しばらく眠って、目を覚ましたら、竜也がベッドのそばのパイプ椅子に腰掛けて、じっと床を見ていた。眉間にしわを寄せた難しい顔。一緒にミネソタの夏を過ごしたころに比べて、ずいぶん大人びた。
 わたしが目を開けたことに、少し経ってから竜也は気が付いた。竜也は笑みを作った。目元にも頬にも、クシャッとしわができた。

「もう落ち着いたみたいですね」
「うん。迷惑かけた。ごめん」
「びっくりしました。おれの高校時代に蒼さんと何度か手紙をやり取りして、おかげで住所がわかってたんで、駆け付けられましたけどね」
「ああ、そっか」

「死ぬほど心配しました。ほんとに。何の病気かと思ったら、数値的には異常なしって……何もわからないって、それはそれで怖くて」
 竜也の声は途中から震えて、微笑んだばっかりの目元に涙がにじんだ。

「原因、ないわけじゃないと思う」
「どこか悪いんですか?」
「きっと、自分で自分の体をボロボロにしてきたせいだ」

 白い天井。まだ終わらない点滴。遠くで人の行き交う足音。今、何時なんだろう? カーテンで仕切られた向こう側にも、わたしと同じように点滴を受けている人がいるんだろうか。
 喉が渇いていた。つばを飲み込むと、さっき吐いた胃酸で荒れた食道と、ピアスホールを開けたせいで腫れた喉のリンパが、別々の痛み方をした。

 竜也が、点滴につながれたわたしの腕を見下ろした。
「体をボロボロにって、腕の切り傷のことですか? 耳も、ピアスがいっぱいになってて」
「……うん」

「誰も何も言わないんですか?」
「いつも長袖で、傷を人に見せないようにしてる」
「でも、彼氏さんは見るんでしょう? 叱られませんか?」
「何も言われたことない。傷も、ピアスも」

「変でしょう、それ。おれなら蒼さんのこと叱りますよ。何で自分を傷付けてしまうのか、話を聞かせてほしいって言いますよ」
「何も言われないの。この傷も何もかも、もう癖になってて、自分ではどうしようもない」

 天井がにじんだ。息が苦しかった。まぶたを閉じたら、目の上に無理やり乗っかっていた涙が、目尻から流れて落ちた。

「蒼さん、次に腕を切りたくなったら、おれを呼んでください。おれの腕、貸すから。ボロボロにしてくれて、全然いいから」
「そうじゃない。違う」
「どこが、何が違うんですか? 人を傷付けたくない? 自分の傷はよくても、おれの腕を切るのはイヤだ?」

「だって、人を傷付けたいなら、とっくに暴れて、事件とか起こして……何でそうならなかったのか、自分でも不思議だけど」
「おれもイヤなんですよ。蒼さんの腕がそんなふうに傷だらけなの、イヤです。好きな人が苦しんでるのを知ってて、そのまま見て見ぬふりって、絶対イヤです」

 点滴の管が刺さっていないほうの腕で、わたしは自分の目元を覆った。竜也はしばらく黙っていて、それから、わたしの手のひらに硬く四角いものを触れさせた。ケータイだ。

「ここ、響告大の附属病院なんで、医学部の先輩たちが検査の助手とかしてて、蒼さんの実家に連絡入れたほうがいいってアドバイスもくれて、おれ、勝手に蒼さんのケータイいじりました。すいません」
「……うん」
「ご両親、今度の休みに様子見に来るっておっしゃってました。後でまた連絡してみてください」
「わかった」

 竜也はちょっと言いにくそうに続けた。
「彼氏さんにも連絡したほうがいいかなって思ったんだけど、迷ってるうちに、連絡しそびれて」
「あの人には何も言いたくない」
「何で?」

「さあ……何でだろう? 何で、こんなにねじれてるんだろう?」
「ねじれてる?」
「あの人といても、しゃべらない。笑わない。あの人の部屋で家事とセックスだけして、わたしはそのためだけの存在みたいで、こんな自分がけがれてるように感じられて。何かもう、イヤだ」

 初めて声に出して言った。わたしを好きだと言った竜也の前で、わたしはひどい言葉を吐いている。

「けがれてないですよ。傷付いてるだけでしょ」
「違う。わたし、めちゃくちゃなんだよ。リスカやピアスだけじゃなくて、体がおかしくなった直接の原因はたぶん、睡眠導入剤とか大量に飲み続けてきたせいだし、摂食障害で、まともな食事が取れてなくて……」

 限界だった。今まで誰にも言えずにきた、壊れた毎日のことを、わたしは竜也に明かした。
 病んでいる、狂っていると、自分を責め続けてきた。みじめなところから這い上がりたくても、食べたい吐きたいという衝動に、すぐに呑まれた。そうじゃなかったら、ナイフで腕に赤い線を引いて、流れる血をじっと見ていた。

 やせたいとか、美しくありたいとか、醜い自分は認めたくないとか。ダイエットから摂食障害におちいった、目に見える理由はそのあたりにあるとしても。
 そもそもわたしは、自分で自分を許していないから、自分を追い込んで自分を傷付ける。なぜ許せないかというと、何一つ楽しくない学校という世界があったから。

 中学二年のとき、智絵がいじめられるのを止めることができていたら、その後のわたしの人生も大きく変わっていただろう。でも、そんな「もしも」を言ったところで、何の実りもない。
 現実はこうだ。死にたい死にたいと中途半端なことを願いながら、薬を飲んで眠っても、激痛で病院に運ばれても、生きている。みじめだけれど、痛みが去ったことにホッとして、助けを求めて竜也にすがって。

「蒼さん、ギターの練習、再開してくださいよ。言えずにいたけど、おれ、大学の入学祝いで、カホン買ったんですよ。ドラムの一種のカホン」
「え?」
「カホンとギターだったら合わせられるから、蒼さんと一緒にできることが何かあればいいなと思って、ちょっと練習してて。だから、蒼さんもギター弾いてくださいよ」
「……もう忘れた」

「ギターも、小説も。やりたいことやったらいいじゃないですか。今の蒼さん、楽しむことを恐れてるみたいだ」
「怖いよ。楽しいって気持ちに、罪悪感がある」

「楽しいは正義ですよ。楽しめばいい。過去にとらわれないで。蒼さんが今、苦しんだとして、それで蒼さんの大事な人が救われるんですか?」
「わかってる。理屈はそうだと思う。でも……」
「苦しいほうへ苦しいほうへ、わざわざ行かないでください。一緒にいて楽しくない人となんて、一緒にいなくていいと思います。別れて、おれと付き合ってください」

 竜也は正しい。当たり前で、だからこそ残酷だ。わたしには当たり前の判断ができないんだと、それをハッキリと突き付けてくる。
 痛い、痛い、痛い。血と膿がたまって腐りかけた傷に、ざっくりとナイフを刺し込むみたいに。

 でも、その鮮やかな痛みが、まぶしいくらい明白に示している。わたしはこれからどうするべきなのか。
 どうせ痛むのならば、病んだところを全部切り落とすための痛みを選びたい。ずるずると病みを深めていくだけの、そんなみじめなぬるま湯は、もうイヤだ。

 点滴が終わると、タクシーで家まで帰った。治療の費用は、親の口座から引き落としてもらう手続きを取った。竜也はわたしを部屋まで送って、自転車に乗って帰っていった。
 わたしは、ぐったり疲れ果ててベッドに沈みながら、笹山にメールを送った。

〈大事なお話があります。どこか外で会って話したいです〉