告白されたら、君を忘れる

 僕は、久世湊の袖をつかんだまま、十五分歩いた。

 正確に言えば、最初の三分くらいは本当に袖をつかんでいた。

 そのあと、

「歩きにくい」

 と湊に言われたので離した。

「じゃあ言わなきゃいいのに」

「何を」

「帰りたくない時、前もこうしてたって」

「俺のせい?」

「そう」

「理不尽だな」

「前の僕も理不尽だった?」

「かなり」

「嫌だった?」

「……別に」

 右手を見る。

 親指。

 握っている。

「嘘」

「最近それ万能だと思ってない?」

「便利だから」

「癖直そうかな」

「困る」

「何で」

「湊が嘘ついてるかわからなくなる」

「わからなくていいだろ」

「嫌だ」

 また。

 自然に出た。

 嫌だ。

 僕は普段、人にそんな言い方をしない。

 松岡に何かを断る時だって、

「まあ今日はいいかな」

 とか、

「また今度」

 とか。

 なるべく角が立たない言葉を選ぶ。

 でも湊には。

 嫌。

 知りたい。

 教えて。

 帰りたくない。

 そんな言葉が、考えるより先に口から出る。

 湊が言っていた。

 俺の前でだけ、お前はわがままだった。

 その意味が。

 少しずつわかり始めていた。

     *

 家に帰ると、母さんはまだ仕事から戻っていなかった。

 冷蔵庫に、

『カレー温めて食べて』

 というメモが貼ってある。

 電子レンジに皿を入れたところで、スマホが震えた。

 湊。

『帰った?』

 僕は少し笑った。

『今帰った』

 返信。

『飯食え』

『今温めてる』

『カレー?』

 指が止まる。

『なんでわかるの』

『水曜だから』

 冷蔵庫を見る。

 確かに。

 母さんは水曜にカレーを作ることが多い。

 でも毎週というわけではない。

『水曜はいつもカレーなの?』

『お前の家はだいたい』

『そこまで知ってるの怖い』

 送ってから。

 しまったと思った。

 昨日から何度目だろう。

 怖い。

 その言葉を言うたび、湊は少し傷つく。

 慌てて続ける。

『いい意味で』

 すぐに、

『いい意味の怖いって何だよ』

 と返ってきた。

 少し安心する。

『愛が重い的な』

 送信。

 既読。

 返事が来ない。

「……何送ってるんだ僕」

 顔が熱くなる。

 削除しようとした瞬間。

『知ってる』

「は?」

『何を?』

『重いのは自覚してる』

 返事に困った。

 カレーが温まった音がする。

 それでも僕はスマホを見ていた。

『嫌?』

 今度は湊から。

 短い二文字。

 僕はしばらく考えた。

 嫌か。

 僕の食べ物の好みを知っている。

 癖を知っている。

 家で水曜にカレーを食べることまで知っている。

 普通なら。

 たぶん少し気味が悪い。

 なのに。

『嫌じゃない』

 そう送った。

 すぐ既読がついた。

『そっか』

 それだけ。

 でも、なぜか。

 その「そっか」が嬉しそうに見えた。

     *

 カレーを食べ終えたあと。

 僕は自分の部屋の机を開けた。

 何となく。

 本当に何となく。

 昔のものを調べてみようと思った。

 スマホから湊との記録を消したのなら。

 紙なら。

 何か残っているかもしれない。

 学校のプリント。

 去年の教科書。

 模試の結果。

 図書館の貸出票。

 使い終わったノート。

 一年生の頃のものは、机の一番下の引き出しにまとめて入れてあった。

「汚いな」

 我ながら驚く。

 捨てればいいプリントまで残っている。

 数学。

 現代文。

 英語。

 一冊ずつめくる。

 特に何もない。

 湊という文字もない。

 久世という文字もない。

 四冊目。

 去年の現代文ノート。

 後ろから数ページめくった時だった。

 一枚だけ。

 紙が不自然に厚い。

「何だ?」

 二ページが糊で貼り合わされている。

 端から慎重にはがす。

 中に。

 折り畳んだ紙が入っていた。

