母さんは、僕の向かいに座ったまま、しばらく何も言わなかった。
朝。
七時十二分。
トーストは冷めている。
湯気の消えたコーヒー。
テーブルの真ん中。
開いたままのアルバム。
写真の中では。
小学生の僕と。
兄が。
肩を並べて笑っている。
僕は。
その少年を知らない。
兄だとはわかる。
名前も。
年齢も。
死んだことも。
でも。
顔を見ても。
何も浮かばない。
「律」
母さんが。
ようやく声を出した。
「本当に?」
「何が」
「覚えてないの?」
僕は。
写真を見る。
「全部じゃない」
「じゃあ何を」
「兄ちゃんがいたことは知ってる」
「うん」
「僕より五つ上」
「うん」
「事故で死んだ」
母さんの顔が少し曇る。
「雨の日」
「……うん」
「でも」
指で。
写真の中の兄を指す。
「こんな顔だったって」
言葉が止まる。
「覚えてない」
母さんは。
目を伏せた。
「声も」
「……」
「どんな話し方だったかも」
「……」
「僕のこと何て呼んでた?」
母さんの唇が震えた。
「律」
「そのまま?」
「うん」
「本当に?」
「本当」
「兄ちゃんと何して遊んだ?」
「律」
「好きな食べ物は?」
「もういい」
「よくない」
思ったより。
強い声が出た。
「僕の兄ちゃんなんだろ」
「そうよ」
「だったら僕が知ってていいだろ」
「知ってた」
母さんも。
声を強くした。
「あなたは知ってたの」
「だったら何で」
「私が知りたいわよ!」
テーブルの上。
母さんの手が震えている。
初めて。
見た。
母さんが。
こんなふうに。
怒るところ。
「あなた」
一度。
深く息を吸う。
「事故のあとから」
「うん」
「お兄ちゃんの話をしなくなった」
胸が。
ざわつく。
「最初は」
母さんは続ける。
「ショックだからだと思ってた」
「……」
「名前を聞くだけで顔色悪くなるし」
「僕が?」
「写真も見なくなった」
「……」
「部屋にあったものも」
声が小さくなる。
「全部、私に片づけてって言った」
心臓が。
強く鳴った。
消して。
片づけて。
見えなくして。
湊の時と。
同じ。
「いつ?」
「事故の少しあと」
「僕、九歳?」
「そう」
「そんな子どもが?」
「泣いて」
母さんが。
目を閉じる。
「全部なくしてって」
頭の奥で。
何かが。
動く。
雨。
赤い傘。
玄関。
誰かの靴。
母さんの声。
僕の声。
『いらない』
何が。
『全部いらない』
誰が。
『見たくない』
頭が痛む。
「っ」
「律?」
額を押さえる。
「大丈夫」
「大丈夫じゃないでしょ」
「平気」
「今日は学校休みなさい」
「嫌」
「病院行くわよ」
「病院」
「前にも」
母さんが言いかけて。
止まった。
「前にも?」
「……」
「何」
「一度」
母さんが。
僕を見る。
「記憶のことで病院に行ったことがある」
身体が固まる。
「湊と?」
「久世くん?」
「うん」
「違う」
「じゃあ」
母さんの顔。
重い。
「お兄ちゃんが亡くなったあと」
僕は。
息を呑んだ。
*
九歳。
兄が死んだ。
そのあと。
僕は。
兄のことを思い出せなくなった。
完全にではない。
最初は。
部分的に。
母さんの話では。
事故の翌月。
僕は突然。
「兄ちゃんの部屋ってどこだっけ」
と聞いたらしい。
家にある。
隣の部屋。
何年も使っていたのに。
そして。
数日後。
兄の写真を見て。
「この人誰」
と言った。
「……僕が?」
「うん」
「本当に?」
「本当」
母さんの目が。
赤くなる。
「その時」
「うん」
「私は」
声が震える。
「あなたまでどうにかなったのかと思った」
病院。
検査。
脳。
異常なし。
心理的なものだろうと。
そう言われた。
強いショックから。
記憶を思い出せなくなることがある。
時間とともに戻るかもしれない。
無理に思い出させないほうがいい。
当時は。
そう説明された。
「戻らなかった?」
僕が聞く。
母さんは。
小さく首を振った。
「少しは」
「何を」
「お兄ちゃんがいたこと」
僕は。
知っている。
「事故で亡くなったこと」
それも。
「でも」
母さんは写真を見る。
「一緒に過ごしたことは」
胸が。
冷たくなる。
「ほとんど」
僕は。
椅子から立てなくなった。
「じゃあ」
声がかすれる。
「僕が湊を忘れる前から」
「湊くんのことも忘れたの?」
母さんが。
初めて気づいた顔をした。
「三回」
「……え?」
「僕」
言葉にする。
「湊のこと」
一度。
「三回忘れてる」
母さんの顔から。
血の気が引いた。
「どういうこと」
「好きって言われた翌朝」
母さんは。
何も言わない。
「毎回」
「律」
「今回で三回目」
「そんな」
「病院も行った」
「いつ」
「一回目のあと」
「誰と」
「湊」
「どうして私に」
「たぶん」
僕は。
答えを知っていた。
「言わないでって頼んだんだと思う」
母さんの目から。
涙が落ちた。
初めて。
僕は。
自分がどれだけ残酷なことをしているのか。
少しだけ。
わかった気がした。
僕が忘れる。
僕は楽になる。
何も覚えていないから。
でも。
周りは。
覚えている。
兄のことを。
湊のことを。
僕が忘れたことまで。
「ごめん」
「謝らないで」
「でも」
「あなたが悪いんじゃない」
同じ。
湊と。
同じことを言う。
「それ」
「何」
「みんな言う」
「律」
「僕が悪くないって」
笑おうとして。
できなかった。
「でも」
声が震える。
「僕が忘れるたび」
母さん。
湊。
誰かが傷つく。
「残されるほうは」
言葉が。
出ない。
母さんが。
僕の手を握った。
「今日は病院行こう」
「……うん」
初めて。
抵抗しなかった。
*
学校へ連絡した。
休む。
その前に。
湊へ。
『今日休む』
送る。
既読。
すぐ。
『どうした』
『母さんと病院』
電話。
早い。
「もしもし」
『何があった』
「朝」
声。
思ったより。
落ち着いている。
「昔のアルバム見た」
『うん』
「兄ちゃん」
電話の向こう。
静かになる。
「僕」
一度。
息を吸う。
「兄ちゃんの顔、覚えてなかった」
長い。
沈黙。
『……そうか』
「湊」
『うん』
「知ってた?」
『何を』
「僕が兄ちゃんの記憶なくしてること」
答えない。
「知ってたんだ」
『全部じゃない』
「どこまで」
『お前が』
湊の声。
慎重。
『兄貴の顔を思い出せないって言ってたことは知ってた』
「いつ聞いた?」
『雨の日』
胸が。
強く鳴る。
「僕が泣いた日」
『ああ』
「やっぱり」
『律』
「今日」
僕は言う。
「病院行ってくる」
『うん』
「終わったら」
迷う。
「会える?」
返事。
すぐ。
『会う』
「ありがとう」
『何時でもいい』
「湊」
『何』
「今日」
少し。
怖い。
「僕のこと」
何を言おう。
好きって。
言ってほしい?
