振られていない。
頭ではわかっている。
湊は僕を嫌いになったわけじゃない。
むしろ逆だ。
僕を忘れさせたくないから。
自分がまた傷つきたくないから。
だから。
『俺はもう、好きって言わない』
そう決めただけ。
なのに。
次の日の朝。
教室へ入って湊の顔を見た瞬間。
僕は少し腹が立った。
「おはよう」
「おはよう」
普通。
いつも通り。
窓際の席で本を読んでいる。
「昨日ちゃんと帰れた?」
「ああ」
「何時?」
「七時前」
「ご飯何だった?」
「魚」
「何の」
「鮭」
「おいしかった?」
「普通」
普通。
全部普通。
僕だけが昨夜、ベッドの中で二時間も、
『もう好きって言わない』
を反芻していたみたいで。
馬鹿らしくなる。
「何」
湊が本を閉じた。
「別に」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「嘘」
「何で」
「お前も右手見るようになった」
僕は自分の手を見る。
親指。
握ってはいない。
「僕には嘘の癖ないよ」
「ある」
「何」
「笑う」
「え?」
「本当に平気じゃない時ほど笑う」
反射的に。
笑いそうになった。
やめた。
「そういうの」
「何」
「知ってるの、ずるい」
「またそれ?」
「だって僕、湊のことまだ全然知らない」
「聞けばいいだろ」
「じゃあ質問」
「何」
「僕のこと好き?」
湊の顔が止まった。
僕は。
自分でも性格が悪いと思う。
「律」
「質問したら答えていいって言った」
「それ以外」
「じゃあ好きじゃない?」
「そういう誘導もなし」
「面倒くさい」
「お前がな」
湊はまた本を開いた。
僕はその本を上から押さえる。
「読めない」
「知ってる」
「昨日からずっと考えてた」
湊の手が止まった。
「何を」
「本当に言葉だけなのかなって」
「……」
「湊が僕に好きって言う」
「うん」
「次の日、僕が忘れる」
「三回とも」
「それだけ?」
「何が」
「他に共通してること」
湊は本から手を離した。
「俺も考えた」
「何かある?」
「時間も場所も違う」
一回目。
駅までの道。
二回目。
河川敷。
三回目。
駅近くの公園。
「季節も違う」
「十月、十二月、六月」
「ああ」
「天気は?」
「一回目曇り。二回目晴れ。三回目晴れ」
「食べたもの」
「知らない」
「全部同じプリン食べてたり」
「ない」
「じゃあやっぱり」
「告白」
「だよね」
言ってから。
少し怖くなった。
「試す?」
僕が聞く。
湊の目が鋭くなった。
「絶対嫌だ」
「でも」
「嫌だ」
「一回だけ」
「三回やってる」
「実験としては」
「お前」
低い声。
本気で怒っている。
「自分が何言ってるかわかってる?」
「わかってる」
「わかってない」
「じゃあどうすれば確かめられるんだよ」
「確かめなくていい」
「僕は確かめたい」
「俺は嫌だ」
机を挟んで。
僕たちは黙った。
教室に生徒が増えてくる。
松岡が入口から僕たちを見て。
何かを察したのか。
そのまま別の友達のところへ行った。
「湊」
「何」
「怒った?」
「ああ」
「ごめん」
「謝るなら言うな」
「それは無理」
「何で」
「僕のことだから」
湊の眉が動く。
また。
この言葉。
「忘れるのも」
僕は続けた。
「好きになるのも、僕だろ」
「……」
「湊だけで決めないでよ」
河川敷で。
二回目の僕も。
同じようなことを言った。
勝手に決めるな。
僕の気持ちまで決めるな。
でも。
今なら。
湊の気持ちも少しわかる。
「でも」
僕は声を落とした。
「今すぐ試したいわけじゃない」
「絶対やらない」
「わかった」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんをつけるな」
少しだけ。
湊の顔が緩む。
「じゃあ」
僕は自分の席へ戻りかけて。
振り向く。
「別の言葉なら?」
「何」
「大事とか」
「は?」
「会いたいとか」
「律」
「かわいいとか」
「言うわけないだろ」
「今ちょっと照れた?」
「帰れ」
「自分の席に帰ります」
僕は笑いながら離れた。
でも。
胸の奥には。
小さな棘が残っていた。
言わない。
絶対に。
そう言われるたび。
本当は。
聞きたくなる。
*
昼休み。
僕たちは最近、ほとんど毎日一緒に昼を食べている。