 ルーズリーフ。

 僕の字。

 上に書かれていた。

『もしまた忘れたら読むこと』

 息が止まった。

 手が動かない。

 もしまた。

 忘れたら。

 僕は椅子に座った。

 紙を開く。

 最初の一行。

『久世湊は悪くない。』

 心臓が鳴った。

 続けて読む。

『これを読んでいる僕が、もし久世のことを覚えていなかったら、最初にこれだけは信じてほしい。久世は何もしていない。僕を騙していないし、変なこともしていない。』

「……何これ」

 僕自身が。

 今の僕へ書いている。

『たぶん僕はまた疑うと思う。だって普通じゃないから。昨日まで知っていた人を急に忘れるなんて変だから。でも、本当にある。僕は一度、久世湊を忘れた。』

 一度。

 ということは。

 この紙は。

 二回目より前に書かれた。

 僕は読み進める。

『最初に忘れたのは十月十八日。』

 去年。

 半年以上前。

『十月十七日の放課後、久世に告白された。』

 指が止まった。

 これだ。

 一度目。

『正確に言うと、告白されたという言い方は少し違う。僕が言わせた。』

 胸がざわつく。

 昨日の湊も同じことを言っていた。

 三回目。

 僕が言わせた、と。

『久世はずっと何か言いたそうだった。でも言わないから、腹が立って、帰り道で問い詰めた。』

 僕は。

 紙に書かれた文字を追った。

 すると。

 文字の向こうに。

 少しずつ景色が浮かんでくる気がした。

     *

 十月十七日。

 放課後。

 たぶん。

 空は曇っていた。

 僕と湊は学校から駅へ向かって歩いていた。

 そんな場面を想像する。

 いや。

 想像なのか。

 記憶なのか。

 まだわからない。

『今日、変』

 僕が言う。

『何が』

 湊。

『湊が』

『いつもだろ』

『そういう意味じゃない』

 僕は歩きながら、湊の顔を覗き込む。

『何か隠してる』

『隠してない』

『嘘』

『何で』

『右手』

 そこで僕は紙から目を上げた。

 親指。

 もうその頃から知っていた。

 湊の癖。

 また読む。

『この頃の僕はもう、湊が嘘をつくと親指を握ることを知っていた。』

 胸が少し熱くなった。

『だから言った。』

『言いたいことあるなら言えば』

 湊は黙る。

『ない』

『嘘』

『ない』

『だったら帰る』

『帰れば』

『本当に帰るよ』

『帰ればいいだろ』

 僕は腹を立てる。

『じゃあ帰る』

 駅の手前。

 そこで僕は一人で歩き出す。

 十歩。

 二十歩。

 でも湊は追ってこない。

『最低』

 たぶん。

 僕はそう言った。

 紙にもそう書いてある。

『本当に追いかけてこなかったから、めちゃくちゃ腹が立った。だから僕のほうから戻った。』

 笑いそうになる。

「何やってるんだよ」

 昔の自分に言った。

『それで湊に言った。』

『なんで追いかけてこないの』

『帰るって言ったのお前だろ』

『本当に帰るわけないじゃん』

『知らないよ』

『知ってよ』

 そこまで読んで。

 僕は目を閉じた。

 知ってよ。

 そんな言葉。

 今の僕は。

 誰にも言ったことがない。

 でも。

 湊には言った。

『そのあと、湊はしばらく黙っていた。』

『律』

『何』

『俺のことさ』

『うん』

『どう思ってる』

『何急に』

『いいから』

『友達』

 湊の顔が曇る。

『それだけ?』

『何で』

『いや』

『湊は?』

『何が』

『僕のこと』

 沈黙。

『友達』

『嘘』

『友達だよ』

『右手』

 湊を見る。

 握っている。

『だから僕は言った。』

『ちゃんと言って』

『何を』

『僕のこと、どう思ってるか』

『聞かないほうがいい』

『何で』

『今のままでいられなくなるから』

 胸が。

 強く鳴った。

 僕は紙を持つ手に力を入れた。

 続き。

『その時、僕はたぶんもう気づいていた。』

『湊が僕を好きなんじゃないかって。』

 文字が少し震えている。

