アカイイキ

 うっかりしていた。ただそれだけだ。母様にいつも叱られていることだ。おまえはどうしていつもそうなのですか、もっとしっかりしなさい! そうだね、母様。もっとしっかりしていればこんなことにはならなかったのに。
 左足に噛み付いた鉄の歯は動けば動くほどえぐれた肉を引き裂こうとした。もはや力を入れることすらできず、ぐったりと地面に伏せるだけとなっていた。徐々に体が熱を帯びていくのが分かった。冷たい鉄の感触を溶かそうとするように血液がどくりどくりと強く脈打つ。そのせいで体が揺れた。逆に呼吸は細くなっていく。ああ、死ぬというのはこういうことか。案外、悪くないかもしれないな。鼻先の土の匂いに混ざって甘い木の葉の匂いもした。ちらちらと目を射る木漏れ日がうっとうしいがそれも徐々に翳っていった。
 ああ、そうだ、母様に頼まれていたのだったな、と重くなった瞼を開けた。少し離れた先に赤い南天の実が散らばっていた。欲張ったのがいけなかったのかな、としんどくなって目を閉じた。
 少しでも綺麗なものをと夢中になって探しているうちに見たことのある屋根に近づいていた。それが近寄ってはいけないと言われていた家だとすぐに気が付いた。けれど赤い実が見えた瞬間、冒険心が湧いた。手入れの行き届いた庭の隅、ちょうど手を伸ばせば届きそうなところに南天があった。少しだけ、と言い聞かせ、さっと庭に入り込んだ。人の手が入ると違うのだろうか、案の定、色合い、バランス、量、全てが整っている枝がいくつも見つかった。ぐるりと一周し、背を伸ばして目当ての枝を一本折った後は、実がこぼれないようにそれでも素早くその場から逃げた。全部でも十秒もかかっていない。しばらく走った後で追っ手がない事を確認し、改めて手にした枝を眺めた。それはまるで細工のように美しかった。これならいつも叱る母様も喜んでくれるかもしれない。人の家で盗ったなんて言ったら怒られるから、さて、どこぞの沢で見つけたとでも言おうかな、いや、後で母様が捜しに行っても困るからもっと別な場所を。そう考えていたからうっかりしてしまった。溜まった落ち葉にまともに足を入れてしまった。音なんて分からなかった。ただその瞬間、衝撃が全身を貫いた。
 一瞬響いた声が自分のものだと気付いて、自分が罠にかかったことに驚いて、痛くて痛くて涙が出て、けれどすぐにそんな気力もなくなって。ああそうか、一番最初に、助けてと声を上げればよかったな。もう声も出ないけれど。聞こえるのは自分の浅い息遣いだけ、それも木々のさざめきに隠れてしまう。どうせなら人に見つかる前に死にたいな。母様の喜んだ顔を見たのはいつだっけ、もうずっと昔のことのように思えた。もうずっと怒った顔しか見ていないな。
 そこまで考えて意識を手放した。
 真っ暗闇が自分を包んだ。まるで褥のように影が自分を覆い隠した。そうか、これは夢か。最後に見ると言う夢だろうか。暢気にそんなことを考える自分がいた。尻尾を体に沿わせ丸くなる。足の痛みも消えていた。ここは温かいな。柔らかな感触に顔をうずめる。それになんだか揺れている。ゆらゆらゆらゆら。それに葉っぱが擦れる音もする。がさがさがさがさ。だんだん愉快になってきた。こんな夢なら覚めてほしくないな、いや、終わったら終わりか。だったら続けばいい。ずっと夢の中にいられたらいい。そう思ったからだろうか。突如、犬の咆哮が上がった。
「!」
 反射的に飛び上がろうとして叶わなかった。足に激痛が走った。目を見開いたつもりだったのに辺りは暗い。どういうことだと体を巡らせようとすると途端に体に圧力がかかった。そして、
「こら、暴れるな」
 くぐもってはいたがはっきりと聴こえた。人間だ!一気に状況が分かった。渾身の力を込めて噛み付く。ぎゃっと声を上げて大きく全体が傾いた。わずかに差した光めがけて飛び出した。地面はあらぬ方向へ続いていたし、足も痛かったからほとんど転げだす形だ。それでも逃げ出せた。
「こら」
 後ろから伸びてくる手をかろうじて避けた。痛かろうが構わず走った。
「こら!」
 再び呼びかけてくる相手をちらりと振り返った。若い男が片膝をついていた。そのすぐ傍らには綿が入っているらしい厚みのある上着が落ちていた。
「おいで!」
 その声を最後に、迷わず藪に突き進んだ。何をするつもりだったのだろう。全身が泡だった。もしかしたら皮を剥ぐつもりだったのだろうか。もしかしたら鍋にでもするのだろうか。吐く息の数だけ恐ろしい想像が駆け巡る。ぶるっと震える勢いに乗せて力強く地面を蹴った。
 巣穴に帰り着いてすぐ母様の顔が強張った。いや、正確にはまだ巣穴の手前、原っぱの辺りだ。本当は帰りが遅かったことを怒鳴ろうと思っていたのだろうが、足の傷に目を見開いて、それからじっと睨みつけた。怒鳴るどころか口も開かず沈黙が落ちた。予想外の反応にとりあえずほっとしたけれど、すぐそれが間違いだと気がついた。重苦しい沈黙が長く、長く続いた。知らぬ間に冷や汗が垂れた。これなら怒鳴られるなり拳骨なりしてもらったほうがずっといい。
「あ、あの、母様。これ、」
 沈黙に耐え切れず口を開いた瞬間、体が吹っ飛んだ。どさりと草の上に落ちて母様お得意の鉄拳が降ったのだと知った。
「大婆様のところへ行ってくるから留守番をしていなさい」
 顔を上げたときには母様はもう背を向けてしまっていた。
「はい」
 誰もいなくなった原っぱで一人返事をした。母様がそこまで出迎えに来ていたことにそのとき気が付いた。
「ただいま」
 巣穴に入るとすでに母様の姿はなかった。
「お帰り」
 奥からするっとオビが出てきた。手には薬を持っていた。そこに座れといわれるまま座り、大人しく薬を塗りたくられる。痛みで足を引っ込めようとするたびオビがぐっと力を込めて引っ張った。
「腹は?空いているか?」
「あまり食べたくない」
 だろうね、とオビは目を細めた。
「ゆっくり寝ていろ」
 うん、と返事をする前に眠りに落ちた。
 それからしばらくはずっと寝つづけた。時折目を開けて母様やオビの姿を探したが大抵誰もいなかった。一度、ミツアシが来て母様に追い返されていた。傷口に塗られた薬は交換されているようだ。多分オビがやってくれている。母様は忙しいから。オビに任せておけば何も心配は要らないから。お腹の奥が少し冷たくなって、いっそう体を丸めた。
