露光時間

 入部届を出した日を境に、俺のタイムスケジュールには「写真部」という枠が新しく加わった。活動日は週に二回。たった一人しかいない一年生として誰よりも早く部室に到着し、誰よりも遅くまで残っている。
 それを二年の先輩に『新入部員ていうより、新入社員みてぇに真面目だな』と笑われた。冗談なのは分かっているけれど、どこか「変な奴」というニュアンスを含んでいる気がして、俺は曖昧に『はい』と返すことしかできない。
 それでも、悪い人たちではない。いつもどこか気の抜けた緩やかな空気が流れていて、現在の部員は全部で八人。そのこぢんまりとした距離感が、今の俺にとってはちょうどよかった。

「おっしゃー、とりあえず今日の編集終わり! 温は進捗どうだ?」
「あ、さっ、さっき撮ったものを今転送してるところで」
「うんうん、一生懸命で宜しい」

 そんな写真部を取りまとめる部長は面倒見がいい一方で、人との距離感がやたらと近く、最初のうちはそのパーソナルスペースの狭さに気圧されっぱなしだった。
 けれど、そこは斗澤先輩が「距離バグだからやめてもろて」「セクハラすんなって」と明るい調子で絶妙に間に入って守ってくれる。みんなの会話の輪にうまく混ざれずにいる時は、斗澤先輩はちょいちょいと俺を指先で手招きし、さりげなくその場に居場所を作ってくれたりもした。おかげでどうにか、こんな自分でも部活の輪の端っこに体ひとつ分のポジションを確保することができている。

「てか、刹那。新歓って予定通りやったほうがいい? 結局入部した一年って、温だけじゃん」
「ひとりだって歓迎会はやるもんだろ。なぁ、温。来週の金曜って六コマ終わったら空いてる?」
「あ、はい、空いてます」
「じゃあ決まり。俺、このまま残って店とか予約しておくから。笈川、鍵預かるよ」

 またな、とぞろぞろと出て行く先輩たちに、俺は椅子に座ったまま何度か会釈をする。ぱたん、と静かな音を立ててドアが閉まった。
 その扉に夕暮れの西日が斜めに射し込んで、「あ」と思わず手元の一眼レフを構える。何気ない部室の光景を切り取ろうとした――その瞬間、背後から不意に斗澤先輩が歩み寄り、そっと手を添えてきた。肩口のすぐそばにある顔の近さに、腕がびくりと跳ねる。

「温、その持ち方だと、シャッター切る時に手ブレするよ」
「えっ、あの、どうしたら……」
「もっとこう、脇を締めてみて」

 斗澤先輩が俺の肘に軽く触れ、そのまま正しい角度へと直していく。シャッターボタンに添えられた指の位置を微調整するその手から、思いがけず熱が移ってきた。ほんの数秒、手が重なっただけなのに、その指先からどうしても目を離せなくなる。
 節ばった大きな指。深すぎるんじゃないかと思うくらいに爪は綺麗に切り揃えられている。ぎゅ、とそこに力を込められると、なんだか手から直接、思考まで吸い取られてしまうような気がした。

「うん、良い感じ。これで撮ってみて」

 言われた通りに、息を止めてシャッターを切る。液晶に映し出された景色は、さっきまでとは比べ物にならないほど輪郭をくっきりと捉えていた。

「ほ、本当だ……くっきりしてます」
「だろ? 急にレンズ向けたから、びっくりしたけどさ。いい絵じゃん。温のそういう『誰もが見落とすような日常の一コマ』に目を向ける感性、俺はすごく好き」
「ほ、本当ですか……?」
「本当だよ。今みたいな直感は、大事にしたほうが良い」

 斗澤先輩はにっと笑い、労わるように俺の肩をぽんと叩いた。
 俺があまりにも「人慣れ」していないせいなのだろうか。部活の先輩と後輩の間柄において、これが通常のやりとりなのかどうかなんて分からない。というか、そんなことの正解をいちいち考えていたら埒が明かなくなりそうだ。
 気にしないようにしたいけれど、それがどうしても引っかかるのは、他の先輩たちが斗澤先輩のように物理的な距離を詰めてこないし、触れてもこないからだ。
 これまでは、自分ひとりが勝手に感じたことで心が揺れることはあっても、こんな風に、たった一人の人に世界を揺すられたことなんてなかった。身体のずっと深い所――静かだった水面に波紋が広がるように、今もまだ心がざわめいている。

「今撮ったのも、パソコンにデータ移しておくか。隣、おいで」
「はい」
「レタッチはしたことある?」
「いえ、こういうソフトを使ったことは一度もなくて」
「じゃあ今日はソフトの紹介とレタッチのやり方、教えるか」

 二人きりだし、とぼそりと呟く先輩に、またしても俺は心のなかで『ありがとうございます、嬉しいです』『斗澤先輩ってすごく親切ですよね』とテレパシーを送る。
 椅子を寄せて座る斗澤先輩は、明るさの調整、コントラストの付け方、色味の整え方を、順を追って説明していった。

