兄を忘れたのは、兄が死んだあと。
湊を忘れたのは、湊がまだ生きているのに。
そこが。
ずっと引っかかっていた。
授業中。
僕はノートの端に、同じことを何度も書いた。
『兄 死んだ→忘れた』
『湊 生きている→忘れた』
矢印。
丸。
疑問符。
「朝倉」
「はい」
「そこ、答えて」
「すみません。聞いてませんでした」
教室が笑う。
現代文の先生が呆れた顔をする。
「最近多いぞ」
「すみません」
「恋でもしてるのか」
一瞬。
教室の空気が変わったような気がした。
僕は。
窓際を見る。
湊と。
目が合った。
すぐ逸らされる。
「まあ」
先生が笑う。
「高校生らしくていいけど、試験には出ないからな」
また笑い。
僕も。
適当に笑った。
でも。
胸の中。
言葉が残った。
恋。
している。
たぶん。
もう。
認めてもいい。
僕は湊が好きだ。
それなのに。
今。
湊のことを覚えている。
僕から好きと言っても。
忘れなかった。
なら。
何が。
違う。
*
昼休み。
「質問」
いつものように湊の前に座る。
「また?」
「重要」
「最近全部そう言う」
「三回の告白」
湊の手が止まる。
「もう調べなくていいだろ」
「最後」
「前も聞いた」
「今回は別」
僕はノートを開く。
「一回目」
「うん」
「十月十七日」
「うん」
「湊が好きって言った」
「ああ」
「僕も好きって言った」
「ああ」
「そのあと何した?」
湊が眉を寄せる。
「帰った」
「それだけ?」
「……何が聞きたい」
「告白から帰るまで」
湊は少し考える。
「付き合うかどうか話した」
「付き合わなかった」
「ああ」
「何で」
「お前が忘れたら困るから」
「それだけ?」
「俺が」
湊は声を落とす。
「少し待とうって言った」
「僕は?」
「不満そうだった」
「それは想像できる」
「でも最後は納得した」
「他には」
「他?」
「何か約束した?」
湊の目が。
一瞬。
止まった。
僕は見逃さなかった。
「したんだ」
「……大したことじゃない」
「何」
「次の日」
「うん」
「一緒に図書室行こうって」
「それだけ?」
「ああ」
「本当に?」
右手。
親指。
握っている。
「湊」
「……」
「何を約束したの」
湊が。
ため息をつく。
「冬休み」
「え?」
「一緒に出かけようって」
「どこ」
「水族館」
「行った?」
「行く前に」
「忘れた」
「ああ」
胸。
少しざわつく。
「二回目は?」
「何が」
「十二月二十四日」
「……」
「告白のあと」
湊が。
僕を見る。
「また?」
「お願い」
少し。
長い沈黙。
「初詣」
「え」
「一緒に行こうって言った」
「僕が?」
「ああ」
「それから?」
「三学期も一緒に帰ろうって」
「それから」
「律」
「まだある」
わかる。
「……誕生日」
「誰の」
「俺」
「いつ」
「二月」
「何て」
湊が顔を背ける。
「祝うって」
僕は。
黙った。
「三回目」
「律」
「お願い」
「もう」
「最後だから」
湊は。
パンの袋を閉じた。
「夏休み」
「うん」
「映画行くって」
「それはもう行った」
「ああ」
「他」
「花火」
「他」
「お前」
少し。
困ったように。
「来年も同じクラスだったらいいって」
胸が鳴る。
「それだけ?」
「……」
「湊」
「卒業しても」
言葉が。
止まる。
「うん」
「会おうって」
心臓が。
大きく鳴った。
僕は。
ノートを見る。
一回目。
水族館。
二回目。
初詣。
誕生日。
三回目。
夏休み。
花火。
来年。
卒業後。
全部。
「未来」
口から出る。
湊が。
僕を見る。
「何」
「三回とも」
ノートを指す。
「告白のあと、未来の話してる」
「……」
「兄ちゃんは」
そこで。
声が止まった。
「律」
「兄ちゃんも」
思い出す。
事故の日。
雨。
電話。
迎えに来て。
その先。
兄。
明日も。
来週も。
来年も。
当然いると思っていた。
兄だから。
家族だから。
いなくなるなんて。
考えたこともなかった。
「僕」
ノートを閉じる。
「好きになるのが怖いんじゃないのかも」
「じゃあ」
「その人が」
一度。
息を吸う。
「明日もいるって思うのが怖い」
湊が。
黙る。
「未来を想像したら」
胸の中。
冷たいもの。
「失った時」
苦しい。
「その未来までなくなるから」
*
放課後。
僕は一人で帰った。
湊は。
来なかった。
正確には。
「一緒に帰る?」
と聞かれた。
でも。
「今日は一人で帰りたい」
と答えた。
昔の僕なら。
湊はついてきたかもしれない。
でも今日は。
「わかった」
と言った。
僕のことを。
僕以上に知っている人。
だから。
今。
一人になる必要があることも。
わかったのかもしれない。
駅を通り過ぎる。
家とは。
逆方向。
僕は。
事故が起きた場所へ向かった。
*
母さんには。
昨夜聞いた。