 抉れていた傷が徐々にふさがり、薄皮が張る。そうしてようやく目を覚ます頃、新たに出来上がった肉が顔を覗かせるぐらいになっていた。
「おはよう」
 時刻は分からなかったがちょうどオビが体を伸ばしたところだった。久々に出した声は擦れていた。オビはちらりと視線を寄越すとそのまま家を出て行った。ちょっと笑ったようだったから寝ぼけただけとは思わなかったはずだ。
 外に出ると、月は天辺まで昇っていた。夜風が柔らかく耳を撫でる。久々に吸い込んだ空気はひんやり冷たくて体の奥に澱んでしまった重たいものを綺麗に溶かしてくれるようだった。枯れ草の温かな匂いが風に乗って鼻先に届く。
「ハク」
 呼び声に振り返るまでもなくミツアシがぶつかってきた。痛いと非難の声を上げると慌てて頭を押し付けてきた。ごめんと言いながら、なおも擦り寄ってくるのをじっとやり過ごす。
「傷の具合は?腹空かないか?水を飲みに行くかい?」
 ミツアシは矢継ぎ早に喋るとくるりと尻尾を振って歩き出した。勝手にいなくなったら母様に怒られると言ったところで聞く耳を持たない。それどころか早く来いとばかりに先を行く。また鉄拳かなと思いながらミツアシの後に続いた。
 ミツアシはその名の通り三本足で歩く。生まれたとき、ミツアシはミツアシの母様のお腹の中に足を一本残して生まれてきてしまった。その足がその後どうなったのだか知らないけれど、ミツアシに不自由はない。皆と同じように狩りをし、遊び、生きている。同じ時期に生まれたものの中でミツアシに勝てるものはいない。オビも勝てないが、けれど負けもしない。つまりはいつも引き分けになる。同じ兄弟だけれどそこでも違いが出た。
 目の前でミツアシの立派な尻尾が揺れていた。頭を振る。熱のせいだろう、変なものが頭の中で渦を巻いていた。それが耳から出て行けばいい。昔、母様にも言われた。おまえは妙なことばかり考えると。狩りと冬支度と、それ以外のことを考える必要はないと叱られた。何故、妙といわれるようなことばかり考えるのかと考えて、それも叱られた。それ以来誰にも話していない。母様はまだ疑っているようだったけれどとりあえずそれに関しては叱られなくなった。
 沢まで降りて水を飲んで帰ってきた。途中で拾ったどんぐりはお土産にオビにあげた。
 すっかり月も沈んだ頃、巣穴に戻ると母様が待っていた。
「大婆様のところへ行きます」
 そう宣言するとあとは何も言わなかったので黙ってその後についていった。
 一目見て大きな蛇を想像した。大婆様の巣穴は大きな木の洞だったから余計にそう思えた。灰色の毛皮は全体がしっとりと湿っていてとても同じ種族には見えなかった。とぐろを巻いて寝ている大蛇だと、あるいは死んではいないのだと分かるのはもっぱら巣穴にこもっている匂いのおかげだった。近づく足音が聞こえているはずなのに目の前に座るまでぴくりとも動かなかった。耳を伏せ、体勢を低くして尻尾を抱え込むと、ようやく頭が上げられた。暗闇の中で黒く光った目が二つ向けられる。何年生きているのだっけ、聞いたことがあったけれど忘れてしまった。もう随分長い間生きている。向けられた目は途方もない時をずっと眺めてきた、それだけの説得力を確かに持っていた。泣いているのでもないのに目元が濡れていた。母様は一歩近づいて大婆様の毛羽立った背中を撫でた。それに倣って背中を撫でると大婆様がこちらを向いた。母様に尻尾で促されるまま、傷口を大婆様の口元に向けた。すぐに温かいものが傷口を舐めた。思わず身震いすると大婆様と目が合った。だが大婆様は役目を終えたとばかりに目を閉じて再びとぐろを巻いてしまった。母様はそれを合図にさっと身を翻して外に出た。その後に従って出るとき、ちらりと後ろを盗み見た。大婆様の姿は、もとの蛇の形に戻っていた。
「大婆様はどれほど生きているのでしたっけ」
 帰り道に母様に聞いたけれど、
「途方もなく長いときです」
 期待した答えは返ってこなかった。それ以上のことは必要ないということだろう。少なくとも母様がそう思っていることは確かに思われた。
 原っぱで別れた後、しばらくそのあたりを巡り歩いて鼠を一匹捕まえた。巣穴に戻ったときには東の空は水が滲んだように夜の暗さを薄め始めていた。中に入るとオビが先に戻っていた。お土産のどんぐりは気に入ってもらえたようだ。
「ありがとう」
 思い出したようにお礼を口にすると、オビはゆったりと尻尾を振ってとぐろを巻いた。オビの背に背を合わせて尻尾を手繰り寄せる。傷口を舐めるとほのかに蛇の味がした気がした。


 黄色や赤に染まった葉っぱが力尽きて次々と木の枝から落ちた。笹などははなからやる気がないようにちらちらと回転しながら落ちていく。ぱさぱさと葉っぱが落ちる音は溜め息に似ていた。
「おまえも溜め息をつくのだね」
 かじっていた根っこをぺっと吐き出し、幹に寄りかかった。オビとミツアシはどこかへ飛んでいったまま。探すのも飽きたし、根っこをかじるのも飽きてしまった。そういえば、と思い出す。近くにどんぐりを埋めておいたのだった。それを掘り起こそうと地面に鼻をつけたまま辺りを探していると、
「何を探しているんだい?」
 かさりとも音を立てずに現れた兎に飛び跳ねそうになった。かわりに心臓が飛び跳ねたみたいだ。どくりどくりと傷口まで跳ねていた。
「脅かさないでよ」
 食べることに関しては案外冷静だなとさらに冷静に思いながら兎を見下ろす。鼻をひく付かせて兎はひょこっと頭を振った。
「へえ、たいしたもんだね」
 兎が覗き込んだのは左足。傷口をまじまじと見つめていた。そのまま首を下ろせばちょうど兎の頭を銜えられそうな角度だったが、きっと逃げられてしまうだろう。もしくは頭突きをしてくるかもしれない。兎の頭突きをくらって気絶したことがあると誰かが話していたと、ミツアシが馬鹿笑いしていた。
「人間の罠にかかったんだろう?あれにかかって助かるなんざ、狐はうらやましいね。俺たちは一発でお陀仏だよ」
 興奮したのか罠の真似をしたのか、兎は、ばんとその場で足を踏み鳴らしてみせた。確かにこの小さな体ではあの大きな鉄の刃に噛みつかれた時点で終わりだろう。骨ごと真っ二つになるかもしれない。鼠ならばむしろ引っかかる方が難しいだろう。
「俺の仲間も何匹かあれにやられたことがあってな。一度、すぐ隣で引っかかった奴がいた。その最後はひどいもんだった」