いや。
「忘れないで」
口から。
別の言葉が出た。
『何言ってんだ』
「僕が」
喉が震える。
「何忘れても」
電話の向こう。
湊が息を飲む。
「湊は覚えてて」
あの日。
二回目の僕が。
言った言葉。
同じ。
『……覚えてるよ』
湊の声。
「うん」
『全部』
胸が。
熱くなる。
『だから』
「何」
『お前は病院行ってこい』
少し。
笑った。
「わかった」
*
病院。
検査。
問診。
長かった。
MRI。
神経学的な検査。
血液。
そして。
医師。
五十代くらい。
白衣。
「現時点で」
僕と母さんの前。
「脳の器質的な異常は確認できません」
以前と。
同じ。
たぶん。
「じゃあ」
僕が聞く。
「何で忘れるんですか」
医師は。
少し考えた。
「今日の段階で」
慎重に。
「断定はできません」
「はい」
「ただ」
カルテを見る。
「幼少期にも、強い喪失体験に関連して、特定人物の記憶が想起できなくなった時期がある」
「兄です」
「そうですね」
「今回も」
「似たパターンがある可能性はあります」
「告白された翌日に」
僕は言った。
「同じ人を三回忘れてます」
医師の眉が。
少し動く。
「相手は同じ?」
「はい」
「毎回、告白だけ?」
「たぶん」
「告白されたあとに」
医師が聞く。
「強い不安は?」
「不安?」
「例えば」
ゆっくり。
「その人を失うかもしれない、とか」
胸が。
鳴った。
兄。
湊。
「……わかりません」
「当時のことを覚えていない?」
「はい」
「でしたら」
医師は。
僕を見る。
「告白という出来事そのものより、その時にどんな感情が生じたかを見たほうがいいかもしれません」
「感情」
「記憶は」
医師が続ける。
「単純な録画ではありません」
僕は黙って聞く。
「感情と強く結びついています」
「じゃあ」
「ただし」
先に止められる。
「これは今日ここで診断できる話ではありません」
「はい」
「専門的な心理評価も含めて、時間をかけて見ていく必要があります」
僕は。
頷いた。
「一つ」
医師が聞く。
「忘れてしまう相手は」
「はい」
「あなたにとって、どういう存在ですか」
すぐ。
答えが出た。
「大事な人です」
言ってから。
気づく。
兄も。
湊も。
「すごく」
僕は続けた。
「大事な人」
医師は。
何も言わず。
頷いた。
*
病院を出た。
午後三時。
母さんは。
仕事へ連絡するため。
少し離れた場所にいる。
僕はスマホ。
湊。
『終わった』
『どこ』
病院名。
『行く』
『学校は』
『終わった』
待つ。
三十分。
病院前のベンチ。
湊が。
走ってくる。
制服。
鞄。
息を切らして。
「走らなくてよかったのに」
「黙れ」
「こんにちは」
母さんが。
湊を見る。
「久世くん?」
「はい」
緊張。
珍しい。
「いつも律が」
母さん。
言葉が止まる。
いつも?
今まで。
何を。
「ありがとうございます」
母さんが頭を下げた。
湊が。
慌てる。
「いや」
「本当に」
「やめてください」
その顔。
困っている。
僕は。
見ていられなかった。
「母さん」
「何」
「僕、湊と帰る」
「大丈夫?」
「うん」
「久世くん」
「はい」
「無理させないでね」
「わかりました」
「僕、子どもじゃないんだけど」
二人とも。
無視。
「じゃあ」
母さんが。
僕を見る。
「夜、話そう」
「うん」
歩いていく。
僕と湊。
二人になる。
「何て?」
すぐ。
「脳は異常なし」
「うん」
「でも」
「うん」
「兄ちゃんの時と」
言葉を探す。
「似てるかもしれないって」
湊は。
黙って聞く。
「告白そのものじゃなくて」
「うん」
「その時の感情」
僕は。
湊を見る。
「失うのが怖いとか」
彼の顔が。
変わった。
「湊」
「何」
「何か知ってる?」
「……」
「右手」
親指。
握っている。
「何」
「雨の日」
湊が言った。
「お前」
声が。
低い。
「同じこと言った」
「何て」
「好きになるのが怖いって」
胸が。
大きく鳴った。
「僕が?」
「ああ」
「湊を?」
「俺じゃない」
「じゃあ」
「人を」
湊は。
足を止める。
「誰かを大事にするのが怖いって」
頭。
ずきん。
「何で」
「兄貴の話をしたあと」
雨。
駅。
声。
涙。
僕。
『好きになったら』
何か。
『いなくなる』
声。
『大事にしたら』
雨音。
『いなくなった時』
頭が。
痛い。
「律」
湊が腕を掴む。
「無理するな」
「今」
「何」
「僕」
息を整える。
「何か」
「思い出した?」
「言葉だけ」
「何て」
「好きになったら」
喉。
震える。
「いなくなるって」
