告白されたら、君を忘れる

 兄を忘れたのは、兄が死んだあと。

 湊を忘れたのは、湊がまだ生きているのに。

 そこが。

 ずっと引っかかっていた。

 授業中。

 僕はノートの端に、同じことを何度も書いた。

『兄 死んだ→忘れた』

『湊 生きている→忘れた』

 矢印。

 丸。

 疑問符。

「朝倉」

「はい」

「そこ、答えて」

「すみません。聞いてませんでした」

 教室が笑う。

 現代文の先生が呆れた顔をする。

「最近多いぞ」

「すみません」

「恋でもしてるのか」

 一瞬。

 教室の空気が変わったような気がした。

 僕は。

 窓際を見る。

 湊と。

 目が合った。

 すぐ逸らされる。

「まあ」

 先生が笑う。

「高校生らしくていいけど、試験には出ないからな」

 また笑い。

 僕も。

 適当に笑った。

 でも。

 胸の中。

 言葉が残った。

 恋。

 している。

 たぶん。

 もう。

 認めてもいい。

 僕は湊が好きだ。

 それなのに。

 今。

 湊のことを覚えている。

 僕から好きと言っても。

 忘れなかった。

 なら。

 何が。

 違う。

     *

 昼休み。

「質問」

 いつものように湊の前に座る。

「また?」

「重要」

「最近全部そう言う」

「三回の告白」

 湊の手が止まる。

「もう調べなくていいだろ」

「最後」

「前も聞いた」

「今回は別」

 僕はノートを開く。

「一回目」

「うん」

「十月十七日」

「うん」

「湊が好きって言った」

「ああ」

「僕も好きって言った」

「ああ」

「そのあと何した?」

 湊が眉を寄せる。

「帰った」

「それだけ?」

「……何が聞きたい」

「告白から帰るまで」

 湊は少し考える。

「付き合うかどうか話した」

「付き合わなかった」

「ああ」

「何で」

「お前が忘れたら困るから」

「それだけ?」

「俺が」

 湊は声を落とす。

「少し待とうって言った」

「僕は?」

「不満そうだった」

「それは想像できる」

「でも最後は納得した」

「他には」

「他?」

「何か約束した?」

 湊の目が。

 一瞬。

 止まった。

 僕は見逃さなかった。

「したんだ」

「……大したことじゃない」

「何」

「次の日」

「うん」

「一緒に図書室行こうって」

「それだけ?」

「ああ」

「本当に?」

 右手。

 親指。

 握っている。

「湊」

「……」

「何を約束したの」

 湊が。

 ため息をつく。

「冬休み」

「え?」

「一緒に出かけようって」

「どこ」

「水族館」

「行った?」

「行く前に」

「忘れた」

「ああ」

 胸。

 少しざわつく。

「二回目は?」

「何が」

「十二月二十四日」

「……」

「告白のあと」

 湊が。

 僕を見る。

「また?」

「お願い」

 少し。

 長い沈黙。

「初詣」

「え」

「一緒に行こうって言った」

「僕が?」

「ああ」

「それから?」

「三学期も一緒に帰ろうって」

「それから」

「律」

「まだある」

 わかる。

「……誕生日」

「誰の」

「俺」

「いつ」

「二月」

「何て」

 湊が顔を背ける。

「祝うって」

 僕は。

 黙った。

「三回目」

「律」

「お願い」

「もう」

「最後だから」

 湊は。

 パンの袋を閉じた。

「夏休み」

「うん」

「映画行くって」

「それはもう行った」

「ああ」

「他」

「花火」

「他」

「お前」

 少し。

 困ったように。

「来年も同じクラスだったらいいって」

 胸が鳴る。

「それだけ?」

「……」

「湊」

「卒業しても」

 言葉が。

 止まる。

「うん」

「会おうって」

 心臓が。

 大きく鳴った。