 兎は顔をしかめた。
「なんとか外してやりたいとも思ったがまるで歯が立たない。足で蹴っても頭突きをしてもびくともしないんだからな。仕舞いにゃこっちが参っちまったよ」
 兎たちは自分たちの脚力と頭突きが最強だと思い込んでいた。けれどそれは正してあげない方がいい。
「にしてもお前さん賢かったな。人間が罠を外した途端逃げ出すなんざ。俺たちには使えない手だけどなあ」
「え?」
 ぼんやりしていたので危うく聞き逃しそうになった。
「人間が罠を外した?」
 問いただすと、兎は心底呆れたと、その長い耳を傾けた。
「あのなあ、この辺りのもんは皆知ってるぜ?お前さん人間の臭いをぷんぷんさせて戻ってきただろう。ちょっとした騒ぎだったんだぜ。人間の臭いがするのに姿が見えない。こりゃ飼われてたやつが逃げ出してきたなってな。それともまさか、気付いたら勝手に抜けてたとでも思ってたのか?ん?」
 兎に詰め寄られて答えに窮する。本当にそう思っていたからだ。かあーっと唸って兎は首を振った。
「だからお前さん馬鹿なんだよ。馬鹿だ、馬鹿だ、本物の馬鹿だ。この馬鹿狐!」
 今だって狙おうと思えば俺の首根っこ齧れんだろう!と怒鳴られたが左から右だ。出迎えてくれたときの母様の強張った顔を思い出した。そういえば巣穴にいたオビもわずかに顔を歪めていた。あれはそういうことだったのか。拭い取る余力もなくそのまま眠りにおちてしまったけれど、相当臭かっただろう。
「あのとき、左足に噛付かれて、ああ、もう駄目だと思って、もう死ぬんだなって目を瞑って、だから真っ暗になって」
 知ってる、そうだ、だから、それで、とか兎はいちいち合いの手を入れてきた。それらも一切無視して思い出す。
「それで気持ちよくなってきて、ああ夢を見ているんだなあと思って、ふわふわして、ゆらゆらして、そうしたら犬が吠えた」
 犬までいたのか!と兎が口を挟んだ。
「そこで目が覚めて、暴れたら光が差して、そこへ飛んだら地面に転がり出たんだ。人間に抱き上げられていたんだよ。上着に包まれていて、だから暗かったんだ。後はもう必死に逃げて逃げて」
 ふん、と兎は鼻を鳴らした。
「大方、皮を剥ぐ気でいたんだろうさ。全く運がいいんだか悪いんだか分からんな。まあ折角拾った命だ、大切にするんだな」
 兎は興味を失くしたように耳を一拭きすると、ひょこっと向きを変えて茂みに入った。
「命の恩人が人間たあ笑わせる」
 そう捨て台詞を吐いた直後、びっと短い悲鳴が上がった。兎が入っていった茂みからミツアシが飛び出てきた。口元には姿を消したばかりの兎がだらりと垂れ下がっていた。ミツアシの顎がごきりと鳴り兎の黒目が力なく遠くを望む。
「どこに行ってたんだ、ハク。探したぞ」
 獲物をくわえたままミツアシは言った。
「どこにも行っていないよ」
「オビはどこへいったのかな」
 首を巡らせるためにミツアシは一度兎を地面に置いた。自分の獲物の上に足を置くのは単なる癖で深い意味は無い。口の悪い小さな知り合いは目の前から消えた。在るのは一つの獲物と一匹の仲間。
「オビ、こっちだ」
 仲間が増えた。


 命の恩人という言葉が耳に残っていた。振り返った一瞬に見た人間の姿が、何故か日を追う毎に強く思い出されていた。
 あれはそういうことだろうか、あの人間は命を救ってくれたのだろうか、それとも単なる過程で、あの後にはもっと酷いことが待っていたのだろうか。そう考えて思い出す。吠え立てる犬の声や、足の痛み、地面に落ちた上着の柄さえはっきりと思い出せた。けれども人間の顔を思い出そうとすると途端に煙が邪魔をして真っ白に溶けてしまった。どんな顔をしていたのだっけ、優しそうな顔をしていた気がする。それが後から付けられた記憶だったとしても判断することはできなかった。
 遊びまわるオビとミツアシの傍らで毎日そんなことを考えていた。時々ミツアシがじゃれてきたが面倒くさくて茂みに隠れた。ゆっくり考えることもできない。こんなときオビやミツアシが少し邪魔に思えた。どこかでゆっくりと考えたいのに、と考えながら歩くうちにかなりの距離を歩いてきてしまった。見ればそこは、後もう少し行けばあの屋根が見えるという所だった。逆に言えば罠にかかった場所の近くでもある。縮み上がりそうになったがふと気づいた。これはいい機会ではないか。そうだあの人間がいるかもしれない。もしかするとあの屋根の家に住んでいる人間ではないか。あそこには犬もいたはずだ。あのときの犬がそれかもしれない。
 もしかすると、かもしれない、を続けながら落ち葉に気を払い、とうとう屋根を見上げる位置まで来てしまった。もうここまで来て手ぶらでは帰れない。意を決して垣根に身を寄せた。南天を伺うと赤い実はほとんどが落ちてしまっていた。多分鳥が食い散らかしていったのだろう。ほうっと一つ息をついてからさっと庭に入り込んだ。辺りをきょろきょろ伺う。正直、人間の臭いだらけでよく分からなかった。縁の下に潜り込めればもっと分かるかもしれない。それが悪かった。やはりどこかうっかりしているのだろう、さっと庭を突っ切った瞬間、どこからともなく現れた犬が唸り声と共に飛び掛ってきた。焦って柱に激突し、その衝撃にびっくりして飛び上がった先は木の板の上だった。縁側だ、つまり家の中だ、と大慌てで縁の下に潜りなおした。犬は繋がれた鎖に行動を制限されていた。強引に引っ張ったとしてもびくともしないだろう太い鎖だ。犬が悔しそうに吠え立てているとそこへ人の臭いが近づいてきた。はっとして息を潜める。
「どうした、迷い猫でもやってきたか」
 優しい声に聞こえた。犬は尚も訴えた。うん?と呟く声と共に縁側に足音が移った。どきどきしながら推移を見守っていると構える間もなく人間の顔が逆さまになって現れた。
「あ」
 驚くというより衝撃に打たれた。人間の驚く顔を初めて見た。何より人間をこれほど間近で見るのが初めてだ。完全に逃げる機会を失っていた。少しでも空気を揺らせば全身に針が突き刺さるのではないかという緊張が走っていた。お互いじっと睨み合ったまま動けずにいる中で犬だけがけたたましく吠え続けた。そこでふと人間が視線をずらした。その途端、表情が変化した。太陽が顔を出したのかと思った。実際は縁の下にいたのだから太陽は見えなかったけれどそう見えた。
