朝一番の仕事は、自分の指先を測定器に預けることだ。
デスクに埋め込まれた端末の小窓へ、右手の人差し指を滑り込ませる。クリップ状の窓から青白い光が漏れ、かすかな振動のあと、ディスプレイに数字が浮かんだ。
〈糖度 0.8 塩度 0.2〉
昨日と変わらない、基準値の下限をかろうじて上回る数値。朝晩二回の測定は義務で、結果は国家資源管理庁のサーバーへ自動送信される。歯を磨くのと変わらない、ただの習慣だ。
この星の海は、数十年前の環境崩壊を境に、致命的な塩分過負荷に陥った。極冠の融解と陸地の乾燥化が重なり、海水のナトリウム濃度は年々跳ね上がって、海洋生態系も淡水化プラントも内側から崩れていった。そんな人類が最後に縋ったのが、人の恋から生まれる二つの結晶、通称〈シュガー〉と〈ソルト〉だった。
誰かを慈しむとき、体内には特殊な糖鎖構造をもつ生体結晶、シュガーが育つ。これを高塩分の海域へ投入すれば、ナトリウムイオンと結びついて塩分を中和し、沈殿させる。海を救う唯一の切り札だ。そして恋が壊れ、喪失の底で心が裂けたとき、今度は冷たく硬いソルトが育つ。高密度の超伝導エネルギー源であり、感情の純粋な記録媒体でもあった。
どちらも体内に溜め込めば、自律神経と代謝を蝕む。そのため国民は定期的に公設の「感情資源摘出所」を訪れ、結晶を体外へ排出する義務を負う。初恋に胸を焦がす学生も、連れ添った夫婦も、別れを選んだ者も、例外はない。
俺の職場は、その感情資源摘出所の最奥にある「濾過部門」だ。外光の入らない白いラボで、始業前にミルクなし、砂糖は半匙だけのコーヒーを啜る。
カップが冷める頃、遮光シリンダーに納められた誰かの感情の「原液」が運ばれてくる。
濾過の途中では、不純物と一緒に記憶の断片が混じる。観覧車の誓い、初めて重ねた掌の温もり、プロポーズの震える声。俺はそれを、何の感情も抱かずに、毎日見つめ続けてきた。
「甘野さんって、本当に感情の波がありませんよね」
後輩が、呆れと羨望の混じった目で言う。
「五十番のソルト、僕は感情移入しすぎて手が止まっちゃったのに」
「俺は、恋愛にそもそも興味が薄いんだと思う」
誰かを愛した記憶など、一度もない。溜まる結晶も、胸を焦がす痛みもない。だからこの仕事は天職なのだと、信じて疑わなかった。
◇
その男が濾過部門に着任したのは、冷たい霧雨の降る月初めだった。
「記憶解析部門より異動してまいりました、汐見です。一日でも早く戦力になれるよう努めますので、よろしくお願いいたします」
差し出された手を握り返すと、掌は驚くほど熱く、挨拶の長さを過ぎても離れなかった。先に指を解いたのは俺のほうで、汐見は喉の奥で小さく笑い、人懐っこく目尻を下げる。
「どうして濾過に? 解析のほうが花形なのに」
「解析のモニターばかり見るより、自分の手で直接触れる仕事をしてみるのも悪くないかなって」
貼りつけたような笑顔の中で、目だけが少し泳いでいた。
「濾過室で基礎手順から見せるから、ついて来て」
「えっ、いきなり実践ですか」
「座学よりも、手を動かしたほうが早く覚えられるから」
「うわー、本当に噂通りの人なんですね」
「なにそれ」
「解析にいた頃から聞いてたんです。甘野さんは鉄仮面だけど、仕事は誰より速くて完璧だって」
濾過台の前で肩を並べ、シュガーの瓶を傾けて海水へ溶かす速度を示すと、汐見はすぐに意図を理解した。早ければ結晶が荒れ、遅ければ塩分を取りこぼす。その匙加減を、彼の手は最初から知っているかのように再現してみせた。
「いい感じ。支えるから、そのままスポイトで吸い上げて」
瓶を持つ大きな手に、自分の指を重ねた。薄いゴム手袋越しに、汐見の体温が流れ込んでくる。顔を上げると、まっすぐこちらを見下ろす瞳と目が合った。
「……こら、よそ見しない」
「すみません。真剣な甘野さんに見惚れてました」
「仕事中だよ。一つ一つが貴重な資源なんだから、集中してくれないと困る」
咎めるような声に、汐見は屈託のない笑みを返す。だが、その瞳の奥をひどく寂しげな影が一瞬だけ掠めたのを、俺は見逃さなかった。言い方がきついのは自覚している。
新人教育は毎回俺の役目だが、期待するほど厳しくなり、後からすくい上げる器用さもない。
平気です、とでも言うように明るく振る舞う汐見の健気さが、余計に胸の奥を刺した。
◇
汐見は数日で仕事を覚え、ラボの戦力になった。少々喋りが過ぎるのが玉に瑕で、その度に俺が「汐見」と一言だけ呼んで黙らせる。それはいつしか、濾過室のお決まりのやり取りになっていた。
夕方、ラボの隅でコーヒーを淹れようと瓶へ手を伸ばすと、横から大きな手がカップと瓶をひょいと攫っていく。
「ミルクなしで、砂糖は半匙だけ。ですよね」
「どうして知ってるの」
「……前にここで、同僚と話してる声が偶然聞こえたので」
「盗み聞きってこと」
