部誌が配布されたのは文化祭の日だった。一年のころの文化祭は、クラスで何をしたっけ? 記憶にない。わたしは確か欠席した。
 今年は一応、お化け屋敷だ。とはいえ、きっちり準備するほどの時間なんて進学校には用意されていないから、模造紙に世界各国のお化け事情をまとめて教室内に展示した。

 教室内の飾り付けには、私物の黒猫やこうもりのぬいぐるみが動員された。それの盗難を防ぐため、教室で見張りをする当番が組まれた。わたしはくじ引きで負けたせいで、午後の最後のコマに教室に張り付くことになった。
 わたしの当番の時間帯は、目玉となるステージ企画のタイミングと重なっていた。おかげで来場者はほとんどいなくて、わたしはガランとした教室で本を読んで過ごした。

 もう少しで時間終了というころになって、雅樹が一人でふらりと教室を訪れた。
「蒼、これ読んだよ」
 雅樹は文芸部誌を手にしていた。

「普段、漫画しか読まないくせに」
「文章の本も読むよ。ノンフィクションばっかだけど。で、これはノンフィクション?」
「何でそんなこと訊くの?」
「すげーリアルに書いてあるから。今までの蒼の小説は作り物って感じがあったけど、今回のは違う。あっちで出会いでもあった?」

 からかうような薄い笑みが雅樹の頬に浮かんだ。陸上部だから、よく日に焼けている。雅樹の口元にうっすらとしたひげの剃り跡があることに、わたしは初めて気が付いた。
 雅樹は、背丈はそう高くない。でも、一つ下の竜也よりは高い。竜也は、細く締まった筋肉の感じも、まだちょっと幼かった。制服だったら、きっと肩回りなんかがぶかぶかだろう。

 とっさに頭に浮かんだ竜也の姿を、かぶりを振って追い払いながら、わたしは雅樹に答えた。
「ノンフィクションだけど、わたしじゃないよ」
「ふぅん。だったら別にいい」
「いいって、何が?」

「両想いでも国境またいでるとか、どう考えても悲惨だろ。時差もあるから、電話だってかけにくい。あと半年で受験生になるってのに、遠距離恋愛なんてやってる余裕ないじゃん」
「急に変なこと言い出さないでよ」
「変かな」
「変だよ。何かあったわけ?」

 雅樹は奇妙に明るい表情で大げさに肩をすくめた。
「今日、おれ、デートだったんだよ。部活の先輩の女子に約束させられてたわけ。一緒に展示を見て回ったりして。で、予想はしてたんだけど告白されて、半年後には遠距離になる見込みだけど付き合いたいって。ちょっと考えて、ごめんなさいっつって泣かせてきた」

「笑顔で報告することじゃないでしょ」
「じゃあ、どんな顔しろってんだよ? 好きも嫌いもなく普通の距離感だと思ってた先輩で、もう部活に来ないから会わなくなって三ヶ月でさ、このタイミングでいきなり、実は好きだったとか言われて。どういう表情すればいいかわかんないときって、顔、笑えてこない?」

「そうかもしれないけど」
「あのさ、おれって客観的に見てそんなにカッコいい? この顔、そんなにモテる要素ある? 顔とか容姿とかのせいで、おれ自身が知らないおれが部活の女子の間で独り歩きしててさ、何人泣かせたのって言われて。何人と寝たのって。んなわけねぇだろ、バーカ」

 雅樹は笑ったままだ。ケラケラ笑いながら、いら立ちを吐き出している。
「おれはただ、誰ともぶつからないように、敵を作らないように、全体的にみんなといい感じの距離でやってけるように、それだけ考えて立ち回ってる。八方美人かもね、うん。それは否定しないけど、まさかプレイボーイの両刀使いなんて言われるとはな」

「それ、告白を断ったら言われたの?」
「そう。泣かしちゃった、しまった、って思ったら、次の瞬間には態度変わってんの。顔がよくてモテるのをいいことに好き放題してんじゃねーよ、みたいな。被害者の会でも作る気かね、あの人は」

「想像つくかも。中学時代、女子の人間関係って、そういうのがけっこうあった。目の前にいる相手に合わせて、陰口や悪口のターゲットを変えたり方向性を変えたり」
「女子って、わけわからん生き物すぎる。付き合うとか、もう、おれ絶対に無理だ。とか思ってたんだけど、蒼が書いたような恋愛なら意味わかるし、わかるからこそ痛々しいし。これが蒼のノンフィクションだったらちょっとあれだな、と」
「あれって何?」

 顔をクシャクシャにするほど笑ってみせていた雅樹は、ふっと表情を消した。どういう表情をすればいいのかわからない、という言葉に正直な空っぽの顔がそこにあった。
「やめとけよ、って。転校してからの蒼は、どっかすげー遠くに行っちゃった感じがあったけど、国境の向こうまで見始めたら、ますますだろ。幼なじみで、友達で、親戚より近い相手だと思ってたのに」

 わたしは首を左右に振った。
「国境の向こうを知ったとき、わたしは、自由だったころの自分を思い出した。狭い世界でがんじがらめになってた自分を、どうやったら解き放てるのかがわかって、目指すべきものを見付けた」

「そっか。人がどんどん変わってくのは仕方ないんだな」
「あんたが言うことじゃないと思うけど。あんただってだいぶ変わった」
「変わりたくないのに、まわりが勝手に、カッコいい雅樹くんのイメージを作り上げてくれるからさ。おれ自身、あっと気付いたら、何か変わってるんだ。ほんと、変わりたくないのに」

 雅樹は壁に背を預けると、そのままずるずる沈み込むように座った。文芸部誌を開いて、読んでいるのかいないのか、視線を紙面に落とす。
 わたしも手元の文庫に意識を戻した。文化祭の全日程の終了を告げる放送が鳴るまで、わたしと雅樹は言葉を交わさず、そうしていた。