お腹、空いたな……。
 目を覚ますと真っ先に考える。というより、腹の痛みで目が覚めると言ったほうが正しいかもしれない。
 胃の中になにも入っていないので、腹が空き過ぎて痛むのだ。
 家にはいつも食べるものがない。たまにはなにか食事にありつけることもあるが、たいていの場合、母か父が全部食べてしまう。夕べも、鳥の唐揚げを頬張る父親に、お腹が空いたと訴えたが、意地汚い奴だと罵られ、殴られただけだった。
 仕方なく幼い妹と二人、腹を空かせたまま眠り込んだ。そして次の朝、埃だらけで薄汚れた床の上に、珈琲の染みがあるのを見つけた。
 おそらく夕べのうちに、父か母が零したのだろう。腹が減っていた晴《はる》は、床に這い蹲ってその染みを舐めた。
 甘い。
 珈琲に含まれた僅かな砂糖の甘さが、乾いた舌にチリチリと甘味を伝えた。
 僅かな甘味を得ると、今度は喉の渇きに気づく。いつも不機嫌な父は、些細なことで怒り狂い、晴を殴る。昨日もなにが気に障ったのか、機嫌が悪く、お腹が空いたと言ったら殴られた。平謝りでその場を逃れたが、父の機嫌は悪いままだった。
 姿を見られたらまた殴られる。危険を感じた晴は、小さな妹、ヒナを連れ、押入れの中に隠れた。それから朝までずっと押入れの中だ。空腹も限界だった。
「ヒナ、ヒナ、来てごらん」
 妹のヒナは、五歳、普通なら幼稚園に通っている歳で、言葉も達者になる頃だ。だがヒナは未だ片言しか喋れない。声も小さい。こちらの言っていることはわかるので、知能が遅れているというわけではないだろう。おそらく、いつも母親に、声を出すな、静かにしていろと言われているせいだ。喋る機会がないから喋れない。
「おいで、いいものがあるよ」
「んまんま?」
 拙い足取りで、ほんの数歩歩いたヒナは、すぐ床に尻をついた。
 彼女は足の力が弱く、長い時間歩けない。両手を床につき、座り込んだ姿勢のまま、ずりずりと躄《いざ》る。そのほうが早い。殆ど歩けないヒナは、躄《いざ》ることでしか移動出来ない。ようやく近くへ来た彼女に、晴は茶色い染みを示した。
「そう、まんまだよ、甘いよ、舐めてみて」
「ん、ん、ん……んまんま」
 ゴミも泥も一緒くたにして、ヒナはその染みを舐めた。
 零れてから半日経った珈琲の染みだ、味などわかるはずがない。そも、それはただの汚れだ。だが彼女の干乾びた舌は、その甘味を感じ取ったのだろう。夢中でそれを舐め続ける。
「美味しい? ヒナ、甘い?」
「んまんま、ま」
 晴は妹が床を舐めるのを、傍に屈んでジッと見ていた。鳩尾のあたりが、きりきりと痛む。痛みと吐き気で胸が焼けつきそうだ。なにか口に入れたい。お腹に入れたい。せめて味だけでも感じたい。だが僅かな珈琲の染みは、全部ヒナが舐めてしまった。
「にいに、んまんま」
「美味しかった? 良かったね」
 味がしなくなった床から離れ、ヒナが顔を上げる。晴は小さな妹の痩せこけた頬を、そっと撫でた。
 彼女はまだ物足りないのだろう、もっと甘味をくれと晴の袖を掴む。その手はかさかさで、栄養が足らず生えそろうことができなかった髪は薄い。だが瞳は大きくて、可愛らしかった。小さな顔に、目だけがあるような、アンバランスな顔だが、晴は可愛いと思った。母親を別にすれば、世界で一番可愛い。と言っても、実際は世界なんて知らないし、あまり外には出たことがないので、世界がどんなものなのかもわからない。だがきっとそうに違いないと思っていた。

