露光時間

 入学式から一週間が経っても、俺はまだ大学というものに慣れていなかった。
 正確に言えば、慣れていないのは大学そのものではなく、そこにひしめく「人」の密度だ。廊下ですれ違う人の多さ、講義室で隣に座った相手にどんな挨拶をすればいいのかという些細な判断。学食の券売機の前でどの列に並べばいいのか一瞬迷って後ろで舌打ちをされた時の、縮みあがるような感覚。
 そのひとつひとつに、大袈裟なくらい緊張してしまう。

「おーい、そこの君。もしかして一年生?」
「はい」
「インカレで新入部員を募集してるんだけど、興味ないかな」
「……え、っと……すみません、大丈夫です」

 路上でチラシを突き出され、俺は逃げるように足を速めた。なにが「大丈夫」なのかと聞かれたら答えに窮するが、勧誘を断るときはいつも、消え入るような声を出しながら、そろそろとその場から離れていくのがお決まりのパターンだ。

(ここが四号館で……グラウンドの向かい側が二号館? あれ、じゃあサークル棟ってこの建物の後ろか?)

 高校での三年間、俺はずっと帰宅部だった。
 部活に入らなかったのではなく、入ろうとして失敗した苦い経験がある。
 高一の春、写真が好きだからという理由で写真部の見学に行ったのだけれど――扉を開けた瞬間、部室にいた数人がこちらを一斉に見て、『きみ、一年生?』と聞かれただけで喉が固まって、『すみません、間違えました』と(相手に届いたかすら怪しい超小声で)回れ右をしてしまった。本当は、なにも間違えてなんかない。ただ、あの視線の集中に耐えられなかっただけだ。

 それから三年間、俺は誰にも言わずに、ひとりでスマートフォンのカメラで写真を撮り続けた。
 通学路の片隅にいた野良猫、雨上がりのアスファルトの水たまりに映り込んだ空。誰かに見せるためではなく、ただ自分の中で綺麗だと思った瞬間を、スマホの画面越しに切り取るだけの日々。
 けれど、写真を撮っているときだけ、俺は自分が世界と「うまく」繋がれているような気がした。言葉を交わさなくても、ファインダー越しに捉えた一瞬は、自分がこの世界に存在しているという確かな実感をくれる。
 普段は、外に出た先々で周囲の機嫌や人の気持ちを推し量っては勝手に傷つき、ただ人の中に居るだけでもエネルギーをすっかり吸い取られたかのようにぐったりしてしまうというのに、カメラを構えている時間だけは不思議と、波立った心がすっと凪いでいくのだ。

 でも、それは撮る側に限られる。自分が「被写体」となると話はまったく別だ。高校の卒業アルバムに載った自分の顔を、俺はやっぱり好きになれなかった。
 集合写真の隅っこで、誰よりも小さく肩を縮こまらせて写っている自分。修学旅行、文化祭、その他もろもろの楽しげなイベントの名前が並ぶページで、俺はいつも人の輪の外側にいた。
 ひとりでいる気楽さを知っていたし、それが特別に悪いことだとも思わなかった。けれど、そんなふうに何食わぬ顔で過ごしながらも、心のどこかで、ずっと小さな寂しさを抱え続けていたこともまた、まぎれもない事実だった。
 カメラがあれば、世界を見ることは出来る。
 自分が世界にいるところを見るのは、怖い。

(……ここで合ってるのかな)

 大学への入学は、これまでの自分をリセットできる数少ない機会だった。
 誰も自分の過去を知らないこの場所で、もう一度だけやり直してみたい。三年前、部室の扉の前で回れ右をしてしまった臆病な自分から、少しでも前に進みたい。
 そんな漠然とした願いを胸に、俺は『ステューデントハウス』と通称されるサークル棟の三階、扉の前に立っていた。
 少し色褪せた〈写真部〉のプレートを見上げながら、手のひらの汗を拭う。控えめにノックをしてみたが――聞こえるのはくぐもった話し声ばかりで、返事はない。
 もう一度、今度は少し強めに力を込めた。
 ……が、焦ったせいで、なんだかもの凄く怒っているような喧嘩腰のノックになってしまった。

