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 智絵の家にはインターネットができるパソコンがあった。今でこそネットなんて当たり前のもので、パソコンを起動するまでもなく、スマホで簡単にオンライン空間に接続できる。でも、一九九九年にはまだ、ネット環境のある家はそう多くなかった。
 電話回線を利用したネットをつなぐ間、家の固定電話が使えなくなる。当時はそういう不自由さもあった。

 ネットに接続するまでの一つひとつのプロセスも遅かった。月末にスマホの通信制限がかかったら、動作がひどく遅くなるけれど、あんな感じ。パソコンがダイヤルする音を聞きながら、ネットの世界に入っていくまでの時間を、本を眺めながら待った。

 わたしの家にも、ネットのできるパソコンがあった。学校の技術の授業でも、ネットについてチラッと習った。でも、使い方は智絵の家で覚えたようなものだ。
 智絵がネットを使ってみたいと言った。それで、二人で試してみたのが最初だった。智絵が何かをしたいって望むなんて、めったにないことだったから。

「二次創作の絵が、たくさん見られるんだって。即売会とか、イベントに行かなくても、同じ趣味の人を見付けられる。掲示板で話すこともできるらしいから、そこでなら、あたしも、人と話せるかなって」

 説明書に載っているとおりの順番で、毎度いくつかの手続きをしながらダイヤルアップして、検索エンジンのページにたどり着く。そこから、智絵の好きな小説や漫画やゲームのタイトルを冠したサーチエンジンに行って、気になるサイトに進む。
 データ量の重たい絵は、なかなか表示されない。時間をかけてやっと表示されても、拍子抜けすることがよくあった。だって、智絵の描く絵のほうがずっとうまい。

「ホームページ、やってみたら?」
「あ、あたしが?」
「うん。一番になれるよ」
「む、無理無理。ホームページ作るには、HTMLだっけ、そういうプログラムを書かなきゃいけないでしょ? あたし、そういうの、できない」
「そうかな?」
「蒼ちゃんならできそう。二次創作の小説、ホームページで公開されてるのより、蒼ちゃんのほうが上手だし」

 わたしがホームページを作ったら、智絵はこうして見てくれる? 家から出られない体調でも、寝込んでいる日でも、わたしに会いたくないときでも、ネット回線越しなら読める? わたしの小説を楽しんでくれる?
 もしも、智絵がそうやって、新しい形で楽しみや自由を手に入れることができるのならば。それはとてもいいことだと思った。健全で、ささやかだけれども幸せなことだと思った。

 高校受験が終わったら、やってみよう。高校に上がったら、きっと、どうしたってわたしは智絵と縁が切れてしまうだろうから。
 わたしは今、ノートを届けるという名目があるから智絵の家に来る。それがなくなったとき、どうすればいいのか。どうしようもないんじゃないか。

 届けたノートが智絵の役に立っているようには、あまり感じられない。むしろ智絵の負担になっている気がする。智絵の「ありがとう」が何だか心苦しい。
 自己満足。たぶん、それだ。智絵のためにやっていることのように見せかけて、わたしはただ自分のために動いている。

 だって、キッチリ授業に出てノートを取るようになって、成績がめちゃくちゃ上がった。だから続けたいって思ってしまうところが、やっぱりある。すごく汚い人間だなって、自分のことが嫌いになる。

 智絵が、机の上にあった一枚のチラシを手に取った。
「今日、文化祭だったんでしょ」

 どんな感情のこもった言葉なのか、とっさにわからなかった。わたしは智絵の顔を見た。真っ白でやせて、目がひどく大きな顔は、何の表情も浮かべていなかった。

「わたしは、自分の仕事が終わってすぐに早退してきた」
「理科の実験?」
「実験補助。あと、会場の案内。実験の準備や片付けは結局、先生が自分でやってた。液体窒素とか、扱いが難しいものを使ってたから」
「液体窒素?」
「すごく冷たい液体で、バラの花を漬けたら、何秒かのうちに完全に凍ってしまう。花をつかんだら、グシャッて。破片になってた」

 理科っておもしろいんだな、と単純に思った。教科書や科学の本に書かれていることを再現したら、必ず同じ結果になる。シンプルなその構図が新鮮に感じられた。
 日常生活、学校生活は、そうはいかない。似たような場面が、前回と同じ結果を招くとは限らない。法則性なんて、あってないようなものだ。

 智絵は、文化祭のプログラムの隅を指でなぞった。
「美術室は行ってみた?」
「うん」
「上田くんの絵、今年は何だった? 静物画がすごくうまいんだよね。去年のビー玉の絵、きれいだった。あたしが知ってるのは、美術室で描いてる途中のだけどね。今年も見たかったな」

 わたしは、理科室以外どこにも行かないつもりだった。でも、智絵が美術部の展示を見てほしいと言ったから、美術室にだけは行った。
「バラバラに割れたガラスの置物だったよ。もともとイルカの置物だったのかな。尖った破片の描き込みが、すごく迫力あった」

 血のしずくが伝う破片がいくつかあった。美術室で、思わず見入ってしまった。そしたら、いつの間にか上田がそこにいて、きまりの悪そうな笑顔でわたしに絵の解説をした。

「うっかり割っちゃったときのやつだよ。掃除しようとして、指、切ったんだ。けっこう血が出て、でも、それが妙にきれいで。とっさに写真に撮った。その写真をもとに描いたんだ。赤と黒はあんまり使ったことなかったんだけど、悪くないね」

 血に深い意味はない。壊れたものを描いたことにも。上田はそう言ったけれど、本当だったんだろうか。
 上田も小学校のころにはいじめられていたと、菅野がこぼすのを聞いたことがある。菅野自身も、いじめなのか、いじりなのか、きわどい扱いを受けることが多い。だから二人とも、ちょっと独特の雰囲気がにじみ出ている。
 特に上田だ。あの人はときどき、わたしと同じものを同じ視点から見ている。

 不意に智絵が言った。
「好きって気持ち、忘れちゃった」
「え?」
「好きな人、好きなキャラ、好きな小説、好きなこと。もう何もわからない日のほうが多いの。忘れちゃうほうが楽」

 わたしは言葉を失った。智絵はわたしと目を合わせてくれなかった。わたしは、視界が真っ暗になっていくみたいだった。どうしてこんなことになってしまうんだ。
 好きな小説が同じで、目指す方向が似ていて、だからわたしと智絵は友達になったのに。

 智絵から好きなものを奪った世界が、学校という世界が、わたしは憎くてたまらない。