僕は、久世湊の袖をつかんだまま、十五分歩いた。
正確に言えば、最初の三分くらいは本当に袖をつかんでいた。
そのあと、
「歩きにくい」
と湊に言われたので離した。
「じゃあ言わなきゃいいのに」
「何を」
「帰りたくない時、前もこうしてたって」
「俺のせい?」
「そう」
「理不尽だな」
「前の僕も理不尽だった?」
「かなり」
「嫌だった?」
「……別に」
右手を見る。
親指。
握っている。
「嘘」
「最近それ万能だと思ってない?」
「便利だから」
「癖直そうかな」
「困る」
「何で」
「湊が嘘ついてるかわからなくなる」
「わからなくていいだろ」
「嫌だ」
また。
自然に出た。
嫌だ。
僕は普段、人にそんな言い方をしない。
松岡に何かを断る時だって、
「まあ今日はいいかな」
とか、
「また今度」
とか。
なるべく角が立たない言葉を選ぶ。
でも湊には。
嫌。
知りたい。
教えて。
帰りたくない。
そんな言葉が、考えるより先に口から出る。
湊が言っていた。
俺の前でだけ、お前はわがままだった。
その意味が。
少しずつわかり始めていた。
*
家に帰ると、母さんはまだ仕事から戻っていなかった。
冷蔵庫に、
『カレー温めて食べて』
というメモが貼ってある。
電子レンジに皿を入れたところで、スマホが震えた。
湊。
『帰った?』
僕は少し笑った。
『今帰った』
返信。
『飯食え』
『今温めてる』
『カレー?』
指が止まる。
『なんでわかるの』
『水曜だから』
冷蔵庫を見る。
確かに。
母さんは水曜にカレーを作ることが多い。
でも毎週というわけではない。
『水曜はいつもカレーなの?』
『お前の家はだいたい』
『そこまで知ってるの怖い』
送ってから。
しまったと思った。
昨日から何度目だろう。
怖い。
その言葉を言うたび、湊は少し傷つく。
慌てて続ける。
『いい意味で』
すぐに、
『いい意味の怖いって何だよ』
と返ってきた。
少し安心する。
『愛が重い的な』
送信。
既読。
返事が来ない。
「……何送ってるんだ僕」
顔が熱くなる。
削除しようとした瞬間。
『知ってる』
「は?」
『何を?』
『重いのは自覚してる』
返事に困った。
カレーが温まった音がする。
それでも僕はスマホを見ていた。
『嫌?』
今度は湊から。
短い二文字。
僕はしばらく考えた。
嫌か。
僕の食べ物の好みを知っている。
癖を知っている。
家で水曜にカレーを食べることまで知っている。
普通なら。
たぶん少し気味が悪い。
なのに。
『嫌じゃない』
そう送った。
すぐ既読がついた。
『そっか』
それだけ。
でも、なぜか。
その「そっか」が嬉しそうに見えた。
*
カレーを食べ終えたあと。
僕は自分の部屋の机を開けた。
何となく。
本当に何となく。
昔のものを調べてみようと思った。
スマホから湊との記録を消したのなら。
紙なら。
何か残っているかもしれない。
学校のプリント。
去年の教科書。
模試の結果。
図書館の貸出票。
使い終わったノート。
一年生の頃のものは、机の一番下の引き出しにまとめて入れてあった。
「汚いな」
我ながら驚く。
捨てればいいプリントまで残っている。
数学。
現代文。
英語。
一冊ずつめくる。
特に何もない。
湊という文字もない。
久世という文字もない。
四冊目。
去年の現代文ノート。
後ろから数ページめくった時だった。
一枚だけ。
紙が不自然に厚い。
「何だ?」
二ページが糊で貼り合わされている。
端から慎重にはがす。
中に。
折り畳んだ紙が入っていた。
ルーズリーフ。
僕の字。
上に書かれていた。
『もしまた忘れたら読むこと』
息が止まった。
手が動かない。
もしまた。
忘れたら。
僕は椅子に座った。
紙を開く。
最初の一行。
『久世湊は悪くない。』
心臓が鳴った。
続けて読む。
『これを読んでいる僕が、もし久世のことを覚えていなかったら、最初にこれだけは信じてほしい。久世は何もしていない。僕を騙していないし、変なこともしていない。』
「……何これ」
僕自身が。
今の僕へ書いている。
『たぶん僕はまた疑うと思う。だって普通じゃないから。昨日まで知っていた人を急に忘れるなんて変だから。でも、本当にある。僕は一度、久世湊を忘れた。』
一度。
ということは。
この紙は。
二回目より前に書かれた。
僕は読み進める。
『最初に忘れたのは十月十八日。』
去年。
半年以上前。
