死というものを理解しないうちに死に別れてしまったので、お母さんがいないことがむしろ普通の状態という気がする。
ピアノの上に置いてある一枚の写真の中から、穏やかに私たちを見守ってくれている人。
それが私にとっての『お母さん』だ。
お母さんがいなくても、寡黙だけど優しいお父さんと、元気で明るい妹の佐絵がいるから、私は毎日を楽しく幸せに暮らしている。
でも、ときどき、つらいことや悲しいこと、嫌なことがおそってくる日もある。
たとえば、今日みたいに。
学校であったことを思い出すと、ちくりと胸に刺さるものを感じた。
それを忘れるように深く息を吸い込んで、鍵盤の上に指を置く。
ひやりとした感覚で、頭に昇った血がすっと降りていく。
なにを弾こうか。
小さい頃から近所のピアノ教室に通っていたけれど、去年、高校受験のためにやめてしまったので、いま練習している曲はない。
でも、逆に言えば、好きな曲を好きなだけ弾けるということだ。
その時の気分に合わせて、思いついた曲を気ままに弾けばいい。
だから、私は今のピアノとの向き合い方を気に入っていた。
白鍵盤と黒鍵盤に軽く触れながらゆらゆらとさまよっていた右手の指が、なんとなく最初に押さえたのは、ソのシャープ。
次に、ドのシャープ。そしてミ。
その三つの音を、繰り返して弾く。
私の今の気持ちにふさわしい、暗く沈んだ音階。
ベートーヴェンのピアノソナタ、『月光』。
たしか、おととしの今頃に練習して覚えた曲だ。
とても悲しくて切ないけれど、泣きたいくらいに美しい曲。
目を閉じると、瞼の裏に浮かぶイメージがある。
ひと気のない小さな教会と、古びた十字架。
そして、あたりを仄青く照らし出す、清らかな月の光。
そういうイメージの、悲しくて美しい曲だ。
弾き終えて瞼を上げ、写真立ての中のお母さんをじっと見つめる。
「……今日ね、ショックなことがあったの」
ぽつりとつぶやく。
もちろんお母さんは何も答えてはくれないけれど、話すだけでも気が紛れることもある。
「うちのクラスに不登校の子がいるって言ったでしょ? 私の隣の席の子。その子がね、今日はじめて学校に来たんだ」
ふわっと風が吹いて、頬のあたりをかすめていく。
春風はとても優しい。
「私ね、いつもひとから話しかけてもらうのを待ってるだけでしょ? でも、いつまでもそんなんじゃだめだなって思って。だから、今日は勇気を出して、その子に自分から声をかけてみたの」
それなのに、彼は一言も返してくれなかった。
それどころか、冷ややかに『そいつとは話したくない』と言われてしまったのだ。
「……どうしてだろう。私、なにか遠藤くんの気に障るようなことしたのかな」
考えても考えても分からない。
染川さんは私に気をつかって、『気にしちゃだめだよ』と言ってくれたけれど、それは無理だった。
自分は人から好かれるタイプではないと自覚はしていたけれど、だからといって、特別に嫌われるようなこともないと自分では思っていた。
可もなく不可もなく、という感じだ。
誰ともケンカなんてしたことがないし、いじめられたりしたこともない。
たぶん今までのクラスメイトたちには、いてもいなくても同じ、空気のような存在だと思われていたのだろう。
だから、今日初めてあんなふうに、あからさまに嫌われてしまって、私はどうすればいいか分からずにいた。
遠藤くんは、本当に、私にだけ無反応で、一言も口をきいてくれなかった。
担任の秋田先生が教室に入ってきて、遠藤くんを驚いたように見て『なんだ、来てたのか』と言ったときも、彼は声こそ出さなかったものの小さく頷いていた。
遠藤くんに興味をもった何人かが声をかけたときも、彼は迷惑そうに眉根を寄せながらも、多少は反応していた。
それなのに、私が話しかけたときだけは、ちらりと目を向けてくれればいいほうで、不機嫌そうに顔をしかめて外を眺めているばかり。
教科書のページや、どの問題集を使うかを教えてあげようと、何回か名前を呼んではみたものの、彼は最後まで一度も反応してくれなかった。
なけなしの勇気をふりしぼって話しかけてみた私は、完全に打ちのめされ、立ち直れないくらいにうちひしがれてしまった。
遠藤くんは、どうしてあんなに頑なに私を拒絶するんだろうか。
考えているうちに、また自然と指が動き出して、鍵盤の上を駆け回りはじめた。
アップテンポで、軽やかに踊るような楽しいメロディ。
