好きになるかどうかを、自分で決める。
そうノートに書いた翌朝。
僕は目を覚まして、最初に昨日のことを思い出した。
喫茶アオ。
半分にしたプリン。
改札前の湊。
『明日もちゃんと来いよ』
『行くよ。絶対』
覚えている。
全部。
僕は枕元のスマホを取った。
午前六時四十一分。
湊とのトーク画面を開く。
最後のメッセージは昨夜。
『着いた』
僕。
『おかえり』
湊。
ちゃんとある。
消えていない。
「……よし」
何が「よし」なのか、自分でもよくわからない。
でも。
今日も僕は湊を覚えている。
それだけで。
朝が少し嬉しかった。
*
学校へ行くと。
教室の入口で、湊と目が合った。
彼は一瞬。
ほんの一瞬だけ。
息を止めた。
そして。
僕が笑うと。
肩から力が抜けた。
「おはよう、湊」
「……おはよう」
僕はそのまま湊の席へ行った。
「今、確認した?」
「何を」
「僕が覚えてるか」
「してない」
「嘘」
「してない」
「右手」
見る。
親指を握っている。
「毎朝?」
「何が」
「毎朝、僕が教室入ってくるたび確認してる?」
湊は答えない。
「ねえ」
「……少し」
「少しって」
「顔見るまでは」
「怖い?」
「ああ」
素直だった。
僕は少しだけ胸が痛くなった。
「じゃあ」
鞄を机に置く。
「これから僕、毎朝最初に湊の名前呼ぶ」
「何で」
「確認しやすいでしょ」
「そんなの」
「おはよう、湊」
「今言っただろ」
「明日も」
「律」
「明後日も」
「……」
「覚えてる間は毎日」
湊が僕を見る。
「そういうこと簡単に言うな」
「簡単じゃないよ」
「じゃあ」
「僕がしたいからする」
その答えに。
湊は何も言わなかった。
ただ。
スマホケースの中。
昨日の付箋がまだ見えた。
*
昼休み。
僕は湊を屋上へ連れ出した。
普段は立入禁止だけれど、屋上前の階段踊り場までは入れる。
窓が大きくて、人もほとんど来ない。
「何」
湊が壁にもたれる。
「実験」
「帰る」
「待って」
「その言葉嫌いになりそう」
「危ない実験じゃない」
「お前の言う危なくないは信用できない」
「失礼だな」
僕はスマホを取り出す。
メモ。
昨日の夜に作った。
「何それ」
「言葉リスト」
「嫌な予感しかしない」
「好き、愛してる、大事、会いたい、そばにいてほしい、帰りたくない」
「律」
「あと、かわいい」
「帰る」
「待って待って」
制服の袖をつかむ。
湊が止まった。
「それ反則」
「何が」
「袖」
「知らない」
「知ってるだろ」
「じゃあ実験付き合って」
「何する」
「どの言葉までなら安全か調べる」
「安全?」
「昨日、湊が焼きそばパンを好きって言っても僕は忘れなかった」
「当たり前だ」
「つまり『好き』って単語そのものじゃない」
「それはそうだろうな」
「じゃあ、僕に向けた言葉なら?」
「やらない」
「好き以外」
「……」
「例えば」
僕はスマホを見る。
「『律は大事』」
「言わない」
「『律と会いたかった』」
「言わない」
「『律と一緒にいたい』」
「言わない」
「全部言わないじゃん」
「当たり前だ」
「じゃあ僕が言う」
「は?」
「逆ならどうなるか」
「やめろ」
「でも三回目は僕が先だったんだろ」
「そうだけど」
「その日の夜まで僕は覚えてた」
「ああ」
「なら僕から言う分には」
「律」
湊が。
本気の顔になる。
「遊びでやるな」
僕は黙った。
「そういう言葉を」
「……」
「実験にするな」
声は小さい。
でも。
怒っている。
「ごめん」
僕はスマホを下げた。
「確かにそうだね」
湊が少し驚いた顔をした。
「何」
「いや」
「僕だって反省するよ」
「珍しい」
「台無し」
でも。
言われて気づいた。
僕は。
怖かったのだ。
自分の気持ちをそのまま認めるのが。
だから。
「実験」
という名前に逃げようとした。
「湊」
「何」
「じゃあ」
一度。