「兄ちゃんが事故にあった場所」
母さんは。
最初。
嫌そうな顔をした。
「行くの?」
「うん」
「一人で?」
「たぶん」
「私も」
「一人で行きたい」
少し迷って。
教えてくれた。
家から。
歩いて二十分ほど。
小さな交差点。
今まで。
何度も近くを通っている。
でも。
意識したことはなかった。
交差点。
コンビニ。
クリーニング屋。
歩道。
信号。
特別なものはない。
事故から八年。
当然。
何も残っていない。
僕は。
歩道の端に立った。
雨じゃない。
空は。
晴れている。
なのに。
頭の中。
雨音がする。
兄ちゃん。
朝倉蒼。
十四歳。
僕。
九歳。
学校。
放課後。
雨。
僕は傘を忘れた。
母さんは仕事。
兄ちゃんに電話した。
『迎えに来て』
それだけ。
兄ちゃんは。
『しょうがねえな』
と言った。
たぶん。
笑って。
そして。
来た。
僕は。
学校で待っていた。
兄ちゃんは。
ここで。
事故にあった。
僕のところへ。
来る途中。
「……僕が呼んだから」
声。
出る。
何度。
否定されても。
そこだけは。
変わらない。
僕が電話しなければ。
兄ちゃんは。
この交差点にいなかった。
事故にも。
あわなかった。
それは。
事実。
僕は。
信号を見る。
青。
赤。
青。
何度も。
変わる。
人が渡る。
車が通る。
世界は。
何も知らないみたいに。
続いている。
「兄ちゃん」
呼んでみる。
返事。
ない。
当然。
「僕さ」
何を。
言っているんだろう。
「兄ちゃんのこと」
喉が詰まる。
「忘れた」
言葉にすると。
ひどい。
「ごめん」
涙。
出る。
「ごめん」
また。
でも。
兄ちゃんは。
返さない。
怒っている?
違う。
そんなこと。
考えても。
答えはない。
「僕」
声が震える。
「忘れたら」
今まで。
どこかで。
思っていた。
「楽になると思ったのかな」
兄ちゃんを。
思い出さなければ。
事故を。
思い出さない。
自分を。
責めなくていい。
好きだったことまで。
消せば。
失ったことも。
薄くなる。
「でも」
僕は。
写真の兄ちゃんを。
思い出す。
少し。
戻った声。
『律』
「全然」
涙を拭く。
「楽じゃなかった」
忘れても。
穴だけは。
残る。
何を失ったのか。
わからない穴。
それは。
ずっと。
僕の中にあった。
*
「律?」
声。
振り向く。
湊がいた。
「何で」
「おばさんに聞いた」
「母さん」
「怒るなら俺じゃなくて」
「怒ってない」
「じゃあ」
湊が近づく。
「何で泣いてる」
「わかんない」
「嘘」
「泣きたいから」
「それなら」
湊は。
僕の横に立つ。
「泣けば」
「簡単に言うね」
「前も言った」
「過去禁止」
「今日はいいだろ」
「何で」
「ここだから」
僕は。
少し笑った。
涙。
まだ。
出てくる。
「湊」
「うん」
「兄ちゃん」
「うん」
「ここで死んだ」
「ああ」
「僕が呼んだから」
「違う」
「聞いて」
湊が。
口を閉じる。
「それは」
僕は続ける。
「もう否定しなくていい」
「律」
「僕が呼んだから、兄ちゃんがここにいたのは本当」
「でも」
「うん」
「事故はお前のせいじゃない」
「それも」
頷く。
「たぶん本当」
湊の顔が。
少し変わる。
「両方」
僕は言う。
「本当なんだと思う」
僕が呼んだ。
兄は来た。
その途中で。
事故にあった。
でも。
僕が兄を殺したわけじゃない。
「ずっと」
信号を見る。
「どっちかしかないと思ってた」
「……」
「僕のせいか」
息を吸う。
「僕のせいじゃないか」
でも。
「僕が呼ばなかったらって考えるのも」
「うん」
「兄ちゃんが好きだったからなんだと思う」
湊が。
何も言わない。
「戻ってきてほしいから」
涙。
「戻せる方法を探して」
そんなもの。
ないのに。
「だったら僕が電話しなければって」
自分を責めれば。
原因が見つかる。
原因が自分なら。
別の未来を想像できる。
電話しなかった未来。
兄ちゃんが生きている未来。
「ずっと」
僕は。
胸を押さえる。
「存在しない未来に逃げてた」
湊が。
小さく。
「うん」
と言った。
否定しない。
それが。
今は。
ありがたかった。
*
僕たちは。
交差点から。
近くの公園へ移動した。
ベンチ。
並んで座る。
「一個」
僕が言う。
「わかったかも」
「何」
「僕が湊を忘れた理由」
湊の身体が。
少し固くなる。
「告白じゃない」
「うん」
「好きって言葉でもない」
「うん」
「たぶん」
僕は。
今日ノートに書いたことを。
思い出す。
「未来」
「未来?」
「湊と」
一度。
息を吸う。
「この先も一緒にいるって思った時」
怖くなる。
「それって」
僕は笑う。
「兄ちゃんと同じだから」
明日も。
いる。
来週も。
来年も。
ずっと。
そう思った相手が。
突然。
いなくなる。
「一回目」