『十月十七日の放課後、久世に告白された。』
指が止まった。
これだ。
一度目。
『正確に言うと、告白されたという言い方は少し違う。僕が言わせた。』
胸がざわつく。
昨日の湊も同じことを言っていた。
三回目。
僕が言わせた、と。
『久世はずっと何か言いたそうだった。でも言わないから、腹が立って、帰り道で問い詰めた。』
僕は。
紙に書かれた文字を追った。
すると。
文字の向こうに。
少しずつ景色が浮かんでくる気がした。
*
十月十七日。
放課後。
たぶん。
空は曇っていた。
僕と湊は学校から駅へ向かって歩いていた。
そんな場面を想像する。
いや。
想像なのか。
記憶なのか。
まだわからない。
『今日、変』
僕が言う。
『何が』
湊。
『湊が』
『いつもだろ』
『そういう意味じゃない』
僕は歩きながら、湊の顔を覗き込む。
『何か隠してる』
『隠してない』
『嘘』
『何で』
『右手』
そこで僕は紙から目を上げた。
親指。
もうその頃から知っていた。
湊の癖。
また読む。
『この頃の僕はもう、湊が嘘をつくと親指を握ることを知っていた。』
胸が少し熱くなった。
『だから言った。』
『言いたいことあるなら言えば』
湊は黙る。
『ない』
『嘘』
『ない』
『だったら帰る』
『帰れば』
『本当に帰るよ』
『帰ればいいだろ』
僕は腹を立てる。
『じゃあ帰る』
駅の手前。
そこで僕は一人で歩き出す。
十歩。
二十歩。
でも湊は追ってこない。
『最低』
たぶん。
僕はそう言った。
紙にもそう書いてある。
『本当に追いかけてこなかったから、めちゃくちゃ腹が立った。だから僕のほうから戻った。』
笑いそうになる。
「何やってるんだよ」
昔の自分に言った。
『それで湊に言った。』
『なんで追いかけてこないの』
『帰るって言ったのお前だろ』
『本当に帰るわけないじゃん』
『知らないよ』
『知ってよ』
そこまで読んで。
僕は目を閉じた。
知ってよ。
そんな言葉。
今の僕は。
誰にも言ったことがない。
でも。
湊には言った。
『そのあと、湊はしばらく黙っていた。』
『律』
『何』
『俺のことさ』
『うん』
『どう思ってる』
『何急に』
『いいから』
『友達』
湊の顔が曇る。
『それだけ?』
『何で』
『いや』
『湊は?』
『何が』
『僕のこと』
沈黙。
『友達』
『嘘』
『友達だよ』
『右手』
湊を見る。
握っている。
『だから僕は言った。』
『ちゃんと言って』
『何を』
『僕のこと、どう思ってるか』
『聞かないほうがいい』
『何で』
『今のままでいられなくなるから』
胸が。
強く鳴った。
僕は紙を持つ手に力を入れた。
続き。
『その時、僕はたぶんもう気づいていた。』
『湊が僕を好きなんじゃないかって。』
文字が少し震えている。
書いた時の僕の手も。
震えていたのかもしれない。
『でも、聞きたかった。』
『だからもう一度言った。』
『言ってよ』
湊は長い間黙る。
そして。
『好き』
一言。
それだけ。
僕は息を止めた。
読んでいるだけなのに。
自分が言われたみたいに。
胸が熱くなった。
『僕は何も言えなかった。』
紙には続いている。
『湊は笑った。』
『だから言わなきゃよかったんだ』
『待って』
『いいよ』
『よくない』
『忘れて』
『無理』
『じゃあ聞かなかったことにして』
『もっと無理』
僕は。
その場面を。
なぜか鮮明に想像できた。
湊はきっと。
右手を握っていた。
目を逸らして。
平気なふりをして。
『僕はその時、何て答えればいいかわからなかった。』
『でも、湊が帰ろうとしたから、袖をつかんだ。』
昨日。
僕がしたこと。
同じ。
『帰らないで』
胸の奥。
何かが動いた。
声。
湊の。
『律』
『まだ答え聞いてないでしょ』
『今すぐじゃなくていい』
『僕が嫌』
『何が』
『明日まで考えるのが』
僕は。
たぶん笑った。
『僕も好き』
紙の文字が滲んで見えた。
僕は瞬きをする。
泣いてはいない。
ただ。
目が熱い。
『その時、湊は本当に馬鹿みたいな顔をした。』
思わず笑う。
『たぶん人生で一番間抜けな顔だった。』
今度、本当に笑った。
「ひどいな、僕」
でも。
その次。
『それから湊が聞いた。』
『本当に?』
『本当に』
『俺のこと?』
『他に誰がいるんだよ』
『男だよ』
『知ってる』
『律も男だろ』
『知ってるよ』
『じゃあ』
『何』
『いいの?』
そこで。
僕は読むのを止めた。
いいの?
