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「髪、伸ばしてるんですか? あと、またやせましたよね」
 会ってすぐ、竜也はそう言った。

「伸ばして結ぶほうが涼しいから」
「そっか。なるほど」
「でも、そんなやせてないよ」
「そうですか? まあ、おれにとっての蒼さんの印象って、最初に会った二年前のイメージだから」
「太りすぎてたころの、だよね。忘れてほしい」

 竜也は首をかしげながら笑った。
「太ってましたっけ? そういう感じの見方はしてないんで、わかんねえや」
「でも、やせたら気付くじゃん」
「だって、心配になるタイプの細さですもん。折れそうっていうか、倒れそうっていうか。元気ないように見えるんですけど、夏バテとかしてません?」

 体はとてもだるかった。冷房の効いた場所に行くと、すぐに手足が冷たくなる。といって、冷房なしでは、盆地だから湿気のたまりやすい響告市の蒸し暑さに耐えられない。どこにいても何をしても体がきつい。体力がどんどん削られていくのがわかる。

 わたしが竜也と会ったのは、八月半ば過ぎの夕方、響告大学のそばの喫茶店でのことだ。
 この喫茶店は、日本史学基礎論で、鎌倉時代が専門の教授が学生時代からのお気に入りだと言っていた。おもしろい講義をする教授だ。だから、わたしもその教授の真似をして、ときどきこの喫茶店に入る。

 竜也からミネソタの話を聞いた。まだ十二歳のケリーが、びっくりするほど大人っぽくなっていたこと。双子だから同い年のブレットは案外そのままで、まだまだあどけなかったこと。イチロー先生がいつの間にか結婚していたこと。

「おれ、けっこう話せるようになってましたよ。発音は全然よくなってないんですけど、下手くそでいいから、とにかくしゃべってやろうって。度胸がついたんですよね」
「度胸?」
「前は、完璧な文章じゃなきゃダメな気がして口を開けなかったけど、今は開き直ったんです。文法がグダグダでも、会話だったら、何か通じちゃうんですよね。テストではバツですけど」

 竜也は楽しそうで、まぶしくて。わたしは笑顔を作ってみせながら、気おくれした。竜也は頑張っている。わたしは何も頑張っていない。ものすごい劣等感。わたしは、しょうもない人間だ。
 凍らせている時間の長い心が、今は動いている。太陽みたいな竜也にチリチリと焼かれるような、くやしさ。

 オープンキャンパスの様子を、竜也に聞いた。自由に選べる模擬授業がおこなわれたり、研究室に出向いて話をきいたり、といったイベントがあったらしい。噂に聞いていたとおり、響告大学の研究者や先生方はとてもマニアックで、頭のねじが飛んでいた、と竜也は笑う。

 わたしは去年、オープンキャンパスに参加しなかった。受かる見込みが低すぎて、志望校を意識したくなかったんだ。意識したら、プレッシャーに押しつぶされる気がした。
 竜也も、もともとは、オープンキャンパスにはあまり興味がなかったそうだ。でも結局、わざわざ来た。

「おれの行動原理って、場所じゃないんですよ。人なんです」
「行動原理?」
「つまり、オープンキャンパスで言えば、受験のとき迷わないように下見するとか、そういうんじゃないんです。この先生の講義を聞いてみたいって人がいたし、蒼さんにも会えるしってことで、響告市に来てみたくて」

「人に会うため……」
「そう。おれ、基本的に、人間ってものが好きなんだと思う。もちろん、苦手な人やうまく仲良くできない人とか、いますけどね。でもまあ、割とどんな人でも、おもしろいとこ持ってる人だなって思えますよ」
「わたしとは正反対だね」

「そうですか? 蒼さんは警戒心が強いかもしれないけど、人嫌いではない感じがしますけどね」
「まさか」
「警戒心が強い人ほど優しくて、人を傷付けたくないから人を近寄らせないって、そういうとこ、あると思いますよ」
 わたしはかぶりを振った。嫌いだった。何もかもが嫌いで、憎む気持ちばかりを抱えてきた。

 竜也と話をしたのは、あまり長い時間ではなかった。竜也は同じ高校の人たちと一緒に来ていて、先生もいて、夜は全員で食事をする予定なんだそうだ。
 響告大周辺に不案内な竜也を、駅まで送った。乗るべき電車と降りるべき駅、降りてからどう歩けばいいかを竜也に教える。竜也は何度もお礼を言って、最後に、ちょっと照れた顔で右手を差し出した。

「おれ、受験、頑張るんで。来年、絶対ここに受かるんで。そのときは、よろしくお願いします」
 わたしも手が大きくて指が長いから、竜也の手もそう大きくは見えなかった。でも、握手をすると、竜也の手は関節が大きくて厚みがあった。男っぽいように見える自分の手が、本物の男の手と比べたら薄くて柔らかいんだと知った。不思議な感じがした。

「じゃあ、また」
「合格発表の日は、ケータイ、すぐ出られるようにしててくださいね。連絡しますから」
「わかった」

 改札を抜けて、竜也は人混みの中にまぎれていく。わたしはきびすを返した。バイトの時間がもうすぐだった。
 さあ、ここからは日常だ。竜也と話したのは、思いがけず楽しかった。もとのとおり心を落ち着けて、毎日を平坦にやり過ごさなければ。