汐見は困ったように頬を掻いて笑う。問い詰めるのも気恥ずかしく、俺は黙って瓶を取り返すと、棚から二つ目の陶器のカップを下ろした。
「俺の分も淹れてくれるんですか?」
「ついでだよ。人に淹れてもらうと味にムラが出るから、自分の分は自分で淹れたいだけ」
立ちのぼる湯気の向こうで、汐見はコーヒーを一口含み、何かを懐かしむように目を閉じた。
「……やっぱり、うまいな」
低く漏れた声。俺の耳に残ったのは味への賛辞ではなく、「やっぱり」という四文字の方だった。
「どうして『やっぱり』なんて言うの?」
「なんとなく、コーヒー淹れるのも上手そうだなって。いつも几帳面だし」
「俺が神経質って言いたいの」
「照れてます? 可愛いっすね」
「……本当、変なひと」
「光栄です」
「褒めてないからね」
俺は離れ小島のような席に腰を下ろし、携帯型の端末で測定を始めた。顔を上げると、向かいから汐見が、端末と俺の顔色を交互に伺っている。
「……あんまりじろじろ見ないで」
ふい、とそっぽを向きかけたとき、端末から数値の上昇を知らせる警告音が鳴り響いた。
「甘野さん。今の測定、大丈夫ですか?」
「単なる誤作動だと思う。測り直すから、今日の報告書を送信したら、汐見は先に上がっていいよ」
追及されたくない気配を汲んだのか、汐見は「分かりました」と頷き、ひらりと片手を挙げて出ていった。足音が廊下の向こうへ遠ざかったあと、もう一度、指をクリップへ挟み直す。
〈糖度 1.9〉
一日の上限を超える、あり得ない数値。それが自分の変化だと認めるのが怖くて、故障だと言い聞かせ、俺は目を背けるように、そのまま送信した。
◇
その日、俺は汐見と夜勤の宿直にあたっていた。
深夜零時を回ると、ラボの照明は半分に落とされる。円筒型の密閉タンクが並ぶ構内には、コンプレッサーの低い唸りと、配管を流れる液体の絶え間ない水音だけが響いていた。二時間おきの巡回でバルブと圧力計を確かめ、試料を記録簿へ書き写す。単調な作業のあいまに、制御盤の青白い光を見つめていると、瞼がひとりでに落ちてくる。
夜勤の眠気には慣れているはずだった。けれど今夜のそれは、疲れとは質が違う。頭の芯がぼうっと温かく、指先から力が抜けて、体だけがどこかへ浮き上がっていくようだ。
「汐見、悪いけど仮眠室に行ってもいい? このままだと作業に支障が出そうで」
「はい。俺はまだ平気なんで、先に休んでください」
念のため測ると〈糖度 2.1〉。糖度の上昇は眠気を連れてくると、研修で習った。
(このまま上がり続けるなら、月末には摘出所行きだ)
簡易ベッドに横になり、瞼に右腕をのせる。意識がとろりと沈んだ。
壁越しの水音が、いつしか輪郭をほどいていく。途切れない流れは、寄せては返す波の拍子に変わった。ふと足元を見ると、ざらついた砂を素足で踏んでいる。自分よりひとまわり大きく、圧倒的に体温の高い手が、指のあわいに滑り込んで、力強く握り込んできた。
『――甘野』
名を呼ぶ声は、波音に溶けそうなほど優しい。
ハッと目を開けると、夢の余韻だけが、胸の内でさざなみのように残っていた。
「甘野さん、大丈夫ですか?」
ベッドの脇に、汐見がしゃがみ込んでいた。いつの間にかブランケットまで掛けられている。
彼は黙ってハンカチを差し出し、自分の目尻を指さした。袖口で触れると、布地が湿っている。泣いていたのか。
「嫌な夢でも見たんですか?」
「いや……海の夢。行ったこともないのに、浜辺を裸足で歩いてた」
隣に人がいたことは、気恥ずかしくて言えなかった。きっと濾過で見た他人の記憶を、脳が錯覚しているのだろう。
汐見はしばらく黙り、窓枠に凭れて、遠い場所を見るように目を細めた。
「俺、海のすぐそばの町で生まれ育ったんです。夕方の浜辺が好きで。陽が落ちる少し前、空がだんだんピンク色に染まって、水平線は橙で、波のてっぺんだけが金色に光って」
低く落ち着いた声が、静かな仮眠室に溶けていく。白から金へ移ろう砂も、堤防を叩く波の拍子も、初めて聞くはずなのに、ずっと昔から知っていたように懐かしい。その矛盾に戸惑い、俺は無言のまま彼を見上げる。
目が合うと、汐見は真夜中の暗がりを溶かす陽だまりのように、にかっと笑った。
◇
いつもと変わらない日々が続いた。俺の糖度が、小刻みに上がり続けていることを除けば。
休憩時間になると、俺のコーヒーの隣に、汐見の分が当たり前のように並ぶ。汐見は何かと理由をつけて隣に立ちたがり、俺は断る理由を探すより先に、半歩ぶん立ち位置を空けてしまう。
報告書を受け取る瞬間、指先が触れた。一秒にも満たないのに、微熱はずっと指先に居座り、キーを叩く間も、ふとした拍子に温度が蘇った。溜め息の回数ばかりが増えていく。
灯りの落ちた休憩室で二人きりになると、汐見はどこか哀しげな、それでいて底抜けに優しい目を細めて話を切り出した。
「甘野さんと居ると、不思議と心が休まるんです」
「職場なんだから、もう少し緊張感を持つべきだと思うけど」
