露光時間

 撮影旅行が終わったあと、俺は徹底的に斗澤先輩を避けるようになった。
 部活は週二回の活動日にだけ最低限。顔を出し、怪訝そうな顔で理由を詰められたときは「バイトのシフトを増やしたんです」と、ありきたりな言い訳を並べる。
 部室に行かない日も、キャンパス内で見かけたら慌てて柱の陰に身を隠し、バイト先で何度か斗澤先輩の姿を見かけたときも、あろうことか従業員専用口へとダッシュで引き返し、プラスチックのオリコンを延々と整理しながらただ時間が過ぎ去るのをやり過ごした。
 とにかく、顔を合わせないように。
 これ以上、優しくされたり、まっすぐに見つめられたりしないように。
 俺は必死でそれだけを貫いた。
 こんなやり方が正しいのか、それとも最悪なのか、そんな区別くらいついている。斗澤先輩と過ごす大切な居場所を失わないために、好きだという気配を悟られないために逃げ回っているというのに、結果として先輩と過ごす時間そのものを自分から手放しているのだから、本末転倒なのは分かっている。
 けれど、不器用な俺には、募っていく恋心を隠したまま何食わぬ顔で隣に並び、平然と会話を交わし続けるような器用な真似なんてできなかった。そんな演技をするための技量も……勇気も、持ち合わせていない。

 ***

 そうして迎えた前期最終日の夕方、部室には俺と斗澤先輩のふたりだけが残っていた。
 特に会話らしい会話もないまま片付けを終え、鍵を閉める前の最後の静かな時間。先輩はさっきまで作業に使っていたノートパソコンを閉じ、部室の戸締りを確認している。
 当たり障りない挨拶だけして、逃げるように部室を出ようとリュックを肩に掛けた俺の背中に、ふと、斗澤先輩が振り返りながら声を落とした。

「温、夏休みの予定って決まってる?」
「……特には。バイトのシフトが結構入ってるくらいですかね」
「そっか。penシリーズって、中古でも結構するもんな」
「はい。狙っているうちに、その……どんどん売切れちゃったりも、してて」

 斗澤先輩は少し黙り込んでから、俺の顔をじっ、と見つめた。西日の橙色の光が逆光になって、その整った輪郭を柔らかく縁取っている。
 お先に失礼しますって言っていいかな、と視線を向けると、思わぬ一言を向けられた。

「お前、最近ずっと様子おかしくないか」
「えっ?」
「撮影旅行から帰ってから、特にさ。俺のこと、避けてるだろ」

 図星を突かれて、俺は一瞬で言葉に詰まった。

「……そんなこと、ないですけど」
「嘘つくの下手だよな、マジで」
「いや、本当に、ぜんぜん……」
「いつも俺が話しかけると緊張して目も合わせられないくせに、変な嘘つく時だけは真っ直ぐ目ぇ見てくる。もしかして、自覚ない?」

 静かにそう言って、斗澤先輩は逃げ場を塞ぐように俺の正面へと立った。
 こんなふうに感情を剥き出しにして詰め寄ってくる人だなんて、思わなかった。怒っているような、それでいて必死に何かを確かめようと焦っているのが伝わってきて、いつもと違う圧に俺の方が戸惑ってしまう。

「なんか俺、温に嫌われるようなことした? もし気に障ったことがあるなら、正直にぶつけてほしい」
「ち、ちがいます、斗澤先輩は何も悪くなくて」
「じゃあ、なんでそんなに素っ気なくするんだよ。俺だって、普通に傷つく」
「傷つく……?」
「そうだよ。一応年上だし、部活の先輩だしさ。そういう格好悪いところ、あんま表に出さないでおこうって思ってたけど」

 ぐしゃ、と髪に手を突っ込んで、斗澤先輩は自分の頭をガシガシと掻いてみせた。
 いつだって俺の一歩先に立って、包み込むような余裕を見せていた先輩の姿はない。戸惑いや苛立ち、隠しきれない焦りがむき出しになっていた。

(……俺が、斗澤先輩にこんな顔をさせてる?)