一度目も。
二度目も。
三度目も。
きっと同じだった。
今日も湊の前の席に座る。
「これ」
パンを置く。
「何」
「新商品」
レモンクリームパン。
湊が袋を見る。
「炭酸じゃないよ」
「見ればわかる」
「前の僕は見なかったらしいから」
「お前はパッケージを読め」
「一口交換しよう」
「嫌だ」
「何で」
「俺こっちある」
湊の手元。
焼きそばパン。
「それ昨日も食べてなかった?」
「好きだから」
言った。
僕は反射的に顔を上げた。
湊も。
止まった。
「今」
「何」
「好きって言った」
「焼きそばパンがだろ」
「大丈夫?」
「何が」
「僕、忘れない?」
湊が呆れた顔をする。
「今すぐ忘れたらどうする」
「とりあえず保健室?」
「馬鹿」
「でも言ったよね」
「告白じゃない」
「じゃあ単語そのものじゃない」
湊の顔から。
少し表情が消えた。
僕も。
冗談をやめる。
「今の重要じゃない?」
「……かもな」
「じゃあ」
「本気の告白」
「ああ」
「湊から僕への」
「たぶん」
「僕が湊に言うのは?」
湊の目が動く。
「三回目」
「僕が先に言った」
「ああ」
「その時は忘れなかった?」
「その日の夜までは普通だった」
「じゃあ僕から言うだけなら」
「やめろ」
即答。
「まだ何も言ってない」
「顔でわかる」
「どんな顔」
「実験しようとしてる顔」
「そんな顔ある?」
「ある」
「僕しか知らない?」
「たぶん」
また。
それ。
湊だけが知っている僕。
でも。
少しずつ。
僕も湊のことを知り始めている。
嫌な話をするとコーヒーを飲む。
困ると左耳を触る。
本気で怒ると声が小さくなる。
僕が近づくと耳が赤くなる。
「ねえ」
「何」
「湊ってさ」
「うん」
「僕が好きって言うのも怖い?」
湊の手が止まった。
「……怖いよ」
予想していなかった。
もっと。
否定されると思った。
「何で」
「次に何が起こるかわからないから」
「僕から言っても?」
「お前が言ったら」
一度。
湊は視線を落とす。
「俺も返したくなる」
胸が。
大きく鳴った。
「返さなきゃいいじゃん」
「簡単に言うな」
「言わないって決めたんだろ」
「決めた」
「なら」
「お前に目の前で言われて」
湊が僕を見る。
「黙っていられる自信はない」
僕は。
言葉を失った。
数秒後。
「それ」
「何」
「ほぼ言ってない?」
「何を」
「僕のこと――」
「言うな」
パンの袋で口を塞がれた。
「むぐ」
「黙って食え」
僕は袋をどける。
「乱暴」
「誰のせいだ」
「湊」
「何」
「耳赤い」
「うるさい」
僕は笑った。
嬉しい。
聞いていないのに。
ちゃんと。
聞いた気がした。
*
六時間目。
現代文。
先生の声を聞きながら。
僕はノートの右上に四角を描いていた。
一個。
二個。
三個。
「朝倉」
先生に呼ばれる。
「はい」
「次読んで」
「どこですか」
教室が笑う。
「聞いてなかったな」
「すみません」
ページを教えてもらう。
読み始める。
途中。
何となく窓際を見る。
湊と目が合った。
ノートの右上。
指で示す。
四角。
僕は小さく睨んだ。
湊が笑う。
それだけ。
それだけなのに。
嬉しい。
先生にもう一度名前を呼ばれた。
「朝倉、読む」
「はい」
また教室が笑った。
*
放課後。
「図書室行く?」
僕が聞く。
「今日は無理」
「何で」
「委員会」
「何委員?」
「美化」
「似合わない」
「何が」
「掃除好きなの?」
「嫌い」
「じゃあ何で」
「余った」
「友達少なそうな決め方」
「余計なお世話」
「何時まで?」
「五時くらい」
「待ってる」
「何で」
「一緒に帰る」
「先帰れ」
「嫌」
「また」
「嫌なものは嫌」
湊が。
少しだけ笑う。
「わがまま」
「湊の前だけらしいから」
言うと。
表情が変わった。
嬉しいような。
悲しいような。
「何」
「いや」
「また前の僕思い出した?」
「少し」
「どんな」
「同じこと言った」
胸がざわつく。
「いつ」
「二回目の前」
「……そっか」
また。
過去の僕。
僕は。
その顔をしていたのか。
その言葉を言っていたのか。
たまに。
嫌になる。
何をしても。
『前も』
と言われる。
僕は。
前の自分をなぞっているだけなのか。
「やっぱ帰る」
