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 生まれてきて今までで特別に運がよかった日をいくつか選ぶなら、センター試験の数学があった日と響告大での本番で国語の試験があった日がワンツートップだ。

 数学は、どうやったってここから先は理解できない、というラインが自分でわかっていた。ラインよりも先は投げ出すんじゃなくて、数字ごと全部、模範解答を丸暗記した。
 その丸暗記した問題が、センター試験で出た。わたしが覚えたぶんは何の過去問だったんだろう? とにかくその三角関数の問題が、円に内接した四角形の各辺の数字までそっくりそのまま、センター試験で出題された。

 わたしは計算せず、覚えていた答えを解答用紙にマークした。信じられなかった。でも、覚えたとおりの式に矛盾はないし、解答欄の桁数も余らない。これでいけるはずだ。
 そうやってわたしが時間と点数を稼いだ数学のテストは、例年になく厄介な問題ぞろいで、平均点がガクンと低くなったらしい。相対的にわたしの順位は上がった。響告大の判定で、初めて、Bという高い評価が出た。

 願書を出す大学を本決めするための面談で、鹿島先生がニヤリとして言った。
「数学で丸暗記か。とんでもない話だが、おまえ、何か持ってるな。流れが来ていると信じろ。いけるぞ」

 それからの一ヶ月、響告大の過去問をやり込んだ。一日のノルマは一年ぶん。答え合わせとやり直しをするのは、世界史の記述問題だけだ。国語、英語、数学は、本番と同じ時間配分で、ひたすら解くだけ。自分にはこれをこなせるスピードがあると自信を付けるためだった。

 そして迎えた本番当日。初めて行った響告市は小雪がちらついていた。盆地だから、夏は暑くて冬は寒いらしい。試験は初日が国語と数学、二日目が英語と世界史だった。
 不安の残る国語と、まったく解ける気配のない数学という、ストレスだらけの二教科が先に終わってくれるのはありがたかった。わたしの体調はかなりギリギリだった。食事が喉を通らなかった。血混じりの下痢が続いていた。

 国語の試験が終わったとき、教室の空気が異様な具合にざわついた。例年の傾向から一転して、必ず出題されるといわれていた擬古文が出なかった。その代わりに、古い児童文学が問題文となっていた。
 試験対策をしっかり固めてきた人ほど、例年とはギャップのありすぎる問題文に衝撃を受けただろう。教室のざわつきは、そういうまじめな人たちの嘆きだったんじゃないか。

 わたしは、助かった。児童文学は、好きで得意だ。擬古文も苦手ではないけれど、恋愛系の随筆が来たときはつらかったし、国語のテストの点数は本当に運に左右される。
 センター試験と本番と、ラッキーが二つ。一点の差で泣いたり笑ったりの運命が決する大学入試だ。わたしはやれることを全部やり切って、その上で運にも味方された。

 それでもたぶん落ちるだろう、と思うことにはしていた。だって、ギリギリで間に合わせたとはいえ、判定はいつもEやFだ。家に帰ったら、後期試験の勉強を始めるとしよう。

 地元は響告市から遠いから、もう一泊して、翌日の午前中の新幹線で帰る予定だった。バスでホテルに戻る。親にメールで報告しようと思ってケータイを取り出したとき、雅樹から電話が来た。雅樹は、確かすぐ道向かいのホテルに泊まっている。

「もしもし?」
 雅樹のはずんだ声が電話の向こうから聞こえてきた。
〈終わったな。お疲れ。晩飯、どうする予定?〉
「食べる気がしない」

〈おれは腹減った。おれんとこのホテルの一階にさ、オーガニック野菜がどうのこうのっていうカフェが入ってんだけど、来ない? てか、来てもらわないと困る〉
「困るって、どうして?」
〈うちの担任が引率で来てるだろ。理系はおれを含めて三人、ここを受けてるから。せっかくだからみんなでお疲れさま会をやろうってことで、蒼にも声掛けるように言われた〉

 理系特進の平田先生は、ひとみの好きな人だ。センター試験の後、クレープ屋でひとみを切り捨てたときの会話が頭によみがえった。試験勉強に没頭する間、ずっと忘れていたのに。

「わたしが行ったら、むしろ邪魔なんじゃない?」
〈そんなわけない。女子ひとりだから、あれかもしれないけど〉
「そこは気にしない」
〈じゃあ、来いって。六時半、現地集合。費用は五百円で、残りは先生が出してくれる。試験のストレスで食えないって言えば、みんな状況は察してくれるから、好きなものだけ食ってろよ〉
「……わかった」

〈待ってるぞ。あと、あのさ……もう一つ、あるんだ。話。蒼にだけは、今のうちに言っとく〉
 明るかった雅樹の声が突然、ため息とともに沈んだ。

「話って何?」
 少しの間、沈黙。それから雅樹は低い声で告げた。
〈おれ、落ちたよ。物理で、やっちゃった。デカい問題をまるまる一つ、完全にミスった。あれが点数にならないんじゃ、無理だ。確実に落ちた〉

 わたしよりもずっと判定のよかった雅樹が、ダメだった?
「それ、本当に?」
〈後期試験は確実に通りそうなところしか受けないつもりだし、蒼と腐れ縁で一緒の大学っていう予定が変わっちゃったね。まあ、これはまだ誰にも言わないでほしい。とりあえず今日は、お疲れさんって笑っとくから〉
「わかった」

 しゃべったこともない人も交えてのお疲れさま会は、割とあっさり、夜八時になるころにはお開きだった。雅樹は明るく笑っていた。目元や頬が少しこけていた。あまり寝ていなかったんだろう。
 平田先生はひとみのことを何も話題にせず、だからわたしも何も話題にしなかった。

 結果から言えば、わたしは合格した。雅樹は響告大に落ちて、第二志望には危なげなく合格した。ひとみも第一志望に通ったらしい。木場山中学の三羽烏だったわたしたちは、三人とも別々の場所に散っていく。

 雅樹からは結果のメールが逐一来たけれど、ひとみやそのほかの人たちの進学先について聞いたのは、三月半ば過ぎの職員室でのことだ。わたしはその日、卒業証書を受け取るため、久しぶりに日山高校の坂を上った。