「はーい」

 中から聞こえたのは、思っていたより落ち着いた低い声だった。
 ドアが開く。そこに立っていたのは、俺よりも頭ひとつ分背の高い男子だった。黒に近い焦げ茶の髪はラフに整えられていて、首から一眼レフのストラップを提げている。
 目が合った瞬間、いかにも人当たりのよさそうな笑顔で陽のオーラを放つその人に、気圧されて反射的に一歩下がりそうになった。

「あの……新入生、なんですけど」
「うん」
「写真部の、見学、したくて……」

 声が思うように出なかった。語尾が消えていくのが自分でもわかる。いつもこうだ。緊張すると、言葉が舌の上で渋滞を起こして、うまく前に進んでくれない。
 小学生の頃からこの喋り方をからかわれたことは、両手の指では足りないほどある。

「ど、どんな感じか見せて貰っても、いいですか」

 けれど、目の前の男子は俺の言葉を急かすことなく、最後まで静かに聞いていた。それから、ふ、と口の端をわずかに緩める。

「見学なら大歓迎。どうぞ、入って」

 いかにもリア充然とした外見に反して、思っていたよりずっと優しい声だった。俺は無言でこくりと頷き、促されるまま部室に足を踏み入れる。

「俺は斗澤刹那(とざわせつな)。三年で、写真部の副部長やってる。よろしくな」

 斗澤先輩はそう名乗って、軽く右手を差し出した。その手を見て、俺は一瞬だけ全身を硬直させる。握手という行為に、まったく慣れていない。
 頭の中で『え、これ握るの?』と激しく狼狽していると、今度は別の思考が『いや、早く握り返さなきゃ失礼だろ』と自分を強く叱咤した。
 慌てておずおずと自分の手を伸ばすと、斗澤先輩はその手を、しっかりと、それでいて優しく包むような加減で握ってくれた。
 こんなふうに人の手に触れたのなんて、一体いつぶりだろう。小学校低学年の頃にはすでに『温くんって喋り方がヘンだよね』と言われて孤立していたから、親しく手を繋いだ友達の記憶なんて、とうの昔に擦り切れている。
 斗澤先輩の手のひらは温かくて、少しだけしっとりとしていた。それが不快なわけではなく、なんだかとても不思議なものに感じられる。
 宙ぶらりんになったままの左手で、そわっと落ち着かない気まずさを意識の端へ追いやるように、自分の服の裾をぎゅっと掴んで、指先でその布地をなぞった。

「及川、(たずね)です」
「え、ごめん。もう一回聞いてもいい? たずね、くん?」
「はい、『たずね』で合ってます」
「珍しい名前だね。どういう字書くの」
「『温度』の温、一文字で『たずね』って読みます」
「へー、良い名前じゃん」
「あ、ありがとうございます……」
「そんなに緊張しなくていいよ。……おーい、待望の新入部員候補が来たぞ」

 部室には斗澤先輩のほかにあと三人ほどいたが、友人らしき先輩が俺の学部と学科名を紙に控えると、あとは各々作業に戻っていった。過剰に構われなかったことに、ひそかに安堵する。

「ちなみに、あそこに座ってる奴が部長なんだけど。同じ『オイカワ』なんだよな。字は竹冠の『笈川』だけど」
「え……あ、そうなんですか」
「うん、同じ苗字が部内にふたりって、初めてでちょっと面白いことになってる。どっちを呼んでるか分からなくなるから、『温』って呼んでいい?」
「問題ありません」

 間髪を容れずに答えた自分の声は、我ながらまるでアンドロイドのように硬かった。案の定、先輩は一瞬『は?』といった様子でぽかんと口を開け、動きを止める。男同士の縦社会って、もっと厳しいものをイメージしていたのだけれど。今のは堅苦しすぎただろうか。
 内心で冷や汗を流す俺をよそに、先輩は何かを飲み込むように喉を鳴らし、ふっと目を細めた。その視線には、警戒でも呆れでもなく、なんだか小動物を見るような、妙に温かい愛情が滲んでいる……ように見える。

(……ええと、この反応は、嫌がられてはいない、よな?)

