ポトス〜再生〜

 花が枯れる。それだけで存在を思い知る。
 寝て動かない横顔。その目は開かない。通った鼻筋の下、その唇は言葉を紡がない。かつて、僕を呼ぶ声、今は聞こえない。つい先日まで思いもしなかった現実が、横たわっていた。
 長く伸びた髪に混じる白いもの、耳障りな音を漏らして呼吸するその姿に、僕の現実は急激に坂を転げ落ち、あっという間に闇に飲み込まれていった。
 母さんが倒れた。夕方、部屋に満ちた太陽がゆっくり帰っていく頃、母さんは倒れた。そのまま意識を失い、僕らが見つけたときには手遅れだった。
 いつ目覚めるのかも知れず、保証も無い賭け。その券を、父さんは買った。僕は、父さんの後ろにいるしかなかった。
 賭けの勝敗に、意味はないことは、初めから分かっていたのか。
 朝日は昇る。地面を照らし、部屋に温もりを残して、沈みゆく。夜には月が、闇を冷やして、その冷気に搾り出されるように、陽が昇る。
 日は変わりなく、月は変わりなく、決め事は変わりなく、果たされる。
 僕と、僕らだけが取り残され、冷たさに浸っていた。
 かちゃん・・・と冷たい音を立ててガラスのコップが床に倒れた。花が活けてあった。けれど水は広がらない。干上がった水跡の白い線が幾重にも染み付いたガラスは、からからと回り、かつ・・・と細かな音をこぼし、壁でとまった。
 色素の薄いポトスがぺたりと、床に這いつくばった。
「ポトスは丈夫だから」
 軽く、柔らかな声がした。
「ちょっとぐらい忘れても平気なのよ」
 からから・・・と、下駄の小気味良い音がした。
「水を取り替えるのよ」
 鈴が鳴った。転げて、床に弾いて、闇に消えていった。僕の目の前には、横たわった現実があった。
 手を伸ばす。冷たく湿気た布団を押しても、力は全て呑み込まれ、ベッドの下へ吐き出される。反発もなければ、吸収されもしない、僕の思いは、空気より無機質だった。
 痩せこけた手首に生命の息は薄い。
 幸せを考えた。幸せなんて言葉自体、薄っぺらだけど、幸せは二者択一で、悩むことは少ないから。
 僕の幸せは一つ。たった一つ。けれど、どちらを選ぶかは僕次第。それは極、簡単なこと。
 目の前のスイッチを切るか、背負って飛ぶか。
 僕は考える。そのうち日が暮れ、別れの言葉を口にするときが来る。
「じゃあ、またね」
 一人で帰る。
 ぽつぽつ燈る人口の明かりが僕の体を透かして、長く影を引き伸ばす。闇に沈んだ家が、僕を匿う。月明かりに捕らわれないように、それでも光の染み込んだ空気に震えて、朝を待つ。闇を溶かしてくれるのを。誰よりも先に、何よりも先に、求めてる。
 陽に溶けて、温もりに火照る頃、ようやくまた現実と再会する。シロに包まれたその部屋も、その時ばかりは、温もりに満たされるから。
 父さんの賭けは意味が無い。父さんは興味を失ったから。僕は引き継がないから。
 僕は現実を前に、幸せを考える。簡単な、二者択一を。
 そうして陽が形を潜める頃、僕はまた急かされるまま、別れの言葉を口にする。
「じゃあ、またね」
 一人で、家へと避難する。
 震える僕を見下ろし、月が哂う。僕は一人、陽を待つ。
 父さんは月を怖がらない。なぜなら月が哂うのを知らないから。なぜなら父さんは月の冷たさも全て飲み込んでしまったから。僕のように陽を待たない。なぜなら、父さんは陽が昇ることを知っているから。
 母さんが死んだ。儚い思い出をかき消して。僕はスイッチに触れなかった。かわりに白衣を着た人間の太い指が、切ったから。パチン、と音を立てて、母さんは消えた。
 父さんは静かに涙に浸った。僕は涙が零れた。ふいに、現実が途切れていったから。父さんは何も言わず、一人で涙を飲んだから。
 目の前から現実が消えた。幸せの二者択一は永久に失われた。
「飯、食いに行くか」
 父さんの言葉に、ふと陽が落ちた。月の影を踏んだ僕を、太陽の匂いが包み込む。僕は太陽を見上げた。空に横たわり、最後の一滴までも注ぐ陽を。水を干上がらせ、ポトスを青々と染める陽を。
 夕闇に紛れた僕らの後ろで、最後の夕陽が融けていった。