 おまえか。その人は確かにそう言った。細い目をいっそう細めて、ほとんど開いていない目だった。そのとき何故かふと父様の顔が過ぎった。それは不思議なことだった。ずっと小さな頃に死んでしまって、顔もおぼろげにしか思い出せないのに何故か父様の顔がその人に被って見えたのだ。
「もう足の怪我は治ったのか?」
 左足を見ているのが分かった。傷痕は綺麗になってきてはいたけれど毛はまだ生えずそこだけ禿げていた。答えもしないのに、それだけ走られたら平気かとその人は自分で笑った。笑ってから咳き込んだ。引き付けを起こすのじゃないかと心配するぐらい咳き込んでからふうっと息をついてみせた。それからまた向き直って聞いてきた。
「ここらへ来るとまた捕まるかもしれないのにどうしてまた来た?食うのに困っているのか?」
 そう聞かれたがそのときには、何故この人は優しく話しかけてくるのだろうかと考え始めていた。皮を剥ぐつもりなのさと哂う兎の声が遠くから聞こえた気がした。頭からその声を追い出したかったのに金縛りにあったように体が動かせないためにそれは叶わなかった。犬の吠え声を全く無視してその人は思案する顔になった。
「おまえたちは何を食べるのだろうな」
 ふむ、家に何かあっただろうかとこれは独り言のように呟いた。人間の言葉を理解するわけでもあるまいに、そこで犬が吠えるのを諦めた。ああ、ああ、と欠伸のように声を伸ばしてそっぽを向いてしまった。あ、とその人が再び声を上げたのでびくりと体を揺らしてしまった。
「そうだそうだ、とっておきのご馳走があるぞ。ちょっと待っておいで」
 そう言い置くと本当に行ってしまった。呆れた。突然の成り行きに呆然としてしまったのだ。結果的に反応が遅れた。
「おい」
 囁き声に呼ばれて顔を向けるとさっきまで吠えていた犬だった。吠えていたときとうってかわって静かな声だった。
「この間の子狐だろ」
 口も聞けずに小さく瞬きした。
「今のうちに出て行け。他の人間に見つかるとおまえは殺されるだろうし、俺は命令されればおまえをかみ殺さなきゃならない」
 慌てて、それでも習性で辺りを伺いながらそろりと縁の下から抜け出した。
「あの、今の人は?」
 犬に言葉が理解できるのかと驚きながら、しかしそれをおくびにも出さずに尋ねた。
「あれは俺のご主人様だ」
 吠え立てる気はもう無いようだった。
「あの人は私を殺そうとしているのですか?皮を剥ぐつもりでしょうか」
「そんなの知るか。俺は命令されたことをするだけだ。目的を考えるのは俺の仕事じゃない」
 犬の返事は素っ気無かった。その間にさっと垣根まで走った。
「とっとと出て行け。この家の周囲には罠がいくつも仕掛けられているからな。この間みたいな目に遭いたくなければ二度と近づくな」
 それを聞いてはっと稲妻に打たれたようにその場に立ち尽くした。そうだ!とくぐりかけていた垣根から引き返す。そうだ肝心なことを忘れているじゃないか、何のために来ていたのか。
 あの、と呼びかけると犬はまだいたのかと驚いたように片耳を持ち上げた。
「早く行け。脅しじゃないぞ」
「確かめに来たのです」
 苛立った声を塞ぐように畳み掛けた。
「あの日、罠にかかった私を助けてくれたのはあの人ですか?」
 なんだそんなこと、と犬はつまらなそうに顔を背けた。
「そうだ。といっても俺は見ていたわけじゃない。散歩に出たご主人様が自分の着ていた上着におまえを入れて連れて帰ってきたんだ。けれど血の臭いがしたからな、すぐに分かった。間抜けな狐が罠にかかったんだろうってな」
 本当はな、と犬はこっそりといった風情で視線を寄越して言った。
「俺がかみ殺してやろうと思ったんだ」
「え?」
 思わぬ告白に、さすがに肝が潰れた。犬は満足だったのか鼻を鳴らした。
「臭いからして死にかけてるのは分かった。仮に生き延びたとしてもろくな体にならんだろう。だとしたらここで死なせたほうがいいと思ったんだ。でもご主人様にすぐ止められた。それからおまえに逃げられた。まあ俺の予想も大概いい加減だな」
 犬は今度は不満げに鼻を鳴らした。なるほど。命の恩人か。そう頭に浮かべただけのはずが口にこぼしていたらしい。何、命の恩人だと?と聞き返された。
「口の悪い小さな知人にそう言われたのです」
 もういなくなってしまったけれど、と心の中で付け加えた。
「なるほど。確かにそうだな」
 嫌味からではなく本心で犬はそう言っているらしかった。だから確かめずにはいられなかった。
「私を連れ帰ってどうするつもりだったのでしょう?毛皮でしょうか、それとも食べるのでしょうか?」
 だから知らんよ、と犬は心底呆れたように溜め息をついたがすぐに、
「毛皮にするのは色艶のいい立派な狐さ。おまえさんの毛皮じゃいくらも取れん。食うにも向かん。つまりどちらでもないさ」
 最後は、投げやりに言った。それってつまりどういうことかと聞こうとしたとき、とたとたと木の板を踏み歩く足音が聞こえてきた。ぱっと身を翻し垣根をくぐる。
「落ち葉を踏むなよ」
 そう囁くなり、犬はさきほどと同じ勢いで吠え始めた。つまりは己の仕事に戻ったのだ。
 垣根からいくらか離れた辺りで一度振り返った。縁側までやってきたその人は何かを手に摘んでいて、掴んだものをこちらに向けてひらひらさせた。油揚げだと確認してから背を向けて走り去った。
 帰ると母様の姿はなく、オビが寝ていた。
「オビ、起きている?父様のことを覚えている?」
 オビはちらりと視線を寄越したが、忘れたと一言言ってまた寝始めてしまった。嘘だと分かった。けれど無理に聞き出そうとはしなかった。
「私も覚えていない」
 オビは寝息を立てたまま動かなかった。その背にもたれかかる。鬱陶しそうに身じろがれたが寄りかかって体を丸くした。
 父様は細い目をしていたのかな。あの人も細い目だった。油揚げなぞ本当に狐の好物だと思っていたのかな。間抜けな姿が浮かんで楽しくなった。くるくるくるくる、景色は巡り夢へと混じる。