「え?」
「待つって言っただろ」
「気が変わった」
「律」
「また明日」
笑う。
たぶん。
平気じゃない時の笑い方。
湊が僕の腕を掴んだ。
「待て」
「委員会遅れるよ」
「何怒ってる」
「怒ってない」
「嘘」
「証拠は」
「笑ってる」
僕は笑うのをやめた。
「……毎回さ」
「何」
「僕が何かすると」
言わないつもりだった。
でも。
湊には。
言ってしまう。
「前もやったって言うじゃん」
湊が黙る。
「前もそう言った」
「……」
「前もここに来た」
「律」
「前も好きだった」
喉が。
少し苦しくなる。
「僕って何なの」
「何って」
「四人目?」
「は?」
「一度目の僕」
指を一本。
「二度目」
二本。
「三度目」
三本。
「今」
四本。
「四人いるみたい」
「同じお前だろ」
「僕には違う」
「律」
「だって知らないんだよ」
声が強くなる。
「湊が知ってる僕のこと」
廊下。
部活へ向かう生徒が通る。
僕たちは少し端へ寄る。
「僕が湊を好きだったことも」
「……」
「泣いたことも」
「……」
「手つないだことも」
「律」
「全部知らない」
湊が手を離した。
僕は。
それが嫌だった。
「なのに」
続ける。
「僕が何かするたび、前の僕が出てくる」
「そんなつもりで」
「わかってる」
責めたいわけじゃない。
湊は悪くない。
覚えているだけ。
「でもさ」
僕は俯いた。
「湊はどの僕が好きなの」
沈黙。
自分で言って。
胸が痛くなった。
「一回目?」
「律」
「二回目?」
「やめろ」
「三回目?」
「やめろって」
「今の僕?」
湊の声が消える。
ほら。
答えられない。
そう思った瞬間。
「全部だよ」
低い声。
顔を上げる。
湊は。
怒っていた。
「全部お前だ」
「でも」
「一回目も二回目も三回目も」
僕を見る。
「今も」
強い目。
「全部、朝倉律だ」
心臓が鳴る。
「記憶がなくなったから別人になるわけじゃない」
「湊にはそう見えるかもしれないけど」
「見えるんじゃない」
「じゃあ」
「知ってるんだよ」
湊の声が。
少し震えた。
「お前が忘れても」
「……」
「笑い方も」
「……」
「怒り方も」
「……」
「好きなものも」
「……」
「嫌なものも」
一つずつ。
「変わってない」
「でも」
「毎回」
湊の目が僕を離さない。
「また俺の前でわがままになる」
息が止まる。
「また俺のパン勝手に食う」
「一回しか」
「何回もある」
「……」
「また袖つかむ」
「……」
「また名前で呼ぶ」
胸が熱い。
「また俺を」
そこで。
湊は止まった。
言わない。
最後の言葉を。
「何」
僕が聞く。
「何でもない」
「言って」
「言わない」
「湊」
「言わない」
僕には。
続きがわかった。
また俺を好きになる。
たぶん。
そう言おうとした。
でも。
言わなかった。
「……ずるい」
「何が」
「そこまで言ったら同じじゃん」
「違う」
「何が違う」
「言葉にしない」
「意味は同じ」
「それでも」
湊は。
静かに言った。
「もう言わない」
僕は。
また少し腹が立った。
でも。
今度は。
悲しくはなかった。
「わかった」
「本当に?」
「うん」
「何か企んでる?」
「失礼」
「顔」
「どんな顔」
「企んでる顔」
「僕より僕を知ってるんでしょ」
「だからわかる」
僕は笑う。
「委員会行きなよ」
「待ってる?」
「待ってる」
「絶対?」
「うん」
湊が歩き出す。
数歩。
「湊」
振り向く。
「何」
「今の僕も?」
「何が」
「大事?」
ずるい質問。
わかっている。
湊は少しだけ。
困った顔をした。
それから。
「ああ」
一言。
好きではない。
でも。
十分だった。
「そっか」
「じゃあ行く」
「うん」
廊下の向こうへ。
湊が消える。
僕は。
その背中を見送った。
大事。
僕は湊にとって。
大事。
それなら。
今は。
それでいい。
*
図書室。
五時十分。
湊はまだ来ない。
僕は窓際の席で本を開いていた。
でも。
全然頭に入らない。
ノートを開く。
何となく。
右上に四角。
一個。
二個。
やめる。
代わりに。
真ん中へ。
一行書いた。
『湊はもう好きと言わない。』
その下。
『僕はそれが嫌だった。』
さらに。
『でも、聞かなくてもわかることはある。』
ペンが止まる。
本当に?