「でも、なんというか……俺は貴方に初めて会った気がしないんですよ」
「……それって、俺のことを口説いてるの?」
自分でも驚くほど強気な声だった。恥じらったり黙ったりすれば負けてしまう気がしたからだ。
汐見は目を丸くし、それから、すべてを包み込むような愛惜を湛えて微笑んだ。
「もし、本当に口説いていたら、甘野さんはどうしますか」
その問いに、とうとう言葉を返すことができなかった。空調の微かな音だけが、静寂を撫でるように過ぎていく。
落とした照明の隙間から、星あかりを背負った汐見の顔が、静かに近づいてきた。
思い返せば、俺の視線はいつだって彼の足音や後ろ姿を探していた。遠くで響く笑い声に耳を澄まし、ほんの少しでも近くにいてほしいと、ただそれだけを願っていた。
返事の代わりに、俺はそっと目を閉じる。
触れたのは、ほんの一瞬だった。淡い熱に胸がぎゅっと引き絞られ、甘い痺れが駆け抜けていく。
唇には、汐見が飲んでいたコーヒーの香りが微かに残っていた。
苦みの中に溶けた、半匙ぶんの甘さを連れて。
一度も見たことのないはずの「海」が、瞼の裏で眩暈のように満ち引きを繰り返す。
手元の小さな端末が、青い光を明滅させていた。数字を確かめるまでもない。
それは、もう誰にも隠し通せない、俺の恋の糖度だった。
◇
汐見の着任からちょうど一ヶ月になる日、そのデスクはぽっかりと空いていた。
定刻を過ぎても連絡はなく、「風邪ですかね」と後輩が首を傾げる。汐見の連絡先すら知らないことに、俺はそのとき初めて気づく。「そうかも」と返した声は、自分でも驚くほど乾いていた。
汐見がいないというただそれだけで、ラボの均衡が崩れたようだった。検体を受け取るたび、向かいの空白に目をやり、慌てて手元へ視線を戻す。落ち着かない指先で眉間を掻いていた、その時。
静まり返った天井から、けたたましい警告音が降ってきた。
『緊急搬送。ソルトの過剰蓄積による急性意識障害。第一処置室へ搬送中』
摘出を怠った人間が運び込まれる時の警報だ。室内に「またか」と厄介そうな空気が流れる。
摘出された過剰ソルトの確保と保管は、俺の仕事だ。
廊下を早足で進み、パネルに社員証をかざす。扉が開き切るより早く、職員たちの怒号が飛び込んできた。
「血圧低下! 呼吸が浅い!」
医師たちの人垣の隙間から、手術台に横たえられた見覚えのある顔が覗く。次の瞬間、足が床に縫い付けられたように動かなくなった。
「……汐見……?」
血の気の失せた唇は暗い紫に変わり、閉じた瞼はぴくりとも動かない。手首の簡易端末が、塩度の異常を告げる赤い光を、心臓の鼓動のように点滅させていた。
〈塩度 9.8〉
基準値の数十倍。致死量すれすれの数字だった。
「摘出を開始します」
胸部へ当てられた装置が低く唸り、岩塩を思わせる白い結晶が、体の奥から絞り出されるように現れる。硝子の容器へ落ちるたび、ことり、と硬い音がした。一つ、二つ、三つ。四つ目から先は、数えるのをやめた。
「バイタル、辛うじて安定。甘野さん、結晶の処理をお願いします」
担架の上の汐見が、集中治療室へ運び出されていく。静まり返った処置室に、結晶で満たされた硝子瓶だけが残った。俺は膝をつき、床にこぼれた粒を一つ、拾い上げた。
規定では、結晶はすべて直ちに解析機にかけ、記憶データごと政府のクラウドへ転送される。
気付けば、管理コンソールに「結晶化不良に伴う再処理保留」と偽コードを打ち込んでいた。
理由は分からない。汐見の記憶を誰かに読まれることが、耐えがたかったからなのかもしれない。
誰もいない解析室で、結晶を装置にセットする。濾過部門の特権で暗号化領域をこじ開けると、記憶データがディスプレイに展開された。息を呑んで最初のファイルを選ぶ。
聞き覚えのある声が、波の音に混じって流れ出した。
『向こうの堤防まで歩いてみようよ、汐見』
画面の中の俺は、今の自分からは想像もつかないほど柔らかな笑顔で、汐見と指を絡めている。
二年前、一年前。日付の違う穏やかな断片が続く。ラボの隅で、俺がコーヒーを差し出し、「砂糖は半匙だけ」と念を押す膨れ顔。受け取る汐見は、カップを慈しむように両手で包み込んでいる。
『――覚えたよ。ミルクなし、砂糖は半匙ね』
最後から二番目のファイルをタップする。そこに映し出されたのは、解析部門のデスクで機密書類に目を落とす、汐見の視点映像だった。書類を持つ指に力がこもり、紙の端に深い皺が寄る。
『解析対象:甘野蜜。標準体の約五倍に及ぶシュガー生成量を確認。交際相手への強い愛着反応に起因する、特異的な結晶化適性を示す。国家採取管理プログラムへの強制移行、適格。移行見込み九十七パーセント』
国家採取管理プログラム。職員ですら噂にしか聞かない最上位の国家機密だ。数万人に一人の被験者の精神を壊し、記憶を繰り返し見せながら結晶を搾り取り続ける。
対象者は「行方不明者」として処理され、二度と戻れない。