 その日は不思議な夢を見た。父様に手を引かれ竹林の中を歩いていた。母様もオビもいない。昼間の眩しさが竹の隙間に静かに差し込んで土を温めていた。光の帯を横切るたびに父様の体がさあっと眩しく光った。延々と歩き続けても竹林は広がり続ける。次第に怖くなって歩みが遅くなった。けれど父様の強い手に引かれ引きずられるように進んでいく。ついにたまらなくなって声を上げた。どこへ行くのですか?この先には何があるのですか? けれど父様は歩みを止めない。母様はどこですか?オビは? するとそれらを聞いていないかのようにふいに父様が言った。腹が空いたか? え? そうしてくるりとこちらを振り向いた。大きくて立派な尻尾が優雅に振られる。その先にいたのはあの人だった。尻尾の陰に隠れていたのだ。父様の尻尾は大きいからよく隠れられるのだもの、と思い出す。腹が空いたのかい? その人が同じことを聞いた。いいえ、父様。当然のように自分が答えた瞬間、はっと目が覚めた。
 目の前の毛皮が上下する。オビの寝息が聞こえた。そうだ、ここは巣穴だ。寝息に合わせて目の前の毛皮は上下している。どくりどくりと脈がふれているのに気付いて、自分が緊張していることを感じた。ゆっくりと呼吸をしながら今見た夢を思い返した。笑いが零れた。なんて夢だったのだろう。父様があの人になってしまうなんて。振り返るまでは確かに父様だったのに、振り返った瞬間、あの人に変わっていた。まったくおかしな夢だ。まるで父様が姿かたちを変えてあの人になったかのようだった。おかしな話だ、まったく、おかしな話。
 あくびを零して寝なおそうとした。首のひねり方が悪かったのかもしれない、あるいは開けた口から何かがひゅんと入り込んだのかもしれない。頭の隅でことりと何かが動いた気がした。眠気は風のように静かに去っていた。


 近くの藪の中から垣根を望み見た時点で犬と目が合った。また吠えられるのだろうかと構えたが意外にも犬は吠えなかった。小屋の前で伏せたまま気だるげに視線を寄越して、
「来るなと言ったはずだぞ」
 それは脅しというのではなくただ面倒だと思っているだけであることがはっきりと伝わるものだったので素早く垣根をくぐった。
「あの、聞きたいことがあったのです。あの人はここに住んでいる人間なのですか?」
 この間の感じから、犬は案外、世話好きで根はいいものなのだろうと読んでいた。案の定、面倒そうにしながらも犬は頷いてくれた。
「そうだ。ここはご主人様の家だ」
「今もここにいるのですか?」
 けれど犬はそこで、ちょっと待てと止めた。やおら身を起こし姿勢を正す。頭上に犬の頭が上がった。ごくりと息を呑んだ。
「何をしに来た?」
 耳を伏せたくなったが、その耳に残る、すぐに降参してはいけないとの母様の静かな怒声がそれを許さなかった。一生懸命に耳を立てる。
「あの人の、顔を、もう一度見たくて来たのです」
「見てどうする?」
「見て、いえ、どうもしません。ただ見たかったのです」
 夢のことを話してみようかと悩んだけれど犬にそれを話すのは躊躇われた。犬は探るような目で睨みつけてきたけれどやがて興味を失くしたようにそっぽを向いた。
「今日はいない。トマリで二日ほど家を空けると言っていたから会いたければ明後日にでも来るんだな」
 ありがとうございますとお礼をしかけると、ただし、と犬が遮った。
「前にも言ったがここには来るな」
 えっと聞き返した。
「でも、今、明後日に来いってあなたが」
「会いたければ来いと言ったんだ」
 再び遮られ、遮られた内容に唖然とした。犬に何を言っても無駄だと母様が言っていた。彼らは言葉なぞ理解できないのだからと。けれど今のやり取りではまるで犬の方が言葉をよく知っているかのようだった。実際、自分の早合点に顔が赤くなったのが分かった。
「前にも言ったが、この家の周りには罠がたくさんしかけてある。また罠にかかったら今度こそ死ぬかもしれないぞ。人間は俺のご主人様だけじゃない」
 命を懸けて、ただ見たいがためにここへ来るのかと問われているのだと気付いた。ほらやはり犬の方が賢い。耳を伏せて姿勢を低くしようとすると、おい、と止められた。
「犬に恭順を示す奴がいるか」
 そう呆れられてはじめて自分がその姿勢を取ろうとしていたことに気が付いた。
「けれど、私たちの間ではそれが優位者への礼儀なのです」
「俺は狐じゃない」
 犬はふんと鼻を鳴らした。機嫌を損ねたのかと不安になって急いで話を変えた。
「あの、何故、あなたはそれを知っているのです?罠がたくさんあることを」
「一緒に仕掛けに行ったからさ。散歩でよく歩くからな。俺が引っかからないように全て教えられたんだよ」
 そう言って犬はいくつかの場所を挙げた。中には林の奥に入ったところまであった。それをただ唖然として聞いていた。
「分かったか?おまえさんがたの記憶力がどれほどか知らないが全部覚えても意味はないぞ。しょっちゅう場所が変わるからな」
 あまりの衝撃を受けたため、ものを考える力はすっかり奪われていた。分かりましたと呟いたとは思ったが犬の前からどうやって去ってきたか分からなかった。気付けば巣穴近くの原っぱまで来ていた。来た道を振り返ってぞっとした。おぼろげな意識のままよく無事に帰ったものだ。これを母様やオビに伝えるべきだろうかと思案してすぐ打ち消した。犬と話をしたなどと聞かせたらどんな目にあわされるか分からない。いや、よく分かっているからこそ聞かせられない。
「ハク」
 ちょうど母様の声がして文字通り飛び上がってしまった。何をそんなに驚くのです、と不機嫌になってしまったが言えるはずもない。
「ああ、ええ、バッタが飛び上がったのです」
 そう答えると母様は大げさな溜め息をこぼし、さっさと寝なさいと言って先にたった。草原を踏み分けて進む母様の後姿を見ながら、ある種の覚悟が芽生えていることに気付いていた。


 約束の日を迎えるまで気もそぞろに時を過ごした。まるであの笹みたいだなとぼんやり眺めた。くるくる忙しなく回転しながら落ちてくる笹みたいに頭も腹も足もそわそわそわそわ落ち着かなかった。犬の忠告はたしかに恐ろしかったがそれでも見に行こうという気持ちは変わらなかった。
 そうして迎えた夜。月明かりの照らすよい夜だったが藪に入らずに堂々と家に近づいた。犬は心底呆れたという顔をしたがすぐさま吠え始めたので驚いて垣根に隠れてしまった。
「待って!私です!今日は約束の日です!」
 そう訴えたが犬は吠えるのを止めない。どうしたのかとびくびくしていると人の気配が現れた。とたとたと足早に歩く音がした後、からりと木戸が開いた。
「どうした?」
 あの人だ。けれどちょうど雲が明かりを翳らせたので顔が見えない。犬は一旦、その人の方に顔を向けてからまたこちらに向き直って吠え始めた。