わかる?
湊が。
僕をどう思っているか。
わかる。
たぶん。
でも。
もう一つ。
もっと大事なこと。
僕は。
湊をどう思っている。
過去の僕じゃない。
一回目でも。
二回目でも。
三回目でもない。
今の僕。
今。
僕は。
久世湊を。
どう思っている。
会いたい。
一緒に帰りたい。
何を食べたか知りたい。
嫌いなしいたけを無理やり食べさせたい。
名前を呼びたい。
呼ばれたい。
袖をつかみたい。
笑ってほしい。
僕を知っていてほしい。
忘れたくない。
そして。
もう。
湊だけに。
過去の僕を見ていてほしくない。
僕はノートに。
もう一行書いた。
『今度は、僕が決める。』
「何を?」
声。
顔を上げる。
湊が立っていた。
「うわっ」
「何その反応」
「いつ来たの」
「今」
「見た?」
「何を」
慌ててノートを閉じる。
「何でもない」
「怪しい」
「見ないで」
「見ない」
向かいに座る。
「委員会?」
「終わった」
「遅かった」
「先生の話長かった」
「待った」
「悪い」
「プリン一個」
「何が」
「待った代」
「高い」
「じゃあ半分」
「それなら」
僕は笑う。
「帰ろ」
「ああ」
立ち上がる。
机の下。
あの落書き。
『飲めないなら買うな』
『新商品だったから』
昔の僕と。
昔の湊。
でも。
今。
ここにいる僕たちは。
過去じゃない。
*
喫茶アオ。
閉店前。
「本当に来るとは思わなかった」
店主が笑う。
「プリン二つ?」
「一つ」
僕が言う。
「半分こします」
店主が少し目を細めた。
「前もよくやってたね」
胸が。
少しだけ引っかかる。
でも。
今日は。
笑えた。
「じゃあ今日は前と違うことします」
「何」
湊が聞く。
「僕が大きいほう食べる」
「前もそうだった」
「台無し!」
湊が笑う。
「じゃあ」
僕はプリンを真ん中から割る。
片方。
少し大きい。
それを湊の皿に置いた。
「はい」
「俺?」
「うん」
「何で」
「前の僕はしなかったでしょ」
「たぶん」
「じゃあ今の僕」
湊が。
僕を見る。
「そういうこと?」
「そういうこと」
小さいほうを食べる。
「うまい」
「知ってる」
「禁止って言った」
「忘れてた」
「僕みたいに?」
言ってから。
しまった。
でも。
湊は。
少し笑った。
「それは笑えない」
「ごめん」
「でも」
「何」
「今のはちょっと面白かった」
「どっち」
「どっちも」
僕たちは。
笑った。
ほんの少しずつ。
忘れたことを。
笑えるようになっている。
*
帰り。
駅の改札前。
「じゃあまた明日」
「うん」
湊が離れる。
僕は。
一度手を上げて。
でも。
呼び止めた。
「湊」
「何」
「好きって」
彼の顔が強張る。
「言わなくていいよ」
僕は続けた。
「……」
「もう聞かない」
「本当に?」
「うん」
「何で急に」
「わかったから」
「何が」
僕は少し考えた。
「湊が言わなくても」
一歩。
近づく。
「僕が知ればいい」
「何を」
「湊のこと」
彼が黙る。
「それで」
僕は笑った。
平気なふりじゃない。
たぶん。
本当に笑っている。
「今度は僕が決める」
「何を」
「まだ秘密」
「何だよ」
「じゃあね」
改札を通る。
「律」
振り返る。
「何」
湊は。
少し迷ってから。
「明日も」
「うん」
「ちゃんと来いよ」
胸が。
ぎゅっとなる。
何でもない言葉。
でも。
僕には。
よくわかった。
明日も忘れないで。
そう聞こえた。
「行くよ」
僕は答えた。
「絶対」
湊は。
安心したように笑った。
好きとは。
言わなかった。
もう。
それでよかった。
僕は。
電車の中でスマホを開いた。
湊とのトーク画面。
消さない。
今日のことも。
明日のことも。
残していく。
そして。
家に着いてから。
現代文のノートを開いた。
『今度は、僕が決める。』
その下へ。
一行。
書き足す。
『過去の僕が三回好きになったからじゃない。』
少し考える。
もう一行。
『今の僕が、湊を好きになるかどうかを。』
ペンを置く。
まだ。
好きとは書かなかった。
でも。
なぜか。
答えはもう。
すぐそこまで来ている気がした。
頭ではわかっている。
湊は僕を嫌いになったわけじゃない。
むしろ逆だ。
僕を忘れさせたくないから。