映像が暗転し、波の音が満ちた。波打ち際に立つ俺を少し離れて見つめる、汐見の記憶だ。
『甘野、聞いて』
『この前、「摘出してもずっと糖度が下がらない」って言ってたろ。調べたら、甘野のシュガー生成量は普通の五倍あった。政府の監視システムに、目をつけられかけてる』
『……どうしたらいいの。俺たち、どうなるの』
『方法は、ひとつしかない。それは甘野も、分かってるだろ』
『待って。嫌だ、そんなの……』
『甘野の記憶から、俺に関するすべてを消す』
『嫌だよ。汐見のいない世界で、俺だけ何も知らずに生きるなんて』
子どものように首を振り、泣き叫びながら、汐見の胸を拳で叩く。何度も、何度も。
やがて力が尽きたように、その手は彼の襟を握ったまま、ずるずると滑り落ちた。
『……ごめん。本当に、ごめん。でも、甘野の心を誰かに壊されるほうが、俺は耐えられない』
『じゃあ、汐見は。汐見の記憶は、どうなるの』
『俺も、自分の記憶を書き換える。覚えていたら、ソルトを濾過されたとき、甘野との記憶が探知されるかもしれないから』
このとき交わされた言葉が、「優しい嘘」だったと、今の俺にはよく分かる。
汐見は、自分の記憶など消していなかった。
俺との日々を忘れることなどできず、訣れの痛みをたった一人で抱え込み、すべてを自分の中で蓄え続けていたのだ。もし摘出所へ行けば、ふたりの記憶が解析部門に露見してしまう。
だからこそ彼は、体がどれほど蝕まれようとも足を運ぶことができなかった。自分の権限でデータを偽り、限界まで命を削りながら――たった一人で静かに壊れていったのだ。
『甘野』
画面の中の汐見が、泣き濡れる俺の頬を、親指でそっと拭った。
『皮肉だよな。俺たちが出会ったのも、恋人になったのも、あのラボだった。……その場所が、俺たちを引き裂くんだから』
涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、画面の俺は唇を歪める。長い沈黙の後、ほんの小さく頷いた。
『……俺の記憶は必ず汐見が消すって約束して。他の人に触らせないで』
『うん、約束する。……愛してる。ずっと愛してるよ、甘野。今までも、これからも』
夕陽が水平線に溶け、二人の長い影が砂浜に伸びていく。
最後に聞こえたのは、波の音と、抑えきれない嗚咽。そこで映像は、ぶつりと途切れた。
やっと分かった。
「初めて会った気がしない」と感じた顔も、「やっぱり、うまいな」と漏らした声も、海の夢を見た理由も。
「……汐見」
濾過室で、数え切れないほど一言で黙らせてきた名前だった。そのたびに笑って口を噤んでいた汐見は、どんな思いで、この一か月のあいだ俺の隣に立っていたのか。今度は呼んだきり、続く言葉が喉の奥で詰まって、二度と出てこない。
視界が滲み、堪えきれなくなった雫が、ディスプレイに小さな染みを作っていった。
◇
涙が枯れるのを待たず、俺は映像データと解析ログをすべて消去し、足が付く道を断った。
残りの瓶は「保留」のまま棚に隠し、白衣の胸には、汐見の結晶を詰めた小瓶を一つだけ滑り込ませた。
偽装が持つ猶予は、せいぜい数時間だろう。集中治療室のある最上階へは向かわなかった。
いまここで、汐見に会いに行けば、すべてが水の泡になってしまう。
幾度も乗り換えを繰り返す電車の中で、足の震えが止まらなかった。それなのに、降りるべき駅の改札を抜け、潮風の小道を右へ折れる足取りに、迷いはなかった。防波堤を越えた瞬間、濃密な潮の匂いが全身を包み込む。
「……ここだ」
陽を溜めたような白い砂浜が、夕陽の中に広がっている。汐見が語ってくれた通りの、広く、切なく、そして懐かしい海だった。
波打ち際に歩み寄ると、堰を切ったように涙が零れた。ここで、汐見の隣で、俺たちは何度笑い、何度未来を誓ったのだろう。
胸ポケットから小瓶を取り出し、夕陽にかざす。氷砂糖のような透き通った結晶の芯に、細い筋が光っていた。潮風に導かれるように、消去されたはずの記憶の断片が浮かび上がってくる。
『俺、やっぱり汐見のことを忘れたくないよ』
崩れ落ちる俺の両頬へ、汐見は大きな手を優しく添え、目尻を下げて愛おしげな笑みを向けてくる。
『……泣かないで、甘野』
『そんなの、無理だよ』
『俺は甘野に怒られるのも好きだったけど、最後は笑顔が見たい』
頬を伝う雫を、彼はそっと唇で拭って微笑んだ。
『こんなに甘野が泣いたら、この海だって甘くなる』
そう言って、泣き笑う俺の唇に、汐見の温かい唇が静かに重なる。
頬を伝う雫が零れ落ち、足元の波間に混ざり、やがて広大な外洋の海原へと流れていく。
いつか、汐見がその眠りから目を覚ましたなら。自分からその手を強く握りしめて伝えたい。
何度記憶を奪われたとしても、俺たちは何度でも、こうして恋に落ちる運命なのだと。
水平線の向こうから響く波の音は、まるで二人のすべてを慈しむように、どこまでも甘く、優しく打ち寄せていた。