湊の目が。
揺れた。
「言った?」
「……ああ」
「僕が?」
「ああ」
「それで」
僕は。
湊を見る。
「湊は何て言った?」
長い沈黙。
「俺は」
湊。
右手。
親指。
握る。
「いなくならないって」
胸の奥。
痛い。
「そう言った」
「……」
「でも」
声が。
少し苦い。
「お前は信じなかった」
*
僕たちは。
喫茶アオへ行った。
今日は。
プリンを頼まなかった。
僕はコーヒー。
砂糖二本。
湊はブラック。
「雨の日」
僕が言う。
「ここ?」
「違う」
「駅?」
「ああ」
「何があったの」
「律」
「今日なら」
僕は。
逃げなかった。
「聞ける」
「でも」
「病院で言われた」
「何を」
「無理に思い出すんじゃなくて」
少し嘘。
正確には。
もっと慎重にと言われた。
「何が起きたか整理するのは大事だって」
湊は。
僕を見る。
「本当に聞きたい?」
「うん」
「後悔しても」
「うん」
「俺は知らないぞ」
「それでいい」
長い。
沈黙。
湊が。
コーヒーを一口。
「去年の九月」
「うん」
「雨の日」
ゆっくり。
始める。
「駅で」
*
たぶん。
雨。
強い。
僕は。
傘を持っていなかった。
湊。
黒い傘。
『入れ』
『いい』
『濡れる』
『もう濡れてる』
『だから』
『いいって』
僕は。
機嫌が悪い。
湊は。
黙って。
僕の横にいる。
『何』
『別に』
『帰れば』
『同じ方向』
『今日は一人で帰りたい』
『じゃあ駅まで』
『何で』
『心配だから』
『何が』
そこで。
僕が怒る。
『僕のこと何も知らないくせに』
湊が。
止まる。
『知らないよ』
『じゃあ』
『だから知りたい』
雨。
音。
『言いたくない』
『なら言わなくていい』
『でも知りたいんでしょ』
『知りたいけど』
湊。
『お前が嫌なら聞かない』
僕。
泣く。
突然。
たぶん。
それまで。
我慢していた。
『兄ちゃん』
初めて。
湊に。
話す。
『死んだ』
湊は。
何も言わない。
『僕のせいで』
『違う』
『何も知らないのに言うな』
『……』
『兄ちゃん』
声。
震える。
『僕を迎えに来て』
雨。
『事故にあった』
胸。
痛い。
『僕が傘忘れたから』
『律』
『僕が電話したから』
雨の中。
兄。
自転車?
いや。
歩道。
交差点。
車。
『僕が』
泣く。
『来てって言ったから』
『それはお前のせいじゃない』
『僕が言わなかったら死ななかった!』
湊。
僕の肩を掴む。
『律』
『触らないで』
『聞け』
『嫌』
『お前のせいじゃない』
『嫌だ!』
頭。
痛い。
でも。
映像。
少し。
赤い傘。
兄。
僕に。
差し出す。
『風邪ひくぞ』
笑う。
顔。
見えそう。
「っ」
*
「律」
湊の声。
喫茶店。
戻る。
僕は。
両手で頭を押さえている。
「もうやめる」
「待って」
「顔色悪い」
「続き」
「無理」
「お願い」
「律」
「お願いだから」
僕は。
湊の袖を掴む。
「今」
声が震える。
「思い出せそうだった」
湊が。
黙る。
「兄ちゃんの顔」
「……」
「もう少し」
「思い出すために自分壊すな」
「でも」
「今日じゃなくていい」
強い。
声。
「逃げるのと、急ぐのは違う」
僕は。
動けなくなった。
その言葉。
正しい。
たぶん。
「……わかった」
袖を離す。
「ごめん」
「謝るな」
「そればっか」
「お前が謝りすぎ」
少し。
笑う。
呼吸を整える。
「じゃあ」
僕は聞く。
「雨の日」
「うん」
「最後に一個」
「何」
「僕が」
一度。
言葉を選ぶ。
「人を好きになるのが怖いって言ったの」
「ああ」
「兄ちゃんの話のあと?」
「ああ」
「何て」
湊は。
僕を見る。
「お前」
ゆっくり。
「兄貴のこと忘れてる自分が怖いって言った」
胸。
止まりそうになる。
「その時もう?」
「ああ」
「顔?」
「顔も」
「……」
「声も」
僕は。
俯く。
「それで」
湊が続ける。
「言った」
「何を」
「人って」
一度。
息を吸う。
「大事じゃなくなったら忘れるのかなって」
喉が。
痛い。
「僕が?」
「ああ」
「兄ちゃんを?」
「違うって俺は言った」
「……」
「お前は兄貴が大事だったから」
湊の声。
静か。
「思い出せなくなったんじゃないかって」
僕は。
顔を上げる。
「湊が?」
「ああ」
「そんなこと」
「根拠はなかった」
「でも」
「俺はそう思った」
胸の奥。
何か。
つながる。
兄。
大事。
失った。
忘れた。
湊。
大事。
失うかもしれない。
忘れる。
「じゃあ」
僕は。
声を落とす。
「僕が忘れるのって」
告白じゃない?
好きと言われたからじゃない?
