夏休み明けすぐに、文芸部誌の秋号の原稿の締め切りがあった。わたしは竜也たちに宣言したとおり、ミネソタでのホームステイを舞台にした小さな恋物語を書いた。

 日本人の中一の女の子が、ミネソタの同い年の男の子と恋をした。言葉もろくに通じないのに、ふざけ合って笑い合って本当に楽しそうに恋をして、フェアウェルパーティでは大泣きしながら、「ご縁が続きますように」と願いを込めて五円玉をキーホルダーにして贈っていた。

 初稿を部長の尾崎や挿絵係の上田に確認してもらったときから、今回の短編は評判がよかった。尾崎は鼻歌交じりで、ご機嫌だった。
「蒼が明るいトーンの話を書くのは珍しいけど、あたしはこういうのが読みたかったんだ。蒼の心理描写はえぐいじゃん? 畳み掛けてくるリズムに乗せられて、こっちも感情を引っ張り回される。それが作用するのが暗い方向だけじゃなくて、ハッピーなのもいけるってのは貴重だよ」

 尾崎の言葉にはうなずける。文芸部誌に寄せられた作品はたいてい、「闇と病みが特殊な能力を引き出す。オレの眼帯を外そうとするな」みたいな雰囲気だ。癖のあるものがカッコいいと誰もが考えていて、万人受けするものや正統派と呼ばれるものは誰も書こうとしない。

 上田がホッとしていた。
「似たり寄ったりの挿絵にならざるを得なかったんだ。蒼さんの作品のおかげで、今回は違うものが描ける」

 異能や邪眼の設定は癖があってカッコいいと思っているのは本人だけで、結局のところ、多くの人が似たり寄ったりのことを考えている。それが滑稽で、わたしはできるだけ違うものを書こうと決めていた。それが今回、本当の意味で成功した。

 自分とはまったく違う、明るく恋する女の子を書いている間、わたしは本当に自分自身から離れていた。普段は聴かないような恋の歌を聴きたくなった。ハッと気付くと、笑いながら書いていた。
 何者にでもなれるんだ、と実感した。本を読むとき、自分とは違うタイプの登場人物にも感情移入することがある。小説を本気で書くときは、読むときの比ではないほどに深く、わたしは主人公の中に入り込む。

 原稿を仕上げて提出して、上田の描く挿絵を下絵の段階から三回ほど確認して、印刷が上がったら製本をする。部誌の制作過程にフルに関わったのは初めてだった。わたしはその間、一度も学校を休まなかった。一ヶ月皆勤なんて、何年ぶりだろう?

 休まないことが偉いことだと思ったわけではない。後ろめたさを抱えたまま生きたくないと思った。じゃあどうしたらいいんだろうって、それは悩むまでもないことで、錆び付いた武器を研ぎ直してみせようと決めたんだ。

 中学時代、わたしの武器は勉強だった。知識が身に付く実感は、わたしが生きている中で数少ないポジティブな刺激だった。ただの刺激だったら、体を傷付ければ簡単に手に入るけれど、傷だらけの体にはときどき嫌気が差す。ほしいのはこれじゃないんだと苦しくなる。

 傷じゃなくて、ほしいのは武器。わたしに必要なのは武器なんだ。
 勉強という武器、知識という武器を効率よく手に入れるには、やっぱり学校という場が便利だった。便利だから行くだけ。あの人間関係とか嫌いな空気とかに妥協したわけでも迎合したわけでもなくて、わたしはわたしの目的のために。