昼休み、わたしは文芸部室がある校舎裏の細長いプレハブを訪ねた。マイナーな部や同好会が使用が認められた部屋がずらりと並んでいる。
お堅いと評判の進学校である日山高校も、昼休みとなれば、にぎやかだ。校舎のほうから、しゃべったり笑ったり叫んだり騒いだりする声が聞こえてくる。
部室のプレハブは静かで、ほったらかしの木々の影になって暗い。木漏れ日の影がコンクリートの地面にまだら模様を作っている。
この場所は悪くないな、と思った。とりあえず放課後、来てみてもいいかもしれない。
まだ活動の始まっていない文芸部の部室は、出入口の引き戸にカーテンもない。授業中に何度も見て、すでに文面まで覚えてしまったチラシが、引き戸のガラス窓に貼ってある。
わたしはガラス窓に近付いて、昼間でも薄暗い室内をのぞき込んだ。長机とパイプ椅子、移動式の黒板。部屋の隅に段ボール箱が置かれていて、その中に過去の部誌らしいものが入っている。
ふと、ガラスに人影が映った。男子だ。見覚えのある背格好の人物。わたしは振り返る。
やっぱり上田だった。上田の手にも、わたしと同じ文芸部のチラシがある。
「こんにちは。ちょっと久しぶり。蒼さんも、尾崎さんのスカウトで?」
「まあ、うん」
「ぼくも尾崎さんから声を掛けられたんだ。ぼくは小説要員じゃないけどね。表紙や挿し絵が描ける人、探してたらしくて」
「知り合い?」
「尾崎さんは同じ小学校だったんだよ。彼女、中学は国立大学附属の優秀なところに行っちゃったから、会うことがなくなってたんだけど。相変わらずの勢いのすごさに圧倒されたよ。蒼さん、文芸部、入るの?」
「決めてない」
「尾崎さんにロックオンされたら逃げられないよ。ぼくは入ることになると思う」
上田は無邪気そうに微笑んだ。わたしはその笑顔に応えられない。ひとみや雅樹が相手のときと同じだ。いや、上田のほうが、もっとやりにくい。
過去を切り離すことってできないんだろうか。上田は中学時代のわたしのことを知りすぎている。智絵のことも知っている。
上田を見ると、どうしても智絵のことを思い出してしまう。完成しなかった文化祭の絵のことも、好きな人や物を好きと感じられなくなってぼんやりとした表情のことも。
わたしはため息をつくために大きく息を吸った。ときどきこうして意識しないと、呼吸のやり方を忘れていることがある。
ため息を聞き付けたらしい上田は、肩をすくめて小さな笑い声を立てた。
「文芸部のメンバーなら、そう心配することもないと思うよ。尾崎さんの基準で選ぶんだから。あの人はね、縛られるのが大嫌いなんだ。同じ部屋の中にいても別々に集中していられるような、そういう人ばかりに声を掛けてると思う」
そうじゃないんだと、わたしは言ってしまえばよかっただろうか。
同じ部屋の中にいること。すぐそばに人の気配があること。それだけで圧迫感を覚えるんだ。胃がキリキリして、胃の裏側に当たる背中がビシリと緊張して、肩がこる。わたしには一人の時間がたくさん必要なんだ。
上田は腕時計を見た。昼休みがもうすぐ終わる。次は何だっけ。確か、社会。世界史を楽しみにしていたのに、一年生で習うのは現社だ。世界史と日本史と地理の選択授業は二年生からだという。
わたしは部室から離れた。上田が、智絵が憧れたあのきれいな声で、ささやくようにわたしに訊いた。
「途中まで一緒に、隣を歩いてもいい?」
上田の慎重さを、智絵だったら、優しさだと感じただろう。智絵はおずおずとうなずいて、緊張して真っ赤になって、長いまつげを震わせながらまばたきをするだろう。
わたしは舌打ちしたくなった。上田が勝手に隣に並ぶのなら、そんなふうに強引で自分勝手なやつが相手なら、こっちだって意地悪なことができるのに。無視して振り切ってしまうこともできるのに。
「好きにすれば」
いいよとも言えないし拒絶もできないわたしは、中途半端な言葉を吐いて歩き出す。隣というには離れた位置で、上田も歩き出した。
不毛な妄想をする。これがまともな青春ドラマなら、この場面を智絵が目撃してしまうんだ。智絵は勘違いをして、「身を引かなきゃ」だなんて、陰で泣く。最後には誤解が解けて、わたしと智絵は仲直りができる。
ありふれたストーリーを想像して、そんな小説が書けるもんかと思う。甘酸っぱい学園ものの青春ドラマなんか、わたしは書かない。書けないよ、絶対に。学校っていうこんな世界、大嫌いなんだから。
上田は無言だった。自分のクラスのところで「じゃあ」と言っただけだ。話すわけでもないなら、隣に並ぶ必要もなかっただろうに。
その日の放課後、尾崎が待ち受ける文芸部室に行ったわたしは、入部届に名前を書いた。突進してくる尾崎のハグを全力で回避して、家路に就いた。