息を吸う。
「これは実験じゃない」
湊の表情が変わる。
「僕」
喉が。
急に乾いた。
さっきまでなら。
リストを読み上げられた。
でも。
自分の言葉になると。
こんなに難しい。
「最近」
「うん」
「朝、学校来ると最初に湊探してる」
湊が黙る。
「昼休みも」
「……」
「湊と食べるのが普通になった」
「律」
「放課後も」
止まれない。
「一緒に帰れると嬉しい」
胸が鳴る。
「メッセージ来ると嬉しいし」
「……」
「既読すぐつくと、ちょっと笑う」
「それはお前が送りすぎ」
「昨日三通だけ」
「十分」
「それから」
僕は。
湊を見る。
「僕のこと知ってるの、最初は怖かった」
「知ってる」
「今は」
少し笑った。
「嬉しい」
湊の目が揺れる。
「僕が知らない僕を」
言葉を選ぶ。
「湊が覚えててくれたこと」
「……」
「嬉しいよ」
湊は。
何も言わない。
「だから」
僕は。
そこで止まった。
好き。
その一言。
言えばいい。
今の僕が。
自分で。
でも。
怖い。
もし。
僕から言っても。
何か起きたら。
明日の朝。
また全部消えたら。
「……やっぱ無理」
目を逸らす。
湊が息を吐いた。
「何が」
「今は言えない」
「別に言わなくていい」
「そう言われると腹立つ」
「何で」
「言いたくなるから」
「面倒くさいな」
「知ってるでしょ」
「知ってる」
僕は笑った。
湊も。
少し笑った。
言わなかった。
でも。
あと少しだった。
*
その日の放課後。
僕は湊を誘った。
「どこ」
「行きたいところある」
「図書室?」
「違う」
「喫茶アオ?」
「違う」
「じゃあ」
「僕が初めて行く場所」
湊が眉を上げる。
「初めて?」
「うん」
「何で」
「前の僕と行ってないところに行きたい」
言うと。
湊の顔が止まった。
「嫌?」
「いや」
「じゃあ行こう」
「どこ」
「映画」
*
「何見るか決めてなかったのかよ」
「来てから決める派」
「効率悪い」
「湊は?」
「先に席まで取る」
「知ってる」
「何で」
「前に聞いた。映画館では端の席がいい」
「ああ」
「でも今日は真ん中」
「嫌だ」
「何で」
「途中で出にくい」
「出ないんでしょ」
「安心感の問題」
「じゃあ端」
「いいの?」
「今の僕は優しいから」
「前もそれくらいは譲った」
「また!」
僕は映画館のロビーで湊の肩を叩いた。
「今日は過去禁止」
「無茶言うな」
「少なくとも映画終わるまで」
「何で」
「今日の僕たちだけにする」
湊が僕を見る。
「……わかった」
「本当に?」
「ああ」
「前は、も禁止」
「わかった」
チケットを買う。
端の二席。
ポップコーン。
「塩?」
湊が聞く。
「キャラメル」
「甘い」
「嫌?」
「別に」
「じゃあこれ」
「飲み物は」
「僕、炭酸嫌い」
言ってから。
二人とも止まる。
そして。
笑った。
「それは過去じゃない」
僕が言う。
「今も嫌いだから」
「そうだな」
「湊はコーヒー?」
「映画で?」
「ブラック」
「アイスコーヒー」
「僕一口もらう」
「苦いって言うぞ」
「それ」
「何」
「過去禁止」
「予想」
「ならいい」
何でもない。
会話。
でも。
僕には。
全部新しい。
今日。
今。
この瞬間の僕と湊。
*
映画は恋愛ものだった。
たまたま。
本当に。
上映時間がちょうどよかったから選んだだけ。
高校生の男女。
幼なじみ。
片方が転校する。
告白できないまま離れそうになる。
という。
今の僕には。
妙に刺さる内容だった。
終盤。
主人公が駅で叫ぶ。
『好きだ!』
僕は。
隣を見た。
湊も。
こっちを見ていた。
目が合う。
すぐ。
二人ともスクリーンへ戻る。
気まずい。
ものすごく。
ポップコーンを取ろうとする。
同時に。
指が触れた。
また。
今度は。
どちらもすぐに離さなかった。
数秒。
指先。
触れたまま。
湊が先に手を引いた。