指を一本。
「水族館」
二本。
「二回目。初詣。誕生日」
三本。
「三回目。夏休み。花火。来年。卒業後」
湊が。
僕を見る。
「告白のあと」
「うん」
「僕たち」
声が。
少し震える。
「毎回、先の話してた」
「……ああ」
「それで」
心の奥。
怖い。
「また失ったらって」
僕の中の。
九歳。
「思ったのかもしれない」
「律」
「忘れれば」
喉が。
詰まる。
「失う前に」
言葉にする。
「その人をいなくできる」
湊の顔が。
歪んだ。
「お前」
「うん」
「そんな言い方」
「でもそうだよ」
僕は。
三回。
湊を失う前に。
自分の中から。
消した。
「湊は生きてるのに」
泣きそうになる。
「僕が先に」
声が震える。
「いなくした」
「それは」
「わかってる」
湊が。
言おうとしたこと。
たぶん。
お前のせいじゃない。
「責めてるんじゃない」
「……」
「今の僕が」
自分に言う。
「知っておかないといけない」
忘れること。
それは。
僕を守ったのかもしれない。
九歳の僕を。
兄を失った痛みから。
だから。
悪いだけじゃない。
でも。
今。
僕は。
もう九歳じゃない。
「好きになったら」
僕は。
湊を見る。
「失うかもしれない」
湊の目。
揺れる。
「そうだな」
否定しなかった。
それが。
少し意外だった。
「いなくならないって言わないんだ」
「言えない」
「前は言った」
「間違ってた」
湊が。
静かに言う。
「俺も」
「何」
「ずっと逃げてた」
「湊が?」
「ああ」
「何から」
「お前に忘れられること」
胸が。
鳴る。
「好きって言わなければ」
「うん」
「何も変わらないと思った」
「……」
「友達のままなら」
湊の右手。
親指。
今日は。
開いている。
「失わないって」
僕は。
息を呑む。
同じ。
「でも」
湊は続ける。
「それも無理だろ」
「何で」
「明日」
僕を見る。
「俺が転校するかもしれない」
「急だな」
「事故にあうかもしれない」
胸が。
一瞬。
強張る。
「病気になるかもしれない」
「やめて」
「律」
湊は。
逃がさない。
「お前だって」
怖い。
「明日いなくなるかもしれない」
「……」
「好きって言わなくても」
言葉が。
胸に落ちる。
「失う時は失う」
僕は。
何も言えない。
「だから」
湊が。
少し笑った。
「言わないようにしても意味ないのかもな」
「それ」
僕の心臓が。
急に速くなる。
「どういう意味」
「別に」
「右手」
「握ってない」
本当。
「じゃあ」
僕は。
怖くなる。
湊が。
何を言おうとしているのか。
わかる。
「待って」
反射的に。
言った。
湊が止まる。
また。
僕は。
止めた。
好き。
その言葉を。
聞く直前に。
「ごめん」
「いいよ」
「違う」
僕は。
拳を握る。
「聞きたくないんじゃない」
「わかってる」
「怖い」
「ああ」
「でも」
今日は。
ここで終わりたくない。
「逃げたくない」
湊の目を見る。
「だから」
一度。
深く呼吸する。
「少し待って」
「うん」
十秒。
いや。
もっと。
心臓の音。
聞こえる。
兄。
蒼。
好きだった。
失った。
湊。
好き。
失うかもしれない。
誰かを好きになるということは。
その人が。
いつか。
自分の前からいなくなる可能性を。
持つこと。
それでも。
いなくなる前から。
いなかったことにする必要はない。
「湊」
「うん」
「一個だけ」
「何」
「僕に」
声。
震える。
「未来の約束して」
湊の目が。
見開く。
「何でもいい」
「律」
「明日でも」
怖い。
「来週でも」
もっと。
「来年でも」
胸が痛い。
「一個」
僕は笑う。
少し。
「僕が怖くなるやつ」
湊は。
長い間。
黙っていた。
そして。
「じゃあ」
静かに言った。
「来年」
「うん」
「また映画行こう」
胸が。
強く鳴った。
「今日と同じ映画?」
「一年上映してないだろ」
「じゃあ別の」
「ああ」
「端の席?」
「絶対」
「キャラメルポップコーン」
「甘い」
「半分食べたくせに」
「二割」
「嘘」
「本当」
僕は。
笑った。
でも。
涙も。
出た。
来年。
湊と映画。
その未来。
なくなるかもしれない。
湊が。
いないかもしれない。
僕が。
いないかもしれない。
それでも。
「約束」
僕が言う。
「ああ」
「忘れない」
湊。
少しだけ。
顔を歪める。
「忘れても」
そう言った。
僕の胸。
痛む。
「また言う」
湊は。
続けた。
「来年、映画行くぞって」
「何回?」
「何回でも」
「嫌」
「何が」
「それ」
僕は。
涙を拭く。
「忘れる前提やめて」
湊が。
少し驚く。
「僕」
ちゃんと。
言う。
「忘れないつもりだから」
「ああ」
「もし忘れても」
一度。
息を吸う。
「その時の僕が考える」
今。
未来を。
先回りして消さない。
「今は」
湊を見る。
