露光時間

 夏を目前に控えたある週末、部としての初めての遠征――隣県にある古い港町への日帰り撮影旅行が企画された。参加希望者は、俺と斗澤先輩、佐野を含む六人。
 当日、電車の中で斗澤先輩は俺の隣の席に座った。それは自然な流れだったはずなのに、佐野が反対側の席から身を乗り出すようにして会話に入ってくる。

「斗澤せんぱーい、港町行くならレトロな建物撮りたいですよね。俺、事前にロケハンしてきたんですけど、良さそうな場所がいくつかあって」

 佐野はスマートフォンの画面を先輩に見せながら、楽しそうに話し続けた。
 距離が近い。誰に対してもあんな調子なのは分かっているけれど、佐野の自然なコミュニケーション能力の高さを見ていると、どうしようもない羨ましさと、小さな棘のような感情がチクリと胸を刺す。心の中では、『どうせ俺はあんな風に踏み込めやしないし』と唇を尖らせている自分がいた。

「お、ちゃんと調べてきたんだ。佐野にしては真面目じゃん」
「でしょ? てか、もっと褒めて下さいよ~」
「そういうところが図々しいんだよ。フリでもいいから謙虚になれっての」

 会話に入るタイミングを見つけられないまま、窓の外に視線を逃す。

(……俺も、斗澤先輩と周りたい場所、調べてたんだけどな)

 スマホのメモ欄の一番上に、『周りたいところリスト』とタイトルをつけたそれは、画像を差し込んで地図にもピンをつけてある。一応、その町の名所だけじゃなくて、先輩の過去の作例を見て好きそうかも、と思った場所も、俺のセンスだけれど選んでいた。

(自分だけがやる気満々みたいなの、恥ず……)

 張りあうみたいに『俺のも見てください』という勇気もなくて。
 そっと画面をオフにすると――電車はアナウンスと共に港町の駅へと入線し、潮の匂いを含んだ風が車内に吹き抜けた。

「じゃあ、三人ずつに分かれて、十一時半まで自由行動にするか」
「うい~。飯屋で集合な」

 古い石造りの倉庫群と、色褪せた木造家屋が立ち並ぶ町並みは、時間が止まったかのような静けさをたたえている。
 目的地である港町に着いてからも、佐野は積極的に先輩に話しかけ、写真の構図についてアドバイスをもらったり、一緒に撮影スポットを探したりしていた。

「見てください、これめっちゃ良くないですか?」
「あー、もう。分かったって、ちょっと落ち着け、佐野」

 俺はその輪の少し外側で、ひとり黙々とシャッターを切る。
 今日使わせてもらっているカメラは、斗澤先輩の私物。一日だけ貸してもらう約束で、データの転送も自動でされる便利なミラーレス一眼だ。
 石畳の路地、色褪せた看板、猫が丸まって寝ている姿。
 夢中でシャッターを切っているうちに、しばらくして顔を上げると、斗澤先輩がこちらを見ていることに気が付いた。

(えっ……なに。なんでこっち見てるんだろう?)

 佐野が何か話しかけているのに、その視線はまっすぐ俺に向いている。目が合うと、斗澤先輩はふっと笑って、佐野に『ちょっと待って』と一言だけ告げ、こちらに歩いてきた。一体何事かと、思わず肩に力が入る。

「温、何撮ってたの」
「……あの、猫が、倉庫の前で寝てて」
「どれ、見せて」

 言われるがまま差し出した液晶画面を、斗澤先輩は隣から覗き込んだ。
 そこに映っていたのは、錆びたトタン扉の前で眠る猫の背中だ。古い木枠の窓から漏れた格子状の光が、柔らかい毛並みを幾何学模様のように切り取っている、静かな一枚だった。

「これ、いいな。光の入り方、狙った?」
「はい。あの、格子の隙間から、こう……光が差してて、それが猫の毛並みに、模様みたいに見えて」
「めっちゃいいじゃん。これ、アイコンにしたら?」

 斗澤先輩はそう言って、俺の頭にぽん、と軽く温かい手を置いた。
 ふと顔を上げた瞬間、こげ茶色の瞳に捉えられる。斗澤先輩の手はそのまま頭から離れず、指の隙間に髪の毛を優しく絡めるようにして、ゆっくりと毛先へと梳いていった。指先が地肌をかすめるのを感じて、かちこちに身体が強張る。

「力作のご褒美」
「ご、ご褒美……?」
「ちょっ、ごめん。そんな真顔で固まるなって。触られんの、嫌だった?」
「びっ……くりはしましたけど、不快なわけでは」
「なら良かった。俺、温に嫌われたら普通に凹むって」
「俺が斗澤先輩のことを、嫌いになるわけないじゃないですか」
「……ちょっと待って、そんなハッキリ言い切られると流石に照れる」

