伊織が頭京に帰ってきた、翌日。
 まだ午前中なのに、鈍色の空が広がっていて、まるで日暮れのようだ。
 頭京の羊垣内家の屋敷では、梨々子が父の書斎にやってきたところだった。
 執務机にいる父に、梨々子は言う。

「ねぇ、お父さま。やっぱり、お姉さまが九頭竜家とだなんて、私、到底許せないわ! お姉さまより私の方が可愛くて凄いんだから! 私の方が幸せになるべきよ!」
「……梨々子」
「お姉さまなんて、この家にいらないって思ってたけど! お姉さまには帰ってきてもらって、雑用をし続けてもらわなくちゃ! ねっ? いいわよね!? 」
「梨々子、まだ呪符を伊織に書かせるのか」

 父は、「はぁ」とため息をついた。
 梨々子は、口を尖らせる。

「なによ。お父さまも、その方がいいと思ってるんでしょ」
「伊織のことなら、問題ない。九頭竜家とは婚約できるわけがない」
「えっ、そうなの!?」

 梨々子の顔が、ぱっと明るくなる。

「まあっ! さすがお父さまだわ! なにか手を打ってくださったのね!」
「ああ。私に良い考えがある。……先方からは良い返事だ。明日会談をしてくる」
「そう……♪」

 梨々子は、口角をあげた。

「ねぇお父さま。明日のそれ、私も同行させてくれないかしら? 私もきっとお役に立てるわ」

 父は少し思案した後、梨々子の提案を受け入れた。


        *     *     *

 
 一方その頃、九頭竜家では――。
 九頭竜家の正門を入ると、真正面にさらに大きな門がある。その先こそが、荘厳な造りの、大屋敷――十夜の祖父である九頭竜家当主の屋敷だった。
 長い廊下を抜けて、折上格天井の大広間へと、十夜は入る。
 座って少し待ってみるが、雨音が聞こえだしても、誰も来ない。

「……仕方ない」

 十夜は立ち上がると、祖父の書斎へと向かった。

「誰だ?」

 歳の割には張りのある声で、祖父は入ってきた人物を見もせずに言った。彼は、筆で書を書いており、床には書き損じの半紙が散乱していた。

「お祖父さま 、十夜です。呼ばれたので参りました」
「ふん、十夜か」

 ――呼ばれた部屋に祖父が来なかった話は、しない。

 十夜は、祖父に近付いた。
 祖父の書斎は、それほど広くない部屋だった。壁には自分で書いた書が、額縁に入れられてずらりと並んでいる。
 奥の一段高い畳に、祖父は座っていた。

「……聞いたぞ? お前、『羊』を屋敷に置いているそうだな」
「はい」

 ――いつか言われるだろうと、思っていた。
 祖父は、十夜と目を合わせないまま、言った。

「どういうつもりだ? お前は九頭竜家の次期当主だ。『虎』でも『蛇』でも『兎』でもいい。だが、無能を嫁にすることは許さん」
「彼女は、無能ではございません」
「任務は失敗したのだろう? 患者が増えたと、双馬が文句を言っておったぞ」
「……失敗ではありません」
「ふん。どうせ、たいした力はないのだろう」

 祖父は、そこで初めて、十夜の顔を見た。

「無能な女を娶ると、――子どもも無能になるぞ。もし、お前の子どもが無能で生まれ、他の親族より劣るなら――次期当主の座は、直ちに入れ替わるだろう」
「…………」

 祖父の眼光は、鋭さを増す。

「十夜、今ならまだ間に合う。あの娘とは婚約していないのだろう? ――虎月家にしろ」
「俺は――……」

 雨が、窓を叩く。風が、強まってきていた。


        *     *     *