告白されたら、君を忘れる

 母さんは、僕の向かいに座ったまま、しばらく何も言わなかった。

 朝。

 七時十二分。

 トーストは冷めている。

 湯気の消えたコーヒー。

 テーブルの真ん中。

 開いたままのアルバム。

 写真の中では。

 小学生の僕と。

 兄が。

 肩を並べて笑っている。

 僕は。

 その少年を知らない。

 兄だとはわかる。

 名前も。

 年齢も。

 死んだことも。

 でも。

 顔を見ても。

 何も浮かばない。

「律」

 母さんが。

 ようやく声を出した。

「本当に?」

「何が」

「覚えてないの?」

 僕は。

 写真を見る。

「全部じゃない」

「じゃあ何を」

「兄ちゃんがいたことは知ってる」

「うん」

「僕より五つ上」

「うん」

「事故で死んだ」

 母さんの顔が少し曇る。

「雨の日」

「……うん」

「でも」

 指で。

 写真の中の兄を指す。

「こんな顔だったって」

 言葉が止まる。

「覚えてない」

 母さんは。

 目を伏せた。

「声も」

「……」

「どんな話し方だったかも」

「……」

「僕のこと何て呼んでた?」

 母さんの唇が震えた。

「律」

「そのまま?」

「うん」

「本当に?」

「本当」

「兄ちゃんと何して遊んだ?」

「律」

「好きな食べ物は?」

「もういい」

「よくない」

 思ったより。

 強い声が出た。

「僕の兄ちゃんなんだろ」

「そうよ」

「だったら僕が知ってていいだろ」

「知ってた」

 母さんも。

 声を強くした。

「あなたは知ってたの」

「だったら何で」

「私が知りたいわよ!」

 テーブルの上。

 母さんの手が震えている。

 初めて。

 見た。

 母さんが。

 こんなふうに。

 怒るところ。

「あなた」

 一度。

 深く息を吸う。

「事故のあとから」

「うん」

「お兄ちゃんの話をしなくなった」

 胸が。

 ざわつく。

「最初は」

 母さんは続ける。

「ショックだからだと思ってた」

「……」

「名前を聞くだけで顔色悪くなるし」

「僕が?」

「写真も見なくなった」

「……」

「部屋にあったものも」

 声が小さくなる。

「全部、私に片づけてって言った」

 心臓が。

 強く鳴った。

 消して。

 片づけて。

 見えなくして。

 湊の時と。

 同じ。

「いつ?」

「事故の少しあと」

「僕、九歳?」

「そう」

「そんな子どもが?」

「泣いて」

 母さんが。

 目を閉じる。

「全部なくしてって」

 頭の奥で。

 何かが。

 動く。

 雨。

 赤い傘。

 玄関。

 誰かの靴。

 母さんの声。

 僕の声。

『いらない』

 何が。

『全部いらない』

 誰が。

『見たくない』

 頭が痛む。

「っ」

「律?」

 額を押さえる。

「大丈夫」

「大丈夫じゃないでしょ」

「平気」

「今日は学校休みなさい」

「嫌」

「病院行くわよ」

「病院」

「前にも」

 母さんが言いかけて。

 止まった。

「前にも?」

「……」

「何」

「一度」

 母さんが。

 僕を見る。

「記憶のことで病院に行ったことがある」

 身体が固まる。

「湊と?」

「久世くん?」

「うん」

「違う」

「じゃあ」

 母さんの顔。

 重い。

「お兄ちゃんが亡くなったあと」

 僕は。

 息を呑んだ。

     *

 九歳。

 兄が死んだ。

 そのあと。

 僕は。

 兄のことを思い出せなくなった。

 完全にではない。

 最初は。

 部分的に。

 母さんの話では。

 事故の翌月。

 僕は突然。

「兄ちゃんの部屋ってどこだっけ」

 と聞いたらしい。

 家にある。

 隣の部屋。

 何年も使っていたのに。

 そして。

 数日後。

 兄の写真を見て。

「この人誰」

 と言った。