 斗澤先輩がいつだって大人で、何でも受け止めてくれる人に見えたから、勝手に平気だと思い込んでいた。
 自分がどれだけ勝手に距離を取ったり冷たくしたりしても、この人なら笑って許してくれるだろうって、どこかで甘え過ぎていたのかもしれない。

「温は、あんまり気付いてなかったかもしんないけどさ」
「……はい」
「俺は、お前のこと結構……可愛がってるというか。他の部員よりも、目も手もかけてやりたいって本気で思ってたんだよ。だから」
「……………」
「お前に避けられたりするのは、普通にしんどい」

 その率直すぎる一言に、俺の中でずっと張り詰めていた防壁が、音を立ててふっと緩んでしまう。慌てて両手で目元を覆ったけれど、もう遅かった。
 こらえきれなくなった涙が溢れて、目の縁から、ほのあたたかさを持ってこぼれ落ちる。ぽた、ぽたと顎から落ちる滴を拭っても、目の前の景色がゆらゆらと滲んでいた。

(止まれよ。こんな情けない顔、斗澤先輩に見られたくない……っ)

 そう思えば思うほど、胸の真ん中が文字通りずきんずきんと痛んで、ずっと蓋をしていた本当の感情が容赦なく突き上げてくる。
 隠し通そうとしていた恋しさも、拒絶される怖さも、全部が涙と一緒にあふれ出てしまっていた。
 斗澤先輩が何か言おうとして、触れようとして――すっと差し出されかけた手が、途中でためらうようにギュッと拳の形に握りしめられる。

「……違うんです。嫌いなんて、そんなんじゃ、なくて」
「じゃあ、ちゃんと気持ち聞かせて。あの撮影旅行から、ずっと避けてたの……俺のこと、嫌いになったわけじゃないんだな?」
「違います。そんなこと、絶対に、ないです」

 俺が勢いよく頭を振って否定すると、斗澤先輩は自分の顎に片手を添えて、ものすごく言いづらそうに数秒唸った後、思い切ったようにまっすぐ俺の顔を見て尋ねた。

「……猫の画像は」
「え……?」
「ラインのアイコン。撮影旅行で、昼飯食った時にはもう設定してただろ」
「なっ……なんで、知ってるんですか」
「ラインの返信しようと思って画面開いたら、気づいた。でも、帰ってきた頃にはもう初期に戻してたよな。あれは、なんで?」
「なんか舞い上がってるみたいで、恥ずかしくなって……っ」
「……俺、気付いたとき、地味にショックだったんだからな」

 まさかそんなところまで見られていたなんて。
 しどろもどろになる俺に、斗澤先輩はさらに一歩、踏み込んできた。

「じゃあ、俺のことを嫌いになったから避けたんじゃなくて。逆ってこと?」

 少しの沈黙のあと、先輩がふっと小さく息を吐く音がした。
 嫌いの反対は、好き。その「好き」を問うている先輩の瞳が、切なく、そして熱を帯びて揺れているのを見てしまったら、誤魔化すことなんて出来なかった。

「ちょっと、隣座って」
「……はい」
「実は俺も……ずっと、言おうか迷ってた。これを伝えたら、温が部活しづらくなるかもしれないって思ったら怖くて。それだけは、一番避けたかったから」
「…………」
「みんなが帰ったあと、温が俺の隣でたまに笑ってくれるのが、すげー嬉しかった。なんつーかもう、それを見るためだけに部活に残ってる、みたいなところもあったし」

 椅子の背もたれにもたれたまま黙りこくる俺の足元に、斗澤先輩はわざと自分の膝をこつん、と軽くぶつけてみせた。
 それが『何か返事をしてよ』というサインだということは分かっているのに、頭が追いつかない俺は、ただしょんぼりと項垂れることしかできない。

(お、俺が笑ってた?)
(斗澤先輩と、ふたりきりになると?)
(しかも、それを見るためだけって。それって……)