自分がまた傷つきたくないから。
だから。
『俺はもう、好きって言わない』
そう決めただけ。
なのに。
次の日の朝。
教室へ入って湊の顔を見た瞬間。
僕は少し腹が立った。
「おはよう」
「おはよう」
普通。
いつも通り。
窓際の席で本を読んでいる。
「昨日ちゃんと帰れた?」
「ああ」
「何時?」
「七時前」
「ご飯何だった?」
「魚」
「何の」
「鮭」
「おいしかった?」
「普通」
普通。
全部普通。
僕だけが昨夜、ベッドの中で二時間も、
『もう好きって言わない』
を反芻していたみたいで。
馬鹿らしくなる。
「何」
湊が本を閉じた。
「別に」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「嘘」
「何で」
「お前も右手見るようになった」
僕は自分の手を見る。
親指。
握ってはいない。
「僕には嘘の癖ないよ」
「ある」
「何」
「笑う」
「え?」
「本当に平気じゃない時ほど笑う」
反射的に。
笑いそうになった。
やめた。
「そういうの」
「何」
「知ってるの、ずるい」
「またそれ?」
「だって僕、湊のことまだ全然知らない」
「聞けばいいだろ」
「じゃあ質問」
「何」
「僕のこと好き?」
湊の顔が止まった。
僕は。
自分でも性格が悪いと思う。
「律」
「質問したら答えていいって言った」
「それ以外」
「じゃあ好きじゃない?」
「そういう誘導もなし」
「面倒くさい」
「お前がな」
湊はまた本を開いた。
僕はその本を上から押さえる。
「読めない」
「知ってる」
「昨日からずっと考えてた」
湊の手が止まった。
「何を」
「本当に言葉だけなのかなって」
「……」
「湊が僕に好きって言う」
「うん」
「次の日、僕が忘れる」
「三回とも」
「それだけ?」
「何が」
「他に共通してること」
湊は本から手を離した。
「俺も考えた」
「何かある?」
「時間も場所も違う」
一回目。
駅までの道。
二回目。
河川敷。
三回目。
駅近くの公園。
「季節も違う」
「十月、十二月、六月」
「ああ」
「天気は?」
「一回目曇り。二回目晴れ。三回目晴れ」
「食べたもの」
「知らない」
「全部同じプリン食べてたり」
「ない」
「じゃあやっぱり」
「告白」
「だよね」
言ってから。
少し怖くなった。
「試す?」
僕が聞く。
湊の目が鋭くなった。
「絶対嫌だ」
「でも」
「嫌だ」
「一回だけ」
「三回やってる」
「実験としては」
「お前」
低い声。
本気で怒っている。
「自分が何言ってるかわかってる?」
「わかってる」
「わかってない」
「じゃあどうすれば確かめられるんだよ」
「確かめなくていい」
「僕は確かめたい」
「俺は嫌だ」
机を挟んで。
僕たちは黙った。
教室に生徒が増えてくる。
松岡が入口から僕たちを見て。
何かを察したのか。
そのまま別の友達のところへ行った。
「湊」
「何」
「怒った?」
「ああ」
「ごめん」
「謝るなら言うな」
「それは無理」
「何で」
「僕のことだから」
湊の眉が動く。
また。
この言葉。
「忘れるのも」
僕は続けた。
「好きになるのも、僕だろ」
「……」
「湊だけで決めないでよ」
河川敷で。
二回目の僕も。
同じようなことを言った。
勝手に決めるな。
僕の気持ちまで決めるな。
でも。
今なら。
湊の気持ちも少しわかる。
「でも」
僕は声を落とした。
「今すぐ試したいわけじゃない」
「絶対やらない」
「わかった」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんをつけるな」
少しだけ。
湊の顔が緩む。
「じゃあ」
僕は自分の席へ戻りかけて。
振り向く。
「別の言葉なら?」
「何」
「大事とか」
「は?」
「会いたいとか」
「律」
「かわいいとか」
「言うわけないだろ」
「今ちょっと照れた?」
「帰れ」
「自分の席に帰ります」
僕は笑いながら離れた。
でも。
胸の奥には。
小さな棘が残っていた。
言わない。
絶対に。
そう言われるたび。
本当は。
聞きたくなる。
*
昼休み。
僕たちは最近、ほとんど毎日一緒に昼を食べている。
一度目も。
二度目も。
三度目も。
きっと同じだった。