(終)
デスクに埋め込まれた端末の小窓へ、右手の人差し指を滑り込ませる。クリップ状の窓から青白い光が漏れ、かすかな振動のあと、ディスプレイに数字が浮かんだ。
〈糖度 0.8 塩度 0.2〉
昨日と変わらない、基準値の下限をかろうじて上回る数値。朝晩二回の測定は義務で、結果は国家資源管理庁のサーバーへ自動送信される。歯を磨くのと変わらない、ただの習慣だ。
この星の海は、数十年前の環境崩壊を境に、致命的な塩分過負荷に陥った。極冠の融解と陸地の乾燥化が重なり、海水のナトリウム濃度は年々跳ね上がって、海洋生態系も淡水化プラントも内側から崩れていった。そんな人類が最後に縋ったのが、人の恋から生まれる二つの結晶、通称〈シュガー〉と〈ソルト〉だった。
誰かを慈しむとき、体内には特殊な糖鎖構造をもつ生体結晶、シュガーが育つ。これを高塩分の海域へ投入すれば、ナトリウムイオンと結びついて塩分を中和し、沈殿させる。海を救う唯一の切り札だ。そして恋が壊れ、喪失の底で心が裂けたとき、今度は冷たく硬いソルトが育つ。高密度の超伝導エネルギー源であり、感情の純粋な記録媒体でもあった。
どちらも体内に溜め込めば、自律神経と代謝を蝕む。そのため国民は定期的に公設の「感情資源摘出所」を訪れ、結晶を体外へ排出する義務を負う。初恋に胸を焦がす学生も、連れ添った夫婦も、別れを選んだ者も、例外はない。
俺の職場は、その感情資源摘出所の最奥にある「濾過部門」だ。外光の入らない白いラボで、始業前にミルクなし、砂糖は半匙だけのコーヒーを啜る。
カップが冷める頃、遮光シリンダーに納められた誰かの感情の「原液」が運ばれてくる。
濾過の途中では、不純物と一緒に記憶の断片が混じる。観覧車の誓い、初めて重ねた掌の温もり、プロポーズの震える声。俺はそれを、何の感情も抱かずに、毎日見つめ続けてきた。
「甘野さんって、本当に感情の波がありませんよね」
後輩が、呆れと羨望の混じった目で言う。
「五十番のソルト、僕は感情移入しすぎて手が止まっちゃったのに」
「俺は、恋愛にそもそも興味が薄いんだと思う」
誰かを愛した記憶など、一度もない。溜まる結晶も、胸を焦がす痛みもない。だからこの仕事は天職なのだと、信じて疑わなかった。
◇
その男が濾過部門に着任したのは、冷たい霧雨の降る月初めだった。
「記憶解析部門より異動してまいりました、汐見です。一日でも早く戦力になれるよう努めますので、よろしくお願いいたします」
差し出された手を握り返すと、掌は驚くほど熱く、挨拶の長さを過ぎても離れなかった。先に指を解いたのは俺のほうで、汐見は喉の奥で小さく笑い、人懐っこく目尻を下げる。
「どうして濾過に? 解析のほうが花形なのに」
「解析のモニターばかり見るより、自分の手で直接触れる仕事をしてみるのも悪くないかなって」
貼りつけたような笑顔の中で、目だけが少し泳いでいた。
「濾過室で基礎手順から見せるから、ついて来て」
「えっ、いきなり実践ですか」
「座学よりも、手を動かしたほうが早く覚えられるから」
「うわー、本当に噂通りの人なんですね」
「なにそれ」
「解析にいた頃から聞いてたんです。甘野さんは鉄仮面だけど、仕事は誰より速くて完璧だって」
濾過台の前で肩を並べ、シュガーの瓶を傾けて海水へ溶かす速度を示すと、汐見はすぐに意図を理解した。早ければ結晶が荒れ、遅ければ塩分を取りこぼす。その匙加減を、彼の手は最初から知っているかのように再現してみせた。
「いい感じ。支えるから、そのままスポイトで吸い上げて」
瓶を持つ大きな手に、自分の指を重ねた。薄いゴム手袋越しに、汐見の体温が流れ込んでくる。顔を上げると、まっすぐこちらを見下ろす瞳と目が合った。
「……こら、よそ見しない」
「すみません。真剣な甘野さんに見惚れてました」
「仕事中だよ。一つ一つが貴重な資源なんだから、集中してくれないと困る」
咎めるような声に、汐見は屈託のない笑みを返す。だが、その瞳の奥をひどく寂しげな影が一瞬だけ掠めたのを、俺は見逃さなかった。言い方がきついのは自覚している。
新人教育は毎回俺の役目だが、期待するほど厳しくなり、後からすくい上げる器用さもない。
平気です、とでも言うように明るく振る舞う汐見の健気さが、余計に胸の奥を刺した。
◇
汐見は数日で仕事を覚え、ラボの戦力になった。少々喋りが過ぎるのが玉に瑕で、その度に俺が「汐見」と一言だけ呼んで黙らせる。それはいつしか、濾過室のお決まりのやり取りになっていた。
夕方、ラボの隅でコーヒーを淹れようと瓶へ手を伸ばすと、横から大きな手がカップと瓶をひょいと攫っていく。
「ミルクなしで、砂糖は半匙だけ。ですよね」
「どうして知ってるの」
「……前にここで、同僚と話してる声が偶然聞こえたので」
「盗み聞きってこと」
汐見は困ったように頬を掻いて笑う。問い詰めるのも気恥ずかしく、俺は黙って瓶を取り返すと、棚から二つ目の陶器のカップを下ろした。