「……僕が?」

「うん」

「本当に?」

「本当」

 母さんの目が。

 赤くなる。

「その時」

「うん」

「私は」

 声が震える。

「あなたまでどうにかなったのかと思った」

 病院。

 検査。

 脳。

 異常なし。

 心理的なものだろうと。

 そう言われた。

 強いショックから。

 記憶を思い出せなくなることがある。

 時間とともに戻るかもしれない。

 無理に思い出させないほうがいい。

 当時は。

 そう説明された。

「戻らなかった?」

 僕が聞く。

 母さんは。

 小さく首を振った。

「少しは」

「何を」

「お兄ちゃんがいたこと」

 僕は。

 知っている。

「事故で亡くなったこと」

 それも。

「でも」

 母さんは写真を見る。

「一緒に過ごしたことは」

 胸が。

 冷たくなる。

「ほとんど」

 僕は。

 椅子から立てなくなった。

「じゃあ」

 声がかすれる。

「僕が湊を忘れる前から」

「湊くんのことも忘れたの?」

 母さんが。

 初めて気づいた顔をした。

「三回」

「……え?」

「僕」

 言葉にする。

「湊のこと」

 一度。

「三回忘れてる」

 母さんの顔から。

 血の気が引いた。

「どういうこと」

「好きって言われた翌朝」

 母さんは。

 何も言わない。

「毎回」

「律」

「今回で三回目」

「そんな」

「病院も行った」

「いつ」

「一回目のあと」

「誰と」

「湊」

「どうして私に」

「たぶん」

 僕は。

 答えを知っていた。

「言わないでって頼んだんだと思う」

 母さんの目から。

 涙が落ちた。

 初めて。

 僕は。

 自分がどれだけ残酷なことをしているのか。

 少しだけ。

 わかった気がした。

 僕が忘れる。

 僕は楽になる。

 何も覚えていないから。

 でも。

 周りは。

 覚えている。

 兄のことを。

 湊のことを。

 僕が忘れたことまで。

「ごめん」

「謝らないで」

「でも」

「あなたが悪いんじゃない」

 同じ。

 湊と。

 同じことを言う。

「それ」

「何」

「みんな言う」

「律」

「僕が悪くないって」

 笑おうとして。

 できなかった。

「でも」

 声が震える。

「僕が忘れるたび」

 母さん。

 湊。

 誰かが傷つく。

「残されるほうは」

 言葉が。

 出ない。

 母さんが。

 僕の手を握った。

「今日は病院行こう」

「……うん」

 初めて。

 抵抗しなかった。

     *

 学校へ連絡した。

 休む。

 その前に。

 湊へ。

『今日休む』

 送る。

 既読。

 すぐ。

『どうした』

『母さんと病院』

 電話。

 早い。

「もしもし」

『何があった』

「朝」

 声。

 思ったより。

 落ち着いている。

「昔のアルバム見た」

『うん』

「兄ちゃん」

 電話の向こう。

 静かになる。

「僕」

 一度。

 息を吸う。

「兄ちゃんの顔、覚えてなかった」

 長い。

 沈黙。

『……そうか』

「湊」

『うん』

「知ってた?」

『何を』

「僕が兄ちゃんの記憶なくしてること」

 答えない。

「知ってたんだ」

『全部じゃない』

「どこまで」

『お前が』

 湊の声。

 慎重。

『兄貴の顔を思い出せないって言ってたことは知ってた』

「いつ聞いた?」

『雨の日』

 胸が。

 強く鳴る。

「僕が泣いた日」

『ああ』

「やっぱり」

『律』

「今日」

 僕は言う。

「病院行ってくる」

『うん』

「終わったら」

 迷う。

「会える?」

 返事。

 すぐ。

『会う』

「ありがとう」

『何時でもいい』

「湊」

『何』

「今日」

 少し。

 怖い。

「僕のこと」

 何を言おう。

 好きって。

 言ってほしい?

