告白されたら、君を忘れる

 好きになるかどうかを、自分で決める。

 そうノートに書いた翌朝。

 僕は目を覚まして、最初に昨日のことを思い出した。

 喫茶アオ。

 半分にしたプリン。

 改札前の湊。

『明日もちゃんと来いよ』

『行くよ。絶対』

 覚えている。

 全部。

 僕は枕元のスマホを取った。

 午前六時四十一分。

 湊とのトーク画面を開く。

 最後のメッセージは昨夜。

『着いた』

 僕。

『おかえり』

 湊。

 ちゃんとある。

 消えていない。

「……よし」

 何が「よし」なのか、自分でもよくわからない。

 でも。

 今日も僕は湊を覚えている。

 それだけで。

 朝が少し嬉しかった。

     *

 学校へ行くと。

 教室の入口で、湊と目が合った。

 彼は一瞬。

 ほんの一瞬だけ。

 息を止めた。

 そして。

 僕が笑うと。

 肩から力が抜けた。

「おはよう、湊」

「……おはよう」

 僕はそのまま湊の席へ行った。

「今、確認した?」

「何を」

「僕が覚えてるか」

「してない」

「嘘」

「してない」

「右手」

 見る。

 親指を握っている。

「毎朝?」

「何が」

「毎朝、僕が教室入ってくるたび確認してる?」

 湊は答えない。

「ねえ」

「……少し」

「少しって」

「顔見るまでは」

「怖い?」

「ああ」

 素直だった。

 僕は少しだけ胸が痛くなった。

「じゃあ」

 鞄を机に置く。

「これから僕、毎朝最初に湊の名前呼ぶ」

「何で」

「確認しやすいでしょ」

「そんなの」

「おはよう、湊」

「今言っただろ」

「明日も」

「律」

「明後日も」

「……」

「覚えてる間は毎日」

 湊が僕を見る。

「そういうこと簡単に言うな」

「簡単じゃないよ」

「じゃあ」

「僕がしたいからする」

 その答えに。

 湊は何も言わなかった。

 ただ。

 スマホケースの中。

 昨日の付箋がまだ見えた。

     *

 昼休み。

 僕は湊を屋上へ連れ出した。

 普段は立入禁止だけれど、屋上前の階段踊り場までは入れる。

 窓が大きくて、人もほとんど来ない。

「何」

 湊が壁にもたれる。

「実験」

「帰る」

「待って」

「その言葉嫌いになりそう」

「危ない実験じゃない」

「お前の言う危なくないは信用できない」

「失礼だな」

 僕はスマホを取り出す。

 メモ。

 昨日の夜に作った。

「何それ」

「言葉リスト」

「嫌な予感しかしない」

「好き、愛してる、大事、会いたい、そばにいてほしい、帰りたくない」

「律」

「あと、かわいい」

「帰る」

「待って待って」

 制服の袖をつかむ。

 湊が止まった。

「それ反則」

「何が」

「袖」

「知らない」

「知ってるだろ」

「じゃあ実験付き合って」

「何する」

「どの言葉までなら安全か調べる」

「安全?」

「昨日、湊が焼きそばパンを好きって言っても僕は忘れなかった」

「当たり前だ」

「つまり『好き』って単語そのものじゃない」

「それはそうだろうな」

「じゃあ、僕に向けた言葉なら?」

「やらない」

「好き以外」

「……」

「例えば」

 僕はスマホを見る。

「『律は大事』」

「言わない」

「『律と会いたかった』」

「言わない」

「『律と一緒にいたい』」

「言わない」

「全部言わないじゃん」

「当たり前だ」

「じゃあ僕が言う」

「は?」

「逆ならどうなるか」

「やめろ」

「でも三回目は僕が先だったんだろ」

「そうだけど」

「その日の夜まで僕は覚えてた」

「ああ」

「なら僕から言う分には」

「律」

 湊が。

 本気の顔になる。

「遊びでやるな」

 僕は黙った。

「そういう言葉を」

「……」

「実験にするな」

 声は小さい。

 でも。

 怒っている。

「ごめん」

 僕はスマホを下げた。

「確かにそうだね」

 湊が少し驚いた顔をした。

「何」

「いや」

「僕だって反省するよ」

「珍しい」

「台無し」

 でも。

 言われて気づいた。

 僕は。

 怖かったのだ。

 自分の気持ちをそのまま認めるのが。

 だから。

「実験」

 という名前に逃げようとした。

「湊」

「何」

「じゃあ」

 一度。

 息を吸う。

「これは実験じゃない」

 湊の表情が変わる。

「僕」

 喉が。