 気まずさに俺が小さく息を詰めていると、先輩はにっと明るく笑って、目の前の空間を区切るように手を叩いた。

「んじゃー、とりあえずうちの作例でも見ていく? これなんて、超力作揃いだぜ」

 斗澤先輩は壁際の棚から一冊のファイルを取り出し、俺に手渡した。中にはA4サイズに引き伸ばされた写真が、いくつも収められている。
 夕暮れの校舎、雨に濡れた自転車置き場、鳥が翼を広げる一瞬を切り取った躍動感のある一枚。ページをめくりながら、俺の口から素直に「すごい」という声がこぼれた。

「気に入った?」
「はい。あの、これは……斗澤先輩が?」
「ファイルはその代ごとにまとまってるから、『ここに居る全員の作品』って言った方が正しいかな。あ、これは俺の。去年の秋に撮ったやつだよ」

 斗澤先輩は俺の隣に立って、ページの端を指差した。
 夜の校舎を写した一枚。窓の明かりがぽつりぽつりと灯り、まるで星のように見える構図だ。

「学祭の準備期間だったかな。みんな遅くまで残っててさ、講義室の電気が全部つくと、こんな感じになる」
「……綺麗です」
「だろ。俺もカメラは大学から始めたんだけどさ、コツコツ真面目に続けていけば、結構いいの撮れるようになるんだよ」

 斗澤先輩の満足げな笑い方が、なんだか眩しく感じられた。
 人と話すときにこんなふうに自然に自信を見せて笑える人と、俺はあまり喋ったことがない。

「温は自分のカメラ、何の機種を使ってる?」
「……すみません。今まではスマホでしか、撮ったことがなくて」

 本格的なカメラを持っていないと、この部活には入れないんだろうか。
 机の上に置かれた、先輩たちの私物らしい立派な一眼レフカメラを見て、俺はだんだん自分が場違いなところへ来てしまったような恥ずかしさに襲われた。

「そうなん。じゃあ、部で自由に使えるやつ、レンタルしていいよ」
「レンタル?」
「一年生は大体、レンタルから始める。んで、バイト代が貯まったらフリマアプリで探したり、先輩のおさがりを安く譲ってもらったりすることが殆どかな」

 顎に手を添えながら、斗澤先輩はカメラケースから三台のカメラをひとつひとつ並べて見せてくれた。一眼レフカメラ、ミラーレス、フィルムカメラ。まだ初心者の俺でも知っているような、名機と呼ばれるシリーズの機種ばかりだ。

(そうなんですね)
(アルバイトの収入だけで機材を揃えるのは、結構時間がかかりますよね)
(斗澤先輩の、いちばんのお気に入りはこの中でどれですか?)

 聞きたいことは山ほどあるのに、いざ口を開こうとすると、言葉はやっぱり喉の奥で引っかかってしまう。
 それ以外にも、前日の夜からスマホのメモアプリへ『写真部で質問したいことリスト』を十五個以上もまとめてきたというのに、いざとなると画面を開くことすらできやしない。それでも斗澤先輩は、俺が沈黙するたびに急かすことなく、

「俺ので良ければ、機材に触ってみる?」
「ちなみに部費は月に千円な」
「活動は週二くらい、あとは基本自由だから」

 と、後から聞こうと思っていた疑問を先回りしてぽつりぽつりと話してくれた。まるで、心の中で焦りっぱなしの俺のことを考えて、優しく歩幅を合わせてくれているかのように。

「このまま入部してくれたら嬉しいんだけど。どうする?」
「あ、ええと」
「他にも迷ってるサークルがあるなら、回ってから決めても良いよ」
「ち、ちが……います、他に候補は、なくて」
「え、じゃあウチが本命ってこと?」