 俺がそれ以上喋らないよう、ストップをかけるように手のひらを向けられた。
 どうして照れる必要があるんだろう。
 先に触ってきたのも、言い出したのも、斗澤先輩の方なのに。

「先輩―、温くーん。あっちに船が見えるから早く行きましょー」

 少し離れたところから、明るい声が飛んでくる。佐野に呼ばれた斗澤先輩は「はいはい、今行くって」と軽く返事をしながらも、その場を離れる間際に、もう一度だけ俺の方を振り返った。

「温のペースで、自分の好きなように撮っていいから」

 そう優しく言い残すと、佐野の方へと歩いていってしまう。
 残された俺は、ぱち、ぱちと二度瞬きをした。甘い余韻を飲み込むように、頭の中でもたっぷりと沈黙してから、緩みそうになる口元を唇に力を込めてなんとかやり過ごした。

(斗澤先輩から、ご褒美もらえるレベルの……力作)

 きゅっとスマートフォンを握る手に、自然と力がこもる。
 俺はその場でロックを解除し、カメラロールを開いた。
 ついさっき転送したばかりの写真を表示させ、正方形のフレームに落とし込む。被写体の猫が、丸いラインのアイコンの中にちょうど綺麗に収まるように微調整した。
 もっともっと、斗澤先輩に褒めてほしい。
 そして、また渾身の一枚が撮れたら……。
 次は自分から、『これ、見てください』って斗澤先輩に教えたい。

 ***

 帰りの電車を待つあいだ、俺はひとりホームのベンチに座って、撮った写真を見返していた。あのあと何枚もシャッターを切ったけれど、やっぱり一番のお気に入りはあの猫の写真だ。なんたって、斗澤先輩のお墨付きなのだから。

「まもなく列車が参ります。白線の内側にお下がりください」

 構内放送に顔を上げると、少し離れた自販機の前に立っていた佐野が、缶を二本買ってこっちに向かって歩いてくるのが見えた。

「温くん、お疲れ。これ、良かったら飲んで」

 差し出されたのは、温かい缶のお茶だった。
 申し訳なさ半分、驚き半分で少し迷ったものの、結局は素直に受け取る。

「あ、ありがとう……」
「なんかさ、一日中避けられてる気がしてたんだけど。俺、なんかした?」

 差し入れをくれたかと思えば、そんなふうに真っ直ぐ切り込まれて、俺は一瞬で言葉に詰まってしまう。
 あんなに『苦手だ』『ずるい』と心の中で悶々と敵意を抱いていた相手に、面と向かって核心を突かれ、指先からすっと温度が抜け落ちたような心地がした。

「……ううん、なにも。ただ、俺が勝手に……」
「あー、もしかして斗澤先輩のこと?」
「な、なんで? まだ名前も出してないのに……」
「ごめんごめん、俺は別にそういうんじゃないから。先輩には単純に、写真のこといろいろ教えてほしくて話しかけてただけ。あの人、なんでも知ってるし、聞きやすいし。まあ、半分イジりみたいなもんだよ」
「……そう、なんだ」

 生返事を返したものの、納得したはずの舌の裏には『本当にそれだけ?』という疑念が居座って消えない。

「温くんこそさ、もしかして斗澤先輩のこと、好きなんじゃないの?」

 またしても。大して深く付き合っているわけでもない相手に、そんなさらっと核心をぶち込まれて息が詰まる。
 なぜ簡単に分かってしまうんだという焦り、そして男同士の「好き」なんて言葉をそんな軽々しく口にできることへの戸惑い。ありとあらゆる感情が一気に頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。

「ていうか、ほぼ確実に好きだよね?」

 すぐそばに本人が居るというのに、あまりにもあっけらかんとした顔で言い当てられて、俺は慌てて口の前に「しっ」と人差し指を立てた。

「ちょっ、佐野くん。声が大きいって……!」
「だって、わかりやすいもん。先輩のこと見る目が、もう全然違うし」
「見る目って」
「『好き』がダダ漏れだよ。俺のこと見る時は、なんていうか……目が三角形になってるけど」
「ご、ごめん。それは――」
「いいよ。俺、そういうの慣れてるし。温くんに勘違いされてんな~っていうのも、なんとなく分かってたからさ」

 佐野は意地悪くふっと笑いながらも、その声の響きには優しさが滲んでいた。
 ここで否定するのもわざとらしいし、何よりプライドが高いと思われそうで気まずい。観念してうなだれたまま、俺はますます身を縮めるように小さく頷いた。

