が死んでしまっているので詳細は不明。おそらくは夫妻の子供であろうと考えられたが、事件とは直接関係ないので放置された。
「関係ないって? ふざけんな、ないわけないだろ」
捜査資料を読み漁りながら悪態をついた。あまりのずさんさに吐き気がする。
当時の捜査本部は何をしていたのだ、なにか他に大事な事件でもあったのか? それにしたっていい加減すぎる。
子供はいたのだ。ミイラ化した子供と、もう一人。
夫妻に子供はないとされていたが、調べ直してみると石崎夫妻は結婚してすぐに子供が出来たと上司に報告している。
しかし生まれたという話は聞かれていない。そんなことから周りの者は流産したのではないかと憶測し、夫妻を気遣って以後、子供の話はしなくなった。
だがもし、流産などではなく子供が生まれていたとしたら……何らかの事情で生まれたことを隠し、あるいは報告せず放置していたとすれば……。
子供の出生を秘密にしなければならない事情など思い浮かばないが、もしそうなら哀れな話だ。
いるはずのない子供となれば、幼稚園や学校などいけるはずもなく、病気になっても病院にすらいけない。暗い部屋の中で幼い兄妹二人、世間から隠され閉じこもり、おそらくは満足に食事も与えられないまま数年……やがて一人は死んだが、もう一人は生きた。
半身の死を乗り越え、一人になってなお生きたその子は、両親の死後、どこへ消えた?
事件当時、子供はどこに居て、今どこにいるのか、そもそも子供は両親が殺されるところを見ているのか、見ていたとしたら、犯人はなぜ子供を殺さなかったのかが問題だ。
重田はそのときの子供がゼノで、ゼノがFOXだと主張している。だがどう計算してもその子は当時十二歳程度、小学生に両親殺害など出来ないだろう。犯人は別にいたはずだ。
だがもし、本当にその子供がやったのだとしたら……。
五年も前の行方不明者、それも無戸籍児を探すとなれば容易ではない。が、手掛かりはある。フォックス(新貝)だ。
彼はFOX事件の話を聞かせる代わりにオウガを釈放させろと言ったらしい。ということは、新貝《フォックス》はオウガを知っているということになる。そしてたぶんゼノのことも、もう一人いるという赤い髪の少女のことも知ってるに違いない。そう結論した矢島は、捜査本部に新貝との面会を申し込んだ。
三浦の一件から捜査を外された自分がその容疑者と易々と会えるはずはないと思ったが、なぜか意外にあっさりと承認された。捜査員の疲労や捜査の遅延、難解さを考慮に入れて、少しでも可能性があるなら突っ込みたいというのが本音らしい。
二人きりでという注文にもOKが出た。裏事情はともかく今は助かる。
*
「おや、矢島さんじゃないですか、お久しぶりですね」
取調室の扉を開けると、新貝は予期していたかのようにそう言って微笑んだ。微動だにせず、目を細める顔はまるで狐面のようだ。
剥き出しのコンクリートの壁が四方を囲む四畳半ほどの部屋の真ん中にお茶の一つも置いていないスチール製の机があり、その前に置いてある粗末なパイプ椅子に新貝は座っていた。裸電球が一つついているだけの窓もない地下室は暗く、湿気が充満している。
そこに新貝は背筋をピンと伸ばし石造のように存在している。気も滅入るわけだと妙に納得した。
「いい椅子は見つかりましたか?」
新貝は裏切者や邪魔者を消すとき鉄製のゴージャスな椅子に括り付け、川底に沈めると聞いている。つまりいい椅子を探すというフレーズは、彼にとっての警告だ。俺の邪魔をするなら殺すぞということだろう。
だがイコールそれは、それだけ痛い所をついている証明でもある。
自分は間違っていない。
そう確信した矢島はまっすぐに切り込む。
「新貝、お前、移民なんだってな」
効果覿面、木彫りの能面のように動かなかった新貝の表情が一変した。眉間に皺をよせ、不愉快そうに舌を鳴らす。
「どこでそんな話を……デマですよ、たしかに私は孤児だが日本人だ、普通に日本の施設で育ってる」
「ああそうだな、だが施設での記録はお前が十歳のころからだ、その前はどこにいた?」