映画の中では。
主人公とヒロインが抱き合っていた。
僕のほうが。
よっぽど心臓がうるさかった。
*
映画館を出る。
「どうだった?」
僕が聞く。
「普通」
「絶対泣いてた」
「泣いてない」
「最後目赤かった」
「暗かっただろ」
「泣いたんだ」
「違う」
「かわいい」
言った。
湊が止まる。
僕も止まる。
「……今の」
「忘れろ」
「無理」
「忘れるの得意なの僕なんだけど」
「笑えない」
「ごめん」
でも。
顔が熱い。
湊は。
もっと赤い。
「ねえ」
「何」
「僕が湊をかわいいって言うのは安全みたい」
「二度と言うな」
「何で」
「嫌だから」
「嘘」
「本当」
「右手」
「見るな」
僕は笑う。
映画館を出ると。
外はまだ明るかった。
六月。
日が長い。
「どこか寄る?」
「律」
「何」
「今日は」
湊が少し迷う。
「楽しかった?」
「うん」
即答。
「すごく」
「そっか」
それだけ。
でも。
湊が。
本当に嬉しそうに笑った。
その顔を見た瞬間。
胸の中で。
何かが。
はっきりした。
ああ。
僕。
この人の。
この顔が。
好きだ。
過去の僕がどうだったとか。
三回好きになったとか。
そんなことじゃない。
今。
僕が。
*
駅まで歩く途中。
僕はずっと。
その言葉を。
口の中で転がしていた。
好き。
好き。
湊が好き。
言える。
でも。
言っていいのか。
怖い。
湊も怖い。
だから。
駅の改札が見えた時。
僕は立ち止まった。
「湊」
「何」
「今日」
「うん」
「まだ帰りたくない」
湊の表情が。
少し緩む。
「知ってる」
「言わないで」
「過去禁止はもう終わっただろ」
「そうだけど」
「じゃあ」
湊が。
駅前広場のベンチを指す。
「少し座る?」
「うん」
二人で座る。
夕方。
人が多い。
誰も。
僕たちを気にしていない。
「湊」
「うん」
「一個約束して」
「何」
「僕が今から何言っても」
湊の顔が強張る。
「返事しないで」
「律」
「お願い」
「何言うつもり」
「だから」
一度。
深呼吸。
「返事しないで」
湊は。
僕を見る。
たぶん。
わかった。
何を言うのか。
「やめたほうがいい」
「僕は言いたい」
「明日」
「忘れるかもしれない?」
「ああ」
「でも」
僕は笑った。
「僕からなら大丈夫かもしれない」
「かもしれないだろ」
「うん」
「実験するなって言った」
「実験じゃない」
今度は。
ちゃんと。
そう言える。
「本当に言いたい」
湊が。
苦しそうに目を伏せた。
「俺は」
「言わなくていい」
「……」
「返事もいらない」
「律」
「今の僕の気持ちだけ」
胸が。
痛い。
怖い。
でも。
逃げたくない。
「聞いて」
長い沈黙。
それから。
湊が小さく頷いた。
「……わかった」
僕は。
彼を見る。
「僕」
喉が震える。
「過去に三回、湊を好きになったらしいけど」
「うん」
「それは今の僕には関係ない」
湊が。
少しだけ目を見開く。
「最初は」
続ける。
「何度も同じ人を好きになるなんて、すごいって思った」
「……」
「運命みたいだって」
僕は笑う。
「でも、違う」
「何が」
「ごめん。返事なしだった」
湊が口を閉じる。
「僕が今、湊を好きなのは」
一つずつ。
言葉にする。
「一回目の僕が好きだったからじゃない」
「……」
「二回目でも」
「……」
「三回目でもない」
湊の目。
離れない。
「今の湊と」
映画を見た。
パンを食べた。
図書室へ行った。
プリンを半分にした。
メッセージを送った。
笑った。
怒った。
言い合った。
「今の僕が」
胸に手を置く。
「一緒にいて」
息を吸う。
「好きになった」
言えた。
湊の顔が。
歪んだ。
嬉しいのか。
苦しいのか。
わからない。
僕は。
もう一度。
ちゃんと言った。
「僕は湊が好き」
その瞬間。
怖くなった。
頭。
痛くなる?
何か。
消える?