「……誰にも、言わないで欲しい……んだけど」
「まあ、言うつもりもないけどさ。アシストとか必要なら、応援するよ」
「アシスト?」
「力になるってこと。自分の気持ち、アプローチとか考えてないの?」

 その直球すぎる言葉に、俺は返す言葉も見つからず、ただ自販機で買った温かい缶のお茶を両手でしっかりと包み込んだ。
 それ以上何も言葉にできずに固まっている俺の気持ちを空気で察したのか、佐野は『まぁ、急に言われても困るか。少しずつでいいんじゃない』と、それ以上深くからかうこともなく、優しく付け加える。

 やがて、重い走行音を立てて電車がホームに滑り込んでくると、佐野はさっと立ち上がり、他のメンバーをまとめてさりげなく隣の車両へと誘導してくれた。その結果、俺と斗澤先輩がふたりきりで並んで座ることになる。
 佐野なりの気遣いなんだろうけれど、同じ空間に居るだけでも、俺はじゅうぶん……十分、のはずで。

「たーずね」
「はっ、はい!」
「もしかして結構疲れるかなーって思ったんだけど。声デカいな」
「す、すみません。びっくりしてしまって」

 同じ車両に誰も乗っていないことに胸をなでおろす俺に、斗澤先輩は口元を手で押さえながら、目を細めた。

「ほぼ半日集団行動、どうだった?」
「正直言うと……すごく、疲れてます」
「わかってる。よく一日通しで参加してくれたな。偉いじゃん」
「え、偉いというか。部員として当たり前のことだと思うので」
「そうかもしんないけど、温にとっては頑張ったことに変わりないだろ?」

 斗澤先輩の教育方針は、徹底的に褒めて伸ばすタイプなんだろうか。自分以外の比較対象が佐野しか居ないから、正直、あまり参考にならない。
 窓の外を流れる景色を見つめていると、斗澤先輩はぽつりと言葉を零した。

「温に、前から聞きたかったことがあるんだけどさ」
「はい」
「……なんでそんなに、人前とか集団とか苦手になったんだ?」
「…………」
「ご、ごめん。嫌だったら無理しなくていいんだけど」
「俺は、その……構わないんですけど。あまりいい気持ちのする話ではないかも、で……」

 合評会のときに続く、二度目の問いかけ。
 心の中で、『斗澤先輩になら言いたい』『受け止めてくれるって、そう言ってくれている』という嬉しさが、ぷつ、ぷつと水面に気泡のように静かに浮かんでくる。本当は自分の胸の内でそう感じているとそのまま伝えたいけれど、その熱は一言も言葉になってくれない。
 それでも、うまく言えなくても、思うように伝わらなくても。
 俺は斗澤先輩に、自分のことを知ってほしいと思った。

「……子供の頃から、もともと声が小さくて。先生にも親にも、『もっとハキハキした、大きな声で話しなさい』って言われる事が多くて」
「うん」
「自分では大きな声を出してるつもりなのに、やっぱり周りのみんなと比べると小さいみたいなんです」
「……そっか。でも、今こうして話してる分には、聞き取りにくいなんて思ったことないけどな」
「実は、これでも大学デビューなんです。結構、意識してボリュームを大きくしてて。毎回、喋り出す前に『声、張らなきゃ』って気を付けるようにしていて」

 少なくとも、斗澤先輩に出会うまでは――もっと影の薄い、誰の記憶にも残らない存在になる予定だった。写真に向き合う気持ちは本気でも、言葉を発せずに済むならどこまでも地味で、無口でいたい。その方がずっとラクだから。
 そう思っていたはずなのに、俺のどうしようもない唇は、信じられないほど、斗澤先輩に自分のこれまでのことや、ずっと隠しておきたかった過去の欠片まで伝えたがっていた。

「小学校で学年が上がるにつれて、『及川=声が小さい奴』っていうイメージが定着していって。でも……小三の時、全校生徒の前でスピーチをすることになってしまったんです」
「スピーチ?」
「夏休みの自由研究で出した作文が、なぜか町のコンクールで賞を取っちゃって」
「それはめでたいじゃん。でも、なんか分かる気がする。温の見てる世界って、人よりなんつーか……すごく繊細だもんな」
「……原稿も完璧に覚えて、家でも母の前で何度も練習したのに。いざ全校生徒の前に立ったら、頭が真っ白になって、一言も喋れなくて。そのまま壇上で黙って突っ立ってるだけになったんです。そしたら、体育館のどこかから、失笑する声が聞こえてきて……」

 あの時の空気や、自分に向けられた無数の視線の重さを思い出す度に、なかなか治らないその心の傷に、俺は自分でそっと絆創膏を貼るようにしていた。
 それ以上痛まないように、自分で深く抉らないように――何枚も、何枚も。
 でも、今は思ったより、苦しくない。
 それはきっと、隣に座る斗澤先輩が、俺の拙い言葉を急かさず、真剣な顔で、ただ真っ直ぐにじっと聞いてくれているから……?

