五月のゴールデンウィークが明けてから、俺は駅前の小さなスーパーでアルバイトを始めていた。理由は単純に、自分のカメラが欲しかったからだ。
スマートフォンでの撮影も悪くはなかったけれど、大学が休みの日は機材を借りることができないし、中古市場を覗いてみても、数年前の型落ちモデルですら状態が良ければそれなりの値段が張る。
アルバイト代をコツコツ貯めて、初めてのマイカメラを手に入れたという斗澤先輩の話を聞いて――我ながら影響されすぎだとは分かっていながらも、俺の背中は簡単に押されてしまった。本当は、いま斗澤先輩が首から下げているのと全く同じものが欲しかった……のだけれど。
相談したとき、斗澤先輩は優しい笑みを浮かべて『初心者なら、最初は軽くて持ち歩きやすいミラーレスからはじめたら?』とアドバイスをくれた。
部活が終わった後、LINEで『この中古品の状態ってどう思いますか?』と写真を送ったときも、先輩は面倒くさがらずにセンサーサイズの違いやレンズの選び方、注意すべきポイントをひとつひとつ丁寧に返信してくれた。そうして機能面や予算のバランスをじっくり吟味し、古いモデルではあるけれど、クラシックな革張りのデザインが一目で気に入ったミラーレス一眼が第一候補に挙がっている。
「温くん、もう二番レジ閉めるから、野菜コーナーの前出しをお願いしても良い?」
「分かりました」
人と話すのは苦手でも、レジ打ちや品出し、棚の整理といった、決まった手順のある作業なら、落ち着いてこなすことができた。接客だって、マニュアル通りの受け答えであれば大きく崩れることはない。店長に『もうちょっと声は大きくね』と苦言を呈されることは、何度かあるけれど……。
その日も野菜売り場で大根を並べていると、閉店間際の自動ドアが開き、見慣れた長身の人影が入ってきた。
「いらっしゃいませ……」
「あ、温。みーっけ」
俺が目を丸くすると、斗澤先輩はポケットに片手を突っ込み、野菜コーナーの横でひらひらと手を振ってみせた。
「斗澤先輩……えっと、何かお探しですか?」
反射的に店員としての接客モードで問いかけると、斗澤先輩はくすりと笑って、
「温が働いてる姿を、見に来ただけ」
と白い歯を見せて笑った。あまりにもあっさりとそう言われて、心のなかで『なんで?』と疑問符をたくさん浮かべながら、無難な一言で会話を繋ぐ。
「あの、覚えてくれてたんですか」
「なにが?」
「俺が、ここでアルバイトしてるって話……です」
「当たり前じゃん。それより、あと何分で上がり?」
「二十時までです。あと、十五分くらい……なんですけど」
「途中まで一緒に帰ろうぜ」
断る理由など、俺にはひとつもなかった。両手に真っ白な大根を持ったまま、ぱち、と何度か瞬きをしてから、こくり、と小さく頷く。
「外で待っとくから」
斗澤先輩はふっと目を細めて、柔らかく笑った。そのまま、手元のカゴへ値下げされた万能ネギや鶏がらスープの素を放り込んでいく。
「斗澤先輩って、いつもここで買い物してましたっけ」
「いや? 可愛い後輩が頑張ってるから、少しでも売り上げに貢献しようかなと」
「あの、すいません。この店舗は時間給で固定されているので、ここでどれだけ斗澤先輩が商品を買ってくださっても、俺の時給が上がったり、売上に直結して給料が増えたりすることはないのですが……」
まじめにそう早口で返した瞬間、ぶはっと盛大に吹き出された。口元を押さえながら「ごめん、ツボった」と爆笑し、そのまま俺の頭――三角巾の上をぐしゃ、と乱暴に撫でていく。
「お前、本っ当に面白い奴だな」
「ど、どのへんがですか」
「ん? もう、全部」
「全部……」
「温のやることなすこと、全部がなんつーか、愛おしい?」
「…………」
マスクをしていたおかげで、口元がぽかんと間の抜けた形で開いているのを見られずに、本当に良かった。
はぁー、と息を漏らしながら目尻に浮かんだ涙の粒を人差し指で雑に払うと、斗澤先輩は『後でな』と言い残してレジへ向かって歩いて行く。
そのあとの残り十五分間、俺は品出しの手を動かしながら、何度もガラス窓の外を確認してしまう自分に気づいていた。
(きっと、真っ直ぐ帰った方が早いのに。なんで……)
自動ドア越しに外を窺うと、片手に白いビニール袋を下げ、ガードレールに浅く腰掛けてスマホを眺める斗澤先輩の姿が見えた。ただそれだけのことが、どうしてか、信じがたいほど嬉しくて。早くシフトが終わらないかと、壁にかかった丸時計の秒針を指先で無理やり押し進めたくなる。