「忘れましたね」
「嘘つけ、覚えてるだろ、そのころお前は小汚い町の穴倉にいた、ストリート……いや、マンホールチルドレンってやつだ」
「違います!」
自力で調べた事実を元に半分憶測で決めつけると、新貝は初めて感情を露にし、違うと怒鳴った。たぶん思い出したくない記憶なのだろう、苛々と落ち着きのない表情で身を乗り出す。
しゃんと背筋を伸ばしていたさっきまでとは違い、片肘を机の上に立てて掴みかからんばかりだった。
墓穴を掘るとはこのことだ。自白したも同じ、この憶測は間違っていなかったらしいと確信した矢島は、飛び掛かって来そうな新貝の鼻先近くまで身を乗り出し、さらに攻めた。
弱点を見つけたらとことんそこを突く。用心深く狡賢い狐を落とすにはそれしかない。
「お前の側近、何と言ったかな……そうだ、塚原だ、塚原悟志、あいつも移民だろ、お前と同じマン……」
「違うっ!」
常に新貝の傍らにいて新貝を護りその命令を忠実に実行する男。誰も信じないと言い放つ新貝が(おそらく)唯一信頼し、心を開いている人間、塚原悟志。その存在は思ったとおり重いらしい。塚原を攻めようとすると今まで以上に過剰反応した。
「なにが、違う?」
新貝と塚原は施設で知り合った。少なくとも記録上はそうなっている。
だがもしかしたらそうではないかもしれない。新貝と塚原はその前から、遠い異国の穴倉で繋がっていた。そう考えたほうがわかりやすい。
「塚原は無口で通ってるよな、あれはお国訛りを誤魔化すためなんじゃないのか? 実は日本語が不自由なんだろ」
もっと伐れろとばかりにわざと下品に追及すると、新貝はこちらの意図に気づいたのか、忌々し気に唇を結びながらも振り上げた拳を下ろして着席した。
「違います、証拠もなしに人を貶める発言をするのはやめていただきたい、名誉棄損で訴えますよ」
その声は、しかし少し震えていた。祖国にいい思い出はないらしい。
実際のところ新貝がどこの国出身なのかはわからない。そう思って見てみれば顔はやや異国風だが、何人なのかはさっぱりだ。もしかしたら混血なのかもしれない。
塚原にしても日本人と言われればそうとも思えるが、それにしては濃い顔をしている。ロシア系か、東ヨーロッパ系とも見える。二人とも日本人にしては白い肌だしこの想像はあながちではないだろう。
「証拠はあるさ」
考えを巡らせながらもそう答えると、新貝はあるわけがないという少しムッとした表情で、あるなら見せてください言ってきた。すかさず答える。
「いつも冷静なお前にしてはしゃべり過ぎだ、感情的過ぎる、図星だからだろ」
切り返された新貝は微妙に顔を歪め、小さく舌打ちしてから浅い息を吐いた。
どうやら観念したらしい。
「わかりましたよ、話します、なにが聞きたいんですか」
*
「いい子だ、じゃあ率直に、お前、石崎錠二、早苗夫妻を知ってるな?」
「調べたんでしょう? 知ってますよ、うちの顧客でした」
「顧客ね、金貸してたんだろ、で、絞り取ってたわけだ」
「絞れるほど持っちゃいませんでしたよ、赤字商売でしたね」
「なぜだ?」
「なぜ?」
「ああ、なぜだ、なぜ、狡賢いお前が、回収できないとわかっている金を貸した?」
なぜと問うと、新貝は間違いを指摘された子供のように口を結び押し黙った。彼がこれほど動揺するのは珍しい。石崎夫妻の子供とは浅からぬ縁があるという証拠だ。
矢島は唇の端を噛んで片眉を上げた仏頂面の新貝に、もう一度なぜだと聞いた。その声に押されるように新貝は大きなため息をつく。
そして語った。
「金を借りていたのは女のほうです、男のほうも別口で借りてたようですが、うちとはかかわりない」
「借りてたのは女房のほうか、で、なんで貸した?」
「女は生活能力がなかった、金が無くなれば飢え死ぬしかない、人道的配慮ってやつですよ」
「金貸しのお前が? 微々たる金を押し付けて高利でふんだくる、それがお前らのやり口だろ、人道的配慮? そりゃ誰に対してだ? 女か? それともガキのほうか?」