「……それから、人前で喋ろうとすると、あのときの体育館の空気を思い出してしまうようになって。今も、それが抜けなくて」
「そっか。それは、きつかったな」
「も、もう、随分前のことなんですけどね」
「時間が経っても、すっげー悲しかった事って、忘れらんなくね? トラウマ、っていうとちょっと言い過ぎかもしんないけどさ」
「はい」
「でも、悲しいことが忘れられなくてもさ。同じように、超嬉しいことも、いつまでも覚えてない?」
「超嬉しいこと」

 オウム返しをしたものの、斗澤先輩はそれに嫌な顔ひとつ見せず、俺の反応を窺うようにじっと顔を見つめていた。
 俺の人生で、超嬉しかった事。忘れられないくらいのことって……と思い返してみる。けれど、子供の頃の淡い記憶よりも先に浮かんできたのは、大学に入ってから――斗澤先輩と出会ってからの景色ばかりだった。

「そういう思い出をたくさん作っていけば、過去の嫌な記憶なんて徐々に上書きされていくと思うんだよ。俺はさ、カメラってそういうのを手助けしてくれる道具だなって思ってる」

 斗澤先輩は、お互いの膝の上で並んだふたつのカメラに視線を落として、柔らかく笑ってみせた。

「写真は、幸せな瞬間を色褪せることなく残しておくためのタイムカプセルじゃん。時間が経つと記憶は薄れるけど、そのときの空気感とか、笑顔とか。たった一枚の写真が、いつでも鮮やかに思い出させてくれる」
「……そう、ですね」
「今の話聞いたら、俺は尚更カメラ教えたいって思ったよ。……温がもっと笑ってるところも、たくさん見たいし」

 俺が「えっ?」と驚いて首を傾げると、斗澤先輩は視線をそらし、気まずそうに腕を組み直して顔を背けた。

(斗澤先輩、耳のふち……真っ赤になってる)

 いつもあんなに余裕のある態度で、誰にでも優しくて、大人びて見える斗澤先輩が、照れているなんてこと、あるはずがない。
 きっと夕陽の光のせいで顔色が赤く見えただけだ。俺の自意識が、勝手にそんな都合のいい意味を見出そうとしているだけで、先輩にとってはただの後輩への気遣いの延長なのだから。
 そうやって必死に自分の胸の鼓動を抑え込もうとするのに、一度気づいてしまったら、さっきまでよりも近くに感じる先輩の横顔からどうしても目が離せなくなってしまう。

(なんか、すごいこと言われた気がするんだけど……)

 次の駅に着くまでの二十分、この胸の痛みや熱を抱えたまま、どうすればいいのか分からない。どんな顔をして、どんなことを喋れば、「ただの後輩として」何気なくやり過ごすことができるんだろう。
 自分の頬にも熱が集まって来るのが分かる。

(てことは、もしかして俺も真っ赤になってる?)

 本当は両手で顔を覆い隠してしまいたいけれど、男がそんなみっともない真似をするわけにはいかない。
 焦った俺は、慌てて咳払いをして袖で口元を隠した。隠したいのはもっと別の場所――火照った頬も、気付けばいつも見られているはずの目元も全部なのに。もう、とにかく顔周りであればどこでも良かったのかもしれない。

(浮かれちゃだめだ。自分とは正反対の、皆から愛されているような人を好きになってどうするんだ。それに……)

 もし、斗澤先輩にこの「好き」という気持ちがバレたら、今の居場所すら一瞬で消えてしまうかもしれない。
 焦りと不安に駆られながら、俺はポケットの中でスマホの画面をひっそりと点けた。画面には、昼間にアイコンに設定したばかりの、あの猫の写真が表示されている。
 ちら、ともう一度だけ、斗澤先輩の方を見ると、先輩はまだ顔を反対に向けたまま、夕暮れに染まる車窓の景色を眺めている。
 その隙を突くように、俺は震える指で「画像を削除」のボタンをタップした。
 画面の中から、愛らしい猫の姿がすっと消えていく。
 まるで、自分が先輩に抱きはじめた淡い想いごと、消し去ってしまうみたいに。