「すみません」
「ん?」
「質問、があるんですけど」
「うん、どうぞ」
「今の……シャープネスと明瞭度の違いってなんですか?」

 授業中のように顔の横でおずおずと挙手すると、斗澤先輩は頬杖をついていた顔を持ち上げて、画面を指差して見せた。

「シャープネスは画像の輪郭。明瞭度は細部とテクスチャのディテールを強調したい時なんかに使う感じだな」

 そのまま身を乗り出し、俺の手元のマウスに自分の手を重ねる。距離が一気に縮まると、先輩の手のひらから俺の手の甲へ、数度高い体温がほわん、と伝わってきた。

「こうやって、このスライダーを動かすと……ほら、印象が全然変わるだろ」
「……あ、本当だ」
「フィルムカメラみたいに、見たまんまを映すっていうのもいいんだけど。撮影条件によっては、思ったより画面が暗かったり、メリハリがないって感じる時もあるんだよな」
「なるほど……」
「えっ、いや、全部メモらなくて良いって。俺、わりとフィーリングで喋ってるからな?」
「そのまま、続けてください」

 三色ボールペンの青を走らせ、スケジュール帳の後ろのフリーページを少しずつ埋めていく。黒ではなく、青。いつのまにか、この色を選ぶことが自分ルールになっていた。
 赤で大々的に書き込むには気恥ずかしくて、かといって、普段の雑多な黒に埋もれさせてしまうのもなんだか違う気がして。
 もしかすると、斗澤先輩から教わったことや、あのとき感じた温度のすべてを、自分の中でちゃんと大切に持っていたいから……なのかもしれない。
 いつもなら外から運動部の威勢のいい声が響くはずの時間なのに、今日は窓の外で雨がただ静かに降り続いている。ガラスを伝う雨粒の音と、パソコンのキーボードを叩く乾いた音だけが部室に響いていた。

「で、出来ました」

 編集を終えた写真を画面上で並べて見比べながら、斗澤先輩はふっと目を細め、「温はいいセンスしてるな」と言った。
 謙遜して否定するのは先輩の言葉を濁すようで嫌だし、かといって素直にお礼を言えばなんだか調子に乗っているみたいで気恥ずかしい。というか、たった一言の返しにここまでうだうだ悩んでいる自分がすごく嫌だ。
 やっぱりどう返していいかわからず、俺は下唇を巻き込んだ。

「はは、それって温のクセ?」
「何のことですか」
「……ん、なんでもない」

 斗澤先輩にそんな風に誤魔化されるのは、初めてのことだった。何か言いづらいことだったのかな……と、ぱちぱちと瞬きして、逸らされたままの顔を見つめる。

(これ、もう一回『どうしたんですか』って聞いたら、ウザいって思われちゃうかな)

 答えは頭の中にあるのに、口にしようとするとあれこれ心配になって、勝手に不安になって、しどろもどろになる。

「てか、前から聞きたいことあったんだけど」
「はい」
「温ってさ、人と話すの苦手?」

 パソコンの電源を落として片付けをしながら、斗澤先輩がふと聞いた。
 突然向けられた疑問に、手にしたレンズブラシを危うく落としそうになる。

「正直に言うと……昔から、あんまり得意じゃない、です」
「なんで?」
「頭の中では、ちゃんと言葉になってるんですけど。その……口に出そうとすると、その途中で、何か、詰まっちゃって」
「へえ。じゃあ頭の中には、ちゃんと言いたいことあるんだ」
「あります、いっぱいあります。けど、うまく出てこなくて」

 斗澤先輩はそれ以上深追いしてこなかった。
 沈黙が怖くて、何を謝りたいのかも分からないのに「すみません」の口を準備していると、拳一個分の距離を詰められる。

「二人で居る時っていうか、俺の前では無理して喋んなくていいよ」
「えっ?」
「俺、待つの得意だから」

 それだけ言って、斗澤先輩は背中を向けると、何事もなかったように片付けの続きに戻った。
 待つのが得意、なんて言う人に出会ったのは生まれて初めてだ。
 これまで俺の「間」は、誰かにとって苛立ちの種でしかなかった。言葉を急かされ、話を遮られ、『早く言ってよ』とため息をつかれることに、とっくに慣れきっていたはずなのに。
 喉の奥が、細い糸できゅっと引き絞られるように苦しくなる。
 なんだこれ、と初めて自覚する気持ちに戸惑っていると、心の中だけですごい勢いで雨音が大きくなり、どしゃ降りのようになっていく。さっきの一言は斗澤先輩のやさしさだと分かっているのに、会話をあっさり切り上げられてしまったことが、どうしようもなく寂しい。
 ……どうして。
 どうして斗澤先輩といる時だけ、もっと話したいって思ってしまうんだろう。