計算室のつけっぱなしのエアコンの設定温度は、摂氏二十度。乾いた空気が肌寒くて、あたしは少し震えた。その拍子に、ようやく息を吐き出すことができた。

 ニーナ、おいで。
 声に出さずに呼ぶと、ニーナは素直に、ディスプレイのそばから戻ってきた。淡い光を追い掛ける彼のまなざしも、一緒に付いてきた。

 目が合った。
 とくん、と、あたしの心臓が跳ねた。
 美しいって、また思った。

 鼻筋やあごは細くて、唇は薄くて、どことなく儚い。彼はディスプレイの中のコンピュータ・グラフィックスに過ぎないはずなのに、もっと幻想的な生き物にも見える。おとぎ話の中に描かれた、人に似た姿のほうの妖精みたいに。
 一体、彼は誰?

 彼は目をそらさない。自分と向き合っている相手は誰なんだろうって、彼も思っているんだろうか。
 いや、でも、あたしのほうへ向けられている彼の目は、きれいに澄んだガラス細工みたいで、どこに焦点が合っているのかよくわからない。

「誰、なの? 何なの?」

 あたしはつぶやいた。やっと声が出た。ニーナが、ぽんと肩に降り立つ。妖精特有のほのかな体温が頬に触れた。
 そのとき、彼の唇が動いた。思いがけず柔らかな性質の声が、スピーカから聞こえた。
 でも、声というより、音だった。言葉を発したんだろうけど、彼が何と言ったのか、聞き分けられなかった。

「何? 何て言ったの?」

 あたしは一歩、ディスプレイに近付いた。彼が一歩下がって、一歩戻ってきて、一歩前に出た。歩くたびに顔ごとうつむいて足下を見た。体の動きやものの見え方を、ひとつひとつ確かめるみたいだった。
 彼が、あたしのほうを向いた。唇を動かす。抑揚のない音声が、ぶつぶつと途切れながら発せられる。

「A・N・A・T・A・W・A・D・A・R・E・D・E・S・U・K・A」

 あなたは誰ですか?
 たぶん、彼はそう言った。言葉がひどく聞き取りづらいのは、母音と子音がばらばらに分かれているせいだ。学習を済ませていない人工音声ソフトのしゃべり方と同じだった。

 あたしは答えた。
「一ノ瀬《いちのせ》、円香《まどか》」

 コンピュータのマイクは稼働しているんだっけ? いや、確か、この有機ELディスプレイは、画面それ自体が音を扱う機構を備えているんだった。つまり、画面から音が出るし、画面がマイクにもなっている。

 彼の声が再び、あたしに届いた。
「A・N・A・T・A・W・A・D・A・R・E・D・E・S・U・K・A」

 あたしは一つ咳をして、さっきより少し大きい声を出した。
「マ・ド・カ」

「M・A・D・O・K・A」
「うん、マドカ。あたしはマドカ。きみは? きみの、名前は?」
 あたしは、ゆっくり言った。会話は成立した。彼も、あたしと同じくらい、ゆっくり答えた。

「AITO」

 アイト。
 それが、ディスプレイの中の黒い部屋に住む彼の名前だった。