 書いた時の僕の手も。

 震えていたのかもしれない。

『でも、聞きたかった。』

『だからもう一度言った。』

『言ってよ』

 湊は長い間黙る。

 そして。

『好き』

 一言。

 それだけ。

 僕は息を止めた。

 読んでいるだけなのに。

 自分が言われたみたいに。

 胸が熱くなった。

『僕は何も言えなかった。』

 紙には続いている。

『湊は笑った。』

『だから言わなきゃよかったんだ』

『待って』

『いいよ』

『よくない』

『忘れて』

『無理』

『じゃあ聞かなかったことにして』

『もっと無理』

 僕は。

 その場面を。

 なぜか鮮明に想像できた。

 湊はきっと。

 右手を握っていた。

 目を逸らして。

 平気なふりをして。

『僕はその時、何て答えればいいかわからなかった。』

『でも、湊が帰ろうとしたから、袖をつかんだ。』

 昨日。

 僕がしたこと。

 同じ。

『帰らないで』

 胸の奥。

 何かが動いた。

 声。

 湊の。

『律』

『まだ答え聞いてないでしょ』

『今すぐじゃなくていい』

『僕が嫌』

『何が』

『明日まで考えるのが』

 僕は。

 たぶん笑った。

『僕も好き』

 紙の文字が滲んで見えた。

 僕は瞬きをする。

 泣いてはいない。

 ただ。

 目が熱い。

『その時、湊は本当に馬鹿みたいな顔をした。』

 思わず笑う。

『たぶん人生で一番間抜けな顔だった。』

 今度、本当に笑った。

「ひどいな、僕」

 でも。

 その次。

『それから湊が聞いた。』

『本当に?』

『本当に』

『俺のこと?』

『他に誰がいるんだよ』

『男だよ』

『知ってる』

『律も男だろ』

『知ってるよ』

『じゃあ』

『何』

『いいの?』

 そこで。

 僕は読むのを止めた。

 いいの?

 その意味。

 たぶん。

 僕にはわかる。

 湊は。

 僕が自分を好きだと言ったことを。

 簡単には信じられなかったんだ。

『僕はその時、少し腹が立った。』

『だから言った。』

『湊が男だから好きなんじゃない』

『……』

『男なのに好きになったんでもない』

『じゃあ何』

『湊だから好き』

 息が。

 できなくなった。

 自分で書いた言葉。

 なのに。

 知らない。

 僕がそんなことを言ったなんて。

『たぶんこれが一度目の告白。』

『湊から僕に。』

『僕から湊に。』

 僕は紙を机に置いた。

 しばらく。

 読めなかった。

     *

 十分くらい経ってから。

 続きを読んだ。

『その日は付き合わなかった。』

「え?」

 思わず声が出た。

『湊が、ちゃんと考えてから返事してくれって言ったから。僕はもう返事したのに、しつこかった。』

 湊らしい。

『だから次の日、学校で会ったら、もう一度言うつもりだった。』

『でも。』

 文字の間が。

 そこで大きく空いていた。

『翌朝、僕は湊を忘れた。』

 胸が沈む。

『教室で知らない奴に話しかけられたと思った。』

 今と同じ。

『湊は最初、冗談だと思った。』

『僕も、湊がふざけてると思った。』

『松岡が、僕たちは毎日一緒にいたって教えてくれた。』

 同じ。

 全部。

 今と。

『その日の放課後、湊から昨日のことを聞いた。』

『好きだと言ったことも。』

『僕が好きだと返したことも。』

『でも僕は信じられなかった。』

 その一文が。

 痛かった。

 今の僕も。

 同じだったから。

『湊は証拠を見せてくれた。』

『写真。』

『メッセージ。』

『図書室で一緒に借りた本。』

『喫茶アオのレシート。』

『それでも僕は、気持ちだけは信じられなかった。』

 なぜ。

『だって、今の僕は湊を好きじゃなかったから。』

 心臓が。

 嫌な音を立てた。

『好きだった記憶がないというより、好きだった気持ちがない。』

『それが一番怖かった。』

 僕は紙から目を離した。

 今。

 僕は湊をどう思っている?