 いや。

「忘れないで」

 口から。

 別の言葉が出た。

『何言ってんだ』

「僕が」

 喉が震える。

「何忘れても」

 電話の向こう。

 湊が息を飲む。

「湊は覚えてて」

 あの日。

 二回目の僕が。

 言った言葉。

 同じ。

『……覚えてるよ』

 湊の声。

「うん」

『全部』

 胸が。

 熱くなる。

『だから』

「何」

『お前は病院行ってこい』

 少し。

 笑った。

「わかった」

     *

 病院。

 検査。

 問診。

 長かった。

 MRI。

 神経学的な検査。

 血液。

 そして。

 医師。

 五十代くらい。

 白衣。

「現時点で」

 僕と母さんの前。

「脳の器質的な異常は確認できません」

 以前と。

 同じ。

 たぶん。

「じゃあ」

 僕が聞く。

「何で忘れるんですか」

 医師は。

 少し考えた。

「今日の段階で」

 慎重に。

「断定はできません」

「はい」

「ただ」

 カルテを見る。

「幼少期にも、強い喪失体験に関連して、特定人物の記憶が想起できなくなった時期がある」

「兄です」

「そうですね」

「今回も」

「似たパターンがある可能性はあります」

「告白された翌日に」

 僕は言った。

「同じ人を三回忘れてます」

 医師の眉が。

 少し動く。

「相手は同じ?」

「はい」

「毎回、告白だけ?」

「たぶん」

「告白されたあとに」

 医師が聞く。

「強い不安は?」

「不安?」

「例えば」

 ゆっくり。

「その人を失うかもしれない、とか」

 胸が。

 鳴った。

 兄。

 湊。

「……わかりません」

「当時のことを覚えていない?」

「はい」

「でしたら」

 医師は。

 僕を見る。

「告白という出来事そのものより、その時にどんな感情が生じたかを見たほうがいいかもしれません」

「感情」

「記憶は」

 医師が続ける。

「単純な録画ではありません」

 僕は黙って聞く。

「感情と強く結びついています」

「じゃあ」

「ただし」

 先に止められる。

「これは今日ここで診断できる話ではありません」

「はい」

「専門的な心理評価も含めて、時間をかけて見ていく必要があります」

 僕は。

 頷いた。

「一つ」

 医師が聞く。

「忘れてしまう相手は」

「はい」

「あなたにとって、どういう存在ですか」

 すぐ。

 答えが出た。

「大事な人です」

 言ってから。

 気づく。

 兄も。

 湊も。

「すごく」

 僕は続けた。

「大事な人」

 医師は。

 何も言わず。

 頷いた。

     *

 病院を出た。

 午後三時。

 母さんは。

 仕事へ連絡するため。

 少し離れた場所にいる。

 僕はスマホ。

 湊。

『終わった』

『どこ』

 病院名。

『行く』

『学校は』

『終わった』

 待つ。

 三十分。

 病院前のベンチ。

 湊が。

 走ってくる。

 制服。

 鞄。

 息を切らして。

「走らなくてよかったのに」

「黙れ」

「こんにちは」

 母さんが。

 湊を見る。

「久世くん?」

「はい」

 緊張。

 珍しい。

「いつも律が」

 母さん。

 言葉が止まる。

 いつも?