今日も湊の前の席に座る。
「これ」
パンを置く。
「何」
「新商品」
レモンクリームパン。
湊が袋を見る。
「炭酸じゃないよ」
「見ればわかる」
「前の僕は見なかったらしいから」
「お前はパッケージを読め」
「一口交換しよう」
「嫌だ」
「何で」
「俺こっちある」
湊の手元。
焼きそばパン。
「それ昨日も食べてなかった?」
「好きだから」
言った。
僕は反射的に顔を上げた。
湊も。
止まった。
「今」
「何」
「好きって言った」
「焼きそばパンがだろ」
「大丈夫?」
「何が」
「僕、忘れない?」
湊が呆れた顔をする。
「今すぐ忘れたらどうする」
「とりあえず保健室?」
「馬鹿」
「でも言ったよね」
「告白じゃない」
「じゃあ単語そのものじゃない」
湊の顔から。
少し表情が消えた。
僕も。
冗談をやめる。
「今の重要じゃない?」
「……かもな」
「じゃあ」
「本気の告白」
「ああ」
「湊から僕への」
「たぶん」
「僕が湊に言うのは?」
湊の目が動く。
「三回目」
「僕が先に言った」
「ああ」
「その時は忘れなかった?」
「その日の夜までは普通だった」
「じゃあ僕から言うだけなら」
「やめろ」
即答。
「まだ何も言ってない」
「顔でわかる」
「どんな顔」
「実験しようとしてる顔」
「そんな顔ある?」
「ある」
「僕しか知らない?」
「たぶん」
また。
それ。
湊だけが知っている僕。
でも。
少しずつ。
僕も湊のことを知り始めている。
嫌な話をするとコーヒーを飲む。
困ると左耳を触る。
本気で怒ると声が小さくなる。
僕が近づくと耳が赤くなる。
「ねえ」
「何」
「湊ってさ」
「うん」
「僕が好きって言うのも怖い?」
湊の手が止まった。
「……怖いよ」
予想していなかった。
もっと。
否定されると思った。
「何で」
「次に何が起こるかわからないから」
「僕から言っても?」
「お前が言ったら」
一度。
湊は視線を落とす。
「俺も返したくなる」
胸が。
大きく鳴った。
「返さなきゃいいじゃん」
「簡単に言うな」
「言わないって決めたんだろ」
「決めた」
「なら」
「お前に目の前で言われて」
湊が僕を見る。
「黙っていられる自信はない」
僕は。
言葉を失った。
数秒後。
「それ」
「何」
「ほぼ言ってない?」
「何を」
「僕のこと――」
「言うな」
パンの袋で口を塞がれた。
「むぐ」
「黙って食え」
僕は袋をどける。
「乱暴」
「誰のせいだ」
「湊」
「何」
「耳赤い」
「うるさい」
僕は笑った。
嬉しい。
聞いていないのに。
ちゃんと。
聞いた気がした。
*
六時間目。
現代文。
先生の声を聞きながら。
僕はノートの右上に四角を描いていた。
一個。
二個。
三個。
「朝倉」
先生に呼ばれる。
「はい」
「次読んで」
「どこですか」
教室が笑う。
「聞いてなかったな」
「すみません」
ページを教えてもらう。
読み始める。
途中。
何となく窓際を見る。
湊と目が合った。
ノートの右上。
指で示す。
四角。
僕は小さく睨んだ。
湊が笑う。
それだけ。
それだけなのに。
嬉しい。
先生にもう一度名前を呼ばれた。
「朝倉、読む」
「はい」
また教室が笑った。
*
放課後。
「図書室行く?」
僕が聞く。
「今日は無理」
「何で」
「委員会」
「何委員?」
「美化」
「似合わない」
「何が」
「掃除好きなの?」
「嫌い」
「じゃあ何で」
「余った」
「友達少なそうな決め方」
「余計なお世話」
「何時まで?」
「五時くらい」
「待ってる」
「何で」
「一緒に帰る」
「先帰れ」
「嫌」
「また」
「嫌なものは嫌」
湊が。
少しだけ笑う。
「わがまま」
「湊の前だけらしいから」
言うと。
表情が変わった。
嬉しいような。
悲しいような。
「何」
「いや」
「また前の僕思い出した?」
「少し」
「どんな」
「同じこと言った」
胸がざわつく。
「いつ」
「二回目の前」
「……そっか」
また。
過去の僕。
僕は。
その顔をしていたのか。
その言葉を言っていたのか。
たまに。
嫌になる。
何をしても。
『前も』
と言われる。
僕は。
前の自分をなぞっているだけなのか。
「やっぱ帰る」
「え?」
「待つって言っただろ」