誰に何を認められたわけでもない。
この冴えない自分を、何ひとつ好きになれてなどいないのに。
頭のどこかで『あの斗澤先輩が、時間を差し出して待ってくれる相手』という、根拠のない小さな太鼓判を押されたような気分だ。ふわりと、目の前が色づいていくような熱が駆け上がる。
シフトを終え、はやる足取りで裏口から外に出ると、星空の下で斗澤先輩がすぐにこちらに気づき、さっきと同じように大きく手を振ってくれた。
「お疲れ」
「お、お疲れさまです」
夜の商店街を、ふたりで並んで歩く。会話は途切れがちだったけれど、その沈黙は昔から知っていた息苦しいものとは違って、不思議と心地よかった。
誰かと一緒にいて、無理に言葉を探さなくてもいいと思わせてくれたのも、初めてだ。斗澤先輩は、俺にたくさんの「初めて」をくれる。
「バイトしてるときの温、なんか大学のときと少し違うな」
「えっ、どう、違いますか?」
「意外とちゃんとハキハキしてた。決まった動きだと、平気なんだな」
「あー……決まった手順とか、マニュアルがあるものは、大丈夫なんです。台本のない、その場で考えて話さなきゃいけないことが、一番苦手で」
「なるほどな。だから合評会の時はあんなにガチガチだったのか」
苦笑いすればいいのか、「そうです」と真面目に返せばいいのか。どれが一番この場にふさわしい表情なのか分からなくて、ポケットの中でそっと拳を握り込む。
夜風がその話題を流すように沈黙が流れたあと、俺はじっ、と斗澤先輩の顔を見上げた。
「あの」
「うん? どうした」
「斗澤先輩は……どうして、そんなに俺のこと、気にかけてくれるんですか」
勇気を出して尋ねると、斗澤先輩は少し驚いたように目を丸くし、それから気恥ずかしそうに視線を夜空へと逸らした。
「さあ、なんでだろうな」
「えっ」
「ただ、温のこと見てると、放っておけないんだよ。困ってても自分から『助けて』って言えないタイプだろ」
カサリと、手元のビニール袋が夜風に煽られて音をたてると、斗澤先輩は一度ゆっくりと歩みを止め、まっすぐに前を見据えたまま、はっきりとした声で言った。
「だから、俺が先に気づいてやろうって、そう思ってる」
もう一人の自分が、『だめだ』『調子に乗るな』『思い上がるな』と怒りながら必死に頭を抑えつけている。それなのに、沸騰したような熱が急激にこみ上げ、喉のあたりまで出かかっていた。
(嬉しいです。ありがとうございます)
(でも、それってウザくないですか。面倒くさくないですか?)
(斗澤先輩って、俺以外の他の人にも、みんなにこうやって優しいこと、するんですか――)
ぐるぐると渦巻く質問はどれも口には出せないまま、春の嵐みたいに吹き荒れる。
嬉しすぎて、どう返事をすればいいのか分からない。気恥ずかしさと胸を突かれるようなときめきが混ざり合い、何を考えているのか悟られないように必死で目を泳がせた俺に、斗澤先輩は一度だけ見下ろすように視線を向けた。
「次のシフトいつ? また買い物のついでに寄るから」
「……水曜と、金曜です。あ、でも特売はいつも木曜日で……」
「ん、水曜と金曜な。じゃあ、俺あっちだから」
「あっ……ありがとう、ございました」
緊張しながらも、せめてちゃんと笑おうと、俺は精一杯の笑顔を向けた。
「…………」
「斗澤先輩? どうかしましたか」
息を呑んだように視線を揺らし、斗澤先輩の動きがピタリと止まっている。
(え、もしかして今の笑顔、変だった? やばい、愛想良くしようと思ったのに不気味だったのかな……)
焦って青ざめる俺をよそに、先輩はなぜか少しだけ言葉を詰まらせたあと、『気を付けて帰れよ』とだけ言い残し、反対方向へと軽やかに踵を返した。
見送る俺はしばらくその場に立ち尽くしたまま、呆気にとられる。
斗澤先輩が、先輩と友達の中間のような絶妙な距離感で嬉しいことばかりしてくれるから、ついそこに凭れかかりたくなる。
本音を言うなら、ずっとこの枠に収まっていたい。ちょっと手のかかる後輩として、ただこうやって構われていたい。そんなずるい自分が、ひょっこりと顔を出している。
でも、本当にこのままでいいのか? 斗澤先輩にとっては、ただの面倒な後輩かもしれない。ずっとこのまま、変わらないままでいいのだろうか。
(成長したら、斗澤先輩が今まで通りの距離感で構ってくれなくなる……?)