その意味。
たぶん。
僕にはわかる。
湊は。
僕が自分を好きだと言ったことを。
簡単には信じられなかったんだ。
『僕はその時、少し腹が立った。』
『だから言った。』
『湊が男だから好きなんじゃない』
『……』
『男なのに好きになったんでもない』
『じゃあ何』
『湊だから好き』
息が。
できなくなった。
自分で書いた言葉。
なのに。
知らない。
僕がそんなことを言ったなんて。
『たぶんこれが一度目の告白。』
『湊から僕に。』
『僕から湊に。』
僕は紙を机に置いた。
しばらく。
読めなかった。
*
十分くらい経ってから。
続きを読んだ。
『その日は付き合わなかった。』
「え?」
思わず声が出た。
『湊が、ちゃんと考えてから返事してくれって言ったから。僕はもう返事したのに、しつこかった。』
湊らしい。
『だから次の日、学校で会ったら、もう一度言うつもりだった。』
『でも。』
文字の間が。
そこで大きく空いていた。
『翌朝、僕は湊を忘れた。』
胸が沈む。
『教室で知らない奴に話しかけられたと思った。』
今と同じ。
『湊は最初、冗談だと思った。』
『僕も、湊がふざけてると思った。』
『松岡が、僕たちは毎日一緒にいたって教えてくれた。』
同じ。
全部。
今と。
『その日の放課後、湊から昨日のことを聞いた。』
『好きだと言ったことも。』
『僕が好きだと返したことも。』
『でも僕は信じられなかった。』
その一文が。
痛かった。
今の僕も。
同じだったから。
『湊は証拠を見せてくれた。』
『写真。』
『メッセージ。』
『図書室で一緒に借りた本。』
『喫茶アオのレシート。』
『それでも僕は、気持ちだけは信じられなかった。』
なぜ。
『だって、今の僕は湊を好きじゃなかったから。』
心臓が。
嫌な音を立てた。
『好きだった記憶がないというより、好きだった気持ちがない。』
『それが一番怖かった。』
僕は紙から目を離した。
今。
僕は湊をどう思っている?
気になる。
会いたい。
知りたい。
名前で呼ばれると。
胸が鳴る。
袖をつかみたくなる。
それは。
好きなのか。
まだ。
わからない。
続きを読む。
『湊は僕に、もう気にしなくていいと言った。』
『なかったことにしていいと言った。』
『でも僕は嫌だった。』
『僕の知らないところで、僕が誰かを好きだったことが。』
『その誰かが今も僕を好きなことが。』
『なのに僕だけ、何も持っていないことが。』
今の僕と。
まったく同じだった。
『だから決めた。』
『もう一度、湊を知る。』
呼吸が止まる。
『それで、もう一度好きになるか試してみる。』
僕は。
笑いそうになった。
「何だよ」
僕は紙に言った。
「同じじゃん」
半年以上前の僕も。
今の僕も。
同じことをしている。
湊を知ろうとして。
一緒にパンを食べて。
図書室へ行って。
喫茶アオへ行って。
『もしこの紙を読む僕が、また湊を忘れているなら。』
最後のほう。
『たぶん、同じことがまた起きたんだと思う。』
『その時の僕にお願いがある。』
文字が。
少し大きくなっている。
『湊を疑わないで。』
『怖がらないで。』
『久世湊は、僕が忘れていい人じゃない。』
胸の奥で。
何かが崩れた。
最後。
『それから。』
『できれば、また名前で呼んであげて。』
『湊は、僕が「湊」って呼ぶと嬉しそうだから。』
そこで。
紙は終わっていた。
*
気づいたら。
スマホを持っていた。
時刻。
午後九時二十七分。
湊との画面を開く。
『起きてる?』
送る。
既読。
早い。
『起きてる』
『電話していい?』
返事を待つ。
三秒。
『何かあった?』
『いいから』
すぐに電話がかかってきた。
「もしもし」
湊の声。
たったそれだけで。
胸が苦しくなった。
『律?』
「うん」
『どうした』
「……一個、見つけた」
沈黙。
『何を』
「手紙」
『手紙?』
「僕が僕に書いたやつ」
向こうで。
湊が息を止めたのがわかった。
『どこにあった』
「現代文のノート」
『……そうか』
「知ってた?」
『知らない』
右手は見えない。
でも。
これはたぶん本当だ。
「一回目のこと書いてあった」
しばらく。
何も聞こえない。
「十月十七日」
『うん』
「駅までの道」
『うん』
「僕が湊に言わせた」
『……うん』
「好きって」
声に出した瞬間。
顔が熱くなる。
電話の向こうで。
湊が小さく息を吐いた。
「本当なんだね」
『何が』
「僕が」
一度。
喉が詰まる。
「湊を好きだったこと」
沈黙。