いつの間にか、なにかに取りつかれたように夢中になって弾いていた。
曲名は思い出せないけれど、何度も何度も練習したから、指が覚えているようだ。
明るい曲を弾いたおかげか、落ち込んでいた気持ちが少し浮き上がってきた。
壁掛けの時計を見ると、そろそろ晩ごはんの支度にとりかかったほうがいい時間になっている。
その前にいつもの日課を片付けてしまおうと、私は階段を上がって、二階にある自分の部屋に入った。
鍵をかけてある一番上の引き出し。
その中には、誰にも見せたことのない、秘密の日記帳が入っている。
表紙には、『No.5』の文字。
五冊目の日記帳ということだ。
小学六年から書き始めているから、だいたい一年で一冊ずつのペース。
この五冊目は、今年の二月末から始まっているので、まだノートの初めのほうだ。
『学校で、とても悲しいことがあった。』
今日の日記は、そんな書き出しになった。
外では言えないことも、家族には見せられない顔も、日記の中では素直に出せる。
大切にしていたペンを失くしてしまってこっそり泣いたときも、かわいがっていた野良猫が死んでいるのを見つけてしまったときも。
好きな人ができたときも、その人が他の女の子と付き合い始めたことを知ったときも。
読書感想文が先生に褒められて嬉しかったときも、苦手な体育の授業で初めて点数を入れることができたときも。
心が揺さぶられたとき、私はいつも日記に自分の気持ちをぶつけてきた。
今日はもちろん、突然不登校から復活してきた不思議な『幽霊』のクラスメイトについて。
書いているうちに、さらに気持ちが落ち着いていくのを感じる。
今日のことは、なんてことない。
気にしなくてもいい。
こういうこともある。
人生には嫌なことだって起こる。
なにもかもが自分の思い通りになんていくわけがない。
遠藤くんのことは忘れよう。
世の中には数えきれないほどたくさんの人がいて、相性が合わない相手もいるのだから。
そんなふうに自分に言い聞かせて、私は日記を閉じた。
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Why Are You...
――どうして、きみは
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翌朝。
いつものように前のドアから教室に入ると、私は無意識に奥へと目を向けた。
窓際の一番うしろの席。
そこは、いつものようにひっそりと静まり返っていた。
教室を横切って、自分の席につく。
本を読みながら、先生がやってきて朝礼が始まるのを待つ。
いつもと同じ朝。
でも、すこし違う。
左側が気になってしかたがないのだ。
私はちらりと隣の席を見て、それから黒板の上の時計を見て時間を確認した。
朝礼の始まりを告げるチャイムが鳴るまで、あと三分。
クラスのほとんど全員がすでに席についていた。
入り口のドアのほうに目を向けたけれど、誰かが入ってくる気配はない。
遠藤くんは、まだ姿を現さない。
もしかして、また不登校に戻ってしまったのかな。
そんなことをぼんやりと考えている自分に気がついて、慌てて視線を本のページに戻した。
もう遠藤くんのことは気にしない、忘れる、と昨日決めたばかりなのに。
私は細く息を吐いて、意識を無理やり本の世界に戻した。
「おはよう。朝礼はじめるぞ」
チャイムと同時に担任の秋田先生が中に入ってきた。
先生は出席簿を教卓に置き、教室の全体に視線を走らせる。
「……あれ? 遠藤は?」
その呟きを聞いて、みんなの目が一斉にこちらに向けられる。
なんとなく気まずくて、私は顔をうつむけた。
「来てないか? 霧原」
突然先生に名前を呼ばれて、私はどきりとしたものの、顔をあげて「まだだと思います」と答えた。
「そうか。なんだ、せっかく昨日出てきたと思ったのに……」
先生がぶつぶつ言いながら出席簿に何かを書きはじめたとき、がらりとドアの開く音がして、今度はみんなの視線が前に集まる。
うつむき加減にゆっくりと入ってきたのは、遠藤くんだった。
「お、遠藤。来たか」
そう声をかけられると、遠藤くんはちらりと先生を見て、すぐに自分の席に向かって歩き出した。
「お前、大丈夫か?」
先生が訊ねる。
唐突に不登校から復活して、しかも昨日に続いて今日も学校に出てきたので、いきなりそんなに頑張って大丈夫か、と心配しているのだろう。