何も。
起きない。
駅前の音。
電車のアナウンス。
車。
人の声。
全部。
普通。
僕は。
湊を覚えている。
「返事」
僕が言う。
「しないでね」
湊が唇を噛む。
「絶対」
小さく。
頷いた。
でも。
目が。
赤い。
「泣く?」
聞く。
湊が首を横に振る。
「映画では泣いたのに」
睨まれた。
「ごめん」
僕は笑う。
そして。
手を伸ばした。
湊の右手。
拳になっている。
そっと。
触る。
「親指」
開かせる。
握っている。
「嘘ついてる?」
湊は。
何も言わない。
返事をしない約束。
だから。
僕も聞かない。
代わりに。
その手に。
自分の手を重ねた。
湊の指が。
少し動く。
僕の手を。
握り返す。
言葉はない。
でも。
それで十分だった。
*
その夜。
眠れなかった。
後悔ではない。
怖い。
明日の朝。
起きたら。
湊を忘れていたら。
スマホを見る。
トーク。
ある。
僕から送った。
『帰った』
湊。
『おかえり』
僕。
『今日はありがとう』
湊。
『うん』
それだけ。
好きとは。
書かれていない。
僕も。
書かなかった。
でも。
今日。
ちゃんと言った。
僕から。
「湊が好き」
声に出す。
頭。
痛くない。
記憶。
ある。
僕は。
ノートを開いた。
『今度は、僕が決める。』
『過去の僕が三回好きになったからじゃない。』
『今の僕が、湊を好きになるかどうかを。』
その下。
書く。
『好きになった。』
そして。
『僕から言った。』
さらに。
『湊は返事をしなかった。約束だから。』
最後。
『明日の僕へ。』
ペンが。
少し震える。
『覚えていて。』
*
翌朝。
目覚ましが鳴った。
目を開ける。
天井。
一秒。
二秒。
心臓が鳴る。
湊。
久世湊。
顔。
浮かぶ。
昨日。
映画。
駅前。
手。
『僕は湊が好き』
覚えている。
「……覚えてる」
飛び起きた。
スマホ。
湊。
ある。
僕は。
すぐに送った。
『おはよう』
既読。
早すぎる。
『おはよう』
返ってくる。
僕は。
笑った。
『覚えてる』
送る。
しばらく。
返事が来ない。
十秒。
二十秒。
そして。
『よかった』
四文字。
僕は。
スマホを胸に押しつけた。
「よかった」
本当に。
そう思った。
僕から言うだけなら。
忘れない。
たぶん。
初めて。
僕たちは。
一つだけ。
勝った。
*
朝食。
母さんがトーストを焼いている。
「今日早いね」
「うん」
「何かいいことあった?」
「別に」
「顔に出てる」
「出てない」
「出てる」
湊と同じことを言う。
僕は牛乳を飲む。
母さんが。
冷蔵庫の横に置いてある紙袋を指差した。
「それ、時間あったら今日持っていって」
「何」
「押し入れ整理してたら出てきた」
古い紙袋。
中を見る。
アルバム。
「写真?」
「昔の」
「何で僕に」
「あなたの部屋に置いといて。お兄ちゃんのも入ってるから」
手が止まった。
「兄ちゃん?」
「うん」
母さんは。
普通に言った。
「嫌なら私が持っておくけど」
「いや」
僕はアルバムを取り出した。
古い。
青い表紙。
開く。
僕。
小学生。
隣。
兄。
五つ上。
笑っている。
顔。
僕は。
その写真を見た。
そして。
気づいた。
「……え?」
「何?」
母さんが振り向く。
僕は。
写真の中の兄を見る。
知らない。
いや。
兄だとわかる。
知識として。
この人は。
僕の兄。
でも。
「母さん」
「何」
声が。
震えた。
「兄ちゃんって」
「うん」
「こんな顔だった?」
母さんの動きが。
止まった。
「律?」
僕は。
写真を見る。
思い出そうとする。
兄の顔。
笑った顔。
怒った顔。
寝ている顔。
何も。
出てこない。
「待って」
頭を押さえる。
「僕」
兄が死んだのは知っている。
五つ上だった。
雨の日。
事故。
それは。
知っている。
でも。
顔。
声。
話し方。
一緒に何をした。
何が好きだった。
何も。
「律」
母さんの顔が青ざめている。