『本当だよ』
「紙に書いてあった」
『そう』
「僕も好きって言った」
『ああ』
「湊だから好きって」
『律』
「何」
『そこまで読まなくていい』
「何で」
『恥ずかしい』
思わず笑った。
「湊も恥ずかしいんだ」
『当たり前だろ』
「意外」
『切るぞ』
「待って」
『何』
少し迷う。
「その日」
『うん』
「嬉しかった?」
また。
長い沈黙。
『嬉しかったよ』
「どれくらい」
『何で聞くんだよ』
「知りたい」
『……』
「知り合い直してるから」
湊が。
電話の向こうで笑った。
声だけ。
でもわかった。
『たぶん』
「うん」
『人生で一番』
胸が痛んだ。
嬉しいのに。
痛い。
「そっか」
『うん』
「なのに次の日」
言えなくなる。
『忘れた』
湊が代わりに言った。
「……ごめん」
『謝るな』
「でも」
『それも前のお前に何回も言った』
「何て」
『ごめんって』
「湊は?」
『謝るなって』
「同じだ」
『ああ』
僕は机の上の紙を見る。
「ねえ」
『何』
「一回目に僕が忘れたあと」
『うん』
「僕たち、どうなった?」
返事がない。
「手紙には、もう一度湊を知るって書いてある」
『そうだった』
「それで?」
『また一緒にいた』
「どれくらい」
『しばらく』
「それだけ?」
『律』
声が変わった。
少し。
警戒するような。
「何」
『今日はそこまでにしろ』
「何で」
『一気に思い出そうとするな』
「またそれ」
『頼むから』
強い声ではなかった。
だから余計に。
止まった。
「……わかった」
『悪い』
「でも一個だけ」
『何』
「二回目も」
心臓が鳴る。
「湊が告白したの?」
電話の向こうが。
静かになった。
「湊?」
『……ああ』
「やっぱり」
『うん』
「僕は?」
『何が』
「また湊を好きになった?」
沈黙。
今度は。
長かった。
『なったよ』
胸が。
ぎゅっと縮む。
「本当に?」
『本当に』
「一回忘れたのに?」
『ああ』
「また?」
『また』
僕は。
なぜか笑った。
「僕、しつこいね」
『どっちが』
「僕」
『俺だろ』
「何で」
『忘れられてもずっといた』
声が。
少しだけ。
寂しくなった。
『普通は諦める』
「じゃあ何で諦めなかったの」
聞いて。
すぐ後悔した。
答えはわかっている。
湊はもう。
その言葉を言わないと決めている。
『寝ろ』
案の定。
逃げた。
「またそれ」
『眠いだろ』
「まだ」
『嘘』
「句読点ある」
『声でわかる』
「そこまで?」
『知ってるから』
また。
その言葉。
でも今日は。
怖くなかった。
「湊」
『何』
「ありがとう」
『何が』
「忘れないでいてくれて」
電話の向こうで。
何かが止まったような気がした。
『……それ』
「何」
『前も言われた』
「僕に?」
『二回目の前』
「同じこと?」
『ほぼ』
「じゃあ取り消す」
『何で』
「前の僕と同じなの悔しい」
湊が。
声を出して笑った。
初めて聞いたかもしれない。
こんな笑い方。
静かで。
低くて。
でも。
ちゃんと楽しそう。
僕も笑った。
「おやすみ、湊」
言う。
笑い声が止まる。
『……おやすみ、律』
電話が切れた。
僕はスマホを置いた。
机の上。
過去の僕から届いた手紙。
もう一度読む。
『久世湊は、僕が忘れていい人じゃない。』
指で。
その文字をなぞる。
一度目。
僕は湊を好きになった。
忘れた。
それでも。
二度目。
また。
同じ人を好きになった。
そして。
三度目も。
たぶん。
僕は。
机の上のスマホを見る。
今の僕は。
四度目なのだろうか。
まだ。
好きとは言えない。
でも。
ひとつだけ。
もうわかっている。
久世湊は。
僕が忘れていい人じゃない。
*
翌朝。
僕はいつもより早く学校へ行った。
教室。
まだ誰もいない。
窓際。
湊の席。
僕はその机に。
クリームパンを置いた。
牛乳。
普通の。
低脂肪じゃないやつ。
それから。
小さな付箋を一枚。
『一回目の僕から聞いた。今日もよろしく。』
書いて。
少し考える。
下に一行足した。
『湊へ』
名字ではなく。
名前。
自分の席へ戻る。
しばらくして。
教室のドアが開いた。
湊が入ってきた。
僕を見る。
それから自分の席。
パン。
牛乳。
付箋。
手に取る。
読む。
動かない。
「おはよう」
僕が言った。
湊が顔を上げる。
「……おはよう」
「どうしたの」
「別に」
「顔赤い」
「赤くない」
「赤い」
「うるさい」
右手。
親指を握っている。
僕は笑った。
「今日も嘘ついてる」