胸の内で繰り広げられるそんな矛盾した押し問答は、もう隠しようのないほど大きく膨れ上がり、頭から離れなくなっていた。
スマートフォンでの撮影も悪くはなかったけれど、大学が休みの日は機材を借りることができないし、中古市場を覗いてみても、数年前の型落ちモデルですら状態が良ければそれなりの値段が張る。
アルバイト代をコツコツ貯めて、初めてのマイカメラを手に入れたという斗澤先輩の話を聞いて――我ながら影響されすぎだとは分かっていながらも、俺の背中は簡単に押されてしまった。本当は、いま斗澤先輩が首から下げているのと全く同じものが欲しかった……のだけれど。
相談したとき、斗澤先輩は優しい笑みを浮かべて『初心者なら、最初は軽くて持ち歩きやすいミラーレスからはじめたら?』とアドバイスをくれた。
部活が終わった後、LINEで『この中古品の状態ってどう思いますか?』と写真を送ったときも、先輩は面倒くさがらずにセンサーサイズの違いやレンズの選び方、注意すべきポイントをひとつひとつ丁寧に返信してくれた。そうして機能面や予算のバランスをじっくり吟味し、古いモデルではあるけれど、クラシックな革張りのデザインが一目で気に入ったミラーレス一眼が第一候補に挙がっている。
「温くん、もう二番レジ閉めるから、野菜コーナーの前出しをお願いしても良い?」
「分かりました」
人と話すのは苦手でも、レジ打ちや品出し、棚の整理といった、決まった手順のある作業なら、落ち着いてこなすことができた。接客だって、マニュアル通りの受け答えであれば大きく崩れることはない。店長に『もうちょっと声は大きくね』と苦言を呈されることは、何度かあるけれど……。
その日も野菜売り場で大根を並べていると、閉店間際の自動ドアが開き、見慣れた長身の人影が入ってきた。
「いらっしゃいませ……」
「あ、温。みーっけ」
俺が目を丸くすると、斗澤先輩はポケットに片手を突っ込み、野菜コーナーの横でひらひらと手を振ってみせた。
「斗澤先輩……えっと、何かお探しですか?」
反射的に店員としての接客モードで問いかけると、斗澤先輩はくすりと笑って、
「温が働いてる姿を、見に来ただけ」
と白い歯を見せて笑った。あまりにもあっさりとそう言われて、心のなかで『なんで?』と疑問符をたくさん浮かべながら、無難な一言で会話を繋ぐ。
「あの、覚えてくれてたんですか」
「なにが?」
「俺が、ここでアルバイトしてるって話……です」
「当たり前じゃん。それより、あと何分で上がり?」
「二十時までです。あと、十五分くらい……なんですけど」
「途中まで一緒に帰ろうぜ」
断る理由など、俺にはひとつもなかった。両手に真っ白な大根を持ったまま、ぱち、と何度か瞬きをしてから、こくり、と小さく頷く。
「外で待っとくから」
斗澤先輩はふっと目を細めて、柔らかく笑った。そのまま、手元のカゴへ値下げされた万能ネギや鶏がらスープの素を放り込んでいく。
「斗澤先輩って、いつもここで買い物してましたっけ」
「いや? 可愛い後輩が頑張ってるから、少しでも売り上げに貢献しようかなと」
「あの、すいません。この店舗は時間給で固定されているので、ここでどれだけ斗澤先輩が商品を買ってくださっても、俺の時給が上がったり、売上に直結して給料が増えたりすることはないのですが……」
まじめにそう早口で返した瞬間、ぶはっと盛大に吹き出された。口元を押さえながら「ごめん、ツボった」と爆笑し、そのまま俺の頭――三角巾の上をぐしゃ、と乱暴に撫でていく。
「お前、本っ当に面白い奴だな」
「ど、どのへんがですか」
「ん? もう、全部」
「全部……」
「温のやることなすこと、全部がなんつーか、愛おしい?」
「…………」
マスクをしていたおかげで、口元がぽかんと間の抜けた形で開いているのを見られずに、本当に良かった。
はぁー、と息を漏らしながら目尻に浮かんだ涙の粒を人差し指で雑に払うと、斗澤先輩は『後でな』と言い残してレジへ向かって歩いて行く。
そのあとの残り十五分間、俺は品出しの手を動かしながら、何度もガラス窓の外を確認してしまう自分に気づいていた。
(きっと、真っ直ぐ帰った方が早いのに。なんで……)
自動ドア越しに外を窺うと、片手に白いビニール袋を下げ、ガードレールに浅く腰掛けてスマホを眺める斗澤先輩の姿が見えた。ただそれだけのことが、どうしてか、信じがたいほど嬉しくて。早くシフトが終わらないかと、壁にかかった丸時計の秒針を指先で無理やり押し進めたくなる。