 僕は。

 ノートを見る。

 一回目。

 水族館。

 二回目。

 初詣。

 誕生日。

 三回目。

 夏休み。

 花火。

 来年。

 卒業後。

 全部。

「未来」

 口から出る。

 湊が。

 僕を見る。

「何」

「三回とも」

 ノートを指す。

「告白のあと、未来の話してる」

「……」

「兄ちゃんは」

 そこで。

 声が止まった。

「律」

「兄ちゃんも」

 思い出す。

 事故の日。

 雨。

 電話。

 迎えに来て。

 その先。

 兄。

 明日も。

 来週も。

 来年も。

 当然いると思っていた。

 兄だから。

 家族だから。

 いなくなるなんて。

 考えたこともなかった。

「僕」

 ノートを閉じる。

「好きになるのが怖いんじゃないのかも」

「じゃあ」

「その人が」

 一度。

 息を吸う。

「明日もいるって思うのが怖い」

 湊が。

 黙る。

「未来を想像したら」

 胸の中。

 冷たいもの。

「失った時」

 苦しい。

「その未来までなくなるから」

     *

 放課後。

 僕は一人で帰った。

 湊は。

 来なかった。

 正確には。

「一緒に帰る?」

 と聞かれた。

 でも。

「今日は一人で帰りたい」

 と答えた。

 昔の僕なら。

 湊はついてきたかもしれない。

 でも今日は。

「わかった」

 と言った。

 僕のことを。

 僕以上に知っている人。

 だから。

 今。

 一人になる必要があることも。

 わかったのかもしれない。

 駅を通り過ぎる。

 家とは。

 逆方向。

 僕は。

 事故が起きた場所へ向かった。

     *

 母さんには。

 昨夜聞いた。

「兄ちゃんが事故にあった場所」

 母さんは。

 最初。

 嫌そうな顔をした。

「行くの?」

「うん」

「一人で?」

「たぶん」

「私も」

「一人で行きたい」

 少し迷って。

 教えてくれた。

 家から。

 歩いて二十分ほど。

 小さな交差点。

 今まで。

 何度も近くを通っている。

 でも。

 意識したことはなかった。

 交差点。

 コンビニ。

 クリーニング屋。

 歩道。

 信号。

 特別なものはない。

 事故から八年。

 当然。

 何も残っていない。

 僕は。

 歩道の端に立った。

 雨じゃない。

 空は。

 晴れている。

 なのに。

 頭の中。

 雨音がする。

 兄ちゃん。

 朝倉蒼。

 十四歳。

 僕。

 九歳。

 学校。

 放課後。

 雨。

 僕は傘を忘れた。

 母さんは仕事。

 兄ちゃんに電話した。

『迎えに来て』

 それだけ。

 兄ちゃんは。

『しょうがねえな』

 と言った。

 たぶん。

 笑って。

 そして。

 来た。

 僕は。

 学校で待っていた。

 兄ちゃんは。

 ここで。

 事故にあった。

 僕のところへ。

 来る途中。

「……僕が呼んだから」

 声。

 出る。

 何度。

 否定されても。

 そこだけは。

 変わらない。

 僕が電話しなければ。

 兄ちゃんは。

 この交差点にいなかった。

 事故にも。

 あわなかった。

 それは。

 事実。

 僕は。

 信号を見る。

 青。

 赤。

 青。

 何度も。

 変わる。

 人が渡る。

 車が通る。

 世界は。

 何も知らないみたいに。

 続いている。

「兄ちゃん」

 呼んでみる。

 返事。

 ない。

 当然。

「僕さ」

 何を。

 言っているんだろう。

「兄ちゃんのこと」

 喉が詰まる。

「忘れた」

 言葉にすると。

 ひどい。

「ごめん」

 涙。

 出る。

「ごめん」

 また。

 でも。

 兄ちゃんは。

 返さない。

 怒っている?