「覚えてる僕でいたい」
湊が。
小さく。
頷いた。
*
帰る頃。
空は。
夕焼けだった。
僕たちは。
駅へ向かう。
「ねえ」
「何」
「手」
「何」
「つないでいい?」
湊が。
僕を見る。
「何で聞く」
「一応」
「前は勝手だった」
「過去禁止」
「もういいだろ」
「じゃあ勝手にする」
右手。
取る。
湊の手。
少し冷たい。
でも。
しっかり。
握り返してくる。
「ねえ」
「何」
「これも未来?」
「何が」
「手つないで帰るの」
「今だろ」
「そっか」
今。
その言葉。
すごく。
好きだと思った。
未来は。
まだない。
過去は。
戻らない。
あるのは。
今。
湊の手。
「律」
「何」
「明日」
心臓。
少し。
跳ねる。
「一緒に昼食う?」
僕は笑う。
「食べる」
「パン?」
「クリームパン」
「また?」
「好きだから」
湊が。
一瞬。
僕を見る。
「何」
「いや」
「好きって言ったから?」
「パンだろ」
「そう」
僕は笑った。
好き。
もう。
その言葉自体は。
怖くない。
怖いのは。
その先。
でも。
その先へ。
行かなければ。
何も始まらない。
*
家。
夜。
僕は。
母さんのところへ行った。
「母さん」
「何」
「兄ちゃんの写真」
母さんが。
少し身構える。
「もう一回見たい」
「大丈夫?」
「うん」
アルバム。
開く。
蒼。
笑っている。
まだ。
全部は思い出せない。
でも。
前より。
知らない人ではない。
「この時」
写真を指す。
「何してた?」
「海」
「僕、何歳?」
「八歳」
「兄ちゃんは十三」
「そう」
「楽しかった?」
母さんが笑う。
「あなたがずっと砂に埋めてた」
「誰を」
「蒼を」
「僕が?」
「首だけ出して」
「ひど」
「本人も笑ってた」
写真。
よく見る。
確かに。
蒼の服。
砂だらけ。
頭の中。
少し。
声。
『律! 足まで埋めんな!』
僕。
『動くから!』
『普通動くだろ!』
笑い。
「……思い出した」
母さん。
顔を上げる。
「少し」
「どんな」
「兄ちゃん」
僕も。
笑う。
「怒ってた」
「いつも律には怒ってたわよ」
「大好きだったんでしょ」
「それとこれとは別」
母さん。
笑う。
僕も。
写真を見る。
「母さん」
「何」
「兄ちゃんが」
一度。
言葉を選ぶ。
「生きてたら」
「うん」
「今、二十二?」
「そうね」
「何してたかな」
母さんの目が。
少し潤む。
「さあ」
「大学?」
「どうかな」
「働いてた?」
「蒼、勉強嫌いだったからね」
「そうなの」
「あなたと違って」
「僕も好きじゃない」
「成績はいいでしょ」
僕たちは。
存在しなかった未来の話をした。
兄ちゃんが。
生きていたら。
今。
何をしていたか。
それは。
叶わない未来。
でも。
以前みたいに。
苦しいだけじゃなかった。
兄ちゃんが。
いないことを。
ちゃんと知ったうえで。
話せた。
*
部屋。
現代文ノート。
開く。
『忘れたのは、嫌いだったからじゃない。』
『大事だったからかもしれない。?』
疑問符。
僕は。
そこを。
二本線で消した。
書き直す。
『大事だった。』
そして。
その下。
『好きになれば、失うかもしれない。』
書く。
少し。
手が止まる。
続ける。
『でも、好きにならなくても、失う時は失う。』
もう一行。
『忘れても、失わなかったことにはならない。』
そして。
最後。
『だから僕は、忘れる前に手放すのをやめる。』
スマホ。
震える。
湊。
『明日、クリームパン買っとく』
僕。
『僕が買う』
湊。
『財布忘れるだろ』
僕。
『忘れない』
湊。
『信用ない』
僕は笑う。
そして。
一度。
画面を閉じかけて。
もう一度開いた。
『湊』
送る。
『何』
指。
震える。
でも。
今日。
言う。
『明日、聞きたいことある』
既読。
『何』
『今は言わない』
『怖い』
『湊でも怖いんだ』
『お前の質問は大体ろくでもない』
『明日のは大事』
少し。
間。
『わかった』
僕は。
画面を見る。
『絶対学校来て』
送る。
すぐ。
『行く』
『来年も』
少し。
意地悪。
返事。
来る。
『行く』
『卒業しても?』
既読。
長い。
一分。
そして。
『お前が嫌じゃなければ』
胸。
熱い。
僕は。
返信する。
『嫌じゃない』
さらに。
『だから明日』
『うん』
僕は。
打つ。
削除。
また。
打つ。
最後には。
『ちゃんと聞くから』
送った。
湊から。
『わかった』
それだけ。
僕は。
スマホを置く。
明日。
僕は。
湊に。
好きと言ってもらう。
聞く。
逃げない。
その翌朝。
どうなるかは。
わからない。
また。
忘れるかもしれない。
でも。
忘れるかもしれないから。
今日を。
なかったことにはしない。
好きになれば。
失うかもしれない。
それでも。
好きになったことまで。
失う前から。
