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 バイト上がり、夢飼いの裏にある駐輪場に行くと、そこで笹山が待っていた。

「お疲れさま。帰り、一人でしょ? 送らせてもらってもいいかな?」
「……自転車に乗って帰るから、危ないとかそういうの、ないです」
「あるよ? ここで待たせてもらうこと、マスターにも許可をもらってあるんだ。ちょっと話をしたい。住所を知られたくなかったら、蒼ちゃんのマンションの前まで行くんじゃなくてもいい。近くのコンビニとかで」

 コンビニといえば、パンを買って帰ろうと考えていた。パンは吐きやすい。どろどろべたべたのかたまりになって、ぼたっ、ぼたっと出てくる。おにぎりは米粒がバラバラに散るから、全部を吐いてしまうまでに手間がかかる。
 わたしが気をそらした隙に、笹山はわたしの自転車を押して歩き出していた。笹山は徒歩で来たらしい。夢飼いのすぐ近くに住んでいると、そういえば、いつだったか言っていた。

「自分で押します」
「そう? ごめんね」
 笹山は自転車を支えて立ち止まった。わたしも笹山も右利きで、自転車を押すときは、自転車の左側からハンドルを握る。ハンドルを受け渡すとき、わたしと笹山の距離がひどく近付いた。一瞬、背中に覆いかぶさられるような体勢になる。わたしはビクッとした。

 ざわざわと、寒気を伴いながら鼓動が騒ぐ。居心地が悪い。自転車にまたがって逃げ出すことを、チラッと考えた。でも、体の動きも頭の回転も何だか鈍い。この状況に付いていけずにいる。立ち仕事の疲れもある。

「蒼ちゃんはすごくまじめなんだって、みんな言ってるよ。夢飼いのマスターも、蒼ちゃんと同じクラスの人たちも」
 文学部の学生は、多くが教職免許を取る。クラスの中にも、わたしと同じ教育心理学を受けている人もけっこういるから、笹山はその人たちと話したんだろう。
 なぜそこまでするのか。外堀を埋めるつもり? 情報収集?

「わたしは、まじめにやらないと、そんなに能力も高くないので」
 天才というものが実在するのだと、響告大に来てから実感した。まわりはみんな、めちゃくちゃ頭がいい。ひとみも驚異的だったけれど、それ以上だ。例えば、覚えるべき内容を一目見ただけで丸暗記してしまうような人と、簡単に知り合える。

 わたしがそんな人たちの中でやっていくには、ひたすらまじめにノートを取って、人一倍コツコツ勉強するしかない。受験生時代には「大学生になったら遊べるよ」なんて言う大人も多かったけれど、遊べる余裕なんてない。
 いや、遊んでも、単位は取れるらしい。取れるというか、降ってくるそうだ。ある程度の出席率と、テストやレポートさえ規定どおりにこなせば、卒業に必要な単位をそろえることができる。

 でも、ただ卒業するためだけの単位なんて、何になるだろう? 大学の四年間、勉強もせずにテキトーなノルマをこなす毎日って、ひたすら時間の無駄じゃない?
 高校時代の、教科書の内容を覚えるだけとは違う、本当の「学び」がここにはある。それを聞き流すなんてもったいないと、わたしは思う。だから、誰よりもきちんと理解したいから、中学時代や高校時代よりずっとまともに授業に出ている。

 笹山がわたしの顔をのぞき込むようにして笑った。
「教育心理学のノート、今度、見せてもらえないかな? うっかり遅刻した日がちょっとあって、そのぶんのノートが欠けてるんだ」
「ええ……」
「助かるよ。お礼はするから」

 笹山が話をする。わたしはあいづちを打つ。質問をされて、一言、答える。この人はわたしと会話するのが楽しいんだろうか? わたしは、ただただ落ち着かない気分だ。
 サークルのこと。わたしは何もしていないけれど、笹山は小さな同好会に入っている。格闘技の試合をだらだらと観賞するだけ、と言っていた。でも、気の合う連中と宅飲みをするというシーンが、笹山にとってこの上なく居心地がいいらしい。

 最寄りのコンビニに一緒に入った。笹山は雑誌を立ち読みして帰るらしい。表通りに面したガラス張りの本棚に、笹山は向かう。その途中、電話がかかってきて、ケータイをポケットから取り出す。
 二十三時を回った時刻にかけてくるって、よほど親しい相手なんだろう。彼女? あり得なくはない。笹山は、一般的に言って、かなりカッコいい部類だ。話し方にもそつがないし。

「友達からだよ。あいつ、夜行性だから」
 笹山が苦笑して言った。電話に出る直前の画面が、わたしの角度からチラッと見えた。「LOVEKONG/タカ」と書かれていた。サークルの仲間だろう、と何となく思った。

 長引く通話になると判断したのか、笹山はコンビニの外に出た。わたしはその隙にパンと飲み物を買って、笹山にちょっと頭を下げて自転車で走り去った。マンションとは逆方向へ。笹山にマンションの場所を知られるのが、何となく薄気味悪い気がして。

 イライラしている自分に気付いた。バイトが終わって、まじめな学生という型から解放されて、ストレス発散できる時間に突入するはずだったのに、邪魔された。
 食べて吐いて、ぐったり疲れて、シャワーを浴びて寝る。それがバイトの後の習慣になっている。そこに水を差された。

 自転車の前カゴに入っているのは、無難なパンが一つだけ。イライラの対価としては少なすぎる。もっと食べてやる。そして盛大に吐いてやる。
 学生街にはコンビニが多い。マンションから二番目に近いコンビニで、わたしはパンを買い足した。バターや油っけの多いパンを選ぶのがコツだ。そのほうが吐きやすい。

 マンションに帰り着くと、手も洗わず、食べた。普段の倍以上の量を食べて、はち切れそうな胃を抱えてトイレに駆け込む。全部、吐いた。水をがぶ飲みして、もう一度、本当に何も出なくなるまで吐いた。
 スーッと精神が落ち着いていく。買うときと食べるときの、頭の中が真っ赤に燃えているような異様な興奮は、もうどこにもない。

 家計簿をつけるのは、吐くことを覚えてから、やめてしまった。ストレス解消の正当な手段だと開き直ってみても、毎日けっこうな金額を、食べて吐くために使っている。それを数字で確認するのは精神的ダメージが大きい。
 両親からの仕送りは、学費とマンションの賃料でちょうど消えるくらいだ。生活費は自分で稼ぐ必要がある。夢飼いのバイト代は、このあたりの飲食店の中ではかなりいい。今のところ、貯金を削らずに生活できている。

 自分で稼いだお金なんだから、どう使ったっていいはずだ。コンビニのパンの種類は、おかげでずいぶん覚えた。新しい商品が入ると、すぐにわかる。
 吐いた後は、うつろで静かな気分になる。何もせず、ぼんやりしながら眠気が来るのを待つ。小説を書くのもギターを練習するのも大学の勉強をするのも、面倒くさい。

 思えば、わたしはずっと頭をフル回転させてきたように思う。小説や勉強のために考えをめぐらせるか、そういう活動もできないくらいに精神的に追い詰められて悩んだり嘆いたりするか。とにかく、いつもわたしの頭の中はぐちゃぐちゃに動いていた。
 今、何もない。食べて吐いて疲れ切った体の上に、ぼーっとして静かな頭が乗っかっている。楽だ。すごく楽だ。