 違う。

 そんなこと。

 考えても。

 答えはない。

「僕」

 声が震える。

「忘れたら」

 今まで。

 どこかで。

 思っていた。

「楽になると思ったのかな」

 兄ちゃんを。

 思い出さなければ。

 事故を。

 思い出さない。

 自分を。

 責めなくていい。

 好きだったことまで。

 消せば。

 失ったことも。

 薄くなる。

「でも」

 僕は。

 写真の兄ちゃんを。

 思い出す。

 少し。

 戻った声。

『律』

「全然」

 涙を拭く。

「楽じゃなかった」

 忘れても。

 穴だけは。

 残る。

 何を失ったのか。

 わからない穴。

 それは。

 ずっと。

 僕の中にあった。

     *

「律?」

 声。

 振り向く。

 湊がいた。

「何で」

「おばさんに聞いた」

「母さん」

「怒るなら俺じゃなくて」

「怒ってない」

「じゃあ」

 湊が近づく。

「何で泣いてる」

「わかんない」

「嘘」

「泣きたいから」

「それなら」

 湊は。

 僕の横に立つ。

「泣けば」

「簡単に言うね」

「前も言った」

「過去禁止」

「今日はいいだろ」

「何で」

「ここだから」

 僕は。

 少し笑った。

 涙。

 まだ。

 出てくる。

「湊」

「うん」

「兄ちゃん」

「うん」

「ここで死んだ」

「ああ」

「僕が呼んだから」

「違う」

「聞いて」

 湊が。

 口を閉じる。

「それは」

 僕は続ける。

「もう否定しなくていい」

「律」

「僕が呼んだから、兄ちゃんがここにいたのは本当」

「でも」

「うん」

「事故はお前のせいじゃない」

「それも」

 頷く。

「たぶん本当」

 湊の顔が。

 少し変わる。

「両方」

 僕は言う。

「本当なんだと思う」

 僕が呼んだ。

 兄は来た。

 その途中で。

 事故にあった。

 でも。

 僕が兄を殺したわけじゃない。

「ずっと」

 信号を見る。

「どっちかしかないと思ってた」

「……」

「僕のせいか」

 息を吸う。

「僕のせいじゃないか」

 でも。

「僕が呼ばなかったらって考えるのも」

「うん」

「兄ちゃんが好きだったからなんだと思う」

 湊が。

 何も言わない。

「戻ってきてほしいから」

 涙。

「戻せる方法を探して」

 そんなもの。

 ないのに。

「だったら僕が電話しなければって」

 自分を責めれば。

 原因が見つかる。

 原因が自分なら。

 別の未来を想像できる。

 電話しなかった未来。

 兄ちゃんが生きている未来。

「ずっと」

 僕は。

 胸を押さえる。

「存在しない未来に逃げてた」

 湊が。

 小さく。

「うん」

 と言った。

 否定しない。

 それが。

 今は。

 ありがたかった。

     *

 僕たちは。

 交差点から。

 近くの公園へ移動した。

 ベンチ。

 並んで座る。

「一個」

 僕が言う。

「わかったかも」

「何」

「僕が湊を忘れた理由」

 湊の身体が。

 少し固くなる。

「告白じゃない」

「うん」

「好きって言葉でもない」

「うん」

「たぶん」

 僕は。

 今日ノートに書いたことを。

 思い出す。

「未来」

「未来?」

「湊と」

 一度。

 息を吸う。

「この先も一緒にいるって思った時」

 怖くなる。

「それって」

 僕は笑う。

「兄ちゃんと同じだから」

 明日も。

 いる。

 来週も。

 来年も。

 ずっと。

 そう思った相手が。

 突然。

 いなくなる。

「一回目」

 指を一本。

「水族館」

 二本。

「二回目。初詣。誕生日」

 三本。

「三回目。夏休み。花火。来年。卒業後」

 湊が。

 僕を見る。

「告白のあと」

「うん」

「僕たち」

 声が。

 少し震える。

「毎回、先の話してた」

「……ああ」

「それで」

 心の奥。

 怖い。

「また失ったらって」

 僕の中の。

 九歳。

「思ったのかもしれない」

「律」

「忘れれば」

 喉が。

 詰まる。

「失う前に」

 言葉にする。

「その人をいなくできる」

 湊の顔が。

 歪んだ。

「お前」

「うん」

「そんな言い方」

「でもそうだよ」

 僕は。

 三回。

 湊を失う前に。

 自分の中から。

 消した。

「湊は生きてるのに」

 泣きそうになる。

「僕が先に」

 声が震える。

「いなくした」

「それは」

「わかってる」

 湊が。

 言おうとしたこと。

 たぶん。

 お前のせいじゃない。

「責めてるんじゃない」

「……」

「今の僕が」

 自分に言う。

「知っておかないといけない」

 忘れること。

 それは。

 僕を守ったのかもしれない。

 九歳の僕を。

 兄を失った痛みから。

 だから。

 悪いだけじゃない。

 でも。

 今。

 僕は。

 もう九歳じゃない。

「好きになったら」

 僕は。