捨てたくなかった。
湊を忘れたのは、湊がまだ生きているのに。
そこが。
ずっと引っかかっていた。
授業中。
僕はノートの端に、同じことを何度も書いた。
『兄 死んだ→忘れた』
『湊 生きている→忘れた』
矢印。
丸。
疑問符。
「朝倉」
「はい」
「そこ、答えて」
「すみません。聞いてませんでした」
教室が笑う。
現代文の先生が呆れた顔をする。
「最近多いぞ」
「すみません」
「恋でもしてるのか」
一瞬。
教室の空気が変わったような気がした。
僕は。
窓際を見る。
湊と。
目が合った。
すぐ逸らされる。
「まあ」
先生が笑う。
「高校生らしくていいけど、試験には出ないからな」
また笑い。
僕も。
適当に笑った。
でも。
胸の中。
言葉が残った。
恋。
している。
たぶん。
もう。
認めてもいい。
僕は湊が好きだ。
それなのに。
今。
湊のことを覚えている。
僕から好きと言っても。
忘れなかった。
なら。
何が。
違う。
*
昼休み。
「質問」
いつものように湊の前に座る。
「また?」
「重要」
「最近全部そう言う」
「三回の告白」
湊の手が止まる。
「もう調べなくていいだろ」
「最後」
「前も聞いた」
「今回は別」
僕はノートを開く。
「一回目」
「うん」
「十月十七日」
「うん」
「湊が好きって言った」
「ああ」
「僕も好きって言った」
「ああ」
「そのあと何した?」
湊が眉を寄せる。
「帰った」
「それだけ?」
「……何が聞きたい」
「告白から帰るまで」
湊は少し考える。
「付き合うかどうか話した」
「付き合わなかった」
「ああ」
「何で」
「お前が忘れたら困るから」
「それだけ?」
「俺が」
湊は声を落とす。
「少し待とうって言った」
「僕は?」
「不満そうだった」
「それは想像できる」
「でも最後は納得した」
「他には」
「他?」
「何か約束した?」
湊の目が。
一瞬。
止まった。
僕は見逃さなかった。
「したんだ」
「……大したことじゃない」
「何」
「次の日」
「うん」
「一緒に図書室行こうって」
「それだけ?」
「ああ」
「本当に?」
右手。
親指。
握っている。
「湊」
「……」
「何を約束したの」
湊が。
ため息をつく。
「冬休み」
「え?」
「一緒に出かけようって」
「どこ」
「水族館」
「行った?」
「行く前に」
「忘れた」
「ああ」
胸。
少しざわつく。
「二回目は?」
「何が」
「十二月二十四日」
「……」
「告白のあと」
湊が。
僕を見る。
「また?」
「お願い」
少し。
長い沈黙。
「初詣」
「え」
「一緒に行こうって言った」
「僕が?」
「ああ」
「それから?」
「三学期も一緒に帰ろうって」
「それから」
「律」
「まだある」
わかる。
「……誕生日」
「誰の」
「俺」
「いつ」
「二月」
「何て」
湊が顔を背ける。
「祝うって」
僕は。
黙った。
「三回目」
「律」
「お願い」
「もう」
「最後だから」
湊は。
パンの袋を閉じた。
「夏休み」
「うん」
「映画行くって」
「それはもう行った」
「ああ」
「他」
「花火」
「他」
「お前」
少し。
困ったように。
「来年も同じクラスだったらいいって」
胸が鳴る。
「それだけ?」
「……」
「湊」
「卒業しても」
言葉が。
止まる。
「うん」
「会おうって」
心臓が。
大きく鳴った。
僕は。
ノートを見る。
一回目。
水族館。
二回目。
初詣。
誕生日。
三回目。
夏休み。
花火。
来年。
卒業後。
全部。
「未来」
口から出る。
湊が。
僕を見る。
「何」
「三回とも」
ノートを指す。
「告白のあと、未来の話してる」
「……」
「兄ちゃんは」
そこで。
声が止まった。
「律」
「兄ちゃんも」
思い出す。
事故の日。
雨。
電話。
迎えに来て。
その先。
兄。
明日も。
来週も。
来年も。
当然いると思っていた。
兄だから。
家族だから。
いなくなるなんて。
考えたこともなかった。
「僕」
ノートを閉じる。
「好きになるのが怖いんじゃないのかも」
「じゃあ」
「その人が」
一度。
息を吸う。
「明日もいるって思うのが怖い」
湊が。
黙る。
「未来を想像したら」
胸の中。
冷たいもの。
「失った時」
苦しい。
「その未来までなくなるから」
*
放課後。
僕は一人で帰った。
湊は。
来なかった。
正確には。
「一緒に帰る?」
と聞かれた。
でも。
「今日は一人で帰りたい」
と答えた。
昔の僕なら。
湊はついてきたかもしれない。
でも今日は。
「わかった」
と言った。
僕のことを。
僕以上に知っている人。
だから。
今。
一人になる必要があることも。
わかったのかもしれない。
駅を通り過ぎる。
家とは。
逆方向。
僕は。
事故が起きた場所へ向かった。
*
母さんには。
昨夜聞いた。
「兄ちゃんが事故にあった場所」