「相手を」
言葉が。
怖い。
「本気で大事だって認めた時?」
湊が。
黙る。
「好きって言われると」
僕は続ける。
「もう友達じゃなくなる」
「……」
「失った時に」
胸を押さえる。
「もっと苦しくなる」
「律」
「だから」
息を吸う。
「忘れる?」
湊は。
答えられない。
答えなんて。
誰にもわからない。
でも。
三回。
湊から好きと言われた。
その瞬間。
僕は。
湊が。
失いたくない人だと。
認めたのかもしれない。
だから。
次の日。
切り離した。
「もしそうなら」
僕は。
湊を見る。
「告白されるのが怖いんじゃない」
「……」
「好きになるのが怖いんだ」
自分で。
言って。
胸が。
ひどく痛んだ。
*
家。
夜。
母さんと話した。
兄のこと。
事故。
僕が電話したこと。
「本当?」
僕が聞く。
「僕が迎えに来てって」
母さんは。
しばらく黙った。
「言った」
「それで兄ちゃんが」
「迎えに行った」
「事故」
「でも」
母さんが。
強く。
僕を見る。
「あなたのせいじゃない」
「でも僕が呼ばなかったら」
「それは結果論」
「……」
「あの日」
母さんの声が震える。
「雨が降ってた」
「うん」
「お兄ちゃんは」
少し。
笑う。
「あなたが傘を忘れたって聞いて」
涙。
「しょうがないなって笑ってた」
胸が。
締めつけられる。
「怒ってなかった?」
「全然」
「嫌じゃなかった?」
「全然」
「本当に?」
「あなたのこと」
母さん。
泣きながら。
「大好きだったから」
頭。
痛い。
でも。
逃げない。
「兄ちゃん」
僕は。
聞く。
「名前」
母さん。
驚く。
「覚えてない?」
僕は。
首を横に振る。
知らない。
本当に。
「蒼」
母さんが言う。
「朝倉蒼」
あお。
その音。
何か。
胸の奥に。
落ちる。
「蒼」
声にする。
頭の中。
雨。
少年。
『律』
赤い傘。
『遅い』
『ごめんごめん』
『びしょ濡れじゃん』
『お前のせいだろ』
『ごめん』
『冗談』
顔。
笑う。
少し。
見えた。
写真の。
少年。
「兄ちゃん」
僕は。
泣いていた。
母さんが。
僕の肩に手を置く。
「思い出した?」
「少し」
涙。
止まらない。
「声」
「うん」
「ちょっと」
嬉しい。
でも。
苦しい。
「母さん」
「何」
「僕」
泣きながら。
「兄ちゃんのこと忘れたくなかった」
「知ってる」
「大事じゃなくなったわけじゃない」
「知ってるよ」
「ずっと」
息が。
うまくできない。
「大事だった」
「うん」
母さん。
僕を抱く。
久しぶり。
いや。
いつ以来か。
わからない。
「ごめん」
「謝らない」
「でも」
「蒼も」
母さんが。
僕の背中を撫でる。
「絶対、怒ってない」
僕は。
泣いた。
九歳の時。
泣けなかった分まで。
*
夜十一時。
部屋。
湊。
メッセージ。
『大丈夫?』
『うん』
『本当』
『今日は右手見えないよ』
『電話する?』
『して』
すぐ。
鳴る。
「もしもし」
『律』
「うん」
『泣いた?』
「何でわかる」
『声』
「……泣いた」
『そっか』
「兄ちゃん」
『うん』
「名前、蒼」
『知ってる』
その言葉。
今日は。
嫌じゃない。
「湊」
『何』
「少し思い出した」
『何を』
「声」
『……』
「笑ってた」
『うん』
「僕」
胸。
痛い。
「兄ちゃんのこと」
『うん』
「大好きだった」
言えた。
好き。
大事。
その言葉。
怖い。
でも。
言えた。
『そっか』
「うん」
『よかったな』
「うん」
しばらく。
二人とも。
何も言わない。
「ねえ」
『何』
「今日」
一度。
息を吸う。
「病院で」
『うん』
「告白じゃなくて」
『うん』
「失うのが怖い気持ちが関係してるかもしれないって」
『……』
「僕も」
続ける。
「そうかもしれないって思った」
『うん』
「兄ちゃんを失ったから」
声が。
少し震える。
「誰かを本気で大事にするのが怖くなった」
『律』
「だから」
言いたい。
今日。
今。
逃げない。
「湊のこと」
電話の向こう。
沈黙。
「好きになった時」
『……』
「怖かったのかもしれない」
認める。
「失いたくないって」
声が。
震える。
「思ったから」
湊は。
何も言わない。
「でも」
『うん』
「今は」
僕は。
机の上。
現代文ノートを見る。
『好きになった。』
自分の字。
「忘れるほうが怖い」
電話の向こう。
息。
「湊を」
喉。
痛い。
「忘れたくない」
『……うん』
「だから」
言う。
「もう逃げたくない」
長い。
沈黙。
そして。
『律』
「何」
『俺も』
胸が跳ねる。
「待って」
反射。
止める。
湊も。
止まる。
『……ごめん』
「違う」
慌てる。
「言わないでって意味じゃ」
でも。
意味は同じ。
僕は。
怖い。
まだ。
湊から。
その言葉を聞くのが。
「ごめん」
『大丈夫』
「大丈夫じゃない」
『大丈夫』
「嘘」
右手。
見えない。
「湊」
『何』
「僕」
一度。
深く息を吸う。
「もう少しだけ」
『うん』
「待って」
湊は。
すぐに。
『わかった』
と言った。
「怒らない?」
『怒らない』
「悲しい?」
沈黙。
「湊」
『少し』
正直。
それが。
嬉しかった。
「ごめん」
『でも』
「何」
『待つ』
声。
静か。
『お前が自分で聞きたいって思うまで』
胸。
熱い。
「ありがとう」
『うん』
「おやすみ」
『おやすみ、律』
電話。
切れる。
僕は。
スマホを胸に置く。
好きと言われるのが。
まだ怖い。
でも。
以前とは違う。
聞きたくないんじゃない。
いつか。
ちゃんと。
聞きたい。
*
翌朝。
学校。
教室。
湊。
「おはよう、湊」
僕が言う。
湊。
笑う。
「おはよう」
覚えている。
今日も。
ちゃんと。
「ねえ」
「何」
「兄ちゃんの名前」
湊の顔が。
少し変わる。
「蒼」
「うん」
「覚えてる」
「そっか」
「声も少し」
「よかった」
僕は。
自分の席へ行こうとして。
止まる。
「湊」
「何」
「僕」
少し笑う。
「忘れたの、湊だけじゃなかった」
湊は。
何も言わない。
「だから」
僕は続ける。
「たぶん」
胸。
押さえる。
「湊が悪かったんじゃない」
「ああ」
「告白も」
「うん」
「悪くない」
湊が。
僕を見る。
「律」
「何」
「それ」
少し。
笑った。
「やっとわかった?」
「うるさい」
「ずっと言ってた」
「知ってる」
「じゃあ」
そこで。
湊が止まる。
言わない。
僕も。
わかった。
好き。
その先。
「まだ」
僕から言う。
「もう少し」
湊は。
頷いた。
「わかってる」
僕は。
自分の席へ戻る。
ノートを開く。
右上。
四角。
一つ。
その横。
書く。
『忘れたのは、嫌いだったからじゃない。』
さらに。
『大事だったからかもしれない。』
少し考える。
最後。
『だったら今度は、忘れないくらい大事にする。』
書いて。
ペンを置く。
その時。
ふと。
思った。
兄を忘れたのは。
兄が死んだあと。
湊を忘れたのは。
湊がまだ生きているのに。
失っていないのに。
どうして。
僕は。
毎回。
失う前に。
湊を忘れた。
何か。
まだ。
違う。
僕は。
ノートの文字を見る。
『大事だったからかもしれない。』
その下へ。
小さく。
疑問符を書いた。
?