 こちらに顔が向いた。雲が流れ、ほんのりと戻ってきた明かりに表情が見えた。目を細め、うかがうように身を屈める。
「誰かいるのか?」
 警戒しているのだろうか、ゆっくりだけれど厚さを持った声だった。なおも吠え続ける犬をそのままにその人が庭に降り立った。限界だ。
 垣根を越えて走り去る。藪に飛び込んだ。そこで立ち止まり、息を潜め、後ろを振り返る。犬は向きを変え、吠えていた。姿は見えなかったはずだけれどそれで立ち去ったことは分かったのだろう。その人は犬に歩み寄るとぽんぽんとその頭を撫でた。犬は、ううと唸って吠えかけていたのを押さえると尻尾を振ってそれに応えた。ほっと息をついた。彼はもう一度あたりを見回してからくるりと背を向けて縁側に上がった。上がるときにけほけほと咳をして、木戸の向こうに隠れてからもしばらく咳の音は続いていた。
 翌日、再びあの人の家を訪ねた。正確に言えば犬に会いに行った。犬は吠えることはなかったがいかにも面倒だといいたげだった。
「どうしても分からないことがあるのですが」
「吠えられる前に帰れ」
 まるで知っていたかのように先に言われ、それです、と答えた。
「この間はあなたは吠えませんでした。今もです。けれど昨夜は恐ろしいほど吠えました。何故ですか?」
「ご主人様がいなかったからだ。今もいない」
 犬は心底つまらなそうに顔を背けた。やはり犬の方が賢いのだと耳を伏せて姿勢を低くする。
「あの、それでは私には分かりません」
 犬はちらりと視線を寄越した。それからふんと鼻を鳴らして首を家に巡らせた。
「言っただろ、俺は命令されたことをする。ご主人様の縄張りを守るのが俺の仕事だ。侵入者がいたらご主人様に知らせるか追い出すように命令されている」
 つまり、と必死で頭を巡らせる。
「人間がいたから吠えた、人間がいないから吠えない、ということですか?」
「いや、それは少し正しくない」
「どういうことです?」
「本当はご主人様がいる、いないに関わりなく、ご主人様の縄張りを侵したものには問答無用で吠え掛からなけりゃならない。可能なら噛み付いて、ここはおまえの入る場所ではないと脅さないといけないんだ。そうやってご主人様の縄張りを守る、それが俺の仕事だ」
「では今は吠えなければいけないのではないですか?」
 生唾を飲み込んでそう尋ねると犬はにやりと笑った。
「ご主人様のいないときに仕事をしたらご主人様に褒めてもらえない。知らないものは褒めようがないだろう?」
 多分、ぽかんとしていた。呆れた、驚いた。こんなに賢い犬がそんな理由で差をつけるだなんて。その反応が満足だったのか犬は愉快そうに笑った。おまえはなかなか賢いな、とも言ってくれたが喜ぶ余裕はなかった。きっとあまりにも衝撃が強すぎたのだ。強いめまいを感じながら犬に聞いた。
「あなたはあの人間のために生きているのですか?」
 犬はたった一言、そうだと答えた。そこには誇りすら感じている風情があった。
「ハク!おい、どうした?オビが探していたんだ。原っぱにいるって」
 悪いけど、とミツアシを避けて巣穴に顔を突っ込んだ。頭の中が砕けて熱を出しているようだった。
 人間のために生きるのか。そんな考えが浮かんだことが、それを口にしてしまったことが、そしてあっさりと受け答えた犬の姿を食い入るように見た自分が信じられなかった。あのときこの頭は何を考えたのだろう。それを確かめようとして身震いした。触れてはいけないものに触れようとしている。そんな直感がそれ以上を留めた。触れたら二度と戻れなくなる。そんな予感がしていたが同時にそれを確かめずにはいられなくなるだろうことも強い確信を持って予感していた。それなら、
「悩んでいたって仕方ないじゃないか」
 呟いた途端、巣穴を飛び出していた。
「オビは原っぱだよ」
 近くで寝ていたらしいミツアシがそう言ったが振り向かず、さきほど走った道を引き返した。
 まだ帰ってはいないのだろう、犬は吠えることなく顔だけ向けた。
「今度は何を知りたいんだ、好奇心旺盛のチビ。狐は昼間寝ているんじゃなかったのか?」
「考えることが、多すぎて、寝ていられないのです」
 変わったやつだなと犬は呆れた。はっはっと上がった息を整える。
「教えてください。人間はどういったものですか?私は、人間は恐ろしいものだと聞かされていました。毛皮を剥いだり食うために残酷な罠を仕掛けたり鉄砲で撃ったりすると」
「そりゃ現実だ。現に俺はそれに同行しているし、命令されれば喜んでオテツダイする」
 犬はオテツダイというところでわざとらしく調子を変えた。まるで忠告するかのようだと感じていると直截に忠告された。
「今だってそうだ。今ご主人様が来て俺に命令を出せば俺は喜んでおまえを噛み殺す。そうしないのはご主人様がいないからだし、自分で決めた自分の決まりを崩さないからだ」
 それはつまり犬の気分しだいで今まさに殺されても仕方がないのだと思わせた。
「いいか、お前が何を思って俺のところに来るか知らないが俺は命令されればなんでもするし、実際そうしてきた。つまり、お前の身内を殺したこともあるかもしれないんだぞ。俺にはそうするだけの力があるし、そうするだけの理由もある」
「ええ、それがお仕事だから、ですよね」
 確かめるように頷いてみせると犬は一瞬ぽかんと口を開け、ついで倒れるように地面に付した。
「あの、何か間違っていましたか?」
「いいよ、その通りだよ。全く、心配しているこっちが馬鹿みたいだ」
 質問してもいいという姿勢と受け取った。
「あのそれで、そんな恐ろしい人間のためにあなたは生きていると言いましたよね?」
 犬は鼻を鳴らして、違うと言った。
「でもさっき確かにそう言いました。人間のために生きているって」
「そこじゃない」
「そこ?」
「恐ろしい人間、ってとこだ」
「でも人間は恐ろしいものです」
「なら、お前は鼠を食わないのか?」
 急に話が変わった。
「食べます」
「バッタはどうだ?」
「食べます」
「兎はどうだ?」
「食べます」
「なら鼠やバッタや兎にとってお前は残酷な狐だ」
 いきなり非難を向けられて驚いた。
「そんな。私はただ生きるために食べるのです。それだけで残酷だなんておかしいです」
「そうだおかしい。だが同じ理屈でお前は人間を恐ろしいものだと決め付けているだろう?」