 急に乾いた。

 さっきまでなら。

 リストを読み上げられた。

 でも。

 自分の言葉になると。

 こんなに難しい。

「最近」

「うん」

「朝、学校来ると最初に湊探してる」

 湊が黙る。

「昼休みも」

「……」

「湊と食べるのが普通になった」

「律」

「放課後も」

 止まれない。

「一緒に帰れると嬉しい」

 胸が鳴る。

「メッセージ来ると嬉しいし」

「……」

「既読すぐつくと、ちょっと笑う」

「それはお前が送りすぎ」

「昨日三通だけ」

「十分」

「それから」

 僕は。

 湊を見る。

「僕のこと知ってるの、最初は怖かった」

「知ってる」

「今は」

 少し笑った。

「嬉しい」

 湊の目が揺れる。

「僕が知らない僕を」

 言葉を選ぶ。

「湊が覚えててくれたこと」

「……」

「嬉しいよ」

 湊は。

 何も言わない。

「だから」

 僕は。

 そこで止まった。

 好き。

 その一言。

 言えばいい。

 今の僕が。

 自分で。

 でも。

 怖い。

 もし。

 僕から言っても。

 何か起きたら。

 明日の朝。

 また全部消えたら。

「……やっぱ無理」

 目を逸らす。

 湊が息を吐いた。

「何が」

「今は言えない」

「別に言わなくていい」

「そう言われると腹立つ」

「何で」

「言いたくなるから」

「面倒くさいな」

「知ってるでしょ」

「知ってる」

 僕は笑った。

 湊も。

 少し笑った。

 言わなかった。

 でも。

 あと少しだった。

     *

 その日の放課後。

 僕は湊を誘った。

「どこ」

「行きたいところある」

「図書室?」

「違う」

「喫茶アオ?」

「違う」

「じゃあ」

「僕が初めて行く場所」

 湊が眉を上げる。

「初めて?」

「うん」

「何で」

「前の僕と行ってないところに行きたい」

 言うと。

 湊の顔が止まった。

「嫌?」

「いや」

「じゃあ行こう」

「どこ」

「映画」

     *

「何見るか決めてなかったのかよ」

「来てから決める派」

「効率悪い」

「湊は?」

「先に席まで取る」

「知ってる」

「何で」

「前に聞いた。映画館では端の席がいい」

「ああ」

「でも今日は真ん中」

「嫌だ」

「何で」

「途中で出にくい」

「出ないんでしょ」

「安心感の問題」

「じゃあ端」

「いいの?」

「今の僕は優しいから」

「前もそれくらいは譲った」

「また!」

 僕は映画館のロビーで湊の肩を叩いた。

「今日は過去禁止」

「無茶言うな」

「少なくとも映画終わるまで」

「何で」

「今日の僕たちだけにする」

 湊が僕を見る。

「……わかった」

「本当に?」

「ああ」

「前は、も禁止」

「わかった」

 チケットを買う。

 端の二席。

 ポップコーン。

「塩?」

 湊が聞く。

「キャラメル」

「甘い」

「嫌?」

「別に」

「じゃあこれ」

「飲み物は」

「僕、炭酸嫌い」

 言ってから。

 二人とも止まる。

 そして。

 笑った。

「それは過去じゃない」

 僕が言う。

「今も嫌いだから」

「そうだな」

「湊はコーヒー?」

「映画で?」

「ブラック」

「アイスコーヒー」

「僕一口もらう」

「苦いって言うぞ」

「それ」

「何」

「過去禁止」

「予想」

「ならいい」

 何でもない。

 会話。

 でも。

 僕には。

 全部新しい。

 今日。

 今。

 この瞬間の僕と湊。

     *

 映画は恋愛ものだった。

 たまたま。

 本当に。

 上映時間がちょうどよかったから選んだだけ。

 高校生の男女。

 幼なじみ。

 片方が転校する。

 告白できないまま離れそうになる。

 という。

 今の僕には。

 妙に刺さる内容だった。

 終盤。

 主人公が駅で叫ぶ。

『好きだ!』

 僕は。

 隣を見た。

 湊も。

 こっちを見ていた。

 目が合う。

 すぐ。

 二人ともスクリーンへ戻る。

 気まずい。

 ものすごく。

 ポップコーンを取ろうとする。

 同時に。

 指が触れた。

 また。

 今度は。

 どちらもすぐに離さなかった。

 数秒。

 指先。

 触れたまま。

 湊が先に手を引いた。

 映画の中では。

 主人公とヒロインが抱き合っていた。

 僕のほうが。