 湊を見る。

「失うかもしれない」

 湊の目。

 揺れる。

「そうだな」

 否定しなかった。

 それが。

 少し意外だった。

「いなくならないって言わないんだ」

「言えない」

「前は言った」

「間違ってた」

 湊が。

 静かに言う。

「俺も」

「何」

「ずっと逃げてた」

「湊が?」

「ああ」

「何から」

「お前に忘れられること」

 胸が。

 鳴る。

「好きって言わなければ」

「うん」

「何も変わらないと思った」

「……」

「友達のままなら」

 湊の右手。

 親指。

 今日は。

 開いている。

「失わないって」

 僕は。

 息を呑む。

 同じ。

「でも」

 湊は続ける。

「それも無理だろ」

「何で」

「明日」

 僕を見る。

「俺が転校するかもしれない」

「急だな」

「事故にあうかもしれない」

 胸が。

 一瞬。

 強張る。

「病気になるかもしれない」

「やめて」

「律」

 湊は。

 逃がさない。

「お前だって」

 怖い。

「明日いなくなるかもしれない」

「……」

「好きって言わなくても」

 言葉が。

 胸に落ちる。

「失う時は失う」

 僕は。

 何も言えない。

「だから」

 湊が。

 少し笑った。

「言わないようにしても意味ないのかもな」

「それ」

 僕の心臓が。

 急に速くなる。

「どういう意味」

「別に」

「右手」

「握ってない」

 本当。

「じゃあ」

 僕は。

 怖くなる。

 湊が。

 何を言おうとしているのか。

 わかる。

「待って」

 反射的に。

 言った。

 湊が止まる。

 また。

 僕は。

 止めた。

 好き。

 その言葉を。

 聞く直前に。

「ごめん」

「いいよ」

「違う」

 僕は。

 拳を握る。

「聞きたくないんじゃない」

「わかってる」

「怖い」

「ああ」

「でも」

 今日は。

 ここで終わりたくない。

「逃げたくない」

 湊の目を見る。

「だから」

 一度。

 深く呼吸する。

「少し待って」

「うん」

 十秒。

 いや。

 もっと。

 心臓の音。

 聞こえる。

 兄。

 蒼。

 好きだった。

 失った。

 湊。

 好き。

 失うかもしれない。

 誰かを好きになるということは。

 その人が。

 いつか。

 自分の前からいなくなる可能性を。

 持つこと。

 それでも。

 いなくなる前から。

 いなかったことにする必要はない。

「湊」

「うん」

「一個だけ」

「何」

「僕に」

 声。

 震える。

「未来の約束して」

 湊の目が。

 見開く。

「何でもいい」

「律」

「明日でも」

 怖い。

「来週でも」

 もっと。

「来年でも」

 胸が痛い。

「一個」

 僕は笑う。

 少し。

「僕が怖くなるやつ」

 湊は。

 長い間。

 黙っていた。

 そして。

「じゃあ」

 静かに言った。

「来年」

「うん」

「また映画行こう」

 胸が。

 強く鳴った。

「今日と同じ映画?」

「一年上映してないだろ」

「じゃあ別の」

「ああ」

「端の席?」

「絶対」

「キャラメルポップコーン」

「甘い」

「半分食べたくせに」

「二割」

「嘘」

「本当」

 僕は。

 笑った。

 でも。

 涙も。

 出た。

 来年。

 湊と映画。

 その未来。

 なくなるかもしれない。

 湊が。

 いないかもしれない。

 僕が。

 いないかもしれない。

 それでも。

「約束」

 僕が言う。

「ああ」

「忘れない」

 湊。

 少しだけ。

 顔を歪める。

「忘れても」

 そう言った。

 僕の胸。

 痛む。

「また言う」

 湊は。

 続けた。

「来年、映画行くぞって」

「何回?」

「何回でも」

「嫌」

「何が」

「それ」

 僕は。

 涙を拭く。

「忘れる前提やめて」

 湊が。

 少し驚く。

「僕」

 ちゃんと。

 言う。

「忘れないつもりだから」

「ああ」

「もし忘れても」

 一度。

 息を吸う。

「その時の僕が考える」

 今。

 未来を。

 先回りして消さない。

「今は」

 湊を見る。

「覚えてる僕でいたい」

 湊が。

 小さく。

 頷いた。

     *

 帰る頃。

 空は。

 夕焼けだった。

 僕たちは。

 駅へ向かう。

「ねえ」

「何」

「手」

「何」

「つないでいい?」

 湊が。

 僕を見る。

「何で聞く」

「一応」

「前は勝手だった」

「過去禁止」

「もういいだろ」

「じゃあ勝手にする」

 右手。

 取る。

 湊の手。

 少し冷たい。

 でも。

 しっかり。

 握り返してくる。

「ねえ」

「何」

「これも未来?」

「何が」

「手つないで帰るの」

「今だろ」

「そっか」

 今。

 その言葉。

 すごく。

 好きだと思った。

 未来は。

