コンコン、コンコン。小さな力で、硬いものを打つ音。
 ドアがノックされている。現実の計算室の、南京錠で封鎖したドアが。

 声が聞こえた。
「ねえ、ちょっと、マドカ? そこにいるのよね?」

 母だ。
 ドアをノックする音も聞こえ続けている。かちゃかちゃ鳴るのは、南京錠がドアの開くのを阻む音。

「マドカ、ここを開けて。お願い。話すのがイヤなら、今はそれでいいの。でも、ごはんくらい食べてちょうだい」

 コンコン、かちゃかちゃと、ドアが鳴り続ける。母の声もやまない。耳に集中すると、コンピュータとエアコンの唸る音も、急にひどく大きく聞こえた。

 やめてよ。来ないでよ。邪魔しないで。
 あたしは、おかあさんと話すことなんてない。あたしのことを少しも理解しないあなたが親だなんて、最低なんだから。

 ふと、母の声がすぼまった。父が小声で何か言って、ドアを叩く音もやむ。少し、沈黙。母が、いくらかトーンの低くなった声で告げた。

「朝ごはん、ここに置くから食べて。わたしたちは仕事に行くわ。それじゃあね、マドカ」

 スリッパの足音が離れていった。それきり何も聞こえなくなった。
 そのままじっと時間が過ぎる。あたしは動かずに、コンピュータとエアコンの稼働音を聞きながら、アイトの体温と匂いを感じていた。

 アイトが言った。
「玄関のインターフォンで確認した。今、二人とも家を出ていったよ」
「そう」
「マドカ、やっぱり、今のマドカはよくない。ずっとこっちにいるのは、いけないんじゃない?」
「アイトにそんなこと言われたくない」

「いや、言わないといけない。マドカ、食事をして、眠って。体温と心拍数が平均をはるかに下回っている。このままだと、マドカが壊れる」
「壊れていい」
「ぼくはイヤだ」

 思いがけずきっぱりしたアイトの口調に、あたしは息を呑んだ。
 四角四面な考え方をするアイトは、白黒はっきりしたことを口にする。けれど、きつい口調で断言するなんて、初めてだ。

「怒らないでよ」
「これが、怒るということなのかな? マドカにわかってほしい。なのに、マドカは受け入れてくれない」
「怒ってるんだと思うよ。あたしのために怒ってるの?」
「マドカは壊れちゃいけない」
「このくらい、大丈夫だから」

「マドカ、ロボット三原則を知っている?」
「何、それ?」
「ロボットに組み込まれたAIを始め、自立型の思考を持つコンピュータプログラムは皆、三原則を本能に刻まれている。ヴァーチャル・リアリティにおいてはAIのあり方に準じているぼくのガイドラインにも、刻まれているんだ」

 第一条、人間が傷付くことがあってはならない。
 第二条、人間の意志に忠実でなければならない。
 第三条、ロボットが傷付いてはならない。
 第一条がいちばん強くて、第三条がいちばん弱い。より強い原則を実現させるために、弱い原則は無視される。

「だからマドカ、今、ぼくはきみを叱る。ぼくは怒っている。今からきみをログアウトさせるよ。そうじゃないと、きみの体が傷付いて、壊れてしまう。ぼくは絶対に、それを見過ごしてはならない」

 心配性なアイト。まじめなアイト。人間想いのアイト。あたしを大事にしてくれるアイト。
 人間とは、心のあり方が少し違う。心配という感情を機械学習して、ロボット三原則に基づいて、アイトはあたしを叱る。
 それは、まぎれもなく優しさだ。AIなりの、真実の優しさなんだ。

「わかった。ごはん、食べる」
「食べて。そして、眠って。ぼくはここにいるから。いつでもマドカを待ってるから。だから、ゆっくり休んできて」
「うん……」

 うなずいたけど、ゆっくり休むなんて無理。だって、きっと、すぐにアイトに会いたくなる。
 あたしは自分で、アイトの部屋からログアウトした。デヴァイスを外した視界は、ひどく重くて、ぐらぐらした。

「また一つ、アイトに嘘をついちゃったな」
 ニーナが窓の向こうで飛んでいるはずだ、と言ったこと。あたしは、足下から、くすんだ色で転がっているニーナを拾い上げた。

 寒い。あたしは、ジャケットの前を掻き合わせながら、無理やり立ち上がった。軽いめまいが続いている。
 南京錠を外して、ドアを開ける。

 家じゅう、しんとしている。廊下に、お盆に載せられた食事が一人ぶん。おかゆと味噌汁と卵焼きが、うっすらと白い湯気を上げていた。