「僕」
喉が。
ひどく乾く。
「兄ちゃんのこと」
写真の少年は。
知らない人みたいに。
笑っていた。
「ほとんど覚えてない」
母さんは。
何も言わなかった。
その沈黙で。
僕は。
初めて気づいた。
僕が忘れていたのは。
湊だけじゃない。
そうノートに書いた翌朝。
僕は目を覚まして、最初に昨日のことを思い出した。
喫茶アオ。
半分にしたプリン。
改札前の湊。
『明日もちゃんと来いよ』
『行くよ。絶対』
覚えている。
全部。
僕は枕元のスマホを取った。
午前六時四十一分。
湊とのトーク画面を開く。
最後のメッセージは昨夜。
『着いた』
僕。
『おかえり』
湊。
ちゃんとある。
消えていない。
「……よし」
何が「よし」なのか、自分でもよくわからない。
でも。
今日も僕は湊を覚えている。
それだけで。
朝が少し嬉しかった。
*
学校へ行くと。
教室の入口で、湊と目が合った。
彼は一瞬。
ほんの一瞬だけ。
息を止めた。
そして。
僕が笑うと。
肩から力が抜けた。
「おはよう、湊」
「……おはよう」
僕はそのまま湊の席へ行った。
「今、確認した?」
「何を」
「僕が覚えてるか」
「してない」
「嘘」
「してない」
「右手」
見る。
親指を握っている。
「毎朝?」
「何が」
「毎朝、僕が教室入ってくるたび確認してる?」
湊は答えない。
「ねえ」
「……少し」
「少しって」
「顔見るまでは」
「怖い?」
「ああ」
素直だった。
僕は少しだけ胸が痛くなった。
「じゃあ」
鞄を机に置く。
「これから僕、毎朝最初に湊の名前呼ぶ」
「何で」
「確認しやすいでしょ」
「そんなの」
「おはよう、湊」
「今言っただろ」
「明日も」
「律」
「明後日も」
「……」
「覚えてる間は毎日」
湊が僕を見る。
「そういうこと簡単に言うな」
「簡単じゃないよ」
「じゃあ」
「僕がしたいからする」
その答えに。
湊は何も言わなかった。
ただ。
スマホケースの中。
昨日の付箋がまだ見えた。
*
昼休み。
僕は湊を屋上へ連れ出した。
普段は立入禁止だけれど、屋上前の階段踊り場までは入れる。
窓が大きくて、人もほとんど来ない。
「何」
湊が壁にもたれる。
「実験」
「帰る」
「待って」
「その言葉嫌いになりそう」
「危ない実験じゃない」
「お前の言う危なくないは信用できない」
「失礼だな」
僕はスマホを取り出す。
メモ。
昨日の夜に作った。
「何それ」
「言葉リスト」
「嫌な予感しかしない」
「好き、愛してる、大事、会いたい、そばにいてほしい、帰りたくない」
「律」
「あと、かわいい」
「帰る」
「待って待って」
制服の袖をつかむ。
湊が止まった。
「それ反則」
「何が」
「袖」
「知らない」
「知ってるだろ」
「じゃあ実験付き合って」
「何する」
「どの言葉までなら安全か調べる」
「安全?」
「昨日、湊が焼きそばパンを好きって言っても僕は忘れなかった」
「当たり前だ」
「つまり『好き』って単語そのものじゃない」
「それはそうだろうな」
「じゃあ、僕に向けた言葉なら?」
「やらない」
「好き以外」
「……」
「例えば」
僕はスマホを見る。
「『律は大事』」
「言わない」
「『律と会いたかった』」
「言わない」
「『律と一緒にいたい』」
「言わない」
「全部言わないじゃん」
「当たり前だ」
「じゃあ僕が言う」
「は?」
「逆ならどうなるか」
「やめろ」
「でも三回目は僕が先だったんだろ」
「そうだけど」
「その日の夜まで僕は覚えてた」
「ああ」
「なら僕から言う分には」
「律」
湊が。
本気の顔になる。
「遊びでやるな」
僕は黙った。
「そういう言葉を」
「……」
「実験にするな」
声は小さい。
でも。
怒っている。
「ごめん」
僕はスマホを下げた。
「確かにそうだね」
湊が少し驚いた顔をした。
「何」
「いや」
「僕だって反省するよ」
「珍しい」
「台無し」
でも。
言われて気づいた。
僕は。