 まだない。

 過去は。

 戻らない。

 あるのは。

 今。

 湊の手。

「律」

「何」

「明日」

 心臓。

 少し。

 跳ねる。

「一緒に昼食う?」

 僕は笑う。

「食べる」

「パン?」

「クリームパン」

「また?」

「好きだから」

 湊が。

 一瞬。

 僕を見る。

「何」

「いや」

「好きって言ったから?」

「パンだろ」

「そう」

 僕は笑った。

 好き。

 もう。

 その言葉自体は。

 怖くない。

 怖いのは。

 その先。

 でも。

 その先へ。

 行かなければ。

 何も始まらない。

     *

 家。

 夜。

 僕は。

 母さんのところへ行った。

「母さん」

「何」

「兄ちゃんの写真」

 母さんが。

 少し身構える。

「もう一回見たい」

「大丈夫?」

「うん」

 アルバム。

 開く。

 蒼。

 笑っている。

 まだ。

 全部は思い出せない。

 でも。

 前より。

 知らない人ではない。

「この時」

 写真を指す。

「何してた?」

「海」

「僕、何歳?」

「八歳」

「兄ちゃんは十三」

「そう」

「楽しかった?」

 母さんが笑う。

「あなたがずっと砂に埋めてた」

「誰を」

「蒼を」

「僕が?」

「首だけ出して」

「ひど」

「本人も笑ってた」

 写真。

 よく見る。

 確かに。

 蒼の服。

 砂だらけ。

 頭の中。

 少し。

 声。

『律! 足まで埋めんな!』

 僕。

『動くから!』

『普通動くだろ!』

 笑い。

「……思い出した」

 母さん。

 顔を上げる。

「少し」

「どんな」

「兄ちゃん」

 僕も。

 笑う。

「怒ってた」

「いつも律には怒ってたわよ」

「大好きだったんでしょ」

「それとこれとは別」

 母さん。

 笑う。

 僕も。

 写真を見る。

「母さん」

「何」

「兄ちゃんが」

 一度。

 言葉を選ぶ。

「生きてたら」

「うん」

「今、二十二?」

「そうね」

「何してたかな」

 母さんの目が。

 少し潤む。

「さあ」

「大学?」

「どうかな」

「働いてた?」

「蒼、勉強嫌いだったからね」

「そうなの」

「あなたと違って」

「僕も好きじゃない」

「成績はいいでしょ」

 僕たちは。

 存在しなかった未来の話をした。

 兄ちゃんが。

 生きていたら。

 今。

 何をしていたか。

 それは。

 叶わない未来。

 でも。

 以前みたいに。

 苦しいだけじゃなかった。

 兄ちゃんが。

 いないことを。

 ちゃんと知ったうえで。

 話せた。

     *

 部屋。

 現代文ノート。

 開く。

『忘れたのは、嫌いだったからじゃない。』

『大事だったからかもしれない。?』

 疑問符。

 僕は。

 そこを。

 二本線で消した。

 書き直す。

『大事だった。』

 そして。

 その下。

『好きになれば、失うかもしれない。』

 書く。

 少し。

 手が止まる。

 続ける。

『でも、好きにならなくても、失う時は失う。』

 もう一行。

『忘れても、失わなかったことにはならない。』

 そして。

 最後。

『だから僕は、忘れる前に手放すのをやめる。』

 スマホ。

 震える。

 湊。

『明日、クリームパン買っとく』

 僕。

『僕が買う』

 湊。

『財布忘れるだろ』

 僕。

『忘れない』

 湊。

『信用ない』

 僕は笑う。

 そして。

 一度。

 画面を閉じかけて。

 もう一度開いた。

『湊』

 送る。

『何』

 指。

 震える。

 でも。

 今日。

 言う。

『明日、聞きたいことある』

 既読。

『何』

『今は言わない』

『怖い』

『湊でも怖いんだ』

『お前の質問は大体ろくでもない』

『明日のは大事』

 少し。

 間。

『わかった』

 僕は。

 画面を見る。

『絶対学校来て』

 送る。

 すぐ。

『行く』

『来年も』

 少し。

 意地悪。

 返事。

 来る。

『行く』

『卒業しても?』

 既読。

 長い。

 一分。

 そして。

『お前が嫌じゃなければ』

 胸。

 熱い。

 僕は。

 返信する。

『嫌じゃない』

 さらに。

『だから明日』

『うん』

 僕は。

 打つ。

 削除。

 また。

 打つ。

 最後には。

『ちゃんと聞くから』

 送った。

 湊から。

『わかった』

 それだけ。

 僕は。

 スマホを置く。

 明日。

 僕は。

 湊に。

 好きと言ってもらう。

 聞く。

 逃げない。

 その翌朝。

 どうなるかは。

 わからない。

 また。

 忘れるかもしれない。

 でも。

 忘れるかもしれないから。

 今日を。

 なかったことにはしない。

 好きになれば。

 失うかもしれない。

 それでも。

 好きになったことまで。

 失う前から。

 捨てたくなかった。