朝。
七時十二分。
トーストは冷めている。
湯気の消えたコーヒー。
テーブルの真ん中。
開いたままのアルバム。
写真の中では。
小学生の僕と。
兄が。
肩を並べて笑っている。
僕は。
その少年を知らない。
兄だとはわかる。
名前も。
年齢も。
死んだことも。
でも。
顔を見ても。
何も浮かばない。
「律」
母さんが。
ようやく声を出した。
「本当に?」
「何が」
「覚えてないの?」
僕は。
写真を見る。
「全部じゃない」
「じゃあ何を」
「兄ちゃんがいたことは知ってる」
「うん」
「僕より五つ上」
「うん」
「事故で死んだ」
母さんの顔が少し曇る。
「雨の日」
「……うん」
「でも」
指で。
写真の中の兄を指す。
「こんな顔だったって」
言葉が止まる。
「覚えてない」
母さんは。
目を伏せた。
「声も」
「……」
「どんな話し方だったかも」
「……」
「僕のこと何て呼んでた?」
母さんの唇が震えた。
「律」
「そのまま?」
「うん」
「本当に?」
「本当」
「兄ちゃんと何して遊んだ?」
「律」
「好きな食べ物は?」
「もういい」
「よくない」
思ったより。
強い声が出た。
「僕の兄ちゃんなんだろ」
「そうよ」
「だったら僕が知ってていいだろ」
「知ってた」
母さんも。
声を強くした。
「あなたは知ってたの」
「だったら何で」
「私が知りたいわよ!」
テーブルの上。
母さんの手が震えている。
初めて。
見た。
母さんが。
こんなふうに。
怒るところ。
「あなた」
一度。
深く息を吸う。
「事故のあとから」
「うん」
「お兄ちゃんの話をしなくなった」
胸が。
ざわつく。
「最初は」
母さんは続ける。
「ショックだからだと思ってた」
「……」
「名前を聞くだけで顔色悪くなるし」
「僕が?」
「写真も見なくなった」
「……」
「部屋にあったものも」
声が小さくなる。
「全部、私に片づけてって言った」
心臓が。
強く鳴った。
消して。
片づけて。
見えなくして。
湊の時と。
同じ。
「いつ?」
「事故の少しあと」
「僕、九歳?」
「そう」
「そんな子どもが?」
「泣いて」
母さんが。
目を閉じる。
「全部なくしてって」
頭の奥で。
何かが。
動く。
雨。
赤い傘。
玄関。
誰かの靴。
母さんの声。
僕の声。
『いらない』
何が。
『全部いらない』
誰が。
『見たくない』
頭が痛む。
「っ」
「律?」
額を押さえる。
「大丈夫」
「大丈夫じゃないでしょ」
「平気」
「今日は学校休みなさい」
「嫌」
「病院行くわよ」
「病院」
「前にも」
母さんが言いかけて。
止まった。
「前にも?」
「……」
「何」
「一度」
母さんが。
僕を見る。
「記憶のことで病院に行ったことがある」
身体が固まる。
「湊と?」
「久世くん?」
「うん」
「違う」
「じゃあ」
母さんの顔。
重い。
「お兄ちゃんが亡くなったあと」
僕は。
息を呑んだ。
*
九歳。
兄が死んだ。
そのあと。
僕は。
兄のことを思い出せなくなった。
完全にではない。
最初は。
部分的に。
母さんの話では。
事故の翌月。
僕は突然。
「兄ちゃんの部屋ってどこだっけ」
と聞いたらしい。
家にある。
隣の部屋。
何年も使っていたのに。
そして。
数日後。
兄の写真を見て。
「この人誰」
と言った。
「……僕が?」
「うん」
「本当に?」
「本当」
母さんの目が。
赤くなる。
「その時」
「うん」
「私は」
声が震える。
「あなたまでどうにかなったのかと思った」
病院。
検査。
脳。
異常なし。
心理的なものだろうと。
そう言われた。
強いショックから。
記憶を思い出せなくなることがある。
時間とともに戻るかもしれない。
無理に思い出させないほうがいい。
当時は。
そう説明された。
「戻らなかった?」
僕が聞く。
母さんは。
小さく首を振った。
「少しは」
「何を」
「お兄ちゃんがいたこと」
僕は。
知っている。
「事故で亡くなったこと」
それも。
「でも」
母さんは写真を見る。
「一緒に過ごしたことは」
胸が。
冷たくなる。
「ほとんど」
僕は。
椅子から立てなくなった。
「じゃあ」
声がかすれる。
「僕が湊を忘れる前から」
「湊くんのことも忘れたの?」
母さんが。
初めて気づいた顔をした。
「三回」
「……え?」
「僕」
言葉にする。
「湊のこと」
一度。
「三回忘れてる」
母さんの顔から。
血の気が引いた。
「どういうこと」
「好きって言われた翌朝」
母さんは。
何も言わない。
「毎回」
「律」
「今回で三回目」
「そんな」
「病院も行った」
「いつ」
「一回目のあと」
「誰と」
「湊」
「どうして私に」
「たぶん」
僕は。
答えを知っていた。
「言わないでって頼んだんだと思う」
母さんの目から。
涙が落ちた。
初めて。
僕は。
自分がどれだけ残酷なことをしているのか。
少しだけ。
わかった気がした。
僕が忘れる。
僕は楽になる。
何も覚えていないから。
でも。
周りは。
覚えている。
兄のことを。
湊のことを。
僕が忘れたことまで。
「ごめん」
「謝らないで」
「でも」
「あなたが悪いんじゃない」
同じ。
湊と。
同じことを言う。
「それ」
「何」
「みんな言う」
「律」
「僕が悪くないって」
笑おうとして。
できなかった。
「でも」
声が震える。
「僕が忘れるたび」
母さん。
湊。
誰かが傷つく。
「残されるほうは」
言葉が。
出ない。
母さんが。
僕の手を握った。
「今日は病院行こう」
「……うん」
初めて。
抵抗しなかった。
*
学校へ連絡した。
休む。
その前に。
湊へ。
『今日休む』
送る。
既読。
すぐ。
『どうした』
『母さんと病院』
電話。
早い。
「もしもし」
『何があった』
「朝」
声。
思ったより。
落ち着いている。
「昔のアルバム見た」
『うん』
「兄ちゃん」
電話の向こう。
静かになる。
「僕」
一度。
息を吸う。
「兄ちゃんの顔、覚えてなかった」
長い。
沈黙。
『……そうか』
「湊」
『うん』
「知ってた?」
『何を』
「僕が兄ちゃんの記憶なくしてること」
答えない。
「知ってたんだ」
『全部じゃない』
「どこまで」
『お前が』
湊の声。
慎重。
『兄貴の顔を思い出せないって言ってたことは知ってた』
「いつ聞いた?」
『雨の日』
胸が。
強く鳴る。
「僕が泣いた日」
『ああ』
「やっぱり」
『律』
「今日」
僕は言う。
「病院行ってくる」
『うん』
「終わったら」
迷う。
「会える?」
返事。
すぐ。
『会う』
「ありがとう」
『何時でもいい』
「湊」
『何』
「今日」
少し。
怖い。
「僕のこと」
何を言おう。
好きって。
言ってほしい?