 今まで。

 何を。

「ありがとうございます」

 母さんが頭を下げた。

 湊が。

 慌てる。

「いや」

「本当に」

「やめてください」

 その顔。

 困っている。

 僕は。

 見ていられなかった。

「母さん」

「何」

「僕、湊と帰る」

「大丈夫?」

「うん」

「久世くん」

「はい」

「無理させないでね」

「わかりました」

「僕、子どもじゃないんだけど」

 二人とも。

 無視。

「じゃあ」

 母さんが。

 僕を見る。

「夜、話そう」

「うん」

 歩いていく。

 僕と湊。

 二人になる。

「何て?」

 すぐ。

「脳は異常なし」

「うん」

「でも」

「うん」

「兄ちゃんの時と」

 言葉を探す。

「似てるかもしれないって」

 湊は。

 黙って聞く。

「告白そのものじゃなくて」

「うん」

「その時の感情」

 僕は。

 湊を見る。

「失うのが怖いとか」

 彼の顔が。

 変わった。

「湊」

「何」

「何か知ってる?」

「……」

「右手」

 親指。

 握っている。

「何」

「雨の日」

 湊が言った。

「お前」

 声が。

 低い。

「同じこと言った」

「何て」

「好きになるのが怖いって」

 胸が。

 大きく鳴った。

「僕が?」

「ああ」

「湊を?」

「俺じゃない」

「じゃあ」

「人を」

 湊は。

 足を止める。

「誰かを大事にするのが怖いって」

 頭。

 ずきん。

「何で」

「兄貴の話をしたあと」

 雨。

 駅。

 声。

 涙。

 僕。

『好きになったら』

 何か。

『いなくなる』

 声。

『大事にしたら』

 雨音。

『いなくなった時』

 頭が。

 痛い。

「律」

 湊が腕を掴む。

「無理するな」

「今」

「何」

「僕」

 息を整える。

「何か」

「思い出した?」

「言葉だけ」

「何て」

「好きになったら」

 喉。

 震える。

「いなくなるって」

 湊の目が。

 揺れた。

「言った?」

「……ああ」

「僕が?」

「ああ」

「それで」

 僕は。

 湊を見る。

「湊は何て言った?」

 長い沈黙。

「俺は」

 湊。

 右手。

 親指。

 握る。

「いなくならないって」

 胸の奥。

 痛い。

「そう言った」

「……」

「でも」

 声が。

 少し苦い。

「お前は信じなかった」

     *

 僕たちは。

 喫茶アオへ行った。

 今日は。

 プリンを頼まなかった。

 僕はコーヒー。

 砂糖二本。

 湊はブラック。

「雨の日」

 僕が言う。

「ここ?」

「違う」

「駅?」

「ああ」

「何があったの」

「律」

「今日なら」

 僕は。

 逃げなかった。

「聞ける」

「でも」

「病院で言われた」

「何を」

「無理に思い出すんじゃなくて」

 少し嘘。

 正確には。

 もっと慎重にと言われた。

「何が起きたか整理するのは大事だって」

 湊は。

 僕を見る。

「本当に聞きたい?」

「うん」

「後悔しても」

「うん」

「俺は知らないぞ」

「それでいい」

 長い。

 沈黙。

 湊が。

 コーヒーを一口。

「去年の九月」

「うん」

「雨の日」

 ゆっくり。

 始める。

「駅で」

     *

 たぶん。

 雨。

 強い。

 僕は。

 傘を持っていなかった。

 湊。

 黒い傘。

『入れ』

『いい』

『濡れる』

『もう濡れてる』

『だから』

『いいって』

 僕は。

 機嫌が悪い。

 湊は。

 黙って。

 僕の横にいる。

『何』

『別に』

『帰れば』

『同じ方向』

『今日は一人で帰りたい』

『じゃあ駅まで』

『何で』

『心配だから』

『何が』

 そこで。

 僕が怒る。

『僕のこと何も知らないくせに』

 湊が。

 止まる。

『知らないよ』

『じゃあ』

『だから知りたい』

 雨。

 音。

『言いたくない』

『なら言わなくていい』

『でも知りたいんでしょ』

『知りたいけど』

 湊。

『お前が嫌なら聞かない』

 僕。

 泣く。

 突然。

 たぶん。

 それまで。

 我慢していた。

『兄ちゃん』

 初めて。

 湊に。

 話す。

『死んだ』

 湊は。

 何も言わない。

『僕のせいで』

『違う』

『何も知らないのに言うな』

『……』

『兄ちゃん』

 声。

 震える。

『僕を迎えに来て』

 雨。

『事故にあった』

 胸。

 痛い。

『僕が傘忘れたから』

『律』

『僕が電話したから』

 雨の中。

 兄。

 自転車?