 はっとした。
「人間は狐の皮を剥ぐ、人間は狐の肉を食う。だから人間は恐ろしい。確かに事実だ。けれどそれだけが人間の全てではない」
「でも、狐にとってはそれが全てです」
 口を挟まずにはいられなかった。真っ向から愚かさを非難されてそれを打ち消したかった。けれどそれが間違っていたことはすぐに分かった。犬は口を閉じ、じっと睨んできた。そして、帰れと命じた。
「知るつもりがないなら教えることは一つもない。帰って二度とここへは来るな。次に来たときは噛み殺す。鎖を引きちぎってでもお前を殺す」
「すみません。私はただ私が信じていたことを疑いたくなかったのです。すみません、教えてください。知りたくて私はここへ来たのです」
 小屋に戻りかけていた犬は立ち止まってくれた。前に廻りこんで頭を垂れた。しばらく待つと、俺も、と犬は呟いた。
「子供相手にむきになるなんざ、年を取ったもんだな」
 やれやれと座りなおした犬は優しい目をしていた。恭順の姿勢を取っていたが犬は何も言わなかった。
「兄弟はいるか?」
「はい。もとは四匹でしたが二匹が病で死んで、今は私とオビという兄弟だけになりました」
「そうか。お前たちは似ているか?」
「いいえ」
「親はどうだ?あるいは他の仲間は、お前と似ているか?」
 それぞれの怒った顔や笑った顔や冷ややかな顔を思い浮かべ、最後に大婆様の姿を思い出した。
「似ているところもありますし似ていないところもたくさんあります」
「人間も同じだ。色々な人間がいる。中には狐を狩るのが好きな人間もいる。たまに会う仲間からそんな話を聞くことも多い。だがそうじゃない人間もいる。少なくとも俺のご主人様はそうだよ」
 間近で見た細い目を思い出す。昨夜見た月明かりに照らされたその面差しはやはり父様を偲ばせた。
「あの人はどんな人なのですか?」
 犬は笑ったようだった。
「それを知りたければ今夜にでもまた来るといい。ご主人様に直接会えば分かるだろう。お前がそれを望むのならな」
 その提案に、一も二もなく、はいと答えていた。
 とはいえ夕べから動き通しでさすがに疲れた。怪我のせいだろうか、前は二晩起きていても平気だったのに。早く巣穴で眠りたい。逸る思いで帰ると、原っぱでオビが待ち構えていた。
「原っぱにいると言っただろう」
「ごめん。ちょっと用事を思い出して」
「おまえの兄弟は変わっているな」
 ふあっとミツアシはあくびを噛み殺した。同じ日に同じことを言われるなんて確かに変わっている。
「今夜の狩場を変えようかと思って下見にいこうと思ったんだ」
「ああ、えっと、今夜は一人でやろうと思っているんだ」
 何?とオビに顔を巡らされ肝をつぶす。こりゃいいと飛んだのはミツアシだ。
「ようやくハクにも独立心が芽生えたってわけだ。なら今夜は別行動だな。鼠にかじられるなよ」
 オビは何か言いたげだったがミツアシに文字通りつつかれながら原っぱのほうへと向かっていった。
 とはいえ本当にほうっておいてくれるか心配だった。気紛れなミツアシが見に行こうと言い出すことは十分考えられたし、何かを察知したオビが確かめに来る可能性も高かった。月明かりが眩しくて抜けるのに肝を冷やしたが誰にも見咎められずにすんだ。食事に忙しくてそれどころではなかったのかもしれない。時々振り返ったが追ってくるものもなかった。
 見慣れた屋根の姿を望み、ほっと息をつく。垣根をするりとくぐると待ちくたびれたように犬が顔だけ上げた。
「こんばんは」
 犬は、ああ、と唸るように返事をした。
「あの人はいますか?」
「いるよ」
 と、牙を合わせてあくびをかみ殺す。待ちくたびれていたのではなく眠っていたようだ。そういえば犬は夜は眠るのだっけと思い出した。
「あの人に会えますか?」
 ああ、そうか、とやはり寝ぼけた様子で犬は呟くと、よっこいしょと体を起こし、二度、吠え声を上げた。やがてからりと音を立てて木戸が開き、中からあの人が姿を現した。
「どうした?」
 その呼びかけに犬は再び吠え声をあげ、場所を示すように顔をこちらに向けた。縁側に立った人の顔がそれに合わせて動いた。
「また何か来たのか?」
 目を細めていた。人の目には暗すぎるのだろう。月明かりの下に少しだけ体をさらした。驚いた顔が見えた。細い目がいっぱいに開き、そうしてまた細くなった。
「そうか、おまえが来ていたのか」
 そう言うとひょいと縁側から降りてきた。浴衣の裾がぴたっぴたっと脛に当たるのをじっと見つめているうちにその人は目の前にやってきた。すっと腰を曲げて彼はしゃがみこんだ。目線がぐっと近くなる。その流れに乗せて手が伸びてきた。
「おいで」
 長く節くれだった指だった。指先の皮がめくれていた。
「おいで」
 辛抱強く彼は言った。その目を下から覗いた。捕まえて何かしてやろうという気配は感じられなかった。
「そうだ、こういうときにあれを持ってこればよかったな」
 そうひとりごちて後ろを振り返った。その隙についと鼻を突き出した。触れた瞬間、彼がこちらに向き直ったがそのときにはもう木の陰に身を翻していた。目的は果たせた。あの目を覗き込めて答えは得られた。そのまま帰ろうとしたが、そうはならなかった。
「ちょっと待っていなさい」
 そう言うと彼はこちらも見ずに取って返してしまった。待っていなさいなんて、なんて暢気な言い回しだろう。まるでミツアシみたいだ。そう思ったから思いとどまってしまった。犬をちらと伺うと、心底愉快だと言いたげに欠伸をかみ殺していた。屋敷の奥でこんこんと咳の音が漏れた。屋敷にいるのはあの人だけなのだろうか、やがて戻ってきた彼はやはり咳をしていた。その手元を見て、顔をしかめた。犬が笑い転げそうになっているのが空気の振動で伝わってきた。改めて庭に降り立ち、さきほどと同じ位置でしゃがみこんだ彼は、持ってきた油揚げを鼻面に差し出してきた。
「ほら。おまえはこれが好物なのだってな」
 誰に聞いたのだろうと呆れたが礼儀は知っていた。鼻をくっつけ匂う真似をする。さてこれが好物なのは誰だろうかと首を傾げた。遠慮しているとでも思ったのかぽいっと足元に投げて寄越されたがそういう問題ではない。そもそも初めから間違っているのだ。ようやく彼もそれに気付いたのか、おやと首を傾げた。
「食べないのかい?おまえは変わっているね」