いや。
「忘れないで」
口から。
別の言葉が出た。
『何言ってんだ』
「僕が」
喉が震える。
「何忘れても」
電話の向こう。
湊が息を飲む。
「湊は覚えてて」
あの日。
二回目の僕が。
言った言葉。
同じ。
『……覚えてるよ』
湊の声。
「うん」
『全部』
胸が。
熱くなる。
『だから』
「何」
『お前は病院行ってこい』
少し。
笑った。
「わかった」
*
病院。
検査。
問診。
長かった。
MRI。
神経学的な検査。
血液。
そして。
医師。
五十代くらい。
白衣。
「現時点で」
僕と母さんの前。
「脳の器質的な異常は確認できません」
以前と。
同じ。
たぶん。
「じゃあ」
僕が聞く。
「何で忘れるんですか」
医師は。
少し考えた。
「今日の段階で」
慎重に。
「断定はできません」
「はい」
「ただ」
カルテを見る。
「幼少期にも、強い喪失体験に関連して、特定人物の記憶が想起できなくなった時期がある」
「兄です」
「そうですね」
「今回も」
「似たパターンがある可能性はあります」
「告白された翌日に」
僕は言った。
「同じ人を三回忘れてます」
医師の眉が。
少し動く。
「相手は同じ?」
「はい」
「毎回、告白だけ?」
「たぶん」
「告白されたあとに」
医師が聞く。
「強い不安は?」
「不安?」
「例えば」
ゆっくり。
「その人を失うかもしれない、とか」
胸が。
鳴った。
兄。
湊。
「……わかりません」
「当時のことを覚えていない?」
「はい」
「でしたら」
医師は。
僕を見る。
「告白という出来事そのものより、その時にどんな感情が生じたかを見たほうがいいかもしれません」
「感情」
「記憶は」
医師が続ける。
「単純な録画ではありません」
僕は黙って聞く。
「感情と強く結びついています」
「じゃあ」
「ただし」
先に止められる。
「これは今日ここで診断できる話ではありません」
「はい」
「専門的な心理評価も含めて、時間をかけて見ていく必要があります」
僕は。
頷いた。
「一つ」
医師が聞く。
「忘れてしまう相手は」
「はい」
「あなたにとって、どういう存在ですか」
すぐ。
答えが出た。
「大事な人です」
言ってから。
気づく。
兄も。
湊も。
「すごく」
僕は続けた。
「大事な人」
医師は。
何も言わず。
頷いた。
*
病院を出た。
午後三時。
母さんは。
仕事へ連絡するため。
少し離れた場所にいる。
僕はスマホ。
湊。
『終わった』
『どこ』
病院名。
『行く』
『学校は』
『終わった』
待つ。
三十分。
病院前のベンチ。
湊が。
走ってくる。
制服。
鞄。
息を切らして。
「走らなくてよかったのに」
「黙れ」
「こんにちは」
母さんが。
湊を見る。
「久世くん?」
「はい」
緊張。
珍しい。
「いつも律が」
母さん。
言葉が止まる。
いつも?
今まで。
何を。
「ありがとうございます」
母さんが頭を下げた。
湊が。
慌てる。
「いや」
「本当に」
「やめてください」
その顔。
困っている。
僕は。
見ていられなかった。
「母さん」
「何」
「僕、湊と帰る」
「大丈夫?」
「うん」
「久世くん」
「はい」
「無理させないでね」
「わかりました」
「僕、子どもじゃないんだけど」
二人とも。
無視。
「じゃあ」
母さんが。
僕を見る。
「夜、話そう」
「うん」
歩いていく。
僕と湊。
二人になる。
「何て?」
すぐ。
「脳は異常なし」
「うん」
「でも」
「うん」
「兄ちゃんの時と」
言葉を探す。
「似てるかもしれないって」
湊は。
黙って聞く。
「告白そのものじゃなくて」
「うん」
「その時の感情」
僕は。
湊を見る。
「失うのが怖いとか」
彼の顔が。
変わった。
「湊」
「何」
「何か知ってる?」
「……」
「右手」
親指。
握っている。
「何」
「雨の日」
湊が言った。
「お前」
声が。
低い。
「同じこと言った」
「何て」
「好きになるのが怖いって」
胸が。
大きく鳴った。
「僕が?」
「ああ」
「湊を?」
「俺じゃない」
「じゃあ」
「人を」
湊は。
足を止める。
「誰かを大事にするのが怖いって」
頭。
ずきん。
「何で」
「兄貴の話をしたあと」
雨。
駅。
声。
涙。
僕。
『好きになったら』
何か。
『いなくなる』
声。
『大事にしたら』
雨音。
『いなくなった時』
頭が。
痛い。
「律」
湊が腕を掴む。
「無理するな」
「今」
「何」
「僕」
息を整える。
「何か」
「思い出した?」
「言葉だけ」
「何て」
「好きになったら」
喉。
震える。
「いなくなるって」