「俺の分も淹れてくれるんですか?」
「ついでだよ。人に淹れてもらうと味にムラが出るから、自分の分は自分で淹れたいだけ」
立ちのぼる湯気の向こうで、汐見はコーヒーを一口含み、何かを懐かしむように目を閉じた。
「……やっぱり、うまいな」
低く漏れた声。俺の耳に残ったのは味への賛辞ではなく、「やっぱり」という四文字の方だった。
「どうして『やっぱり』なんて言うの?」
「なんとなく、コーヒー淹れるのも上手そうだなって。いつも几帳面だし」
「俺が神経質って言いたいの」
「照れてます? 可愛いっすね」
「……本当、変なひと」
「光栄です」
「褒めてないからね」
俺は離れ小島のような席に腰を下ろし、携帯型の端末で測定を始めた。顔を上げると、向かいから汐見が、端末と俺の顔色を交互に伺っている。
「……あんまりじろじろ見ないで」
ふい、とそっぽを向きかけたとき、端末から数値の上昇を知らせる警告音が鳴り響いた。
「甘野さん。今の測定、大丈夫ですか?」
「単なる誤作動だと思う。測り直すから、今日の報告書を送信したら、汐見は先に上がっていいよ」
追及されたくない気配を汲んだのか、汐見は「分かりました」と頷き、ひらりと片手を挙げて出ていった。足音が廊下の向こうへ遠ざかったあと、もう一度、指をクリップへ挟み直す。
〈糖度 1.9〉
一日の上限を超える、あり得ない数値。それが自分の変化だと認めるのが怖くて、故障だと言い聞かせ、俺は目を背けるように、そのまま送信した。
◇
その日、俺は汐見と夜勤の宿直にあたっていた。
深夜零時を回ると、ラボの照明は半分に落とされる。円筒型の密閉タンクが並ぶ構内には、コンプレッサーの低い唸りと、配管を流れる液体の絶え間ない水音だけが響いていた。二時間おきの巡回でバルブと圧力計を確かめ、試料を記録簿へ書き写す。単調な作業のあいまに、制御盤の青白い光を見つめていると、瞼がひとりでに落ちてくる。
夜勤の眠気には慣れているはずだった。けれど今夜のそれは、疲れとは質が違う。頭の芯がぼうっと温かく、指先から力が抜けて、体だけがどこかへ浮き上がっていくようだ。
「汐見、悪いけど仮眠室に行ってもいい? このままだと作業に支障が出そうで」
「はい。俺はまだ平気なんで、先に休んでください」
念のため測ると〈糖度 2.1〉。糖度の上昇は眠気を連れてくると、研修で習った。
(このまま上がり続けるなら、月末には摘出所行きだ)
簡易ベッドに横になり、瞼に右腕をのせる。意識がとろりと沈んだ。
壁越しの水音が、いつしか輪郭をほどいていく。途切れない流れは、寄せては返す波の拍子に変わった。ふと足元を見ると、ざらついた砂を素足で踏んでいる。自分よりひとまわり大きく、圧倒的に体温の高い手が、指のあわいに滑り込んで、力強く握り込んできた。
『――甘野』
名を呼ぶ声は、波音に溶けそうなほど優しい。
ハッと目を開けると、夢の余韻だけが、胸の内でさざなみのように残っていた。
「甘野さん、大丈夫ですか?」
ベッドの脇に、汐見がしゃがみ込んでいた。いつの間にかブランケットまで掛けられている。
彼は黙ってハンカチを差し出し、自分の目尻を指さした。袖口で触れると、布地が湿っている。泣いていたのか。
「嫌な夢でも見たんですか?」
「いや……海の夢。行ったこともないのに、浜辺を裸足で歩いてた」
隣に人がいたことは、気恥ずかしくて言えなかった。きっと濾過で見た他人の記憶を、脳が錯覚しているのだろう。
汐見はしばらく黙り、窓枠に凭れて、遠い場所を見るように目を細めた。
「俺、海のすぐそばの町で生まれ育ったんです。夕方の浜辺が好きで。陽が落ちる少し前、空がだんだんピンク色に染まって、水平線は橙で、波のてっぺんだけが金色に光って」
低く落ち着いた声が、静かな仮眠室に溶けていく。白から金へ移ろう砂も、堤防を叩く波の拍子も、初めて聞くはずなのに、ずっと昔から知っていたように懐かしい。その矛盾に戸惑い、俺は無言のまま彼を見上げる。
目が合うと、汐見は真夜中の暗がりを溶かす陽だまりのように、にかっと笑った。
◇
いつもと変わらない日々が続いた。俺の糖度が、小刻みに上がり続けていることを除けば。
休憩時間になると、俺のコーヒーの隣に、汐見の分が当たり前のように並ぶ。汐見は何かと理由をつけて隣に立ちたがり、俺は断る理由を探すより先に、半歩ぶん立ち位置を空けてしまう。
報告書を受け取る瞬間、指先が触れた。一秒にも満たないのに、微熱はずっと指先に居座り、キーを叩く間も、ふとした拍子に温度が蘇った。溜め息の回数ばかりが増えていく。
灯りの落ちた休憩室で二人きりになると、汐見はどこか哀しげな、それでいて底抜けに優しい目を細めて話を切り出した。
「甘野さんと居ると、不思議と心が休まるんです」
「職場なんだから、もう少し緊張感を持つべきだと思うけど」