お堅いと評判の進学校である日山高校も、昼休みとなれば、にぎやかだ。校舎のほうから、しゃべったり笑ったり叫んだり騒いだりする声が聞こえてくる。
部室のプレハブは静かで、ほったらかしの木々の影になって暗い。木漏れ日の影がコンクリートの地面にまだら模様を作っている。
この場所は悪くないな、と思った。とりあえず放課後、来てみてもいいかもしれない。
まだ活動の始まっていない文芸部の部室は、出入口の引き戸にカーテンもない。授業中に何度も見て、すでに文面まで覚えてしまったチラシが、引き戸のガラス窓に貼ってある。
わたしはガラス窓に近付いて、昼間でも薄暗い室内をのぞき込んだ。長机とパイプ椅子、移動式の黒板。部屋の隅に段ボール箱が置かれていて、その中に過去の部誌らしいものが入っている。
ふと、ガラスに人影が映った。男子だ。見覚えのある背格好の人物。わたしは振り返る。
やっぱり上田だった。上田の手にも、わたしと同じ文芸部のチラシがある。
「こんにちは。ちょっと久しぶり。蒼さんも、尾崎さんのスカウトで?」
「まあ、うん」
「ぼくも尾崎さんから声を掛けられたんだ。ぼくは小説要員じゃないけどね。表紙や挿し絵が描ける人、探してたらしくて」
「知り合い?」
「尾崎さんは同じ小学校だったんだよ。彼女、中学は国立大学附属の優秀なところに行っちゃったから、会うことがなくなってたんだけど。相変わらずの勢いのすごさに圧倒されたよ。蒼さん、文芸部、入るの?」
「決めてない」
「尾崎さんにロックオンされたら逃げられないよ。ぼくは入ることになると思う」
上田は無邪気そうに微笑んだ。わたしはその笑顔に応えられない。ひとみや雅樹が相手のときと同じだ。いや、上田のほうが、もっとやりにくい。
過去を切り離すことってできないんだろうか。上田は中学時代のわたしのことを知りすぎている。智絵のことも知っている。
上田を見ると、どうしても智絵のことを思い出してしまう。完成しなかった文化祭の絵のことも、好きな人や物を好きと感じられなくなってぼんやりとした表情のことも。
わたしはため息をつくために大きく息を吸った。ときどきこうして意識しないと、呼吸のやり方を忘れていることがある。
ため息を聞き付けたらしい上田は、肩をすくめて小さな笑い声を立てた。
「文芸部のメンバーなら、そう心配することもないと思うよ。尾崎さんの基準で選ぶんだから。あの人はね、縛られるのが大嫌いなんだ。同じ部屋の中にいても別々に集中していられるような、そういう人ばかりに声を掛けてると思う」
そうじゃないんだと、わたしは言ってしまえばよかっただろうか。
同じ部屋の中にいること。すぐそばに人の気配があること。それだけで圧迫感を覚えるんだ。胃がキリキリして、胃の裏側に当たる背中がビシリと緊張して、肩がこる。わたしには一人の時間がたくさん必要なんだ。
上田は腕時計を見た。昼休みがもうすぐ終わる。次は何だっけ。確か、社会。世界史を楽しみにしていたのに、一年生で習うのは現社だ。世界史と日本史と地理の選択授業は二年生からだという。
わたしは部室から離れた。上田が、智絵が憧れたあのきれいな声で、ささやくようにわたしに訊いた。
「途中まで一緒に、隣を歩いてもいい?」
上田の慎重さを、智絵だったら、優しさだと感じただろう。智絵はおずおずとうなずいて、緊張して真っ赤になって、長いまつげを震わせながらまばたきをするだろう。
わたしは舌打ちしたくなった。上田が勝手に隣に並ぶのなら、そんなふうに強引で自分勝手なやつが相手なら、こっちだって意地悪なことができるのに。無視して振り切ってしまうこともできるのに。
「好きにすれば」
いいよとも言えないし拒絶もできないわたしは、中途半端な言葉を吐いて歩き出す。隣というには離れた位置で、上田も歩き出した。
不毛な妄想をする。これがまともな青春ドラマなら、この場面を智絵が目撃してしまうんだ。智絵は勘違いをして、「身を引かなきゃ」だなんて、陰で泣く。最後には誤解が解けて、わたしと智絵は仲直りができる。
ありふれたストーリーを想像して、そんな小説が書けるもんかと思う。甘酸っぱい学園ものの青春ドラマなんか、わたしは書かない。書けないよ、絶対に。学校っていうこんな世界、大嫌いなんだから。
上田は無言だった。自分のクラスのところで「じゃあ」と言っただけだ。話すわけでもないなら、隣に並ぶ必要もなかっただろうに。
その日の放課後、尾崎が待ち受ける文芸部室に行ったわたしは、入部届に名前を書いた。突進してくる尾崎のハグを全力で回避して、家路に就いた。