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 あたしは車椅子に乗せられて、病院の廊下を進んでいく。人々の無言のざわめきが、冷たいさざ波を起こした。
 すれ違う人たちは、ニーナを一瞬だけまじまじと見つめた後、何も見なかったかのように目をそらす。あたしに対してはもちろん、父や母にあいさつや会釈をする人もいない。

 母がため息をついた。
「気にしてちゃ負けね」
 それでわかった。あたし以上に気にしているのは母なんだなって。

 あたしは慣れたりあきらめたりしているけど、母は違う。完璧主義的なところのある母に、この状況はきっととても苦しい。
 ニーナが、ぴょこんと弾んで、母の肩に乗った。あたしは首を傾けて、母を見上げて言った。

「便利でしょ。けっこうな人混みでも、こんなふうに道が勝手に開けるの」
 あたしの空っぽの強がりに、父だけ小さく笑った。母は、やめてとか何とか口の中でつぶやいて、そして、しゃんとしたいつもの口調をつくろった。

「マドカを彼に会わせる前に、簡単に説明しておくわ」
「彼って、アイトのことだよね?」
「そう。現代の医療技術は発達しているけど、原因不明の病気は今でもたくさん存在するの。そのうちの一つに、先天性ヒュプノス症候群というものがある。マドカ、聞いたことがある?」

 いきなり何の話だろうと思いながら、あたしは答えた。
「聞いたことない」
「そうよね。これは世界でも数十件しか臨床例がない病気だから。アイトくんは、その先天性ヒュプノス症候群の患者なの」

 耳を疑った。
「患者? だ、だけど、アイトはAIなんじゃないの?」
「アイトくんが一度でもそう名乗った?」
「えっ、でも、それは……機械学習のこととか、説明してくれたときに、アイトの頭脳はそれをモデルにして……あれ?」

 機械と同じように、と言った。快と不快が本能として備わっている、という話をしたときに。
 ディープ・ラーニングを模倣したやり方、と言った。あたしがアイトの学習法を尋ねたときに。

 そうだ。アイトは一度も、自分がAIであるとは言っていない。高度な機械学習のプログラムを模倣したり、活用したりする存在であるとだけ、あたしの前に示していた。
 ロボット三原則の話をしたときだってそう。アイトは、AIのあり方に準じていると言って、三原則に従う行動を取ったけれど、自分がAIだとは言わなかった。

 母は断言した。
「アイトくんは人間よ。春久逢人《はるひさ・あいと》くんは、生身の人間。生まれ持った病気のために今まで一度も目覚めたことのない、十七歳の男の子」
「人間で、十七歳の……目覚めたことのない?」
「いえ、目覚めたことがなかった、と言うべきね。それが先天性ヒュプノス症候群の典型的な症状なの」

 母は言う。
 先天性ヒュプノス症候群の症状は、ただ一つ。生まれてから死ぬまで眠り続けること。患者はただ眠っている。普通の人間の睡眠とまったく同じ状態から、一生、目覚めない。
 病気の原因は、長い間、謎とされてきた。脳の形状や機能に欠損はない。血液、神経、ホルモンバランス、何を調べても、睡眠中の正常な人間と何ら違いはない。
 先天性ヒュプノス症候群をめぐる状況に変化が起きたのが、今から三年前だった。三年前、と母は噛み締めるように言った。

「三年前、病気の原因がわかった。アイトくんのおとうさんはわたしの同僚で、彼が必死の研究を重ねた結果、解明できたの。遺伝子の一ヶ所にわずかな変異があった。その変異を修復することで、病気を治せることもわかった」
「アイトは、十七年間、眠ってて、それを治す方法がわかって、でも……」
 AIのアイトと眠り病のアイト。二つの像がうまく結び付かない。