誰に何を認められたわけでもない。
この冴えない自分を、何ひとつ好きになれてなどいないのに。
頭のどこかで『あの斗澤先輩が、時間を差し出して待ってくれる相手』という、根拠のない小さな太鼓判を押されたような気分だ。ふわりと、目の前が色づいていくような熱が駆け上がる。
シフトを終え、はやる足取りで裏口から外に出ると、星空の下で斗澤先輩がすぐにこちらに気づき、さっきと同じように大きく手を振ってくれた。
「お疲れ」
「お、お疲れさまです」
夜の商店街を、ふたりで並んで歩く。会話は途切れがちだったけれど、その沈黙は昔から知っていた息苦しいものとは違って、不思議と心地よかった。
誰かと一緒にいて、無理に言葉を探さなくてもいいと思わせてくれたのも、初めてだ。斗澤先輩は、俺にたくさんの「初めて」をくれる。
「バイトしてるときの温、なんか大学のときと少し違うな」
「えっ、どう、違いますか?」
「意外とちゃんとハキハキしてた。決まった動きだと、平気なんだな」
「あー……決まった手順とか、マニュアルがあるものは、大丈夫なんです。台本のない、その場で考えて話さなきゃいけないことが、一番苦手で」
「なるほどな。だから合評会の時はあんなにガチガチだったのか」
苦笑いすればいいのか、「そうです」と真面目に返せばいいのか。どれが一番この場にふさわしい表情なのか分からなくて、ポケットの中でそっと拳を握り込む。
夜風がその話題を流すように沈黙が流れたあと、俺はじっ、と斗澤先輩の顔を見上げた。
「あの」
「うん? どうした」
「斗澤先輩は……どうして、そんなに俺のこと、気にかけてくれるんですか」
勇気を出して尋ねると、斗澤先輩は少し驚いたように目を丸くし、それから気恥ずかしそうに視線を夜空へと逸らした。
「さあ、なんでだろうな」
「えっ」
「ただ、温のこと見てると、放っておけないんだよ。困ってても自分から『助けて』って言えないタイプだろ」
カサリと、手元のビニール袋が夜風に煽られて音をたてると、斗澤先輩は一度ゆっくりと歩みを止め、まっすぐに前を見据えたまま、はっきりとした声で言った。
「だから、俺が先に気づいてやろうって、そう思ってる」
もう一人の自分が、『だめだ』『調子に乗るな』『思い上がるな』と怒りながら必死に頭を抑えつけている。それなのに、沸騰したような熱が急激にこみ上げ、喉のあたりまで出かかっていた。
(嬉しいです。ありがとうございます)
(でも、それってウザくないですか。面倒くさくないですか?)
(斗澤先輩って、俺以外の他の人にも、みんなにこうやって優しいこと、するんですか――)
ぐるぐると渦巻く質問はどれも口には出せないまま、春の嵐みたいに吹き荒れる。
嬉しすぎて、どう返事をすればいいのか分からない。気恥ずかしさと胸を突かれるようなときめきが混ざり合い、何を考えているのか悟られないように必死で目を泳がせた俺に、斗澤先輩は一度だけ見下ろすように視線を向けた。
「次のシフトいつ? また買い物のついでに寄るから」
「……水曜と、金曜です。あ、でも特売はいつも木曜日で……」
「ん、水曜と金曜な。じゃあ、俺あっちだから」
「あっ……ありがとう、ございました」
緊張しながらも、せめてちゃんと笑おうと、俺は精一杯の笑顔を向けた。
「…………」
「斗澤先輩? どうかしましたか」
息を呑んだように視線を揺らし、斗澤先輩の動きがピタリと止まっている。
(え、もしかして今の笑顔、変だった? やばい、愛想良くしようと思ったのに不気味だったのかな……)
焦って青ざめる俺をよそに、先輩はなぜか少しだけ言葉を詰まらせたあと、『気を付けて帰れよ』とだけ言い残し、反対方向へと軽やかに踵を返した。
見送る俺はしばらくその場に立ち尽くしたまま、呆気にとられる。
斗澤先輩が、先輩と友達の中間のような絶妙な距離感で嬉しいことばかりしてくれるから、ついそこに凭れかかりたくなる。
本音を言うなら、ずっとこの枠に収まっていたい。ちょっと手のかかる後輩として、ただこうやって構われていたい。そんなずるい自分が、ひょっこりと顔を出している。
でも、本当にこのままでいいのか? 斗澤先輩にとっては、ただの面倒な後輩かもしれない。ずっとこのまま、変わらないままでいいのだろうか。
(成長したら、斗澤先輩が今まで通りの距離感で構ってくれなくなる……?)
胸の内で繰り広げられるそんな矛盾した押し問答は、もう隠しようのないほど大きく膨れ上がり、頭から離れなくなっていた。