「んま、ま、にいに、ま、ま」
 小さなヒナが空腹を訴える。しかし目に付く場所に食べ物はない。どこかに砂糖があったハズだと思ったが、置き場がわからない。
 せめて水が欲しい。
 水分を求め、晴は流し台に向かった。食卓の椅子を引っ張ってきてそれに乗り、手を伸ばすと、ようやく蛇口まで手が届く。キュッと捻ると、勢いよく水が流れ出した。
 晴は身を乗り出し、それを夢中で飲んだ。いくら飲んでも水は水。腹の足しにはならないが、渇きは癒せる。鳩尾の痛みを癒すやため、たらふく飲んだ。そうして自分の腹が膨れるころ、椅子の傍で掴まり立ちしているヒナを思い出す。
「ごめん、ヒナ」
 ヒナにも水を飲ませてやらなければと考えた晴は、食器棚から硝子のコップ取り出し、それに水を満たした。そして床で待つ妹の傍にしゃがみこむ。
「ほら水だよ、ヒナ」
 両手でしっかりとコップを握り、妹の小さな口元に宛がう。彼女はほぼ一日ぶりの水を、ぺちゃぺちゃと舐め、啜った。ごくごくと喉を鳴らして飲むには、留飲する力が足らないのだ。
 栄養不良で標準よりずっと小さなヒナは、目もよく見えていないし、手の力も弱い。水の入ったコップを持たせると、落としてしまう。そうなると、水は飲めなくなるし、床を濡らすことになる。そんなところを父親に見つかったら一大事だ。大きな手で、気絶するまで殴られる。
 自分はまだいい。だが、小さなヒナが蹴り回されるのだけは見たくない。だから慎重に慎重にと気を使い、万が一にもコップを落とさないように気を張った。
 しかし、そういうときに限って、悪いことは起きるものだ。奥の部屋で眠っていた父親が起きたのだろう、寝室のドアが開く音がした。
 父親が来る。また殴られる。
 ギクリとした晴は、思わず手の力を緩める。その途端、水を求めるヒナの勢いに押され、コップを取り落とした。重力に負け、コップは床に落ちる。割れることはなかったが、床は水浸しになった。
「あー、ああー」
 水が零れ、飲めなくなったことで、ヒナが泣く。その声と、コップの落ちる音を聞きつけ、父親がなにか怒鳴り散らしながら台所へやってくる。晴は歩けない妹の手をギュッと握った。
「ヒナ、おいで!」
 床に零れた水や、落ちたコップを、父親が来る前に片付けるのは無理だ。責められるのは、避けられない。それならせめて、ヒナだけでも助けたい。咄嗟にそう考えた晴は、嫌がる妹の手を握り、半ば引き摺るようにして台所の収納戸棚を開けた。そして鍋やまな板が収められている収納庫の小さな隙間に、妹の身体を押し込む。
「鬼が来る、ヒナはいい子でそこにいな」
 見つかったらぶたれるから出てきちゃダメだ、声も出すなと念を押し、急いで収納庫の戸を閉めた。それとほぼ同時に、台所のドアが開き、父親が現れる。
「晴か? お前、そこで何してる!」
 水浸しの床と、転がるコップ。それに怯えた晴を睨み、父親が怒鳴る。背後にいるヒナに、気づかれちゃダメだ。晴は、ドキドキしながら首を振った。
「なにも……なにもしてないよ、お父さん」
 小さなヒナがぶたれるのを見るのは嫌だ。だが自分もぶたれたくない。晴は必死でなんでもないと言い張った。だが床は水浸しだ。父親はそれに気づき、目を吊り上げた。
「これはお前の仕業か? そうだろ? 誤魔化しやがって、この極潰しが!」
「ごめんなさい、お父さん、ごめんなさい!」
 怒鳴り声を上げた父親が殴りかる。晴は咄嗟に頭を抱え、身体を丸めて蹲った。小さく丸まった晴を、父親はムキになって殴りつける。なかなか打撃を与えられないので、意地になり、今度は蹴りつけてきた。大きな足で横腹を蹴られ、晴は床に転がった。ひっくり返った晴を、父親は容赦なく蹴りつけてくる。晴は命の危険に怯えながらも、必死に謝った。
「ごめんなさい! ごめんなさい! もうしません、ごめんなさい!」

――喉が渇いてたんだ、だから水を飲んだ、それのどこが悪い!
――子供を罵ることしか出来ないのか、能無しめ!

 頭の隅で、高圧的な声がする。
 父の暴力が止まなかったとき、腹が空き過ぎたとき、詰られた時、ナニモノかの声が、そんな奴、殺してしまえと囁いた。そのたび晴は、その声を振り切ろうと、心の中で叫び返す。
 お父さんが怒るのは、僕が悪い子だからだ。お父さんが悪いんじゃない、お父さんが悪いんじゃない!
「ごめんなさい! ごめんなさい、許してください、もうしません、ごめんなさい!」
「うるせえ! 本当に悪いと思うならさっさと死ねよ!」
 何度謝っても、父親の怒りは治まらなかった。彼の耳には晴の口から出る言葉が全て、自分への非難、嘲りに聞えるのだろう。謝れば謝るほど、何か言えば言うほど、怒り狂った。
「お前なんか生まれて来なきゃよかったんだよ!」
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
 身体を丸め、蹲り、晴はただ、父親の気が治まるのを待った。逆らえば長引く、ジッとしていればわりと早く終わる。少しの間、耐えていればいいんだと目を閉じ続ける。
 閉じられた瞼の裏に、己の死と、ヒナの顔が浮かんだ。

 殴られるのが嫌なら、逃げればいい。外へ出て、助けを求めればいい。だが、それは出来なかった。
 別に監禁されているわけではない、出ようと思えばいつでも出られる。しかし、出られない。
 それは晴が幽霊だからだ。

 晴が生まれたとき、家は今よりさらに貧乏で、晴の母は誰にも内緒で晴を生み落とした。出生届も出されていない。家には子供などいないことになっている。
 いないはずの子供にちょろちょろされると迷惑だ。だから勝手に外に出るなと、日頃から煩く言いつけられていた。それを破ることは出来ない。
「お前が悪いんだ、全部お前が悪いんだ、悪魔め! ふざけんじゃねえぞ!」
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
 止むことのない激しい暴行に、晴は蹲る。自分はこのまま死ぬのかもしれないと思った。
 死にたくないなら家を出るしかない。頭ではわかっていたが、それも出来ない。自分が逃げれば妹は一人になってしまう。
 彼女は満足に歩けない。口も回らない。目もほとんど見えていない。とても外には出られない。ヒナをおいては行けない。
 彼女を護るために、自分は生きなければならない。それが晴の枷だった。
 
「死ねよ! さっさと死ね! 死んじまえ!」
 罵りとしても低俗な言葉を吐き散らしながら、父親は晴を殴り、蹴り回し続ける。身体を丸め、蹲った晴は、ただ父親の気が治まるのを待ち続け、やがて気を失った。