「気が変わった」
「律」
「また明日」
笑う。
たぶん。
平気じゃない時の笑い方。
湊が僕の腕を掴んだ。
「待て」
「委員会遅れるよ」
「何怒ってる」
「怒ってない」
「嘘」
「証拠は」
「笑ってる」
僕は笑うのをやめた。
「……毎回さ」
「何」
「僕が何かすると」
言わないつもりだった。
でも。
湊には。
言ってしまう。
「前もやったって言うじゃん」
湊が黙る。
「前もそう言った」
「……」
「前もここに来た」
「律」
「前も好きだった」
喉が。
少し苦しくなる。
「僕って何なの」
「何って」
「四人目?」
「は?」
「一度目の僕」
指を一本。
「二度目」
二本。
「三度目」
三本。
「今」
四本。
「四人いるみたい」
「同じお前だろ」
「僕には違う」
「律」
「だって知らないんだよ」
声が強くなる。
「湊が知ってる僕のこと」
廊下。
部活へ向かう生徒が通る。
僕たちは少し端へ寄る。
「僕が湊を好きだったことも」
「……」
「泣いたことも」
「……」
「手つないだことも」
「律」
「全部知らない」
湊が手を離した。
僕は。
それが嫌だった。
「なのに」
続ける。
「僕が何かするたび、前の僕が出てくる」
「そんなつもりで」
「わかってる」
責めたいわけじゃない。
湊は悪くない。
覚えているだけ。
「でもさ」
僕は俯いた。
「湊はどの僕が好きなの」
沈黙。
自分で言って。
胸が痛くなった。
「一回目?」
「律」
「二回目?」
「やめろ」
「三回目?」
「やめろって」
「今の僕?」
湊の声が消える。
ほら。
答えられない。
そう思った瞬間。
「全部だよ」
低い声。
顔を上げる。
湊は。
怒っていた。
「全部お前だ」
「でも」
「一回目も二回目も三回目も」
僕を見る。
「今も」
強い目。
「全部、朝倉律だ」
心臓が鳴る。
「記憶がなくなったから別人になるわけじゃない」
「湊にはそう見えるかもしれないけど」
「見えるんじゃない」
「じゃあ」
「知ってるんだよ」
湊の声が。
少し震えた。
「お前が忘れても」
「……」
「笑い方も」
「……」
「怒り方も」
「……」
「好きなものも」
「……」
「嫌なものも」
一つずつ。
「変わってない」
「でも」
「毎回」
湊の目が僕を離さない。
「また俺の前でわがままになる」
息が止まる。
「また俺のパン勝手に食う」
「一回しか」
「何回もある」
「……」
「また袖つかむ」
「……」
「また名前で呼ぶ」
胸が熱い。
「また俺を」
そこで。
湊は止まった。
言わない。
最後の言葉を。
「何」
僕が聞く。
「何でもない」
「言って」
「言わない」
「湊」
「言わない」
僕には。
続きがわかった。
また俺を好きになる。
たぶん。
そう言おうとした。
でも。
言わなかった。
「……ずるい」
「何が」
「そこまで言ったら同じじゃん」
「違う」
「何が違う」
「言葉にしない」
「意味は同じ」
「それでも」
湊は。
静かに言った。
「もう言わない」
僕は。
また少し腹が立った。
でも。
今度は。
悲しくはなかった。
「わかった」
「本当に?」
「うん」
「何か企んでる?」
「失礼」
「顔」
「どんな顔」
「企んでる顔」
「僕より僕を知ってるんでしょ」
「だからわかる」
僕は笑う。
「委員会行きなよ」
「待ってる?」
「待ってる」
「絶対?」
「うん」
湊が歩き出す。
数歩。
「湊」
振り向く。
「何」
「今の僕も?」
「何が」
「大事?」
ずるい質問。
わかっている。
湊は少しだけ。
困った顔をした。
それから。
「ああ」
一言。
好きではない。
でも。
十分だった。
「そっか」
「じゃあ行く」
「うん」
廊下の向こうへ。
湊が消える。
僕は。
その背中を見送った。
大事。
僕は湊にとって。
大事。
それなら。
今は。
それでいい。
*
図書室。
五時十分。
湊はまだ来ない。
僕は窓際の席で本を開いていた。
でも。
全然頭に入らない。
ノートを開く。
何となく。
右上に四角。
一個。
二個。
やめる。
代わりに。
真ん中へ。
一行書いた。
『湊はもう好きと言わない。』
その下。
『僕はそれが嫌だった。』
さらに。
『でも、聞かなくてもわかることはある。』
ペンが止まる。
本当に?