 唇を引き結んだまま固まっている俺を見て、斗澤先輩はじわじわと首筋まで真っ赤に染めながら、それでも逃げずに俺の目をまっすぐ見つめ返した。

「ただの後輩として、とか、そういうのじゃなくて。温の、一生懸命写真に向き合うところも、言葉に詰まっちゃうところも、全部俺は大事にしたいって思ってる。だから――」

 斗澤先輩の瞳を、そしてその唇を見つめながら、心の中で自分自身を鼓舞するように問いかける。
 俺は、いつになったら自分の気持ちを、自分の言葉でぶつけるんだ。
 こうやって頭の中で考えている今だって、ほんの少しの気持ちも斗澤先輩には届いていない。

(伝わらなくても、不格好でも、自分の口で伝える努力をしなきゃダメだ……)

 俺の大切な人。
 俺のちっぽけな言葉を、いつだってじっと待ってくれている人。
 自分を全部大事にしたいなんて、そんな温かい言葉をくれる斗澤先輩に、このまま全部言わせて、自分の本音はずっと隠したままでいいわけがない。
 薄く開いた唇からゆっくりと息を吸い込んで、俺は震える両手を膝の上でそっと組んだ。まるで何かにお願い事をするみたいに。たぶん、勇気が少しでも持てますようにって、神様に祈りたかったんだと思う。
 直前まで考えていたスマートな言葉なんて、斗澤先輩の真っ直ぐな瞳を捉えた瞬間、泡のようにはじけて消えてしまった。

「……好きです」

 やっとの思いで紡ぎ出したその一言は、思いのほか小さく空気に溶けていった。
 けれど、それを合図にしたかのように、張り詰めていた糸がプツリと切れる。直後、喉の奥までせり上がっていた熱いものが、堰を切ったようにあふれだしてきた。それだけじゃ足りない、もっと伝えたい。
 ぽつり、ぽつりと湧き上がる言葉は脈絡もなく、目の前の斗澤先輩が持つ温もりに引きずられるように、次から次へと外へ向かって飛び出していく。

「あの、俺、頭の中では今、もっとたくさん考えてて」
「……うん」
「えっと……先輩のことをあんなふうに避けてごめんなさい。本当は、好きだってバレるのが怖くて、先輩に嫌われたくなくて逃げてて……。良くないって分かってたのに、でも、自分にはそれしかできなくて」
「温、落ち着いて。そんなに急がなくていいから、ゆっくりで――」
「ちがいます、急いでるわけじゃなくて、本当はこんなふうに、心の中ではいっぱい言葉があふれてるんです。それで……その、先輩が俺のことをそんなふうに思ってくれていたって知って、すごく……すごく嬉しかったです」
「…………」
「同じ気持ちかもしれないって思ったら、俺もどうしても『好き』って言いたくなって……今、ここで言葉にしないときっと後悔するから。だから、ちゃんと自分の口で伝えたかったんです」

 そこまで一気に言い切って、口元をパーカーの袖口で隠す俺に、斗澤先輩はふっと小さく息を漏らした。それから、そっと温かい手を俺の頬に添える。

「……待った甲斐あった」

 その声の響きには、あまりにも深い安堵が滲んでいた。
 まだどこか、信じられない。
 こんなにも眩しくて素敵な人が、俺みたいな鈍くさい人間のことを、同じように『好きだ』と言ってくれるなんて。
 むむ……と下唇を巻き込んでから、視線を感じてハッとする。案の定、斗澤先輩は俺の癖を見つけると、目を細めて嬉しそうに微笑んでいた。