湊は付箋を握ったまま。
困ったように。
少しだけ笑った。
その笑顔を見て。
僕は思った。
一度目の僕が。
この人を好きになった理由を。
僕はもう。
少し知っている。
正確に言えば、最初の三分くらいは本当に袖をつかんでいた。
そのあと、
「歩きにくい」
と湊に言われたので離した。
「じゃあ言わなきゃいいのに」
「何を」
「帰りたくない時、前もこうしてたって」
「俺のせい?」
「そう」
「理不尽だな」
「前の僕も理不尽だった?」
「かなり」
「嫌だった?」
「……別に」
右手を見る。
親指。
握っている。
「嘘」
「最近それ万能だと思ってない?」
「便利だから」
「癖直そうかな」
「困る」
「何で」
「湊が嘘ついてるかわからなくなる」
「わからなくていいだろ」
「嫌だ」
また。
自然に出た。
嫌だ。
僕は普段、人にそんな言い方をしない。
松岡に何かを断る時だって、
「まあ今日はいいかな」
とか、
「また今度」
とか。
なるべく角が立たない言葉を選ぶ。
でも湊には。
嫌。
知りたい。
教えて。
帰りたくない。
そんな言葉が、考えるより先に口から出る。
湊が言っていた。
俺の前でだけ、お前はわがままだった。
その意味が。
少しずつわかり始めていた。
*
家に帰ると、母さんはまだ仕事から戻っていなかった。
冷蔵庫に、
『カレー温めて食べて』
というメモが貼ってある。
電子レンジに皿を入れたところで、スマホが震えた。
湊。
『帰った?』
僕は少し笑った。
『今帰った』
返信。
『飯食え』
『今温めてる』
『カレー?』
指が止まる。
『なんでわかるの』
『水曜だから』
冷蔵庫を見る。
確かに。
母さんは水曜にカレーを作ることが多い。
でも毎週というわけではない。
『水曜はいつもカレーなの?』
『お前の家はだいたい』
『そこまで知ってるの怖い』
送ってから。
しまったと思った。
昨日から何度目だろう。
怖い。
その言葉を言うたび、湊は少し傷つく。
慌てて続ける。
『いい意味で』
すぐに、
『いい意味の怖いって何だよ』
と返ってきた。
少し安心する。
『愛が重い的な』
送信。
既読。
返事が来ない。
「……何送ってるんだ僕」
顔が熱くなる。
削除しようとした瞬間。
『知ってる』
「は?」
『何を?』
『重いのは自覚してる』
返事に困った。
カレーが温まった音がする。
それでも僕はスマホを見ていた。
『嫌?』
今度は湊から。
短い二文字。
僕はしばらく考えた。
嫌か。
僕の食べ物の好みを知っている。
癖を知っている。
家で水曜にカレーを食べることまで知っている。
普通なら。
たぶん少し気味が悪い。
なのに。
『嫌じゃない』
そう送った。
すぐ既読がついた。
『そっか』
それだけ。
でも、なぜか。
その「そっか」が嬉しそうに見えた。
*
カレーを食べ終えたあと。
僕は自分の部屋の机を開けた。
何となく。
本当に何となく。
昔のものを調べてみようと思った。
スマホから湊との記録を消したのなら。
紙なら。
何か残っているかもしれない。
学校のプリント。
去年の教科書。
模試の結果。
図書館の貸出票。
使い終わったノート。
一年生の頃のものは、机の一番下の引き出しにまとめて入れてあった。
「汚いな」
我ながら驚く。
捨てればいいプリントまで残っている。
数学。
現代文。
英語。
一冊ずつめくる。
特に何もない。
湊という文字もない。
久世という文字もない。
四冊目。
去年の現代文ノート。
後ろから数ページめくった時だった。
一枚だけ。
紙が不自然に厚い。
「何だ?」
二ページが糊で貼り合わされている。
端から慎重にはがす。
中に。
折り畳んだ紙が入っていた。
ルーズリーフ。
僕の字。
上に書かれていた。
『もしまた忘れたら読むこと』
息が止まった。
手が動かない。
もしまた。
忘れたら。
僕は椅子に座った。
紙を開く。
最初の一行。
『久世湊は悪くない。』
心臓が鳴った。
続けて読む。
『これを読んでいる僕が、もし久世のことを覚えていなかったら、最初にこれだけは信じてほしい。久世は何もしていない。僕を騙していないし、変なこともしていない。』
「……何これ」
僕自身が。
今の僕へ書いている。
『たぶん僕はまた疑うと思う。だって普通じゃないから。昨日まで知っていた人を急に忘れるなんて変だから。でも、本当にある。僕は一度、久世湊を忘れた。』
一度。
ということは。
この紙は。
二回目より前に書かれた。
僕は読み進める。
