ひとみは遠慮なくわたしに抱き着いた。
「会いたかった! 遊びに来てくれてありがとう!」
「大げさ。引っ越してから、まだ一ヶ月も経ってないんだよ」
「まだ一ヶ月って信じられない! 学年が上がってからいろいろ忙しかったし」
「だろうね」

「学力テスト、どうだった? こっちはね、今回は雅樹くんが一位だったよ。雅樹くんは、三教科では国語だけがネックだけど、今回のテストは科学の説明文がメインだったから得意分野だったって」
「それで、ひとみが二位」
「うん。蒼ちゃんがいたらどうなってたかなって、雅樹くんと話したよ」
「わたしは五教科あるときのほうが強いし」

 先生方が「三羽烏」と呼んだ、わたしとひとみと雅樹。木場山のようないなかではめったに出ないような成績優秀な子どもが、同じ学年に三人もいる。そういう意味だ。
 成績優秀といっても、三人ともタイプが違う。わたしは英語と社会が強い文系。ひとみは三教科がバランスよく、全部できる。雅樹は「数学と理科は高校レベル」と言われるほどの理系。
 でも、わたしはたぶん、本当はそんなに優秀なんかじゃない。楽しみながら競える相手がいなくなって最初の学力テストは、全然ダメだった。

「わたしぐらいの成績の人、ほかにもいたよ。新しい学校での学力テスト」
「えっ、そうなんだ? 都会はやっぱり違う? みんな塾に行ってる?」
「ほとんどみんな行ってるみたい。学校は同世代の人が集まるだけの場所で、勉強を教わる場所は塾。そんな感じの人、多い」

「じゃあ、そういう人って、授業を聞いてない?」
「うん、わたし、目が悪いからさ、前のほうの席にしてもらって助かったけど、後ろのほうは何かメチャクチャ。木場山では想像もできない光景だと思う」
「そうなんだ。大変そう」

「それに、教科書の出版社が違うんだよね。そしたら、社会と理科は習った範囲が微妙にズレてたし、数学も式の書き方の癖とかがちょっと違う。英語が悲惨。習ってない単語がいっぱいあって、学力テストでは、見たことない点数だった」

 三教科の中では、英語がいちばん得意だ。数学は必ず計算ミスを出してしまう。国語は問題文との相性に左右される。でも英語は、物心つく前からディズニーソングのCDを聴いて覚えていたおかげで、ペーパーテストもスピーキングもヒヤリングもできる。

 それなのに、だ。単語の意味を答えるだとか、下線部の英文を日本語にするだとか、肝心のところに、わたしの習っていない単語が現れた。中一のころは、テストで空欄のまま提出したことなんてなかったのに。

 新しい学校のことを考えると胃がキリキリするのは、あの英語のテストも関係があるかもしれない。
 だって、『The Little Prince』は直訳すれば「小さな王子」だけれど、『小公子』ではなく『星の王子様』なんだって。知らなきゃ答えられない。いちばん正答率の高かった単語テストで、わたしだけが間違った。

 ひとみは小首をかしげて、ぷっくりした唇を突き出した。
「蒼ちゃんだったら、中間テストで巻き返せると思うよ」
「そうであることを願うけど」
「制服、かわいい?」
「全然。古くさい感じのセーラー服」
「セーラー服、いいじゃん! 木場山は古くさいブレザーだもん」
「ブレザーのほうがマシだよ」

 卒業まで着ないとわかっていた木場山中のブレザーは、卒業生からおさがりをもらった。琴野中のセーラー服は新品を買った。新入生と同じ、のりのきいた新品の制服を着て、新入生に交じって部活見学をした。その居心地の悪さといったら、ひどかった。

 ひとみは「思い出した!」と言うように、ポンと手を打った。
「そうそう、学年が変わって、まずクラス替えがあったんだよね。二クラスだから、半分しか入れ替わらないけど。それで、『蒼ちゃんって隣のクラスだっけ?』って、どっちのクラスでも言っちゃう感じだった。最近やっと言わなくなったの」

 その瞬間、感じた。わたしの居場所はここにはないんだ、と。
 やっぱり、ここはわたしの帰る場所ではないんだ。わかっていた。木場山中に入学したときから、みんなと一緒にここを卒業することはないんだと知っていた。それを今、改めて確認した。
 まあ、「おかえり」じゃなくて「遊びに来てくれてありがとう」だもんね。

 ひとみはずいぶん急いで部室を抜けてきたらしい。ようやく合唱部の面々が追い付いてきて、わたしに声を掛けた。ほかの部でも次々と下校が始まって、わたしは以前のクラスメイトたちに囲まれた。

 木場山は小さな中学校だから、部活は強制参加だ。文科系は合唱部と吹奏楽部しかない。運動部も人数的に制約が大きくて、サッカー部や男子バスケ部は存在しない。男子だけの野球部と女子バスケ部、男女いるのがバレー部と卓球部と剣道部と陸上部。
 新しい学校で、わたしは帰宅部だ。あちこちの部に呼ばれて見学だけはした。でも、何もしないことにした。

 木場山中のバレー部は楽しかったけれど、集団行動が疲れるときもあった。琴野中では部活を何もしないという選択肢があると知ったとき、ホッとした。こういうのがわたしの本質なんだと思う。
 わたしは、みんなで一つのことに熱中する、ということができない。一歩、引いたところにいる。一緒に笑ったり泣いたりしてみせる自分を、観客席にいるもう一人の自分が眺めている。

 人との出会いと別れもそう。初めましての瞬間に、別れの日までのカウントダウンを始める。相手との間に透明な壁を作っておく。さよならするとき、悲しみのダメージを受けずにすむように。

 わたしとの再会を喜ぶみんなの真ん中で、わたしは声を上げて笑ってみせながら、心はひどく冷めていた。
 もう木場山には来ない。わたしが抜けた穴は、とっくにふさがっている。戻るための場所は、もうここにはないんだ。

 部活を終えて制服に着替えた雅樹が、陸上部の同級生と一緒に門から出てきた。雅樹はわたしのほうにチラッと笑ってみせた。
 わたしは目をそらした。

 気持ちが晴れるんじゃないかと思って木場山に来てみたのに、逆に心がふさぐだけだった。ゴールデンウィークが過ぎたら、また毎日、琴野中に通わなければならない。
 できるんだろうか? できないんじゃないか。
 わたしはこのまま学校に行けないんじゃないだろうか。