湊の目が。
揺れた。
「言った?」
「……ああ」
「僕が?」
「ああ」
「それで」
僕は。
湊を見る。
「湊は何て言った?」
長い沈黙。
「俺は」
湊。
右手。
親指。
握る。
「いなくならないって」
胸の奥。
痛い。
「そう言った」
「……」
「でも」
声が。
少し苦い。
「お前は信じなかった」
*
僕たちは。
喫茶アオへ行った。
今日は。
プリンを頼まなかった。
僕はコーヒー。
砂糖二本。
湊はブラック。
「雨の日」
僕が言う。
「ここ?」
「違う」
「駅?」
「ああ」
「何があったの」
「律」
「今日なら」
僕は。
逃げなかった。
「聞ける」
「でも」
「病院で言われた」
「何を」
「無理に思い出すんじゃなくて」
少し嘘。
正確には。
もっと慎重にと言われた。
「何が起きたか整理するのは大事だって」
湊は。
僕を見る。
「本当に聞きたい?」
「うん」
「後悔しても」
「うん」
「俺は知らないぞ」
「それでいい」
長い。
沈黙。
湊が。
コーヒーを一口。
「去年の九月」
「うん」
「雨の日」
ゆっくり。
始める。
「駅で」
*
たぶん。
雨。
強い。
僕は。
傘を持っていなかった。
湊。
黒い傘。
『入れ』
『いい』
『濡れる』
『もう濡れてる』
『だから』
『いいって』
僕は。
機嫌が悪い。
湊は。
黙って。
僕の横にいる。
『何』
『別に』
『帰れば』
『同じ方向』
『今日は一人で帰りたい』
『じゃあ駅まで』
『何で』
『心配だから』
『何が』
そこで。
僕が怒る。
『僕のこと何も知らないくせに』
湊が。
止まる。
『知らないよ』
『じゃあ』
『だから知りたい』
雨。
音。
『言いたくない』
『なら言わなくていい』
『でも知りたいんでしょ』
『知りたいけど』
湊。
『お前が嫌なら聞かない』
僕。
泣く。
突然。
たぶん。
それまで。
我慢していた。
『兄ちゃん』
初めて。
湊に。
話す。
『死んだ』
湊は。
何も言わない。
『僕のせいで』
『違う』
『何も知らないのに言うな』
『……』
『兄ちゃん』
声。
震える。
『僕を迎えに来て』
雨。
『事故にあった』
胸。
痛い。
『僕が傘忘れたから』
『律』
『僕が電話したから』
雨の中。
兄。
自転車?
いや。
歩道。
交差点。
車。
『僕が』
泣く。
『来てって言ったから』
『それはお前のせいじゃない』
『僕が言わなかったら死ななかった!』
湊。
僕の肩を掴む。
『律』
『触らないで』
『聞け』
『嫌』
『お前のせいじゃない』
『嫌だ!』
頭。
痛い。
でも。
映像。
少し。
赤い傘。
兄。
僕に。
差し出す。
『風邪ひくぞ』
笑う。
顔。
見えそう。
「っ」
*
「律」
湊の声。
喫茶店。
戻る。
僕は。
両手で頭を押さえている。
「もうやめる」
「待って」
「顔色悪い」
「続き」
「無理」
「お願い」
「律」
「お願いだから」
僕は。
湊の袖を掴む。
「今」
声が震える。
「思い出せそうだった」
湊が。
黙る。
「兄ちゃんの顔」
「……」
「もう少し」
「思い出すために自分壊すな」
「でも」
「今日じゃなくていい」
強い。
声。
「逃げるのと、急ぐのは違う」
僕は。
動けなくなった。
その言葉。
正しい。
たぶん。
「……わかった」
袖を離す。
「ごめん」
「謝るな」
「そればっか」
「お前が謝りすぎ」
少し。
笑う。
呼吸を整える。
「じゃあ」
僕は聞く。
「雨の日」
「うん」
「最後に一個」
「何」
「僕が」
一度。
言葉を選ぶ。
「人を好きになるのが怖いって言ったの」
「ああ」
「兄ちゃんの話のあと?」
「ああ」
「何て」
湊は。
僕を見る。
「お前」
ゆっくり。
「兄貴のこと忘れてる自分が怖いって言った」
胸。
止まりそうになる。
「その時もう?」
「ああ」
「顔?」
「顔も」
「……」
「声も」
僕は。
俯く。
「それで」
湊が続ける。
「言った」
「何を」
「人って」
一度。
息を吸う。
「大事じゃなくなったら忘れるのかなって」
喉が。
痛い。
「僕が?」
「ああ」
「兄ちゃんを?」
「違うって俺は言った」
「……」
「お前は兄貴が大事だったから」
湊の声。
静か。
「思い出せなくなったんじゃないかって」
僕は。
顔を上げる。
「湊が?」
「ああ」
「そんなこと」
「根拠はなかった」
「でも」
「俺はそう思った」
胸の奥。
何か。
つながる。
兄。
大事。
失った。
忘れた。
湊。
大事。
失うかもしれない。
忘れる。
「じゃあ」
僕は。
声を落とす。
「僕が忘れるのって」
告白じゃない?
好きと言われたからじゃない?