母さんは。
最初。
嫌そうな顔をした。
「行くの?」
「うん」
「一人で?」
「たぶん」
「私も」
「一人で行きたい」
少し迷って。
教えてくれた。
家から。
歩いて二十分ほど。
小さな交差点。
今まで。
何度も近くを通っている。
でも。
意識したことはなかった。
交差点。
コンビニ。
クリーニング屋。
歩道。
信号。
特別なものはない。
事故から八年。
当然。
何も残っていない。
僕は。
歩道の端に立った。
雨じゃない。
空は。
晴れている。
なのに。
頭の中。
雨音がする。
兄ちゃん。
朝倉蒼。
十四歳。
僕。
九歳。
学校。
放課後。
雨。
僕は傘を忘れた。
母さんは仕事。
兄ちゃんに電話した。
『迎えに来て』
それだけ。
兄ちゃんは。
『しょうがねえな』
と言った。
たぶん。
笑って。
そして。
来た。
僕は。
学校で待っていた。
兄ちゃんは。
ここで。
事故にあった。
僕のところへ。
来る途中。
「……僕が呼んだから」
声。
出る。
何度。
否定されても。
そこだけは。
変わらない。
僕が電話しなければ。
兄ちゃんは。
この交差点にいなかった。
事故にも。
あわなかった。
それは。
事実。
僕は。
信号を見る。
青。
赤。
青。
何度も。
変わる。
人が渡る。
車が通る。
世界は。
何も知らないみたいに。
続いている。
「兄ちゃん」
呼んでみる。
返事。
ない。
当然。
「僕さ」
何を。
言っているんだろう。
「兄ちゃんのこと」
喉が詰まる。
「忘れた」
言葉にすると。
ひどい。
「ごめん」
涙。
出る。
「ごめん」
また。
でも。
兄ちゃんは。
返さない。
怒っている?
違う。
そんなこと。
考えても。
答えはない。
「僕」
声が震える。
「忘れたら」
今まで。
どこかで。
思っていた。
「楽になると思ったのかな」
兄ちゃんを。
思い出さなければ。
事故を。
思い出さない。
自分を。
責めなくていい。
好きだったことまで。
消せば。
失ったことも。
薄くなる。
「でも」
僕は。
写真の兄ちゃんを。
思い出す。
少し。
戻った声。
『律』
「全然」
涙を拭く。
「楽じゃなかった」
忘れても。
穴だけは。
残る。
何を失ったのか。
わからない穴。
それは。
ずっと。
僕の中にあった。
*
「律?」
声。
振り向く。
湊がいた。
「何で」
「おばさんに聞いた」
「母さん」
「怒るなら俺じゃなくて」
「怒ってない」
「じゃあ」
湊が近づく。
「何で泣いてる」
「わかんない」
「嘘」
「泣きたいから」
「それなら」
湊は。
僕の横に立つ。
「泣けば」
「簡単に言うね」
「前も言った」
「過去禁止」
「今日はいいだろ」
「何で」
「ここだから」
僕は。
少し笑った。
涙。
まだ。
出てくる。
「湊」
「うん」
「兄ちゃん」
「うん」
「ここで死んだ」
「ああ」
「僕が呼んだから」
「違う」
「聞いて」
湊が。
口を閉じる。
「それは」
僕は続ける。
「もう否定しなくていい」
「律」
「僕が呼んだから、兄ちゃんがここにいたのは本当」
「でも」
「うん」
「事故はお前のせいじゃない」
「それも」
頷く。
「たぶん本当」
湊の顔が。
少し変わる。
「両方」
僕は言う。
「本当なんだと思う」
僕が呼んだ。
兄は来た。
その途中で。
事故にあった。
でも。
僕が兄を殺したわけじゃない。
「ずっと」
信号を見る。
「どっちかしかないと思ってた」
「……」
「僕のせいか」
息を吸う。
「僕のせいじゃないか」
でも。
「僕が呼ばなかったらって考えるのも」
「うん」
「兄ちゃんが好きだったからなんだと思う」
湊が。
何も言わない。
「戻ってきてほしいから」
涙。
「戻せる方法を探して」
そんなもの。
ないのに。
「だったら僕が電話しなければって」
自分を責めれば。
原因が見つかる。
原因が自分なら。
別の未来を想像できる。
電話しなかった未来。
兄ちゃんが生きている未来。
「ずっと」
僕は。
胸を押さえる。
「存在しない未来に逃げてた」
湊が。
小さく。
「うん」
と言った。
否定しない。
それが。
今は。
ありがたかった。
*
僕たちは。
交差点から。
近くの公園へ移動した。
ベンチ。
並んで座る。
「一個」
僕が言う。
「わかったかも」
「何」
「僕が湊を忘れた理由」
湊の身体が。
少し固くなる。
「告白じゃない」
「うん」
「好きって言葉でもない」
「うん」
「たぶん」
僕は。
今日ノートに書いたことを。
思い出す。
「未来」
「未来?」
「湊と」
一度。
息を吸う。
「この先も一緒にいるって思った時」
怖くなる。
「それって」
僕は笑う。
「兄ちゃんと同じだから」
明日も。
いる。
来週も。
来年も。
ずっと。
そう思った相手が。
突然。
いなくなる。
「一回目」
指を一本。
「水族館」