『最初に忘れたのは十月十八日。』
去年。
半年以上前。
『十月十七日の放課後、久世に告白された。』
指が止まった。
これだ。
一度目。
『正確に言うと、告白されたという言い方は少し違う。僕が言わせた。』
胸がざわつく。
昨日の湊も同じことを言っていた。
三回目。
僕が言わせた、と。
『久世はずっと何か言いたそうだった。でも言わないから、腹が立って、帰り道で問い詰めた。』
僕は。
紙に書かれた文字を追った。
すると。
文字の向こうに。
少しずつ景色が浮かんでくる気がした。
*
十月十七日。
放課後。
たぶん。
空は曇っていた。
僕と湊は学校から駅へ向かって歩いていた。
そんな場面を想像する。
いや。
想像なのか。
記憶なのか。
まだわからない。
『今日、変』
僕が言う。
『何が』
湊。
『湊が』
『いつもだろ』
『そういう意味じゃない』
僕は歩きながら、湊の顔を覗き込む。
『何か隠してる』
『隠してない』
『嘘』
『何で』
『右手』
そこで僕は紙から目を上げた。
親指。
もうその頃から知っていた。
湊の癖。
また読む。
『この頃の僕はもう、湊が嘘をつくと親指を握ることを知っていた。』
胸が少し熱くなった。
『だから言った。』
『言いたいことあるなら言えば』
湊は黙る。
『ない』
『嘘』
『ない』
『だったら帰る』
『帰れば』
『本当に帰るよ』
『帰ればいいだろ』
僕は腹を立てる。
『じゃあ帰る』
駅の手前。
そこで僕は一人で歩き出す。
十歩。
二十歩。
でも湊は追ってこない。
『最低』
たぶん。
僕はそう言った。
紙にもそう書いてある。
『本当に追いかけてこなかったから、めちゃくちゃ腹が立った。だから僕のほうから戻った。』
笑いそうになる。
「何やってるんだよ」
昔の自分に言った。
『それで湊に言った。』
『なんで追いかけてこないの』
『帰るって言ったのお前だろ』
『本当に帰るわけないじゃん』
『知らないよ』
『知ってよ』
そこまで読んで。
僕は目を閉じた。
知ってよ。
そんな言葉。
今の僕は。
誰にも言ったことがない。
でも。
湊には言った。
『そのあと、湊はしばらく黙っていた。』
『律』
『何』
『俺のことさ』
『うん』
『どう思ってる』
『何急に』
『いいから』
『友達』
湊の顔が曇る。
『それだけ?』
『何で』
『いや』
『湊は?』
『何が』
『僕のこと』
沈黙。
『友達』
『嘘』
『友達だよ』
『右手』
湊を見る。
握っている。
『だから僕は言った。』
『ちゃんと言って』
『何を』
『僕のこと、どう思ってるか』
『聞かないほうがいい』
『何で』
『今のままでいられなくなるから』
胸が。
強く鳴った。
僕は紙を持つ手に力を入れた。
続き。
『その時、僕はたぶんもう気づいていた。』
『湊が僕を好きなんじゃないかって。』
文字が少し震えている。
書いた時の僕の手も。
震えていたのかもしれない。
『でも、聞きたかった。』
『だからもう一度言った。』
『言ってよ』
湊は長い間黙る。
そして。
『好き』
一言。
それだけ。
僕は息を止めた。
読んでいるだけなのに。
自分が言われたみたいに。
胸が熱くなった。
『僕は何も言えなかった。』
紙には続いている。
『湊は笑った。』
『だから言わなきゃよかったんだ』
『待って』
『いいよ』
『よくない』
『忘れて』
『無理』
『じゃあ聞かなかったことにして』
『もっと無理』
僕は。
その場面を。
なぜか鮮明に想像できた。
湊はきっと。
右手を握っていた。
目を逸らして。
平気なふりをして。
『僕はその時、何て答えればいいかわからなかった。』
『でも、湊が帰ろうとしたから、袖をつかんだ。』
昨日。
僕がしたこと。
同じ。
『帰らないで』
胸の奥。
何かが動いた。
声。
湊の。
『律』
『まだ答え聞いてないでしょ』
『今すぐじゃなくていい』
『僕が嫌』
『何が』
『明日まで考えるのが』
僕は。
たぶん笑った。
『僕も好き』
紙の文字が滲んで見えた。
僕は瞬きをする。
泣いてはいない。
ただ。
目が熱い。
『その時、湊は本当に馬鹿みたいな顔をした。』
思わず笑う。
『たぶん人生で一番間抜けな顔だった。』
今度、本当に笑った。
「ひどいな、僕」
でも。
その次。
『それから湊が聞いた。』
『本当に?』
『本当に』
『俺のこと?』
『他に誰がいるんだよ』
『男だよ』
『知ってる』
『律も男だろ』
『知ってるよ』
『じゃあ』
『何』
『いいの?』
そこで。
僕は読むのを止めた。
いいの?