怖かったのだ。
自分の気持ちをそのまま認めるのが。
だから。
「実験」
という名前に逃げようとした。
「湊」
「何」
「じゃあ」
一度。
息を吸う。
「これは実験じゃない」
湊の表情が変わる。
「僕」
喉が。
急に乾いた。
さっきまでなら。
リストを読み上げられた。
でも。
自分の言葉になると。
こんなに難しい。
「最近」
「うん」
「朝、学校来ると最初に湊探してる」
湊が黙る。
「昼休みも」
「……」
「湊と食べるのが普通になった」
「律」
「放課後も」
止まれない。
「一緒に帰れると嬉しい」
胸が鳴る。
「メッセージ来ると嬉しいし」
「……」
「既読すぐつくと、ちょっと笑う」
「それはお前が送りすぎ」
「昨日三通だけ」
「十分」
「それから」
僕は。
湊を見る。
「僕のこと知ってるの、最初は怖かった」
「知ってる」
「今は」
少し笑った。
「嬉しい」
湊の目が揺れる。
「僕が知らない僕を」
言葉を選ぶ。
「湊が覚えててくれたこと」
「……」
「嬉しいよ」
湊は。
何も言わない。
「だから」
僕は。
そこで止まった。
好き。
その一言。
言えばいい。
今の僕が。
自分で。
でも。
怖い。
もし。
僕から言っても。
何か起きたら。
明日の朝。
また全部消えたら。
「……やっぱ無理」
目を逸らす。
湊が息を吐いた。
「何が」
「今は言えない」
「別に言わなくていい」
「そう言われると腹立つ」
「何で」
「言いたくなるから」
「面倒くさいな」
「知ってるでしょ」
「知ってる」
僕は笑った。
湊も。
少し笑った。
言わなかった。
でも。
あと少しだった。
*
その日の放課後。
僕は湊を誘った。
「どこ」
「行きたいところある」
「図書室?」
「違う」
「喫茶アオ?」
「違う」
「じゃあ」
「僕が初めて行く場所」
湊が眉を上げる。
「初めて?」
「うん」
「何で」
「前の僕と行ってないところに行きたい」
言うと。
湊の顔が止まった。
「嫌?」
「いや」
「じゃあ行こう」
「どこ」
「映画」
*
「何見るか決めてなかったのかよ」
「来てから決める派」
「効率悪い」
「湊は?」
「先に席まで取る」
「知ってる」
「何で」
「前に聞いた。映画館では端の席がいい」
「ああ」
「でも今日は真ん中」
「嫌だ」
「何で」
「途中で出にくい」
「出ないんでしょ」
「安心感の問題」
「じゃあ端」
「いいの?」
「今の僕は優しいから」
「前もそれくらいは譲った」
「また!」
僕は映画館のロビーで湊の肩を叩いた。
「今日は過去禁止」
「無茶言うな」
「少なくとも映画終わるまで」
「何で」
「今日の僕たちだけにする」
湊が僕を見る。
「……わかった」
「本当に?」
「ああ」
「前は、も禁止」
「わかった」
チケットを買う。
端の二席。
ポップコーン。
「塩?」
湊が聞く。
「キャラメル」
「甘い」
「嫌?」
「別に」
「じゃあこれ」
「飲み物は」
「僕、炭酸嫌い」
言ってから。
二人とも止まる。
そして。
笑った。
「それは過去じゃない」
僕が言う。
「今も嫌いだから」
「そうだな」
「湊はコーヒー?」
「映画で?」
「ブラック」
「アイスコーヒー」
「僕一口もらう」
「苦いって言うぞ」
「それ」
「何」
「過去禁止」
「予想」
「ならいい」
何でもない。
会話。
でも。
僕には。
全部新しい。
今日。
今。
この瞬間の僕と湊。
*
映画は恋愛ものだった。
たまたま。
本当に。
上映時間がちょうどよかったから選んだだけ。
高校生の男女。
幼なじみ。
片方が転校する。
告白できないまま離れそうになる。
という。
今の僕には。
妙に刺さる内容だった。
終盤。
主人公が駅で叫ぶ。
『好きだ!』
僕は。
隣を見た。
湊も。
こっちを見ていた。
目が合う。
すぐ。
二人ともスクリーンへ戻る。
気まずい。
ものすごく。
ポップコーンを取ろうとする。
同時に。
指が触れた。
また。
今度は。