「でも、なんというか……俺は貴方に初めて会った気がしないんですよ」
「……それって、俺のことを口説いてるの?」
自分でも驚くほど強気な声だった。恥じらったり黙ったりすれば負けてしまう気がしたからだ。
汐見は目を丸くし、それから、すべてを包み込むような愛惜を湛えて微笑んだ。
「もし、本当に口説いていたら、甘野さんはどうしますか」
その問いに、とうとう言葉を返すことができなかった。空調の微かな音だけが、静寂を撫でるように過ぎていく。
落とした照明の隙間から、星あかりを背負った汐見の顔が、静かに近づいてきた。
思い返せば、俺の視線はいつだって彼の足音や後ろ姿を探していた。遠くで響く笑い声に耳を澄まし、ほんの少しでも近くにいてほしいと、ただそれだけを願っていた。
返事の代わりに、俺はそっと目を閉じる。
触れたのは、ほんの一瞬だった。淡い熱に胸がぎゅっと引き絞られ、甘い痺れが駆け抜けていく。
唇には、汐見が飲んでいたコーヒーの香りが微かに残っていた。
苦みの中に溶けた、半匙ぶんの甘さを連れて。
一度も見たことのないはずの「海」が、瞼の裏で眩暈のように満ち引きを繰り返す。
手元の小さな端末が、青い光を明滅させていた。数字を確かめるまでもない。
それは、もう誰にも隠し通せない、俺の恋の糖度だった。
◇
汐見の着任からちょうど一ヶ月になる日、そのデスクはぽっかりと空いていた。
定刻を過ぎても連絡はなく、「風邪ですかね」と後輩が首を傾げる。汐見の連絡先すら知らないことに、俺はそのとき初めて気づく。「そうかも」と返した声は、自分でも驚くほど乾いていた。
汐見がいないというただそれだけで、ラボの均衡が崩れたようだった。検体を受け取るたび、向かいの空白に目をやり、慌てて手元へ視線を戻す。落ち着かない指先で眉間を掻いていた、その時。
静まり返った天井から、けたたましい警告音が降ってきた。
『緊急搬送。ソルトの過剰蓄積による急性意識障害。第一処置室へ搬送中』
摘出を怠った人間が運び込まれる時の警報だ。室内に「またか」と厄介そうな空気が流れる。
摘出された過剰ソルトの確保と保管は、俺の仕事だ。
廊下を早足で進み、パネルに社員証をかざす。扉が開き切るより早く、職員たちの怒号が飛び込んできた。
「血圧低下! 呼吸が浅い!」
医師たちの人垣の隙間から、手術台に横たえられた見覚えのある顔が覗く。次の瞬間、足が床に縫い付けられたように動かなくなった。
「……汐見……?」
血の気の失せた唇は暗い紫に変わり、閉じた瞼はぴくりとも動かない。手首の簡易端末が、塩度の異常を告げる赤い光を、心臓の鼓動のように点滅させていた。
〈塩度 9.8〉
基準値の数十倍。致死量すれすれの数字だった。
「摘出を開始します」
胸部へ当てられた装置が低く唸り、岩塩を思わせる白い結晶が、体の奥から絞り出されるように現れる。硝子の容器へ落ちるたび、ことり、と硬い音がした。一つ、二つ、三つ。四つ目から先は、数えるのをやめた。
「バイタル、辛うじて安定。甘野さん、結晶の処理をお願いします」
担架の上の汐見が、集中治療室へ運び出されていく。静まり返った処置室に、結晶で満たされた硝子瓶だけが残った。俺は膝をつき、床にこぼれた粒を一つ、拾い上げた。
規定では、結晶はすべて直ちに解析機にかけ、記憶データごと政府のクラウドへ転送される。
気付けば、管理コンソールに「結晶化不良に伴う再処理保留」と偽コードを打ち込んでいた。
理由は分からない。汐見の記憶を誰かに読まれることが、耐えがたかったからなのかもしれない。
誰もいない解析室で、結晶を装置にセットする。濾過部門の特権で暗号化領域をこじ開けると、記憶データがディスプレイに展開された。息を呑んで最初のファイルを選ぶ。
聞き覚えのある声が、波の音に混じって流れ出した。
『向こうの堤防まで歩いてみようよ、汐見』
画面の中の俺は、今の自分からは想像もつかないほど柔らかな笑顔で、汐見と指を絡めている。
二年前、一年前。日付の違う穏やかな断片が続く。ラボの隅で、俺がコーヒーを差し出し、「砂糖は半匙だけ」と念を押す膨れ顔。受け取る汐見は、カップを慈しむように両手で包み込んでいる。
『――覚えたよ。ミルクなし、砂糖は半匙ね』
最後から二番目のファイルをタップする。そこに映し出されたのは、解析部門のデスクで機密書類に目を落とす、汐見の視点映像だった。書類を持つ指に力がこもり、紙の端に深い皺が寄る。
『解析対象:甘野蜜。標準体の約五倍に及ぶシュガー生成量を確認。交際相手への強い愛着反応に起因する、特異的な結晶化適性を示す。国家採取管理プログラムへの強制移行、適格。移行見込み九十七パーセント』
国家採取管理プログラム。職員ですら噂にしか聞かない最上位の国家機密だ。数万人に一人の被験者の精神を壊し、記憶を繰り返し見せながら結晶を搾り取り続ける。
対象者は「行方不明者」として処理され、二度と戻れない。