 いや。

 歩道。

 交差点。

 車。

『僕が』

 泣く。

『来てって言ったから』

『それはお前のせいじゃない』

『僕が言わなかったら死ななかった!』

 湊。

 僕の肩を掴む。

『律』

『触らないで』

『聞け』

『嫌』

『お前のせいじゃない』

『嫌だ!』

 頭。

 痛い。

 でも。

 映像。

 少し。

 赤い傘。

 兄。

 僕に。

 差し出す。

『風邪ひくぞ』

 笑う。

 顔。

 見えそう。

「っ」

     *

「律」

 湊の声。

 喫茶店。

 戻る。

 僕は。

 両手で頭を押さえている。

「もうやめる」

「待って」

「顔色悪い」

「続き」

「無理」

「お願い」

「律」

「お願いだから」

 僕は。

 湊の袖を掴む。

「今」

 声が震える。

「思い出せそうだった」

 湊が。

 黙る。

「兄ちゃんの顔」

「……」

「もう少し」

「思い出すために自分壊すな」

「でも」

「今日じゃなくていい」

 強い。

 声。

「逃げるのと、急ぐのは違う」

 僕は。

 動けなくなった。

 その言葉。

 正しい。

 たぶん。

「……わかった」

 袖を離す。

「ごめん」

「謝るな」

「そればっか」

「お前が謝りすぎ」

 少し。

 笑う。

 呼吸を整える。

「じゃあ」

 僕は聞く。

「雨の日」

「うん」

「最後に一個」

「何」

「僕が」

 一度。

 言葉を選ぶ。

「人を好きになるのが怖いって言ったの」

「ああ」

「兄ちゃんの話のあと?」

「ああ」

「何て」

 湊は。

 僕を見る。

「お前」

 ゆっくり。

「兄貴のこと忘れてる自分が怖いって言った」

 胸。

 止まりそうになる。

「その時もう?」

「ああ」

「顔?」

「顔も」

「……」

「声も」

 僕は。

 俯く。

「それで」

 湊が続ける。

「言った」

「何を」

「人って」

 一度。

 息を吸う。

「大事じゃなくなったら忘れるのかなって」

 喉が。

 痛い。

「僕が?」

「ああ」

「兄ちゃんを?」

「違うって俺は言った」

「……」

「お前は兄貴が大事だったから」

 湊の声。

 静か。

「思い出せなくなったんじゃないかって」

 僕は。

 顔を上げる。

「湊が?」

「ああ」

「そんなこと」

「根拠はなかった」

「でも」

「俺はそう思った」

 胸の奥。

 何か。

 つながる。

 兄。

 大事。

 失った。

 忘れた。

 湊。

 大事。

 失うかもしれない。

 忘れる。

「じゃあ」

 僕は。

 声を落とす。

「僕が忘れるのって」

 告白じゃない?

 好きと言われたからじゃない?