どちらもすぐに離さなかった。
数秒。
指先。
触れたまま。
湊が先に手を引いた。
映画の中では。
主人公とヒロインが抱き合っていた。
僕のほうが。
よっぽど心臓がうるさかった。
*
映画館を出る。
「どうだった?」
僕が聞く。
「普通」
「絶対泣いてた」
「泣いてない」
「最後目赤かった」
「暗かっただろ」
「泣いたんだ」
「違う」
「かわいい」
言った。
湊が止まる。
僕も止まる。
「……今の」
「忘れろ」
「無理」
「忘れるの得意なの僕なんだけど」
「笑えない」
「ごめん」
でも。
顔が熱い。
湊は。
もっと赤い。
「ねえ」
「何」
「僕が湊をかわいいって言うのは安全みたい」
「二度と言うな」
「何で」
「嫌だから」
「嘘」
「本当」
「右手」
「見るな」
僕は笑う。
映画館を出ると。
外はまだ明るかった。
六月。
日が長い。
「どこか寄る?」
「律」
「何」
「今日は」
湊が少し迷う。
「楽しかった?」
「うん」
即答。
「すごく」
「そっか」
それだけ。
でも。
湊が。
本当に嬉しそうに笑った。
その顔を見た瞬間。
胸の中で。
何かが。
はっきりした。
ああ。
僕。
この人の。
この顔が。
好きだ。
過去の僕がどうだったとか。
三回好きになったとか。
そんなことじゃない。
今。
僕が。
*
駅まで歩く途中。
僕はずっと。
その言葉を。
口の中で転がしていた。
好き。
好き。
湊が好き。
言える。
でも。
言っていいのか。
怖い。
湊も怖い。
だから。
駅の改札が見えた時。
僕は立ち止まった。
「湊」
「何」
「今日」
「うん」
「まだ帰りたくない」
湊の表情が。
少し緩む。
「知ってる」
「言わないで」
「過去禁止はもう終わっただろ」
「そうだけど」
「じゃあ」
湊が。
駅前広場のベンチを指す。
「少し座る?」
「うん」
二人で座る。
夕方。
人が多い。
誰も。
僕たちを気にしていない。
「湊」
「うん」
「一個約束して」
「何」
「僕が今から何言っても」
湊の顔が強張る。
「返事しないで」
「律」
「お願い」
「何言うつもり」
「だから」
一度。
深呼吸。
「返事しないで」
湊は。
僕を見る。
たぶん。
わかった。
何を言うのか。
「やめたほうがいい」
「僕は言いたい」
「明日」
「忘れるかもしれない?」
「ああ」
「でも」
僕は笑った。
「僕からなら大丈夫かもしれない」
「かもしれないだろ」
「うん」
「実験するなって言った」
「実験じゃない」
今度は。
ちゃんと。
そう言える。
「本当に言いたい」
湊が。
苦しそうに目を伏せた。
「俺は」
「言わなくていい」
「……」
「返事もいらない」
「律」
「今の僕の気持ちだけ」
胸が。
痛い。
怖い。
でも。
逃げたくない。
「聞いて」
長い沈黙。
それから。
湊が小さく頷いた。
「……わかった」
僕は。
彼を見る。
「僕」
喉が震える。
「過去に三回、湊を好きになったらしいけど」
「うん」
「それは今の僕には関係ない」
湊が。
少しだけ目を見開く。
「最初は」
続ける。
「何度も同じ人を好きになるなんて、すごいって思った」
「……」
「運命みたいだって」
僕は笑う。
「でも、違う」
「何が」
「ごめん。返事なしだった」
湊が口を閉じる。
「僕が今、湊を好きなのは」
一つずつ。
言葉にする。
「一回目の僕が好きだったからじゃない」
「……」
「二回目でも」
「……」
「三回目でもない」
湊の目。
離れない。
「今の湊と」
映画を見た。
パンを食べた。
図書室へ行った。
プリンを半分にした。
メッセージを送った。
笑った。
怒った。
言い合った。
「今の僕が」
胸に手を置く。
「一緒にいて」
息を吸う。
「好きになった」
言えた。
湊の顔が。
歪んだ。
嬉しいのか。
苦しいのか。
わからない。
僕は。
もう一度。
ちゃんと言った。
「僕は湊が好き」
その瞬間。
怖くなった。
頭。
痛くなる?
何か。
消える?
