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 ひとみと雅樹が食事をしに来た日曜の夜は、ちょっとしたパーティと呼べるほど、食卓が華やかだった。三人ぶんの入学祝いということらしい。パスタとピザとチキンと、カラフルなサラダと、デザートにはフルーツたっぷりのケーキ。

 テンションの高い母とひとみのやり取りと横で聞きながら、わたしは思わずつぶやいた。
「面倒くさい……」
 ずらりと並べられた料理の中から、まともな内容と量を考えて自分の皿に取り分けて食べる。そのことが途方もなく面倒くさい。

 中学のころからの胃の痛みは、高校に上がってもまったく治っていない。空腹感も満腹感もわからない。おいしいのかどうか、うまく感じ取れない。何をどれくらい、どんなスピードで食べれば普通なのか、自分で調整できない。

 食事の間じゅう、わたしは神経を張り詰めて、まともな食事ができるふりを装った。狂っている、と自嘲しながら。だって、食事なんて行動、何も考えずにできるのが当然でしょう?

 ホールケーキを切るのはひとみの役目になった。包丁を渡されたひとみは、慣れない様子ながら、わくわくしているみたいだった。
「これ、何等分すればいい?」
 雅樹がすかさず答えた。
「七等分」

「七って、ちょっと待ってよー。三百六十度は七で割れないし、正七角形はコンパスと定規で作図できないやつでしょ。不可能なこと言わないの!」
「そこをどうにか」
「あたし、包丁持ってるんだけどー?」
「おっ、怖っ!」

 ひとみと雅樹がふざけ合うのを、膜を一枚へだてたところから、わたしは見ている。一緒に笑えない。そっと光景から目をそらす。

 ケーキを食べた後、わたしの部屋で勉強会をしていたら、ひとみのケータイに実家から電話が掛かってきた。ひとみがベランダで電話をする間、わたしは雅樹と二人で部屋に取り残される。
 雅樹はこのタイミングを待っていたみたいだった。

「蒼さ、何で学校でおれのこと避けてんの?」
「別に」
「去年の夏に、あの、いきなり抱きしめたののせい? あれはほんと、マジでごめん。謝らなきゃって思ってたんだけど」
「どうでもいい」

 雅樹は、わたしの顔をのぞき込むようにした。
「じゃあ、何なんだ? どうしておれのこと避ける? てか、ひとみとも微妙にギクシャクしてない?」
 雅樹の目に、わたしはどんなふうに映っているんだろう? 劣等感にさいなまれてばっかりの、笑うことさえできないわたしは。

「わたしなんかと話すの、迷惑でしょ。つながりがあるって知られたら、面倒だよ」
「迷惑でも面倒でもないんだけど。あと、わたし『なんか』って言い方は嫌いだ」
「そう」

「チラッと聞いたんだけど、中学時代、苦労してたらしいな。ひどい環境の中でも意地を張り通したってのは、蒼らしいと思う」
「わかったふうなこと、言わないで」
「勝手にあれこれ言われたくないなら、ちゃんと話せよ。蒼さ、怖いよ。木場山のころと比べたら変わりすぎちゃって怖い。そんだけ苦しんだんだろうけど。何でおれたちにまでそんな態度なんだよ?」

 長いまつげを持つ雅樹の大きな目を、わたしは見つめ返すことができなかった。自分の弱さにイライラする。
 琴野中に転校して木場山のことが過去の出来事になってしまったように、高校に上がった今、中学時代のことを過去の出来事だと切り捨てられそうなものなのに、なぜだろう? なぜわたしは、中学時代の心理状態や体調を引きずっているんだろう?

 当たり前に話して、食べて、眠りたい。また歌えるようになりたい。ギターも思い出したい。笑いたい。智絵を誘って遊びに行きたい。
 それができたら嬉しいって思うあれこれは、どうしようもなく遠くにあって、目を閉じて見る夢みたいにかすんでいる。現実に立ち返れば、当たり前のことがうまくできない自分がいる。

 いや、もしかしたら、こっちが本当の自分だったのかもしれない。木場山中の三羽烏の一人だったわたしは幻みたいなもので、化けの皮がはがれた正体は今のわたし。

「なあ、蒼」
「わたしは、迷惑なんだよ。木場山にしろ琴野にしろ、中学時代のわたしを知ってる人がいるって、すごくやりにくい。全部リセットして高校に入れたらよかったのに」

「じゃあ、木場山のころの蒼に戻ればいいじゃん。おれはそれがいいと思う。だって、あのころの蒼は、クールなとこはあったけどさ、毎日が楽しそうだった」
「うるさい」

「琴野中でのこと、忘れりゃいいんだ。いじめがあって、いろいろグダグダな学校だったんだろ? 蒼は根性あるのに、それさえボロボロにされるとか最低だ。蒼にイヤな思いさせたやつなんて、おれもひとみも許さないよ。ちゃんと一緒に戦って……」
「うるさい!」

 左の手の甲に痛みが走った。痛みは一瞬で腕を走って、脳まで突き抜ける。
 何が起こったのか、わたしは、自分の目で見てから初めて理解した。わたしの右手が、わたしの左手にペンを突き立てている。〇.四ミリのペン先は深々と皮膚に刺さっていた。

 左手は痛みに震えた。右手は、尖ったペン先が皮膚を突き破る感触を喜んでいた。わたしは勢いよく右手を引いた。左の手の甲に、ぐしゃりと、いびつな傷が走った。インクの青が少しだけ傷口ににじんだ。青はたちまち血の赤に呑まれた。

 雅樹がパッと立ち上がった。
「ちょっ、おい、何やってんだよ!」
 うろたえながら、雅樹はわたしにティッシュを差し出した。わたしは受け取らずに、赤い傷をなめた。ペンで突いて切り裂いた瞬間よりも、唾液がしみるヒリヒリのほうが、痛みが強い。

 雅樹が大きなため息をついて、わたしから顔を背けた。ごめん、と小さな声が聞こえた。何を謝ったんだろう?
「ほっといてよ。戻れないんだから」
 雅樹を突き放す言葉は、そのまま、わたし自身を攻撃した。

 戻れない。無邪気で明るい子どものころのわたしはもう、どこにもいない。そもそも、戻っちゃいけない。智絵を裏切ったこと、忘れちゃいけない。
 脈を打つたびにズキズキする痛みが、何だか、しっくりきた。気持ちいいとすら感じた。わたしはこれを求めている。これが手放せない。そう思った。