 喉がまた詰まりかけたが、今度はなんとか声を絞り出せた。

「はい。あの……入部届、ここで書いていっても、いいですか」
「マジ? やったー、超嬉しい」

 斗澤先輩は少しだけ目を見開いて、それからもう一度笑った。今度の笑みは、さっきよりわずかに柔らかい。
 差し出された届け出用紙を受け取り、リュックからペンケースを出すのでさえ、もたもたと手間取った。気になるのだ。斗澤先輩が、俺のぎこちない動作を、ひとつひとつ目で追っているのが分かるから。
 多分向こうは無意識なのだろうけれど。そういう些細なことにすら、俺は過敏に反応して「見られてる」「どうしよう」と(顔には全く出ていないらしいのだが)小さなパニックを起こしていたりする。
 出来るだけ綺麗に名前を書こうとすると、かえって余計に指先がこわばって震えた。あぁ、いかにも緊張してますねっていう顔をされている気がして、恥ずかしさは頂点に達する。文字は丁寧に書きたいのに、それ以上に「早くこの場を終わらせたい」という焦りが勝ってしまい、ペンを走らせる手が自然と早くなった。

「俺、基本毎日ここに居るから。また明日も待ってる」
「ま、毎日ですか」
「うん。空コマの時も暇さえあればって感じ。温もいつでも来ていいよ、レポートに追われてなければ、カメラの操作も教えるから」
「でも、それは……恐縮、というか」
「俺だって一年の時は、先輩にそうやって教わったんだよ。だから、いつでもおいで」

 その一言で、胸の奥にやわらかな何かがぽっと灯った気がした。
 あたたかいだけじゃない。ずっと薄暗かった心の一部屋に、そっと明かりが点いたような感覚。差し込むような強い光ではなく、隣に寄り添うような、控えめな……。

「来てくれてありがとな。あ、ついでだしライン交換しとくか」
「ライン、ですか」
「え、もしかしてやってない?」
「い、いや、やってます……ただ、連絡は家族としか使ったことがなくて」
「なるなる。じゃあちょっと、ここ座って」

 斗澤先輩はそばにあったパイプ椅子にどかりと腰を下ろすと、両膝に肘をついて前屈みになり、手招きした。おずおずと近づくと、「ちょっとごめんな」と慣れた手つきで俺のスマホを覗き込み、迷いなく画面をタップしていく。家族の名前しか並んでいないラインのタブに、「グループ」のタブが増えた。

「うわ、アイコンが初期設定の画像のままだ。これ、久々に見たかも」
「えっ……すみません」
「いや、謝るとこじゃなくない?」

 からからと笑う先輩に、俺はどう反応するのが正解だったんだろう、と内心で頭を抱えた。

「温もこれから写真部に入って、『これは力作だ!』って思える一枚が撮れたらさ、それをアイコンに設定してみればいいよ」
「……力作」
「うん。温がどんな写真を撮るのか、俺も楽しみにしてるから」

 斗澤先輩にかけられた言葉の数々を頭の中で何度も反芻しながら、ひとり帰り道を歩いた。
 あんなふうにまっすぐ親切心を向けられるなんて、いつぶりだろう。過去の記憶をたぐっても、苦い思い出ばかりが引っかかる。

(世話が焼ける奴、とか……思われてなければいいけど)

 角を曲がれば、最寄駅が見えてくる。外灯の灯りがまばらな道路を歩いていると、ポケットの中のスマホがぶるっと二度震えた。画面の眩しさに小さく目を細める。
 画面を開いてすぐに、小さな吹き出しが次々と増えていった。

『見学、来てくれてありがとな』
『これから宜しく』
『写真部関連の連絡はグループラインで確認して』
『何かあれば、個人ラインでもいいから』

 左にばかり傾いた吹き出し。ここで言う「何か」って、一体どんなことだろう……と悩んだものの、質問していいのか分からず、とりあえず心のなかで『わかりました』と返事をしておく。既読がついたあとに返事が来ないことを不思議に思われたのか、しばらくして斗澤先輩からもうひとつメッセージが届いた。

『温って、もしかして既読が返事代わりのタイプ?(笑)』

 慌てて俺が『はい』とだけ打ち込むと、すぐに『オッケー、了解(サングラスの絵文字)』とスタンプ付きの返事が返ってきた。

(……こんなにいっぱいメッセージが来たのって、初めてかも)

 返信に添えられた絵文字をじっと見つめながら、小さく息をつく。
 喉の奥につかえていたものがほぐれたような気がして、気づけば俺は、用もないのに夕暮れの下り坂を小走りで駆け下りていた。