「相手を」

 言葉が。

 怖い。

「本気で大事だって認めた時?」

 湊が。

 黙る。

「好きって言われると」

 僕は続ける。

「もう友達じゃなくなる」

「……」

「失った時に」

 胸を押さえる。

「もっと苦しくなる」

「律」

「だから」

 息を吸う。

「忘れる?」

 湊は。

 答えられない。

 答えなんて。

 誰にもわからない。

 でも。

 三回。

 湊から好きと言われた。

 その瞬間。

 僕は。

 湊が。

 失いたくない人だと。

 認めたのかもしれない。

 だから。

 次の日。

 切り離した。

「もしそうなら」

 僕は。

 湊を見る。

「告白されるのが怖いんじゃない」

「……」

「好きになるのが怖いんだ」

 自分で。

 言って。

 胸が。

 ひどく痛んだ。

     *

 家。

 夜。

 母さんと話した。

 兄のこと。

 事故。

 僕が電話したこと。

「本当?」

 僕が聞く。

「僕が迎えに来てって」

 母さんは。

 しばらく黙った。

「言った」

「それで兄ちゃんが」

「迎えに行った」

「事故」

「でも」

 母さんが。

 強く。

 僕を見る。

「あなたのせいじゃない」

「でも僕が呼ばなかったら」

「それは結果論」

「……」

「あの日」

 母さんの声が震える。

「雨が降ってた」

「うん」

「お兄ちゃんは」

 少し。

 笑う。

「あなたが傘を忘れたって聞いて」

 涙。

「しょうがないなって笑ってた」

 胸が。

 締めつけられる。

「怒ってなかった?」

「全然」

「嫌じゃなかった?」

「全然」

「本当に?」

「あなたのこと」

 母さん。

 泣きながら。

「大好きだったから」

 頭。

 痛い。

 でも。

 逃げない。

「兄ちゃん」

 僕は。

 聞く。

「名前」

 母さん。

 驚く。

「覚えてない?」

 僕は。

 首を横に振る。

 知らない。

 本当に。

「蒼」

 母さんが言う。

「朝倉蒼」

 あお。

 その音。

 何か。

 胸の奥に。

 落ちる。

「蒼」

 声にする。

 頭の中。

 雨。

 少年。

『律』

 赤い傘。

『遅い』

『ごめんごめん』

『びしょ濡れじゃん』

『お前のせいだろ』

『ごめん』

『冗談』

 顔。

 笑う。

 少し。

 見えた。

 写真の。

 少年。

「兄ちゃん」

 僕は。

 泣いていた。

 母さんが。

 僕の肩に手を置く。

「思い出した?」

「少し」

 涙。

 止まらない。

「声」

「うん」

「ちょっと」

 嬉しい。

 でも。

 苦しい。

「母さん」

「何」

「僕」

 泣きながら。

「兄ちゃんのこと忘れたくなかった」

「知ってる」

「大事じゃなくなったわけじゃない」

「知ってるよ」

「ずっと」

 息が。

 うまくできない。

「大事だった」

「うん」

 母さん。

 僕を抱く。

 久しぶり。

 いや。

 いつ以来か。

 わからない。

「ごめん」

「謝らない」

「でも」

「蒼も」

 母さんが。

 僕の背中を撫でる。

「絶対、怒ってない」

 僕は。

 泣いた。

 九歳の時。

 泣けなかった分まで。

     *

 夜十一時。

 部屋。

 湊。

 メッセージ。

『大丈夫?』

『うん』

『本当』

『今日は右手見えないよ』

『電話する?』

『して』

 すぐ。

 鳴る。

「もしもし」

『律』

「うん」

『泣いた?』

「何でわかる」

『声』

「……泣いた」

『そっか』

「兄ちゃん」

『うん』

「名前、蒼」

『知ってる』

 その言葉。

 今日は。

 嫌じゃない。

「湊」

『何』

「少し思い出した」

『何を』

「声」

『……』

「笑ってた」

『うん』

「僕」

 胸。

 痛い。

「兄ちゃんのこと」

『うん』

「大好きだった」

 言えた。

 好き。

 大事。

 その言葉。

 怖い。

 でも。

 言えた。

『そっか』

「うん」

『よかったな』

「うん」

 しばらく。

 二人とも。

 何も言わない。

「ねえ」

『何』

「今日」

 一度。

 息を吸う。

「病院で」

『うん』

「告白じゃなくて」

『うん』