「温、好きだよ。大事にするって約束する」
「う……、それは俺も、です……」
「俺のこと、先輩じゃなくて彼氏にしてくれる?」
「……はい」

 心臓がうるさいほど跳ねて、目を閉じることさえ忘れて、ただその吸い込まれそうな瞳を見つめていた。少しだけ掠れた声で、斗澤先輩が呟く。

「そんな顔されると、困る」
「困る、って……何で、ですか?」

 震える声で問い返すと、斗澤先輩は困ったように、けれど愛おしそうに目を細めた。

「……キスしたくなるから」

 斗澤先輩が困ったように、綺麗な眉を下げて俺を見つめている。

「でも、あの、俺……男なんですけど」
「うん、知ってるよ。分かってる」
「斗澤先輩は、俺と……そういうこと、出来ますか?」

 返事の代わりに、ふわりと額に温かいものが触れた。
 言葉よりも優しく、ただ重なるだけの、短い口づけ。
 唇が離れたあとも斗澤先輩は身体を引かず、俺の額に自分の額をこつんと預けたまま、じっと瞳を覗き込んできた。

「……したいから、するんだよ」

 窓の外では、西の空を彩っていた最後の橙色の光が、ゆっくりと夕闇のなかに溶けていく途中だ。
 さらりと告げられた一言に、俺はまた顔が沸騰しそうになるのを感じながら、それでも勇気を出してゆっくりと手を伸ばし、頬に添えられた先輩の手の甲をそっと包み込む。
 言葉にするよりも、肌で触れ合うことのほうが何倍も緊張したけれど、その温度はどこまでも温かい。好きな人に触れるのって、こんなにも心が幸せで満たされるものなのだと初めて知る。
 甘くてむず痒い雰囲気になることなんて慣れていなくて、俺が遠慮がちな笑みを浮かべると、斗澤先輩は『あー、もう、可愛いって』と片手で自分の額を覆って天を仰いだ。

「か、可愛いくはないと思うんですけど」
「いいや。俺、初対面の時から温のことはずっと『可愛い』でしかないよ」

 真っ直ぐに見つめられ、どこか吹っ切れたように笑う斗澤先輩に、心臓が大きく跳ねる。
 はくはくと魚のように口を動かすだけの俺に、斗澤先輩はさりげなく指先で俺の髪を耳にかけると、左手をしっかりと握り、優しい声でひとつの提案を投げかけてきた。

「……あのさ、夏休みのシフトって、今からでもまだ変更できる?」
「どっ……どうしてですか?」
「決まってるだろ。俺が、温と一緒にカメラを提げて、いろんな綺麗な景色を撮りに行きたいからだよ」
「……え、っと」
「温がバイトの日は、俺も教習所に通ったりするけどさ。会える日はできるだけ一緒にいたいし、会えない夜は通話もしたい」
「も……問題、ありません。バイトのシフトも、調整します」
「ん、良かった」

 ふっと柔らかく笑った斗澤先輩が、両腕を広げて俺を目で呼んでいる。
 おずおずと、自分もぎこちなくその胸に身を寄せると、静まり返った放課後の部室で、俺たちは互いの体温を確かめるようにそっと抱き合った。
 胸元から香るあたたかな肌のにおいと、微かな柔軟剤の香り。
 自分の臆病さも、不器用さも、すべてのありのままを受け止めてくれる人がここにいるという事実が、たまらなく嬉しい。

「せ、せんぱい。斗澤先輩」
「ん?」
「あの、好きです……。すごく、好きです」
「……やばい、ちゃんと言葉にして伝えてもらえるの、すげー嬉しい」
「自分でも、その……溢れ出すみたいに『好き』が止まらない、というか」
「そっか。……俺も、温のことが大好きだよ。そういう気持ち、これからもっと言葉にして伝えてな」

 俺が「はい」と胸に耳を寄せて小さく返事をすると、斗澤先輩は背中を優しく擦りながら、なだめるように髪を撫でてくれた。
 とくん、とくんと伝わる音。世界で一番、優しい音が聴こえる。
 遠慮がちに膝のところで固まっていた俺の腕を、そっと背中に回すように導かれた。

「斗澤先輩?」
「もっと、ぎゅってしていいよ」

 ひとつひとつは、きっと小さな光だった。
 ほんの一瞬の出来事なら、心に何も残らなかったはずの、ささやかなやり取り。それが、閉じないシャッターの奥に、春から夏までずっと降り積もって。
 気づいたら、斗澤先輩のくれる光は、俺の心の隅々まであたたかく満たしていた。


(了)