その意味。
たぶん。
僕にはわかる。
湊は。
僕が自分を好きだと言ったことを。
簡単には信じられなかったんだ。
『僕はその時、少し腹が立った。』
『だから言った。』
『湊が男だから好きなんじゃない』
『……』
『男なのに好きになったんでもない』
『じゃあ何』
『湊だから好き』
息が。
できなくなった。
自分で書いた言葉。
なのに。
知らない。
僕がそんなことを言ったなんて。
『たぶんこれが一度目の告白。』
『湊から僕に。』
『僕から湊に。』
僕は紙を机に置いた。
しばらく。
読めなかった。
*
十分くらい経ってから。
続きを読んだ。
『その日は付き合わなかった。』
「え?」
思わず声が出た。
『湊が、ちゃんと考えてから返事してくれって言ったから。僕はもう返事したのに、しつこかった。』
湊らしい。
『だから次の日、学校で会ったら、もう一度言うつもりだった。』
『でも。』
文字の間が。
そこで大きく空いていた。
『翌朝、僕は湊を忘れた。』
胸が沈む。
『教室で知らない奴に話しかけられたと思った。』
今と同じ。
『湊は最初、冗談だと思った。』
『僕も、湊がふざけてると思った。』
『松岡が、僕たちは毎日一緒にいたって教えてくれた。』
同じ。
全部。
今と。
『その日の放課後、湊から昨日のことを聞いた。』
『好きだと言ったことも。』
『僕が好きだと返したことも。』
『でも僕は信じられなかった。』
その一文が。
痛かった。
今の僕も。
同じだったから。
『湊は証拠を見せてくれた。』
『写真。』
『メッセージ。』
『図書室で一緒に借りた本。』
『喫茶アオのレシート。』
『それでも僕は、気持ちだけは信じられなかった。』
なぜ。
『だって、今の僕は湊を好きじゃなかったから。』
心臓が。
嫌な音を立てた。
『好きだった記憶がないというより、好きだった気持ちがない。』
『それが一番怖かった。』
僕は紙から目を離した。
今。
僕は湊をどう思っている?
気になる。
会いたい。
知りたい。
名前で呼ばれると。
胸が鳴る。
袖をつかみたくなる。
それは。
好きなのか。
まだ。
わからない。
続きを読む。
『湊は僕に、もう気にしなくていいと言った。』
『なかったことにしていいと言った。』
『でも僕は嫌だった。』
『僕の知らないところで、僕が誰かを好きだったことが。』
『その誰かが今も僕を好きなことが。』
『なのに僕だけ、何も持っていないことが。』
今の僕と。
まったく同じだった。
『だから決めた。』
『もう一度、湊を知る。』
呼吸が止まる。
『それで、もう一度好きになるか試してみる。』
僕は。
笑いそうになった。
「何だよ」
僕は紙に言った。
「同じじゃん」
半年以上前の僕も。
今の僕も。
同じことをしている。
湊を知ろうとして。
一緒にパンを食べて。
図書室へ行って。
喫茶アオへ行って。
『もしこの紙を読む僕が、また湊を忘れているなら。』
最後のほう。
『たぶん、同じことがまた起きたんだと思う。』
『その時の僕にお願いがある。』
文字が。
少し大きくなっている。
『湊を疑わないで。』
『怖がらないで。』
『久世湊は、僕が忘れていい人じゃない。』
胸の奥で。
何かが崩れた。
最後。
『それから。』
『できれば、また名前で呼んであげて。』
『湊は、僕が「湊」って呼ぶと嬉しそうだから。』
そこで。
紙は終わっていた。
*
気づいたら。
スマホを持っていた。
時刻。
午後九時二十七分。
湊との画面を開く。
『起きてる?』
送る。
既読。
早い。
『起きてる』
『電話していい?』
返事を待つ。
三秒。
『何かあった?』
『いいから』
すぐに電話がかかってきた。
「もしもし」
湊の声。
たったそれだけで。
胸が苦しくなった。
『律?』
「うん」
『どうした』
「……一個、見つけた」
沈黙。
『何を』
「手紙」
『手紙?』
「僕が僕に書いたやつ」
向こうで。
湊が息を止めたのがわかった。
『どこにあった』
「現代文のノート」
『……そうか』
「知ってた?」
『知らない』
右手は見えない。
でも。
これはたぶん本当だ。
「一回目のこと書いてあった」
しばらく。
何も聞こえない。
「十月十七日」
『うん』
「駅までの道」
『うん』
「僕が湊に言わせた」
『……うん』
「好きって」
声に出した瞬間。
顔が熱くなる。
電話の向こうで。
湊が小さく息を吐いた。
「本当なんだね」
『何が』
「僕が」
一度。
喉が詰まる。
「湊を好きだったこと」
沈黙。
『本当だよ』
「紙に書いてあった」
『そう』
「僕も好きって言った」
『ああ』