何も。
起きない。
駅前の音。
電車のアナウンス。
車。
人の声。
全部。
普通。
僕は。
湊を覚えている。
「返事」
僕が言う。
「しないでね」
湊が唇を噛む。
「絶対」
小さく。
頷いた。
でも。
目が。
赤い。
「泣く?」
聞く。
湊が首を横に振る。
「映画では泣いたのに」
睨まれた。
「ごめん」
僕は笑う。
そして。
手を伸ばした。
湊の右手。
拳になっている。
そっと。
触る。
「親指」
開かせる。
握っている。
「嘘ついてる?」
湊は。
何も言わない。
返事をしない約束。
だから。
僕も聞かない。
代わりに。
その手に。
自分の手を重ねた。
湊の指が。
少し動く。
僕の手を。
握り返す。
言葉はない。
でも。
それで十分だった。
*
その夜。
眠れなかった。
後悔ではない。
怖い。
明日の朝。
起きたら。
湊を忘れていたら。
スマホを見る。
トーク。
ある。
僕から送った。
『帰った』
湊。
『おかえり』
僕。
『今日はありがとう』
湊。
『うん』
それだけ。
好きとは。
書かれていない。
僕も。
書かなかった。
でも。
今日。
ちゃんと言った。
僕から。
「湊が好き」
声に出す。
頭。
痛くない。
記憶。
ある。
僕は。
ノートを開いた。
『今度は、僕が決める。』
『過去の僕が三回好きになったからじゃない。』
『今の僕が、湊を好きになるかどうかを。』
その下。
書く。
『好きになった。』
そして。
『僕から言った。』
さらに。
『湊は返事をしなかった。約束だから。』
最後。
『明日の僕へ。』
ペンが。
少し震える。
『覚えていて。』
*
翌朝。
目覚ましが鳴った。
目を開ける。
天井。
一秒。
二秒。
心臓が鳴る。
湊。
久世湊。
顔。
浮かぶ。
昨日。
映画。
駅前。
手。
『僕は湊が好き』
覚えている。
「……覚えてる」
飛び起きた。
スマホ。
湊。
ある。
僕は。
すぐに送った。
『おはよう』
既読。
早すぎる。
『おはよう』
返ってくる。
僕は。
笑った。
『覚えてる』
送る。
しばらく。
返事が来ない。
十秒。
二十秒。
そして。
『よかった』
四文字。
僕は。
スマホを胸に押しつけた。
「よかった」
本当に。
そう思った。
僕から言うだけなら。
忘れない。
たぶん。
初めて。
僕たちは。
一つだけ。
勝った。
*
朝食。
母さんがトーストを焼いている。
「今日早いね」
「うん」
「何かいいことあった?」
「別に」
「顔に出てる」
「出てない」
「出てる」
湊と同じことを言う。
僕は牛乳を飲む。
母さんが。
冷蔵庫の横に置いてある紙袋を指差した。
「それ、時間あったら今日持っていって」
「何」
「押し入れ整理してたら出てきた」
古い紙袋。
中を見る。
アルバム。
「写真?」
「昔の」
「何で僕に」
「あなたの部屋に置いといて。お兄ちゃんのも入ってるから」
手が止まった。
「兄ちゃん?」
「うん」
母さんは。
普通に言った。
「嫌なら私が持っておくけど」
「いや」
僕はアルバムを取り出した。
古い。
青い表紙。
開く。
僕。
小学生。
隣。
兄。
五つ上。
笑っている。
顔。
僕は。
その写真を見た。
そして。
気づいた。
「……え?」
「何?」
母さんが振り向く。
僕は。
写真の中の兄を見る。
知らない。
いや。
兄だとわかる。
知識として。
この人は。
僕の兄。
でも。
「母さん」
「何」
声が。
震えた。
「兄ちゃんって」
「うん」
「こんな顔だった?」
母さんの動きが。
止まった。
「律?」
僕は。
写真を見る。
思い出そうとする。
兄の顔。
笑った顔。
怒った顔。
寝ている顔。
何も。
出てこない。
「待って」
頭を押さえる。
「僕」
兄が死んだのは知っている。
五つ上だった。
雨の日。
事故。
それは。
知っている。
でも。
顔。
声。
話し方。
一緒に何をした。
何が好きだった。
何も。
「律」
母さんの顔が青ざめている。
「僕」
喉が。
ひどく乾く。
「兄ちゃんのこと」
写真の少年は。
知らない人みたいに。
笑っていた。
「ほとんど覚えてない」
母さんは。
何も言わなかった。
その沈黙で。
僕は。
初めて気づいた。
僕が忘れていたのは。
湊だけじゃない。