映像が暗転し、波の音が満ちた。波打ち際に立つ俺を少し離れて見つめる、汐見の記憶だ。
『甘野、聞いて』
『この前、「摘出してもずっと糖度が下がらない」って言ってたろ。調べたら、甘野のシュガー生成量は普通の五倍あった。政府の監視システムに、目をつけられかけてる』
『……どうしたらいいの。俺たち、どうなるの』
『方法は、ひとつしかない。それは甘野も、分かってるだろ』
『待って。嫌だ、そんなの……』
『甘野の記憶から、俺に関するすべてを消す』
『嫌だよ。汐見のいない世界で、俺だけ何も知らずに生きるなんて』
子どものように首を振り、泣き叫びながら、汐見の胸を拳で叩く。何度も、何度も。
やがて力が尽きたように、その手は彼の襟を握ったまま、ずるずると滑り落ちた。
『……ごめん。本当に、ごめん。でも、甘野の心を誰かに壊されるほうが、俺は耐えられない』
『じゃあ、汐見は。汐見の記憶は、どうなるの』
『俺も、自分の記憶を書き換える。覚えていたら、ソルトを濾過されたとき、甘野との記憶が探知されるかもしれないから』
このとき交わされた言葉が、「優しい嘘」だったと、今の俺にはよく分かる。
汐見は、自分の記憶など消していなかった。
俺との日々を忘れることなどできず、訣れの痛みをたった一人で抱え込み、すべてを自分の中で蓄え続けていたのだ。もし摘出所へ行けば、ふたりの記憶が解析部門に露見してしまう。
だからこそ彼は、体がどれほど蝕まれようとも足を運ぶことができなかった。自分の権限でデータを偽り、限界まで命を削りながら――たった一人で静かに壊れていったのだ。
『甘野』
画面の中の汐見が、泣き濡れる俺の頬を、親指でそっと拭った。
『皮肉だよな。俺たちが出会ったのも、恋人になったのも、あのラボだった。……その場所が、俺たちを引き裂くんだから』
涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、画面の俺は唇を歪める。長い沈黙の後、ほんの小さく頷いた。
『……俺の記憶は必ず汐見が消すって約束して。他の人に触らせないで』
『うん、約束する。……愛してる。ずっと愛してるよ、甘野。今までも、これからも』
夕陽が水平線に溶け、二人の長い影が砂浜に伸びていく。
最後に聞こえたのは、波の音と、抑えきれない嗚咽。そこで映像は、ぶつりと途切れた。
やっと分かった。
「初めて会った気がしない」と感じた顔も、「やっぱり、うまいな」と漏らした声も、海の夢を見た理由も。
「……汐見」
濾過室で、数え切れないほど一言で黙らせてきた名前だった。そのたびに笑って口を噤んでいた汐見は、どんな思いで、この一か月のあいだ俺の隣に立っていたのか。今度は呼んだきり、続く言葉が喉の奥で詰まって、二度と出てこない。
視界が滲み、堪えきれなくなった雫が、ディスプレイに小さな染みを作っていった。
◇
涙が枯れるのを待たず、俺は映像データと解析ログをすべて消去し、足が付く道を断った。
残りの瓶は「保留」のまま棚に隠し、白衣の胸には、汐見の結晶を詰めた小瓶を一つだけ滑り込ませた。
偽装が持つ猶予は、せいぜい数時間だろう。集中治療室のある最上階へは向かわなかった。
いまここで、汐見に会いに行けば、すべてが水の泡になってしまう。
幾度も乗り換えを繰り返す電車の中で、足の震えが止まらなかった。それなのに、降りるべき駅の改札を抜け、潮風の小道を右へ折れる足取りに、迷いはなかった。防波堤を越えた瞬間、濃密な潮の匂いが全身を包み込む。
「……ここだ」
陽を溜めたような白い砂浜が、夕陽の中に広がっている。汐見が語ってくれた通りの、広く、切なく、そして懐かしい海だった。
波打ち際に歩み寄ると、堰を切ったように涙が零れた。ここで、汐見の隣で、俺たちは何度笑い、何度未来を誓ったのだろう。
胸ポケットから小瓶を取り出し、夕陽にかざす。氷砂糖のような透き通った結晶の芯に、細い筋が光っていた。潮風に導かれるように、消去されたはずの記憶の断片が浮かび上がってくる。
『俺、やっぱり汐見のことを忘れたくないよ』
崩れ落ちる俺の両頬へ、汐見は大きな手を優しく添え、目尻を下げて愛おしげな笑みを向けてくる。
『……泣かないで、甘野』
『そんなの、無理だよ』
『俺は甘野に怒られるのも好きだったけど、最後は笑顔が見たい』
頬を伝う雫を、彼はそっと唇で拭って微笑んだ。
『こんなに甘野が泣いたら、この海だって甘くなる』
そう言って、泣き笑う俺の唇に、汐見の温かい唇が静かに重なる。
頬を伝う雫が零れ落ち、足元の波間に混ざり、やがて広大な外洋の海原へと流れていく。
いつか、汐見がその眠りから目を覚ましたなら。自分からその手を強く握りしめて伝えたい。
何度記憶を奪われたとしても、俺たちは何度でも、こうして恋に落ちる運命なのだと。
水平線の向こうから響く波の音は、まるで二人のすべてを慈しむように、どこまでも甘く、優しく打ち寄せていた。
(終)



