卒業式はさすがにサボれなかった。練習とか準備とか、かったるいことに時間を使ってまで、式典なんてやる意味があるんだろうか。
 当日、仕事が忙しいはずの母が卒業式を見に来た。卒業生も親も泣いている人がけっこういたけれど、わたしにしてみれば、殻の向こうの出来事だった。

 卒業生の名前が呼ばれて、返事をしなければならなかった。智絵の名前が呼ばれたとき、応える声はなかった。
 そんなふうに空白の時間を置いて次の名前が呼ばれるシーンは、しょっちゅうだった。それでも平然と、卒業式は進行した。

 体育館での式典の後、クラス別のホームルームがあった。感動的な時間が演出されて、息苦しくて、逃げ出したかった。
 一人ひとりが前に出て、クラスメイトや親への感謝の言葉を述べる。ありふれた言葉が続いて、拍手をして、泣き出す人がいて。わたしもあっち側だったら楽なのになと思いながら、時計の針がさっさと進んでくれることを願って。

 突然、ちっともありふれていない言葉を発したのは、菅野だった。
「かあちゃん、今までありがとう! これからもよろしく! 甲子園に連れていきます!」
 クラスが沸いた。菅野は嬉しそうで、菅野のおかあさんらしき人はしきりに涙を拭っていた。

 わたしの番が回ってきた。人前に立ってるのに、わたしは少しも緊張しなかった。目の前に並ぶ顔と顔と顔が、生きているように思えなかった。モノみたいに思えた。
 手に持っているのが卒業証書じゃなくて銃だったら、簡単に犯罪者になれそうだな。少年犯罪って、こういうことか。わたしは口を開く。

「わたしは学校が嫌いでした。今日、別のクラスですが、友達が卒業式に出席していません。彼女はいじめられて、学校に来なくなりました。
こんな学校が嫌いでした。卒業するまで変わりませんでした」

 教室は、しんとしていた。わたしは冷めた目でクラスじゅうを見た。顔と名前が一致しない人たちを眺める。
 胸に罪悪感がある。智絵のことを友達と呼ぶことへの罪悪感。そばにいることすらしなかったくせに、わたしは何を言っているのか。わたしは裏切り者じゃないか。友達のふり、善人の顔をした、卑怯な裏切り者だ。

 苦しくなって表情が歪みそうなのを、頭を下げてごまかした。
「変な話をして、すみませんでした」

 わたしが席に戻る間に、担任が解説を加えた。わたしが智絵のためにノートを清書して届けていた、と。
 拍手が沸いた。

 わたしは自分がみじめで、何もかもがバカバカしくて、叫びたくなった。美談なんかじゃない。
 そもそも、あんたたちが智絵をいじめなければ、智絵はちゃんと学校に来ていた。わたしがノートを届ける必要なんてなかった。
 わたしは、智絵を苦しめたこの学校という世界が、大嫌いだ。

 ホームルームの後、母が涙ぐんでわたしに告げた言葉が、わたしの琴野中での学校生活のすべてを表していたと思う。
「ちゃんと生きててくれて、卒業式にも出てくれて、ありがとう」
 その言葉を聞いた瞬間、わたしはハッキリと理解した。わたし、死にたがりなんだな、と。

 帰りに母は職員室にあいさつに行った。わたしは付いていかずに、先に帰ることにした。
 にぎやかな校舎を抜けて、靴を履き替える。写真を撮ったり、友達や後輩に囲まれたり、寄せ書きを書いたり、そんな人たちから顔を背けて、一人で。

 足音が追い掛けてきて、同時に名前を呼ばれて、わたしは立ち止まった。菅野が真っ赤な顔でわたしの前に立った。
「最後に、握手してください!」
 何で握手なんだろうって思った。でも、胸の奥に押し込めた感情が、久しぶりにざわざわと、ぬくもりを帯びて動くのがわかった。

 菅野はまだわたしより背が低くて、声変わりも完全じゃなくて、中一でも通用するくらいの容姿だ。けれど、差し出された右手は、ゴツゴツした形だった。男っぽい手だった。
 わたしは菅野の右手を握った。力強く握り返してくる手は温かった。野球で鍛えられて、皮がザラザラに厚い。

「蒼さん、手、冷たいね」
 笑顔と正面から向き合ったのは、たぶん初めてだった。菅野の奥二重で切れ長な目の形が意外にきれいなことを、不意に知った。
 菅野の手が離れていく。
「ありがとうございました!」
 菅野は頭を下げて、走っていった。菅野と会ったのはそれが最後だった。

 卒業式のその日を最後に会わなくなった人は多い。その全部を把握することは、わたしにはもうできない。卒業アルバムも買わなかったから、同じ学年に所属していた人の名前も顔もまったくわからない。
 卒業アルバムは、出来上がったときに担任が見せてくれた。初めのほうに掲載された集合写真の時点で、もうつらかった。微笑むことのできない智絵の顔写真が、クラスの集合写真の隅に浮かんでいた。

 もういい。もう終わった。やっと終わったんだ。
 終わった、終わったと繰り返しながら、わたしは、二度と足を向けることのない琴野中からの帰り道を歩いた。家に帰り着いて制服を脱ぎ捨てたとき、わけのわからない涙があふれた。