「相手を」
言葉が。
怖い。
「本気で大事だって認めた時?」
湊が。
黙る。
「好きって言われると」
僕は続ける。
「もう友達じゃなくなる」
「……」
「失った時に」
胸を押さえる。
「もっと苦しくなる」
「律」
「だから」
息を吸う。
「忘れる?」
湊は。
答えられない。
答えなんて。
誰にもわからない。
でも。
三回。
湊から好きと言われた。
その瞬間。
僕は。
湊が。
失いたくない人だと。
認めたのかもしれない。
だから。
次の日。
切り離した。
「もしそうなら」
僕は。
湊を見る。
「告白されるのが怖いんじゃない」
「……」
「好きになるのが怖いんだ」
自分で。
言って。
胸が。
ひどく痛んだ。
*
家。
夜。
母さんと話した。
兄のこと。
事故。
僕が電話したこと。
「本当?」
僕が聞く。
「僕が迎えに来てって」
母さんは。
しばらく黙った。
「言った」
「それで兄ちゃんが」
「迎えに行った」
「事故」
「でも」
母さんが。
強く。
僕を見る。
「あなたのせいじゃない」
「でも僕が呼ばなかったら」
「それは結果論」
「……」
「あの日」
母さんの声が震える。
「雨が降ってた」
「うん」
「お兄ちゃんは」
少し。
笑う。
「あなたが傘を忘れたって聞いて」
涙。
「しょうがないなって笑ってた」
胸が。
締めつけられる。
「怒ってなかった?」
「全然」
「嫌じゃなかった?」
「全然」
「本当に?」
「あなたのこと」
母さん。
泣きながら。
「大好きだったから」
頭。
痛い。
でも。
逃げない。
「兄ちゃん」
僕は。
聞く。
「名前」
母さん。
驚く。
「覚えてない?」
僕は。
首を横に振る。
知らない。
本当に。
「蒼」
母さんが言う。
「朝倉蒼」
あお。
その音。
何か。
胸の奥に。
落ちる。
「蒼」
声にする。
頭の中。
雨。
少年。
『律』
赤い傘。
『遅い』
『ごめんごめん』
『びしょ濡れじゃん』
『お前のせいだろ』
『ごめん』
『冗談』
顔。
笑う。
少し。
見えた。
写真の。
少年。
「兄ちゃん」
僕は。
泣いていた。
母さんが。
僕の肩に手を置く。
「思い出した?」
「少し」
涙。
止まらない。
「声」
「うん」
「ちょっと」
嬉しい。
でも。
苦しい。
「母さん」
「何」
「僕」
泣きながら。
「兄ちゃんのこと忘れたくなかった」
「知ってる」
「大事じゃなくなったわけじゃない」
「知ってるよ」
「ずっと」
息が。
うまくできない。
「大事だった」
「うん」
母さん。
僕を抱く。
久しぶり。
いや。
いつ以来か。
わからない。
「ごめん」
「謝らない」
「でも」
「蒼も」
母さんが。
僕の背中を撫でる。
「絶対、怒ってない」
僕は。
泣いた。
九歳の時。
泣けなかった分まで。
*
夜十一時。
部屋。
湊。
メッセージ。
『大丈夫?』
『うん』
『本当』
『今日は右手見えないよ』
『電話する?』
『して』
すぐ。
鳴る。
「もしもし」
『律』
「うん」
『泣いた?』
「何でわかる」
『声』
「……泣いた」
『そっか』
「兄ちゃん」
『うん』
「名前、蒼」
『知ってる』
その言葉。
今日は。
嫌じゃない。
「湊」
『何』
「少し思い出した」
『何を』
「声」
『……』
「笑ってた」
『うん』
「僕」
胸。
痛い。
「兄ちゃんのこと」
『うん』
「大好きだった」
言えた。
好き。
大事。
その言葉。
怖い。
でも。
言えた。
『そっか』
「うん」
『よかったな』
「うん」
しばらく。
二人とも。
何も言わない。
「ねえ」
『何』
「今日」
一度。
息を吸う。
「病院で」
『うん』
「告白じゃなくて」
『うん』
「失うのが怖い気持ちが関係してるかもしれないって」
『……』
「僕も」
続ける。
「そうかもしれないって思った」
『うん』
「兄ちゃんを失ったから」
声が。
少し震える。
「誰かを本気で大事にするのが怖くなった」
『律』
「だから」
言いたい。
今日。
今。
逃げない。
「湊のこと」
電話の向こう。
沈黙。
「好きになった時」
『……』
「怖かったのかもしれない」
認める。
「失いたくないって」
声が。
震える。
「思ったから」
湊は。
何も言わない。
「でも」
『うん』
「今は」
僕は。
机の上。
現代文ノートを見る。
『好きになった。』
自分の字。
「忘れるほうが怖い」
電話の向こう。
息。
「湊を」
喉。
痛い。
「忘れたくない」
『……うん』
「だから」
言う。
「もう逃げたくない」
長い。
沈黙。
そして。
『律』
「何」
『俺も』
胸が跳ねる。
「待って」
反射。
止める。
湊も。
止まる。
『……ごめん』
「違う」
慌てる。
「言わないでって意味じゃ」
でも。
意味は同じ。
僕は。
怖い。
まだ。
湊から。
その言葉を聞くのが。
「ごめん」
『大丈夫』
「大丈夫じゃない」
『大丈夫』
「嘘」
右手。
見えない。
「湊」
『何』
「僕」
一度。
深く息を吸う。
「もう少しだけ」
『うん』
「待って」
湊は。
すぐに。
『わかった』
と言った。
「怒らない?」
『怒らない』
「悲しい?」
沈黙。
「湊」
『少し』
正直。
それが。
嬉しかった。
「ごめん」
『でも』
「何」
『待つ』
声。
静か。
『お前が自分で聞きたいって思うまで』
胸。
熱い。
「ありがとう」
『うん』
「おやすみ」
『おやすみ、律』
電話。
切れる。
僕は。
スマホを胸に置く。
好きと言われるのが。
まだ怖い。
でも。
以前とは違う。
聞きたくないんじゃない。
いつか。
ちゃんと。
聞きたい。
*
翌朝。
学校。
教室。
湊。
「おはよう、湊」
僕が言う。
湊。
笑う。
「おはよう」
覚えている。
今日も。
ちゃんと。
「ねえ」
「何」
「兄ちゃんの名前」
湊の顔が。
少し変わる。
「蒼」
「うん」
「覚えてる」
「そっか」
「声も少し」
「よかった」
僕は。
自分の席へ行こうとして。
止まる。
「湊」
「何」
「僕」
少し笑う。
「忘れたの、湊だけじゃなかった」
湊は。
何も言わない。
「だから」
僕は続ける。
「たぶん」
胸。
押さえる。
「湊が悪かったんじゃない」
「ああ」
「告白も」
「うん」
「悪くない」
湊が。
僕を見る。
「律」
「何」
「それ」
少し。
笑った。
「やっとわかった?」
「うるさい」
「ずっと言ってた」
「知ってる」
「じゃあ」
そこで。
湊が止まる。
言わない。
僕も。
わかった。
好き。
その先。
「まだ」
僕から言う。
「もう少し」
湊は。
頷いた。
「わかってる」
僕は。
自分の席へ戻る。
ノートを開く。
右上。
四角。
一つ。
その横。
書く。
『忘れたのは、嫌いだったからじゃない。』
さらに。
『大事だったからかもしれない。』
少し考える。
最後。
『だったら今度は、忘れないくらい大事にする。』
書いて。
ペンを置く。
その時。
ふと。
思った。
兄を忘れたのは。
兄が死んだあと。
湊を忘れたのは。
湊がまだ生きているのに。
失っていないのに。
どうして。
僕は。
毎回。
失う前に。
湊を忘れた。
何か。
まだ。
違う。
僕は。
ノートの文字を見る。
『大事だったからかもしれない。』
その下へ。
小さく。
疑問符を書いた。
?