わかる?
湊が。
僕をどう思っているか。
わかる。
たぶん。
でも。
もう一つ。
もっと大事なこと。
僕は。
湊をどう思っている。
過去の僕じゃない。
一回目でも。
二回目でも。
三回目でもない。
今の僕。
今。
僕は。
久世湊を。
どう思っている。
会いたい。
一緒に帰りたい。
何を食べたか知りたい。
嫌いなしいたけを無理やり食べさせたい。
名前を呼びたい。
呼ばれたい。
袖をつかみたい。
笑ってほしい。
僕を知っていてほしい。
忘れたくない。
そして。
もう。
湊だけに。
過去の僕を見ていてほしくない。
僕はノートに。
もう一行書いた。
『今度は、僕が決める。』
「何を?」
声。
顔を上げる。
湊が立っていた。
「うわっ」
「何その反応」
「いつ来たの」
「今」
「見た?」
「何を」
慌ててノートを閉じる。
「何でもない」
「怪しい」
「見ないで」
「見ない」
向かいに座る。
「委員会?」
「終わった」
「遅かった」
「先生の話長かった」
「待った」
「悪い」
「プリン一個」
「何が」
「待った代」
「高い」
「じゃあ半分」
「それなら」
僕は笑う。
「帰ろ」
「ああ」
立ち上がる。
机の下。
あの落書き。
『飲めないなら買うな』
『新商品だったから』
昔の僕と。
昔の湊。
でも。
今。
ここにいる僕たちは。
過去じゃない。
*
喫茶アオ。
閉店前。
「本当に来るとは思わなかった」
店主が笑う。
「プリン二つ?」
「一つ」
僕が言う。
「半分こします」
店主が少し目を細めた。
「前もよくやってたね」
胸が。
少しだけ引っかかる。
でも。
今日は。
笑えた。
「じゃあ今日は前と違うことします」
「何」
湊が聞く。
「僕が大きいほう食べる」
「前もそうだった」
「台無し!」
湊が笑う。
「じゃあ」
僕はプリンを真ん中から割る。
片方。
少し大きい。
それを湊の皿に置いた。
「はい」
「俺?」
「うん」
「何で」
「前の僕はしなかったでしょ」
「たぶん」
「じゃあ今の僕」
湊が。
僕を見る。
「そういうこと?」
「そういうこと」
小さいほうを食べる。
「うまい」
「知ってる」
「禁止って言った」
「忘れてた」
「僕みたいに?」
言ってから。
しまった。
でも。
湊は。
少し笑った。
「それは笑えない」
「ごめん」
「でも」
「何」
「今のはちょっと面白かった」
「どっち」
「どっちも」
僕たちは。
笑った。
ほんの少しずつ。
忘れたことを。
笑えるようになっている。
*
帰り。
駅の改札前。
「じゃあまた明日」
「うん」
湊が離れる。
僕は。
一度手を上げて。
でも。
呼び止めた。
「湊」
「何」
「好きって」
彼の顔が強張る。
「言わなくていいよ」
僕は続けた。
「……」
「もう聞かない」
「本当に?」
「うん」
「何で急に」
「わかったから」
「何が」
僕は少し考えた。
「湊が言わなくても」
一歩。
近づく。
「僕が知ればいい」
「何を」
「湊のこと」
彼が黙る。
「それで」
僕は笑った。
平気なふりじゃない。
たぶん。
本当に笑っている。
「今度は僕が決める」
「何を」
「まだ秘密」
「何だよ」
「じゃあね」
改札を通る。
「律」
振り返る。
「何」
湊は。
少し迷ってから。
「明日も」
「うん」
「ちゃんと来いよ」
胸が。
ぎゅっとなる。
何でもない言葉。
でも。
僕には。
よくわかった。
明日も忘れないで。
そう聞こえた。
「行くよ」
僕は答えた。
「絶対」
湊は。
安心したように笑った。
好きとは。
言わなかった。
もう。
それでよかった。
僕は。
電車の中でスマホを開いた。
湊とのトーク画面。
消さない。
今日のことも。
明日のことも。
残していく。
そして。
家に着いてから。
現代文のノートを開いた。
『今度は、僕が決める。』
その下へ。
一行。
書き足す。
『過去の僕が三回好きになったからじゃない。』
少し考える。
もう一行。
『今の僕が、湊を好きになるかどうかを。』
ペンを置く。
まだ。
好きとは書かなかった。
でも。
なぜか。
答えはもう。
すぐそこまで来ている気がした。