二本。
「二回目。初詣。誕生日」
三本。
「三回目。夏休み。花火。来年。卒業後」
湊が。
僕を見る。
「告白のあと」
「うん」
「僕たち」
声が。
少し震える。
「毎回、先の話してた」
「……ああ」
「それで」
心の奥。
怖い。
「また失ったらって」
僕の中の。
九歳。
「思ったのかもしれない」
「律」
「忘れれば」
喉が。
詰まる。
「失う前に」
言葉にする。
「その人をいなくできる」
湊の顔が。
歪んだ。
「お前」
「うん」
「そんな言い方」
「でもそうだよ」
僕は。
三回。
湊を失う前に。
自分の中から。
消した。
「湊は生きてるのに」
泣きそうになる。
「僕が先に」
声が震える。
「いなくした」
「それは」
「わかってる」
湊が。
言おうとしたこと。
たぶん。
お前のせいじゃない。
「責めてるんじゃない」
「……」
「今の僕が」
自分に言う。
「知っておかないといけない」
忘れること。
それは。
僕を守ったのかもしれない。
九歳の僕を。
兄を失った痛みから。
だから。
悪いだけじゃない。
でも。
今。
僕は。
もう九歳じゃない。
「好きになったら」
僕は。
湊を見る。
「失うかもしれない」
湊の目。
揺れる。
「そうだな」
否定しなかった。
それが。
少し意外だった。
「いなくならないって言わないんだ」
「言えない」
「前は言った」
「間違ってた」
湊が。
静かに言う。
「俺も」
「何」
「ずっと逃げてた」
「湊が?」
「ああ」
「何から」
「お前に忘れられること」
胸が。
鳴る。
「好きって言わなければ」
「うん」
「何も変わらないと思った」
「……」
「友達のままなら」
湊の右手。
親指。
今日は。
開いている。
「失わないって」
僕は。
息を呑む。
同じ。
「でも」
湊は続ける。
「それも無理だろ」
「何で」
「明日」
僕を見る。
「俺が転校するかもしれない」
「急だな」
「事故にあうかもしれない」
胸が。
一瞬。
強張る。
「病気になるかもしれない」
「やめて」
「律」
湊は。
逃がさない。
「お前だって」
怖い。
「明日いなくなるかもしれない」
「……」
「好きって言わなくても」
言葉が。
胸に落ちる。
「失う時は失う」
僕は。
何も言えない。
「だから」
湊が。
少し笑った。
「言わないようにしても意味ないのかもな」
「それ」
僕の心臓が。
急に速くなる。
「どういう意味」
「別に」
「右手」
「握ってない」
本当。
「じゃあ」
僕は。
怖くなる。
湊が。
何を言おうとしているのか。
わかる。
「待って」
反射的に。
言った。
湊が止まる。
また。
僕は。
止めた。
好き。
その言葉を。
聞く直前に。
「ごめん」
「いいよ」
「違う」
僕は。
拳を握る。
「聞きたくないんじゃない」
「わかってる」
「怖い」
「ああ」
「でも」
今日は。
ここで終わりたくない。
「逃げたくない」
湊の目を見る。
「だから」
一度。
深く呼吸する。
「少し待って」
「うん」
十秒。
いや。
もっと。
心臓の音。
聞こえる。
兄。
蒼。
好きだった。
失った。
湊。
好き。
失うかもしれない。
誰かを好きになるということは。
その人が。
いつか。
自分の前からいなくなる可能性を。
持つこと。
それでも。
いなくなる前から。
いなかったことにする必要はない。
「湊」
「うん」
「一個だけ」
「何」
「僕に」
声。
震える。
「未来の約束して」
湊の目が。
見開く。
「何でもいい」
「律」
「明日でも」
怖い。
「来週でも」
もっと。
「来年でも」
胸が痛い。
「一個」
僕は笑う。
少し。
「僕が怖くなるやつ」
湊は。
長い間。
黙っていた。
そして。
「じゃあ」
静かに言った。
「来年」
「うん」
「また映画行こう」
胸が。
強く鳴った。
「今日と同じ映画?」
「一年上映してないだろ」
「じゃあ別の」
「ああ」
「端の席?」
「絶対」
「キャラメルポップコーン」
「甘い」
「半分食べたくせに」
「二割」
「嘘」
「本当」
僕は。
笑った。
でも。
涙も。
出た。
来年。
湊と映画。
その未来。
なくなるかもしれない。
湊が。
いないかもしれない。
僕が。
いないかもしれない。
それでも。
「約束」
僕が言う。
「ああ」
「忘れない」
湊。
少しだけ。
顔を歪める。
「忘れても」
そう言った。
僕の胸。
痛む。
「また言う」
湊は。
続けた。
「来年、映画行くぞって」
「何回?」
「何回でも」
「嫌」
「何が」
「それ」
僕は。
涙を拭く。
「忘れる前提やめて」
湊が。
少し驚く。
「僕」
ちゃんと。
言う。
「忘れないつもりだから」
「ああ」
「もし忘れても」
一度。
息を吸う。
「その時の僕が考える」
今。
未来を。
先回りして消さない。
「今は」
湊を見る。
「覚えてる僕でいたい」
