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 夏休みに入ってすぐ、竜也は電車に乗って琴野町まで、わたしに会いに来た。平日だったから、わたしは学校での補習の帰りだった。ミネソタで過ごす間はつねにズボンだったから、竜也の前で制服姿のスカートというのは気まずかった。
 一年のうちに、竜也は背が伸びていた。わたしの目の高さとだいたい同じだ。

「お久しぶりです!」
「久しぶり。遠かったよね? よくこんなところまで来れたね」
「まあ、遠かったですけど、まったく縁のない土地ってわけじゃないんですよ。ここを走ってる路線の、特急で一時間くらい行ったあたりに親戚が住んでて、今日もそこに泊めてもらうことになってて。あ、電話でもこれ言いましたっけ」

 竜也は今日、その親戚のところで晩ごはんを食べる予定らしい。だから、ここを夕方六時ごろには出なければならない。案外、時間はなかった。
 駅の裏側にあるコーヒーショップで話すことにした。竜也はしきりにまわりを気にしていた。わたしが同じ高校の誰かに見られたらまずいんじゃないか、と。

「別にどうでもいいの」
 むしろ目撃されるほうが愉快かもしれない。日山高校では、男女交際は自粛しろ、と集会のたびにアナウンスがある。受験生になってから、進路指導の先生はますます口うるさい。だからこそ、だ。学校という世界に反抗する材料として、誰かに目撃されて噂にでもなればいいと、わたしは思った。

 小さなテーブルに向かい合って座ると、竜也はいつも笑っている顔を、少し曇らせた。
「やっぱり、蒼さん、ずいぶんやせたでしょ」
 わたしは笑ったかもしれない。
「たぶんね」

「受験勉強、大変なんですか? あ、そういえば、ご両親とも別々に住んでるんですよね」
「勉強はそれなりに必死。全然、合格圏内じゃないから。でも、やれるところまでやるよ。でね、親がいないから、気が済むまでやれてる感じ。真夜中までやってても、大叔母は先に寝るから」
「体、壊さないでくださいね。ちょっと顔色も悪いみたいだし、心配です」
「平気。きみのほうは? 何か変わったこととかあった?」

 竜也は、顔中をくしゃくしゃにするような、無防備でお人好しそうな笑い方をした。
「あと一歩でインターハイだったってのが、結局、最近でいちばんのニュースですね。手紙でも書きましたけど」
 弓道着姿で部活仲間と一緒にふざけながら写った写真が、その手紙には同封されていた。

「惜しかったんだってね」
「決勝、一点差でした。おれ、高校総体のころはかなり調子がよくて、的中率が過去最高で、エースのポジションだったんですけどね。まあ、負けて夏に試合がなくなったから、ミネソタに行けるんです。そう思えば、結果オーライかなって」

「部活、けっこう長く休むことになるんだよね」
「うちの学校は、そのあたりは割と緩いんですよ」
「うらやましい」
「善し悪しじゃないかな。あまりにも先生からほったらかしにされてるなって感じるときもありますよ。サボり癖がついて、もとに戻れなくなったやつとかいて」

 ニコニコ明るい顔をしながら、竜也は案外、わたしと目を合わせない。久しぶりに会って照れくさいんだろうなというのは、わたしにも伝わってくる。じっと見られるより、わたしにとっては気が楽だった。
 手紙でおおよその近況は伝え合っている。竜也との会話は、手紙の内容の確認作業に始まって、ちょっと横道にそれながら話の枝が伸びて、という格好だ。

「じゃあ、蒼さんは今、ギターを弾いてないんですか?」
「下宿先には持ってきてない。部屋、狭いし」
「もったいないです。受験勉強で、弾いてる余裕もないんですかね」
「うん。大学に入ったら、ギターも復活させる」

「楽しみにしてます。小説とかホームページとかは続けてるんですよね?」
「そう。幸い、大叔母がパソコンを持ってて、なんとネットもつながってて、夜中だったら少し使わせてもらうこともできる。だから、集会のときとかにね、原稿の下書きを書いて、夜にそれをパソコンで打ち込んで、ホームページにアップして、みたいな」

 スマホがあれば、わたしの小説活動はもっと簡単に続けられただろう。当時のネットは、スマホと比べて格段に面倒なものだった。パソコンをネットにつないでいる間は、その代わりに、家の電話が使えない。大叔母の迷惑にならないよう、夜中に最低限の接続をするだけだった。
 それでも、書くことそのものは、受験生のわたしにとって唯一の安らぎであり、発散手段であり続けた。書いていたのは小説だけではなくて、小説よりも時間をかけずに一つの結論を出せる短歌もよく作った。筆箱の中に忍ばせたメモ帳に、尖った言葉を書き付けた。

 コーヒーを飲みながら竜也と話して、わたしは久しぶりに笑った。高校の制服を着たままだったのに、いつも肩に乗っかっているはずの重たいものを忘れていた。竜也がミネソタの夏のあのさわやかな風を連れてきてくれたんだ。
 竜也にケリーとブレットへのプレゼントを預けた。ケリーはディズニーの『美女と野獣』の小さな絵本、ブレットへは『ドラゴンボール』のコミックス。もちろん、両方とも日本語のものだ。手紙も添えた。

 あっという間に時間は過ぎて、わたしは竜也を駅の改札で見送った。改札をくぐった後、竜也は振り向いて言った。
「ミネソタから帰ったら、また会いに来ます。お土産を持って」
 竜也はわたしの非日常だ。夏の終わりにもう一度、非日常に会えるなら、追い詰められてばかりの毎日もどうにかおぼれずに越えていけるだろう。

「わかった。じゃあ、また、そのときに。Have a nice trip」
「あっ、発音いい! Your English is so good」
「Because I always practice talking in English, in order to communicate with my friends in Minnesota」

 いつだって学校帰りに頭の中で転がしている英語を口に出してみたのは、これが初めてだ。中学で習うような簡単な単語と、受験英語を引っ張ってきた文章。
 ああ、しゃべれる、という手応えがあった。

 竜也が声を上げて笑った。
「あーもう、おれも英会話教室に通ってけっこう練習したのに、蒼さんのほうがちゃんとできてる。まあ、蒼さん、文系だしな。さすがっすね」
「受験生だもん。勉強してるの」
「よし、じゃあ、ほんとにそろそろ行きます。今日、ありがとうございました」
「うん。それじゃ」
 わたしたちは笑顔で手を振った。

 竜也の後ろ姿が見えなくなって、わたしは手を下ろした。笑っていた顔が、ため息ひとつで、重苦しいしかめっ面に戻るのを自覚した。
 夏の終わりまでに、もう少し、やせられるかな。
 相変わらず、竜也は細く引き締まった筋肉質な体つきだった。うらやましいなんて言うのは、きっと筋違いだ。わたしが引きこもって何もしなかった間、竜也はまじめに部活で体を鍛えていたのだから。

 やせなきゃ。
 竜也と話している間は楽しくて、わたしは年上だからカッコよくありたいと背筋を伸ばしていたのに、一人になった途端、いつものわたしだ。劣等感と焦燥感に絞め殺されそうになる。

 駅を出る。日はまだ沈んでいない。わたしは日陰を選んで歩いた。汗が流れる。体に溜め込んだ脂肪も、こんなふうに簡単に流れて消えてしまえばいいのに。