 よっぽど心臓がうるさかった。

     *

 映画館を出る。

「どうだった?」

 僕が聞く。

「普通」

「絶対泣いてた」

「泣いてない」

「最後目赤かった」

「暗かっただろ」

「泣いたんだ」

「違う」

「かわいい」

 言った。

 湊が止まる。

 僕も止まる。

「……今の」

「忘れろ」

「無理」

「忘れるの得意なの僕なんだけど」

「笑えない」

「ごめん」

 でも。

 顔が熱い。

 湊は。

 もっと赤い。

「ねえ」

「何」

「僕が湊をかわいいって言うのは安全みたい」

「二度と言うな」

「何で」

「嫌だから」

「嘘」

「本当」

「右手」

「見るな」

 僕は笑う。

 映画館を出ると。

 外はまだ明るかった。

 六月。

 日が長い。

「どこか寄る?」

「律」

「何」

「今日は」

 湊が少し迷う。

「楽しかった?」

「うん」

 即答。

「すごく」

「そっか」

 それだけ。

 でも。

 湊が。

 本当に嬉しそうに笑った。

 その顔を見た瞬間。

 胸の中で。

 何かが。

 はっきりした。

 ああ。

 僕。

 この人の。

 この顔が。

 好きだ。

 過去の僕がどうだったとか。

 三回好きになったとか。

 そんなことじゃない。

 今。

 僕が。

     *

 駅まで歩く途中。

 僕はずっと。

 その言葉を。

 口の中で転がしていた。

 好き。

 好き。

 湊が好き。

 言える。

 でも。

 言っていいのか。

 怖い。

 湊も怖い。

 だから。

 駅の改札が見えた時。

 僕は立ち止まった。

「湊」

「何」

「今日」

「うん」

「まだ帰りたくない」

 湊の表情が。

 少し緩む。

「知ってる」

「言わないで」

「過去禁止はもう終わっただろ」

「そうだけど」

「じゃあ」

 湊が。

 駅前広場のベンチを指す。

「少し座る?」

「うん」

 二人で座る。

 夕方。

 人が多い。

 誰も。

 僕たちを気にしていない。

「湊」

「うん」

「一個約束して」

「何」

「僕が今から何言っても」

 湊の顔が強張る。

「返事しないで」

「律」

「お願い」

「何言うつもり」

「だから」

 一度。

 深呼吸。

「返事しないで」

 湊は。

 僕を見る。

 たぶん。

 わかった。

 何を言うのか。

「やめたほうがいい」

「僕は言いたい」

「明日」

「忘れるかもしれない?」

「ああ」

「でも」

 僕は笑った。

「僕からなら大丈夫かもしれない」

「かもしれないだろ」

「うん」

「実験するなって言った」

「実験じゃない」

 今度は。

 ちゃんと。

 そう言える。

「本当に言いたい」

 湊が。

 苦しそうに目を伏せた。

「俺は」

「言わなくていい」

「……」

「返事もいらない」

「律」

「今の僕の気持ちだけ」

 胸が。

 痛い。

 怖い。

 でも。

 逃げたくない。

「聞いて」

 長い沈黙。

 それから。

 湊が小さく頷いた。

「……わかった」

 僕は。

 彼を見る。

「僕」

 喉が震える。

「過去に三回、湊を好きになったらしいけど」

「うん」

「それは今の僕には関係ない」

 湊が。

 少しだけ目を見開く。

「最初は」

 続ける。

「何度も同じ人を好きになるなんて、すごいって思った」

「……」

「運命みたいだって」

 僕は笑う。

「でも、違う」

「何が」

「ごめん。返事なしだった」

 湊が口を閉じる。

「僕が今、湊を好きなのは」

 一つずつ。

 言葉にする。

「一回目の僕が好きだったからじゃない」

「……」

「二回目でも」

「……」

「三回目でもない」

 湊の目。

 離れない。

「今の湊と」

 映画を見た。

 パンを食べた。

 図書室へ行った。

 プリンを半分にした。

 メッセージを送った。

 笑った。

 怒った。

 言い合った。

「今の僕が」

 胸に手を置く。

「一緒にいて」

 息を吸う。

「好きになった」

 言えた。

 湊の顔が。

 歪んだ。

 嬉しいのか。

 苦しいのか。

 わからない。

 僕は。

 もう一度。

 ちゃんと言った。

「僕は湊が好き」

 その瞬間。

 怖くなった。

 頭。

 痛くなる?

 何か。

 消える?