湊が。
小さく。
頷いた。
*
帰る頃。
空は。
夕焼けだった。
僕たちは。
駅へ向かう。
「ねえ」
「何」
「手」
「何」
「つないでいい?」
湊が。
僕を見る。
「何で聞く」
「一応」
「前は勝手だった」
「過去禁止」
「もういいだろ」
「じゃあ勝手にする」
右手。
取る。
湊の手。
少し冷たい。
でも。
しっかり。
握り返してくる。
「ねえ」
「何」
「これも未来?」
「何が」
「手つないで帰るの」
「今だろ」
「そっか」
今。
その言葉。
すごく。
好きだと思った。
未来は。
まだない。
過去は。
戻らない。
あるのは。
今。
湊の手。
「律」
「何」
「明日」
心臓。
少し。
跳ねる。
「一緒に昼食う?」
僕は笑う。
「食べる」
「パン?」
「クリームパン」
「また?」
「好きだから」
湊が。
一瞬。
僕を見る。
「何」
「いや」
「好きって言ったから?」
「パンだろ」
「そう」
僕は笑った。
好き。
もう。
その言葉自体は。
怖くない。
怖いのは。
その先。
でも。
その先へ。
行かなければ。
何も始まらない。
*
家。
夜。
僕は。
母さんのところへ行った。
「母さん」
「何」
「兄ちゃんの写真」
母さんが。
少し身構える。
「もう一回見たい」
「大丈夫?」
「うん」
アルバム。
開く。
蒼。
笑っている。
まだ。
全部は思い出せない。
でも。
前より。
知らない人ではない。
「この時」
写真を指す。
「何してた?」
「海」
「僕、何歳?」
「八歳」
「兄ちゃんは十三」
「そう」
「楽しかった?」
母さんが笑う。
「あなたがずっと砂に埋めてた」
「誰を」
「蒼を」
「僕が?」
「首だけ出して」
「ひど」
「本人も笑ってた」
写真。
よく見る。
確かに。
蒼の服。
砂だらけ。
頭の中。
少し。
声。
『律! 足まで埋めんな!』
僕。
『動くから!』
『普通動くだろ!』
笑い。
「……思い出した」
母さん。
顔を上げる。
「少し」
「どんな」
「兄ちゃん」
僕も。
笑う。
「怒ってた」
「いつも律には怒ってたわよ」
「大好きだったんでしょ」
「それとこれとは別」
母さん。
笑う。
僕も。
写真を見る。
「母さん」
「何」
「兄ちゃんが」
一度。
言葉を選ぶ。
「生きてたら」
「うん」
「今、二十二?」
「そうね」
「何してたかな」
母さんの目が。
少し潤む。
「さあ」
「大学?」
「どうかな」
「働いてた?」
「蒼、勉強嫌いだったからね」
「そうなの」
「あなたと違って」
「僕も好きじゃない」
「成績はいいでしょ」
僕たちは。
存在しなかった未来の話をした。
兄ちゃんが。
生きていたら。
今。
何をしていたか。
それは。
叶わない未来。
でも。
以前みたいに。
苦しいだけじゃなかった。
兄ちゃんが。
いないことを。
ちゃんと知ったうえで。
話せた。
*
部屋。
現代文ノート。
開く。
『忘れたのは、嫌いだったからじゃない。』
『大事だったからかもしれない。?』
疑問符。
僕は。
そこを。
二本線で消した。
書き直す。
『大事だった。』
そして。
その下。
『好きになれば、失うかもしれない。』
書く。
少し。
手が止まる。
続ける。
『でも、好きにならなくても、失う時は失う。』
もう一行。
『忘れても、失わなかったことにはならない。』
そして。
最後。
『だから僕は、忘れる前に手放すのをやめる。』
スマホ。
震える。
湊。
『明日、クリームパン買っとく』
僕。
『僕が買う』
湊。
『財布忘れるだろ』
僕。
『忘れない』
湊。
『信用ない』
僕は笑う。
そして。
一度。
画面を閉じかけて。
もう一度開いた。
『湊』
送る。
『何』
指。
震える。
でも。
今日。
言う。
『明日、聞きたいことある』
既読。
『何』
『今は言わない』
『怖い』
『湊でも怖いんだ』
『お前の質問は大体ろくでもない』
『明日のは大事』
少し。
間。
『わかった』
僕は。
画面を見る。
『絶対学校来て』
送る。
すぐ。
『行く』
『来年も』
少し。
意地悪。
返事。
来る。
『行く』
『卒業しても?』
既読。
長い。
一分。
そして。
『お前が嫌じゃなければ』
胸。
熱い。
僕は。
返信する。
『嫌じゃない』
さらに。
『だから明日』
『うん』
僕は。
打つ。
削除。
また。
打つ。
最後には。
『ちゃんと聞くから』
送った。
湊から。
『わかった』
それだけ。
僕は。
スマホを置く。
明日。
僕は。
湊に。
好きと言ってもらう。
聞く。
逃げない。
その翌朝。
どうなるかは。
わからない。
また。
忘れるかもしれない。
でも。
忘れるかもしれないから。
今日を。
なかったことにはしない。
好きになれば。
失うかもしれない。
それでも。
好きになったことまで。
失う前から。
捨てたくなかった。



