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 廊下も階段も教室も、誰もいなかった。ただ、靴箱が中途半端に開いていたり、廊下の隅に紙飛行機が落ちていたりと、人のいる形跡だけが、そこここにある。

 あたしとアイトが二年C組の教室に駆け込んだ途端、始業のベルが鳴った。
 少し歪んだ机の列。黒板の隅に消し忘れられた、放課後補習の数学の板書。開け放たれたカーテンと、窓から見下ろせる無人の校庭。

 アイトは教室の真ん中に立って、きょろきょろと、物珍しそうにまわりを観察している。
 いつも白い服のアイトだけど、違う色の服もやっぱり似合う。黒い詰襟に、校章の刻まれた金色のボタン。きりっとした感じで、すごくいい。

 学校っていう風景になじんだアイトは普通にすごく美少年だ。学園もののストーリーだったら、見栄えのしないあたしには手の届かない王子さま、みたいな感じかな。
 いや、王子さまって呼ぶには、ちょっと頼りなげな雰囲気か。いきなりやって来た転校生が、思いも掛けない美少年だった。そういうストーリーかも。

 なんてね。
 勝手な想像をしていたら、あたしは何だか泣きたくなった。

「あたしとアイトがこんなふうに教室で普通に出会うシチュエーションが、現実だったらよかったのに」
「これが普通? この教室が現実だったらよかった?」
「うん。想像してみたの。あたしは妖精持ちじゃない普通の女の子で、アイトは転校生。アイトは賢いけど、この学校のことは右も左もわからなくて、隣の席のあたしがいろいろ手助けする」

 アイトがあごをつまんで少し考えて、首を左右に振った。
「普通というものの意味と、その価値がわからない」

 あたしはたぶん、半端に笑ったような、歪んだ顔をしたと思う。
「何で?」

 アイトなら、共感してくれると思っていた。
 一人ぼっちは、アイトだってイヤだったでしょう? あたしたち、もしも普通だったら、寂しくなんかなかったはずなんだよ。

 アイトはまっすぐな目をして、冷静に言った。
「もしもマドカが妖精持ちでないなら、ぼくはニーナに出会えない。ぼくは初め、ニーナをもっとよく見たくて、見える目を獲得した。ニーナに触れてみたくて、手を動かすことを覚えた」
「だけど、アイト」

 じりじりと、焼けるように胸が痛い。脳の中の光が、ばらばらなリズムで明滅している。ときどき走り抜けるのは、真っ赤な光。まるで、あたしが怒っているときにニーナみたいな。
 怒っているんじゃないんだ。今、あたしは、嫉妬している。
 アイトはあたしに共感しない。ニーナのせいで。あたしはニーナに嫉妬する。

 あたしの心を見透かすように、アイトは言葉を重ねた。
「マドカ、ニーナを否定しないで。ぼくはマドカに触れることができて嬉しいけど、ニーナにも触れてみたい。触れられなくても、ニーナに会いたい。ここにはニーナがいない」

「ニーナはいないよ。だって、ここは現実じゃないもん。あたしが、自分の望みのとおりに作った世界なんだから」
「本当にそう? 落ち着いて、少し考えてみて」
「落ち着いてるよ。もうとっくに、ちゃんとたくさん考えたし」
 アイトは小首をかしげた。眉尻の下がった、途方に暮れたような顔だ。
「ぼくとマドカで、言葉が噛み合っていない。今のマドカは何かおかしい」

「おかしくない! これがあたしの望みなの! 誰もいない学校。妖精持ちじゃないあたし。ねえ、こんなに安全な場所、現実にはないんだよ。あたしはここにいたい。現実になんか帰りたくない!」