 何も。

 起きない。

 駅前の音。

 電車のアナウンス。

 車。

 人の声。

 全部。

 普通。

 僕は。

 湊を覚えている。

「返事」

 僕が言う。

「しないでね」

 湊が唇を噛む。

「絶対」

 小さく。

 頷いた。

 でも。

 目が。

 赤い。

「泣く?」

 聞く。

 湊が首を横に振る。

「映画では泣いたのに」

 睨まれた。

「ごめん」

 僕は笑う。

 そして。

 手を伸ばした。

 湊の右手。

 拳になっている。

 そっと。

 触る。

「親指」

 開かせる。

 握っている。

「嘘ついてる?」

 湊は。

 何も言わない。

 返事をしない約束。

 だから。

 僕も聞かない。

 代わりに。

 その手に。

 自分の手を重ねた。

 湊の指が。

 少し動く。

 僕の手を。

 握り返す。

 言葉はない。

 でも。

 それで十分だった。

     *

 その夜。

 眠れなかった。

 後悔ではない。

 怖い。

 明日の朝。

 起きたら。

 湊を忘れていたら。

 スマホを見る。

 トーク。

 ある。

 僕から送った。

『帰った』

 湊。

『おかえり』

 僕。

『今日はありがとう』

 湊。

『うん』

 それだけ。

 好きとは。

 書かれていない。

 僕も。

 書かなかった。

 でも。

 今日。

 ちゃんと言った。

 僕から。

「湊が好き」

 声に出す。

 頭。

 痛くない。

 記憶。

 ある。

 僕は。

 ノートを開いた。

『今度は、僕が決める。』

『過去の僕が三回好きになったからじゃない。』

『今の僕が、湊を好きになるかどうかを。』

 その下。

 書く。

『好きになった。』

 そして。

『僕から言った。』

 さらに。

『湊は返事をしなかった。約束だから。』

 最後。

『明日の僕へ。』

 ペンが。

 少し震える。

『覚えていて。』

     *

 翌朝。

 目覚ましが鳴った。

 目を開ける。

 天井。

 一秒。

 二秒。

 心臓が鳴る。

 湊。

 久世湊。

 顔。

 浮かぶ。

 昨日。

 映画。

 駅前。

 手。

『僕は湊が好き』

 覚えている。

「……覚えてる」

 飛び起きた。

 スマホ。

 湊。

 ある。

 僕は。

 すぐに送った。

『おはよう』

 既読。

 早すぎる。

『おはよう』

 返ってくる。

 僕は。

 笑った。

『覚えてる』

 送る。

 しばらく。

 返事が来ない。

 十秒。

 二十秒。

 そして。

『よかった』

 四文字。

 僕は。

 スマホを胸に押しつけた。

「よかった」

 本当に。

 そう思った。

 僕から言うだけなら。

 忘れない。

 たぶん。

 初めて。

 僕たちは。

 一つだけ。

 勝った。

     *

 朝食。

 母さんがトーストを焼いている。

「今日早いね」

「うん」

「何かいいことあった?」

「別に」

「顔に出てる」

「出てない」

「出てる」

 湊と同じことを言う。

 僕は牛乳を飲む。

 母さんが。

 冷蔵庫の横に置いてある紙袋を指差した。

「それ、時間あったら今日持っていって」

「何」

「押し入れ整理してたら出てきた」

 古い紙袋。

 中を見る。

 アルバム。

「写真?」

「昔の」

「何で僕に」

「あなたの部屋に置いといて。お兄ちゃんのも入ってるから」

 手が止まった。

「兄ちゃん?」

「うん」

 母さんは。

 普通に言った。

「嫌なら私が持っておくけど」

「いや」

 僕はアルバムを取り出した。

 古い。

 青い表紙。

 開く。

 僕。

 小学生。

 隣。

 兄。

 五つ上。

 笑っている。

 顔。

 僕は。

 その写真を見た。

 そして。

 気づいた。

「……え?」

「何?」

 母さんが振り向く。

 僕は。

 写真の中の兄を見る。

 知らない。

 いや。

 兄だとわかる。

 知識として。

 この人は。

 僕の兄。

 でも。

「母さん」

「何」

 声が。

 震えた。

「兄ちゃんって」

「うん」

「こんな顔だった?」

 母さんの動きが。

 止まった。

「律?」

 僕は。

 写真を見る。

 思い出そうとする。

 兄の顔。

 笑った顔。

 怒った顔。

 寝ている顔。

 何も。

 出てこない。

「待って」

 頭を押さえる。

「僕」

 兄が死んだのは知っている。

 五つ上だった。

 雨の日。

 事故。

 それは。

 知っている。

 でも。

 顔。

 声。

 話し方。

 一緒に何をした。

 何が好きだった。

 何も。

「律」

 母さんの顔が青ざめている。

「僕」

 喉が。

 ひどく乾く。

「兄ちゃんのこと」

 写真の少年は。

 知らない人みたいに。

 笑っていた。

「ほとんど覚えてない」

 母さんは。

 何も言わなかった。

 その沈黙で。

 僕は。

 初めて気づいた。

 僕が忘れていたのは。

 湊だけじゃない。