おそらく新貝も突っ込まれると思っていたのだろう、苦虫を噛み潰すような忌々しげな表情でふんと鼻を鳴らした。
「喉が渇きましたね、お茶も出ないんですかここは」
追い詰められ、行き場をなくした子供のように不貞腐れた表情で新貝はそっぽを向く。左手の人差し指でカリカリと机を齧りふんぞり返る姿は往生際が悪い不良少年のそれだ。このまま攻め続ければ必ずボロを出す。そう確信した矢島は逸る思いを抑え、ことさら冷静に抑揚のない声で話した。
「先に話しな、そしたら茶でもなんでも飲ましてやる」
なんでも飲ませてやると話すと、新貝は思惑あり気な目をして顔を上げた。それまで俯いていた新貝を覗き込むように顔を近づけていたため、至近距離で目が合ってしまい一瞬怯む。その隙に付け込むように新貝は異様に恍惚とした表情で念を押した。
「何でもですか? 本当に?」
思わず息を飲む。
「ああ、本当だ」
ささやかで意味のない動揺は胸の内に隠し、何とか冷静に答えると、新貝は余裕の表情でニコリと笑った。それはそれまでの張り付いたようなゾッとする笑みではなく、若々しく初々しい少年のような顔だ。
「ではリモナーダをください、ノンスパークで」
「リモ……?」
「リモナーダ」
「ああ、りもなーだね、わかった、用意してやる、だから話せ」
新貝の言う飲み物がどんなものなのか想像もつかなかったが、憧れにも似たその要求を聞き、矢島は必ずと請け負った。
「ありがとうございます」
よほど欲しかったのだろう、新貝は矢島が用意できないとわかっているかのように小ばかにした目をしていたが、それでも少し嬉しそうに目を細めて答えた。
「礼はいい、それより答えろ、誰のために貸した?」
「あなたの考えているとおりですよ」
「いいから言え」
口に出して言わせなければ証明にならない。お前の口ではっきりと答えろと迫ると、新貝はやれやれと肩を竦めた。普通ならふざけるなさっさと吐けと怒鳴るところだ。しかし今回ばかりはそうもいかない。多少機嫌をとり、間を図ってでも喋ってもらわなければならないからだ。
矢島は努めて冷静に淡々と問い詰めて行った。
「なぜだ?」
「石崎夫婦には世間に隠した子供がいた、そこは調べたのでしょう? 夫は働かない、妻は働く知恵もない、金がなければガキともども飢え死にだ」
「ああそうだ、だがお前は子供を飢え死にさせたくなかった、だから女に金を渡したんだ、そうだろ」
「私がそんなお人よしだと本気で思うんですか?」
「そうじゃあないとでも?」
「違いますよ」
そんなんじゃあありませんと新貝は首を振った。だがではなぜだと聞き返すと、また黙る。つまりは図星に違いない。それでもそうだと言わないのは、新貝自身、困惑しているからなのかもしれない。
「そうか、じゃあそれでもいい、聞かせてくれ、お前、その子供が今どこにいるか知ってるんだろ?」
「そうですね……」
その子はどこだと踏み込んでいくと、新貝は酷く不愉快そうに顔を顰め、唇を結んだ。その顔は左右にきっちりと別れ、右半分は無表情、左半分は怒りに似た表情を浮かべている。
表情が複雑なぶんだけ思いも複雑なのだろう。矢島も少し間を置き、根気よく訊ねた。
「石崎夫妻の子供は今、どこにいる?」
それでも口を開かない新貝に、数十秒の間を置きながら何度も訊ねる。同じ問いを何度も何度も……繰り返すこと五回目にして新貝はようやく浅からぬ溜息をついた。そこを足掛かりにまた訊ねる。
「子供はどこだ?」
「羅梵《らぼん》川……」
呟くように、今急に思い出したように、新貝は答える。矢島も身を乗り出した。
「羅梵川? 川のどこだ?」
羅梵《らぼん》川というのは俗名だ。正式には慈雨《じう》川という。万物を潤し育てる恵みの雨。その雨粒が合わさり混ざり合い、大河となって流れる。そんな意味がある。
だが新貝のような裏街道を歩く者たちはそうは呼ばない。彼らが呼ぶのは羅梵《らぼん》の名だ。菩薩でも救えない凡夫の集う場所という意味合いらしい。
「上流に大きな排水口があるでしょう、その近く、穴から十メートル、いや六メーターくらいか……そこに、います」