「湊だから好きって」
『律』
「何」
『そこまで読まなくていい』
「何で」
『恥ずかしい』
思わず笑った。
「湊も恥ずかしいんだ」
『当たり前だろ』
「意外」
『切るぞ』
「待って」
『何』
少し迷う。
「その日」
『うん』
「嬉しかった?」
また。
長い沈黙。
『嬉しかったよ』
「どれくらい」
『何で聞くんだよ』
「知りたい」
『……』
「知り合い直してるから」
湊が。
電話の向こうで笑った。
声だけ。
でもわかった。
『たぶん』
「うん」
『人生で一番』
胸が痛んだ。
嬉しいのに。
痛い。
「そっか」
『うん』
「なのに次の日」
言えなくなる。
『忘れた』
湊が代わりに言った。
「……ごめん」
『謝るな』
「でも」
『それも前のお前に何回も言った』
「何て」
『ごめんって』
「湊は?」
『謝るなって』
「同じだ」
『ああ』
僕は机の上の紙を見る。
「ねえ」
『何』
「一回目に僕が忘れたあと」
『うん』
「僕たち、どうなった?」
返事がない。
「手紙には、もう一度湊を知るって書いてある」
『そうだった』
「それで?」
『また一緒にいた』
「どれくらい」
『しばらく』
「それだけ?」
『律』
声が変わった。
少し。
警戒するような。
「何」
『今日はそこまでにしろ』
「何で」
『一気に思い出そうとするな』
「またそれ」
『頼むから』
強い声ではなかった。
だから余計に。
止まった。
「……わかった」
『悪い』
「でも一個だけ」
『何』
「二回目も」
心臓が鳴る。
「湊が告白したの?」
電話の向こうが。
静かになった。
「湊?」
『……ああ』
「やっぱり」
『うん』
「僕は?」
『何が』
「また湊を好きになった?」
沈黙。
今度は。
長かった。
『なったよ』
胸が。
ぎゅっと縮む。
「本当に?」
『本当に』
「一回忘れたのに?」
『ああ』
「また?」
『また』
僕は。
なぜか笑った。
「僕、しつこいね」
『どっちが』
「僕」
『俺だろ』
「何で」
『忘れられてもずっといた』
声が。
少しだけ。
寂しくなった。
『普通は諦める』
「じゃあ何で諦めなかったの」
聞いて。
すぐ後悔した。
答えはわかっている。
湊はもう。
その言葉を言わないと決めている。
『寝ろ』
案の定。
逃げた。
「またそれ」
『眠いだろ』
「まだ」
『嘘』
「句読点ある」
『声でわかる』
「そこまで?」
『知ってるから』
また。
その言葉。
でも今日は。
怖くなかった。
「湊」
『何』
「ありがとう」
『何が』
「忘れないでいてくれて」
電話の向こうで。
何かが止まったような気がした。
『……それ』
「何」
『前も言われた』
「僕に?」
『二回目の前』
「同じこと?」
『ほぼ』
「じゃあ取り消す」
『何で』
「前の僕と同じなの悔しい」
湊が。
声を出して笑った。
初めて聞いたかもしれない。
こんな笑い方。
静かで。
低くて。
でも。
ちゃんと楽しそう。
僕も笑った。
「おやすみ、湊」
言う。
笑い声が止まる。
『……おやすみ、律』
電話が切れた。
僕はスマホを置いた。
机の上。
過去の僕から届いた手紙。
もう一度読む。
『久世湊は、僕が忘れていい人じゃない。』
指で。
その文字をなぞる。
一度目。
僕は湊を好きになった。
忘れた。
それでも。
二度目。
また。
同じ人を好きになった。
そして。
三度目も。
たぶん。
僕は。
机の上のスマホを見る。
今の僕は。
四度目なのだろうか。
まだ。
好きとは言えない。
でも。
ひとつだけ。
もうわかっている。
久世湊は。
僕が忘れていい人じゃない。
*
翌朝。
僕はいつもより早く学校へ行った。
教室。
まだ誰もいない。
窓際。
湊の席。
僕はその机に。
クリームパンを置いた。
牛乳。
普通の。
低脂肪じゃないやつ。
それから。
小さな付箋を一枚。
『一回目の僕から聞いた。今日もよろしく。』
書いて。
少し考える。
下に一行足した。
『湊へ』
名字ではなく。
名前。
自分の席へ戻る。
しばらくして。
教室のドアが開いた。
湊が入ってきた。
僕を見る。
それから自分の席。
パン。
牛乳。
付箋。
手に取る。
読む。
動かない。
「おはよう」
僕が言った。
湊が顔を上げる。
「……おはよう」
「どうしたの」
「別に」
「顔赤い」
「赤くない」
「赤い」
「うるさい」
右手。
親指を握っている。
僕は笑った。
「今日も嘘ついてる」
湊は付箋を握ったまま。
困ったように。
少しだけ笑った。
その笑顔を見て。
僕は思った。
一度目の僕が。
この人を好きになった理由を。
僕はもう。
少し知っている。