「失うのが怖い気持ちが関係してるかもしれないって」

『……』

「僕も」

 続ける。

「そうかもしれないって思った」

『うん』

「兄ちゃんを失ったから」

 声が。

 少し震える。

「誰かを本気で大事にするのが怖くなった」

『律』

「だから」

 言いたい。

 今日。

 今。

 逃げない。

「湊のこと」

 電話の向こう。

 沈黙。

「好きになった時」

『……』

「怖かったのかもしれない」

 認める。

「失いたくないって」

 声が。

 震える。

「思ったから」

 湊は。

 何も言わない。

「でも」

『うん』

「今は」

 僕は。

 机の上。

 現代文ノートを見る。

『好きになった。』

 自分の字。

「忘れるほうが怖い」

 電話の向こう。

 息。

「湊を」

 喉。

 痛い。

「忘れたくない」

『……うん』

「だから」

 言う。

「もう逃げたくない」

 長い。

 沈黙。

 そして。

『律』

「何」

『俺も』

 胸が跳ねる。

「待って」

 反射。

 止める。

 湊も。

 止まる。

『……ごめん』

「違う」

 慌てる。

「言わないでって意味じゃ」

 でも。

 意味は同じ。

 僕は。

 怖い。

 まだ。

 湊から。

 その言葉を聞くのが。

「ごめん」

『大丈夫』

「大丈夫じゃない」

『大丈夫』

「嘘」

 右手。

 見えない。

「湊」

『何』

「僕」

 一度。

 深く息を吸う。

「もう少しだけ」

『うん』

「待って」

 湊は。

 すぐに。

『わかった』

 と言った。

「怒らない?」

『怒らない』

「悲しい?」

 沈黙。

「湊」

『少し』

 正直。

 それが。

 嬉しかった。

「ごめん」

『でも』

「何」

『待つ』

 声。

 静か。

『お前が自分で聞きたいって思うまで』

 胸。

 熱い。

「ありがとう」

『うん』

「おやすみ」

『おやすみ、律』

 電話。

 切れる。

 僕は。

 スマホを胸に置く。

 好きと言われるのが。

 まだ怖い。

 でも。

 以前とは違う。

 聞きたくないんじゃない。

 いつか。

 ちゃんと。

 聞きたい。

     *

 翌朝。

 学校。

 教室。

 湊。

「おはよう、湊」

 僕が言う。

 湊。

 笑う。

「おはよう」

 覚えている。

 今日も。

 ちゃんと。

「ねえ」

「何」

「兄ちゃんの名前」

 湊の顔が。

 少し変わる。

「蒼」

「うん」

「覚えてる」

「そっか」

「声も少し」

「よかった」

 僕は。

 自分の席へ行こうとして。

 止まる。

「湊」

「何」

「僕」

 少し笑う。

「忘れたの、湊だけじゃなかった」

 湊は。

 何も言わない。

「だから」

 僕は続ける。

「たぶん」

 胸。

 押さえる。

「湊が悪かったんじゃない」

「ああ」

「告白も」

「うん」

「悪くない」

 湊が。

 僕を見る。

「律」

「何」

「それ」

 少し。

 笑った。

「やっとわかった?」

「うるさい」

「ずっと言ってた」

「知ってる」

「じゃあ」

 そこで。

 湊が止まる。

 言わない。

 僕も。

 わかった。

 好き。

 その先。

「まだ」

 僕から言う。

「もう少し」

 湊は。

 頷いた。

「わかってる」

 僕は。

 自分の席へ戻る。

 ノートを開く。

 右上。

 四角。

 一つ。

 その横。

 書く。

『忘れたのは、嫌いだったからじゃない。』

 さらに。

『大事だったからかもしれない。』

 少し考える。

 最後。

『だったら今度は、忘れないくらい大事にする。』

 書いて。

 ペンを置く。

 その時。

 ふと。

 思った。

 兄を忘れたのは。

 兄が死んだあと。

 湊を忘れたのは。

 湊がまだ生きているのに。

 失っていないのに。

 どうして。

 僕は。

 毎回。

 失う前に。

 湊を忘れた。

 何か。

 まだ。

 違う。

 僕は。

 ノートの文字を見る。

『大事だったからかもしれない。』

 その下へ。

 小さく。

 疑問符を書いた。

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