わたしは卒業式に出なかった。入試は終わったけれどまだ合否がわからない時期に、わざわざ学校に出ていく気が起こらなかった。

 そうでなくとも、最後に思い出を作ろうとか写真を撮ろうとか寄せ書きをしようとか、そんな空気が嫌いだった。学校という世界の存在を強烈に感じなければならない。その実感は、智絵の思い出をいやおうなしに連れてくる。
 わたしはついに、高校に上がってから一度も智絵に会わなかった。存在を忘れている日さえあった。智絵が今どこで何をしているのか、生きているのかどうかすら、知らない。

 卒業証書をわたしに差し出しながら、鹿山先生は満足そうだった。
「おめでとう。やっとだな。よく頑張った。最後までここにいてくれて、ありがとう。これからは自由にやるといい」
「はい。いろいろ、ご迷惑をおかけしました」

「迷惑というよりは、心配が多かったがな。そうだ、ミネソタのホームステイの件だが、あの悪友から伝言がある」
「イチロー先生からですか?」
「夏休みにバイトをしないか、と。ホームステイの引率を手伝ってほしいんだと」
「そんなことができるほど、わたし、英語できませんけど」
「そうか? まあ、考えておいてやってくれ」
「はい」

 大学に合格したこと、まだケリーたちに知らせていない。手紙を書かなきゃ。竜也にはすぐメールを送った。間髪入れずに返信が来たのは、竜也も合格発表の日を知っていて、ケータイを持って待機していたんだろう。

 それからもう一つ、と鹿島先生はわたしに封筒を差し出した。
「文芸部の上田から預かった。自分で渡せばいいだろうと言ったんだが、無理なんだそうだ」
 手ざわりから、封筒の中に写真が入っているのがわかった。

 鹿島先生に深く頭を下げて、わたしは職員室を出た。きっともう二度とこの学校に来ることもない。
 下宿屋に戻ってから、封筒の中身を確かめた。まず、便箋を取り出して開く。短い手紙だった。

〈読んだら捨ててください。
 あなたのことが好きでした。
 あなたを描いた絵を、あなたは拒むでしょう。
 これはぼくが持っておきます。
 いつかあなたを忘れたら、塗りつぶします。
 さよなら。お元気で〉

 写真には、どこか遠くを見るわたしを描いた絵が写っていた。上田はもともと油絵の静物画が得意だ。そのタッチで、まるで置物のようなわたしがそこにいた。
 わたしはため息をついた。ずるいやつだ。姿を隠したまま、捨てられないものを背負わせるなんて。

 嫌いな人間ではなかった。まともな知り合い方をしたなら、仲良くなれたのかもしれない。告白されて戸惑ったりとか、そういう普通の何かがあったかもしれない。
 無理だったんだ。わたしにとって上田は、いつまで経っても「智絵の好きな人」でしかあり得なくて、その姿を見るたびに智絵のことを連想してしまう。

「さよなら。お元気で」
 わたしは声に出してつぶやいて、手紙と写真を封筒にしまった。卒業証書と一緒に封印しようと決めた。捨てはしないけれど、二度と中を見ることもない。

 響告大学に入学手続きをしに行ったときに、新しく住む部屋も押さえてきた。引っ越し日は三月末。大叔母の下宿屋にはギリギリまでいさせてもらう。
 大して多くもない荷物をまとめるのは簡単だった。部屋を出る前日に、宅配便で響告市の新しい住所宛てに送った。わたしの手荷物は、ちょっとした身のまわりのものを入れたバッグと、両親の家から回収したギター。

 ずいぶん長いこと弾いていないギターは、緩めた弦がすっかりさびていた。新しい町に着いたら、まず楽器屋を探して弦を買おう。
 下宿屋で過ごす最後の日、母が仕事を休んで琴野町に出てきた。バタバタと慌ただしくその日の時間は流れて、翌朝、わたしは一人で琴野町から旅立った。

 寂しくはなかった。希望も期待もなかった。ただ、ホッとしていた。やっと一人になれる。やっとこの町から出ていける。五年間住んだ琴野町を地元と呼ぶことなんて、わたしにはないだろう。

 さよなら、学校という世界。
 この先も自分を生かしていられるかどうか、新しい町で試してみることにするよ。