 これでこの日三度目の言葉に、勿論そうですとも、ともう胸を張ってしまった。するとそれが聞こえでもしたように彼がそうかと笑ったので驚いたが、勿論聞こえてはいなかった。
「初めからおまえは変わっていたね。綺麗な枝振りを選んで南天の枝をもいでいったのだからね」
 何を言っているのか思い出すまでもなく息を呑んだ。
「子狐が一体何の用でこんなところまで来たのかと見ていたら、南天の木をぐるりと一回りしたじゃないか。そうしてあっといまに枝をもいで逃げていった。まるで人間の子供がいたずらをするようだったよ。いや、子供よりも見る目があったな。それは見ていて愉快だった」
 もうびっくりして食い入るようにその顔を見た。あのとき人の姿なぞ気付かなかった。どこかに隠れていたのだろうかと考えると彼はまた笑った。
「おまえ、よほど集中していたのだろうね。私が座敷にいるのにも気付かず庭に入ってきたのだから。いや、むしろ集中が欠けていたのかな。太郎がいなくてよかったな。ちょうど人に頼んで風呂に入れていたところだったのだよ。もしいたらあっという間にかみ殺されていただろう」
 犬がその予測にどう反応するのか確認する必要もなかった。ふんと大きく漏らされた鼻息は十分得意げであった。
「あの後おまえがまだ近くにいないかと散歩に出たのだよ。全くの気紛れでね。そうしたら鳴き声が聞こえた。この辺りは罠が多いし、もしやと探していたら案の定さっきの子狐が倒れていたというわけだ。今から思えばおまえが呼んだのかもしれないね」
 犬の名前が太郎というのだと分かったことにも気付かないほどに動揺していた。だから伸ばされた手がついっとあっけなく頭を撫でるのを許してしまった。
「死んだと思っていたよ。あの怪我であんなに走るのだから。元気になってよかった」
 耳の根元に指を流され、慌てて首を引っ込めた。二度触れたことで満足したのか、触るなという思いが指を通じて伝わったのか、彼は腕を引っ込めると太ももの辺りに手を置いてもう触ってこようとはしなかった。じっとその顔を眺めた後、さっと垣根に飛び込んだ。用は済んだ。もうここへは用はない。茂みに入ったとき、またおいでという声が夜風と共に隙間を通って届いた。


「最近、お前はどこへ行っているのです?」
「え?」
 心臓が止まるのではないかと思ったけれど、母様の質問は純粋に疑問を口にしたものだった。
「一人で狩りをしているとオビから聞きました。狩りはうまくやっているようだけれど、いい狩場を見つけたのですか?」
「ああ、はい。ええ、そうです」
 そうですか、と母様が言ったのでほっとしたが、
「今度、そこへつれていってもらおうかしら」
 ぽつりとそのようなことを言うので大慌てで訂正した。
「いえ、そこはあまり獲物がいないので場所を変えようかと思っているところなのです」
「そうですか。ではオビに言ってまた一緒に狩りをするようにしましょう」
「いえ、その必要はありません。いつまでもオビに頼っていては後々困るのは私なのですし、しばらくは一人でやってみたいと思います」
 母様はしばらく黙って見てきたが、そうですね、と言って目を閉じた。
 あれから幾度かあの人の家に行っていた。皆が狩りに駆け回る中、こっそり抜け出しあの人の家に駆けた。
 ついと垣根をくぐると太郎は二度吠えた。それを合図に木戸が開けられ彼が姿を現した。
「やあ、また来たね。ちょっと待っておいで」
 そう声を掛けて彼は木戸を開けたまま奥へと引き返す。その間に縁側の傍に移動した。戻ってきた彼は縁側に座り、そこから用意した餌を下ろしてくれた。彼はそこでじっとしたまま、どこから聞いてくるのだか分からない問いかけをしたりした。
「ここを餌場だと決めたのかい?その割にはおまえはあまり食べないね。これから冬がくるのだから沢山食べないといけないのだろう?」
 彼が見つめる中で食べるのにもすぐ慣れた。半分ほど頬張って顔を上げると彼は、今日も残したねと溜め息をついた。食べるものが変わると体臭が変わってしまうことに気付いてからあまり食べないようにしていた。彼は縁側から降りると食べ残しの皿を持って太郎の前に置いた。太郎は初めこそ嗅ぐ真似をしたが今では顔も上げなくなっていた。おまえも食ってくれないねと彼は太郎の横にしゃがんでその大きな頭を撫でたが、ちょうど咳が出たために太郎の頭を叩く形になってしまった。彼はよく咳をした。おまけにその咳はだんだんひどくなってもいるようだった。
 顔を上げた太郎にごめんよと謝り、改めてその頭を撫でてから、堰を切ったように激しく咳き込みだした。しばらくそうしてから、ゆっくりと息を吸い、ふうっと息を吐いた。ついと体を擦り付ける。
「どうした?」
 くるりと回ってまた体を摺り寄せた。彼の手がぽんぽんと背中を撫でる。指が硬くなっているように思われた。近くから見上げた彼の顔は雲間から差した月明かりを受けて青白く浮かび上がっていた。まるで本当のお月様みたいだと思ってみると、彼の体が以前よりどこか薄くなっているように見えた。
 またおいでという言葉に送り出されてから藪の中に潜り、三百を数えてから改めて垣根をくぐった。
「太郎さん」
 眠りに落ちてしまったらしい太郎を揺すり起こす。うっすらと開いた目がまたすぐに閉じてしまった。
「太郎さん、教えてください。あの人はどこか具合が悪いのでしょうか?」
 ああ、と喉の奥で返事を返してきた。
「教えてください、どこが悪いのですか?」
 しかし今度は、いや、と声がした。
「どこも悪いところはないのですか?」
 いや、とまた声がした。さっぱり会話にならなかった。ただ、
「お前といるとご主人様は饒舌になる、まったく、面白くない」
 寝言だかなんなんだか分からないことをこぼした。その後もしぶとく揺すってみたが眠りの国から戻る気配はなかった。
「また来ます」
 仕方なくそう告げてその夜は巣穴へ帰った。
 太郎の反応で、あの人がいるかどうか、すぐ判断が付いた。翌朝に尋ねるとあの人はいなかった。夕べ食べ残した餌がまだ太郎の前に置いてあった。他の奴の食べ残しは食べたくないと太郎はいつもそのまま放っておくのだけれどそれはきちんとあの人が片付けるから、そこに残されたままであるのはよくない兆候だった。
「何かあったのですか?」
「医者のところへ行っている。心配するな、ご主人様じゃない。母上が危篤になったんだ」
 それを聞いてほっとした。