 気になる。

 会いたい。

 知りたい。

 名前で呼ばれると。

 胸が鳴る。

 袖をつかみたくなる。

 それは。

 好きなのか。

 まだ。

 わからない。

 続きを読む。

『湊は僕に、もう気にしなくていいと言った。』

『なかったことにしていいと言った。』

『でも僕は嫌だった。』

『僕の知らないところで、僕が誰かを好きだったことが。』

『その誰かが今も僕を好きなことが。』

『なのに僕だけ、何も持っていないことが。』

 今の僕と。

 まったく同じだった。

『だから決めた。』

『もう一度、湊を知る。』

 呼吸が止まる。

『それで、もう一度好きになるか試してみる。』

 僕は。

 笑いそうになった。

「何だよ」

 僕は紙に言った。

「同じじゃん」

 半年以上前の僕も。

 今の僕も。

 同じことをしている。

 湊を知ろうとして。

 一緒にパンを食べて。

 図書室へ行って。

 喫茶アオへ行って。

『もしこの紙を読む僕が、また湊を忘れているなら。』

 最後のほう。

『たぶん、同じことがまた起きたんだと思う。』

『その時の僕にお願いがある。』

 文字が。

 少し大きくなっている。

『湊を疑わないで。』

『怖がらないで。』

『久世湊は、僕が忘れていい人じゃない。』

 胸の奥で。

 何かが崩れた。

 最後。

『それから。』

『できれば、また名前で呼んであげて。』

『湊は、僕が「湊」って呼ぶと嬉しそうだから。』

 そこで。

 紙は終わっていた。

     *

 気づいたら。

 スマホを持っていた。

 時刻。

 午後九時二十七分。

 湊との画面を開く。

『起きてる?』

 送る。

 既読。

 早い。

『起きてる』

『電話していい?』

 返事を待つ。

 三秒。

『何かあった?』

『いいから』

 すぐに電話がかかってきた。

「もしもし」

 湊の声。

 たったそれだけで。

 胸が苦しくなった。

『律?』

「うん」

『どうした』

「……一個、見つけた」

 沈黙。

『何を』

「手紙」

『手紙?』

「僕が僕に書いたやつ」

 向こうで。

 湊が息を止めたのがわかった。

『どこにあった』

「現代文のノート」

『……そうか』

「知ってた?」

『知らない』

 右手は見えない。

 でも。

 これはたぶん本当だ。

「一回目のこと書いてあった」

 しばらく。

 何も聞こえない。

「十月十七日」

『うん』

「駅までの道」

『うん』

「僕が湊に言わせた」

『……うん』

「好きって」

 声に出した瞬間。

 顔が熱くなる。

 電話の向こうで。

 湊が小さく息を吐いた。

「本当なんだね」

『何が』

「僕が」

 一度。

 喉が詰まる。

「湊を好きだったこと」

 沈黙。

『本当だよ』

「紙に書いてあった」

『そう』

「僕も好きって言った」

『ああ』

「湊だから好きって」

『律』

「何」

『そこまで読まなくていい』

「何で」

『恥ずかしい』

 思わず笑った。

「湊も恥ずかしいんだ」

『当たり前だろ』

「意外」

『切るぞ』

「待って」

『何』

 少し迷う。

「その日」

『うん』

「嬉しかった?」

 また。

 長い沈黙。

『嬉しかったよ』

「どれくらい」

『何で聞くんだよ』

「知りたい」

『……』

「知り合い直してるから」

 湊が。

 電話の向こうで笑った。

 声だけ。

 でもわかった。

『たぶん』

「うん」

『人生で一番』

 胸が痛んだ。

 嬉しいのに。

 痛い。

「そっか」

『うん』

「なのに次の日」

 言えなくなる。

『忘れた』

 湊が代わりに言った。

「……ごめん」

『謝るな』

「でも」

『それも前のお前に何回も言った』

「何て」

『ごめんって』

「湊は?」

『謝るなって』

「同じだ」

『ああ』

 僕は机の上の紙を見る。

「ねえ」

『何』

「一回目に僕が忘れたあと」

『うん』

「僕たち、どうなった?」

 返事がない。

「手紙には、もう一度湊を知るって書いてある」

『そうだった』

「それで?」

『また一緒にいた』

「どれくらい」

『しばらく』

「それだけ?」

『律』

 声が変わった。

 少し。

 警戒するような。

「何」

『今日はそこまでにしろ』

「何で」

『一気に思い出そうとするな』

「またそれ」

『頼むから』

 強い声ではなかった。

 だから余計に。

 止まった。

「……わかった」

『悪い』

「でも一個だけ」

『何』

「二回目も」

 心臓が鳴る。

「湊が告白したの?」

 電話の向こうが。

 静かになった。

「湊?」

『……ああ』

「やっぱり」

『うん』

「僕は?」

『何が』

「また湊を好きになった?」

 沈黙。

 今度は。

 長かった。

『なったよ』

 胸が。

 ぎゅっと縮む。

「本当に?」

『本当に』

「一回忘れたのに?」

『ああ』

「また?」

『また』

 僕は。

 なぜか笑った。

「僕、しつこいね」

『どっちが』

「僕」

『俺だろ』

「何で」

『忘れられてもずっといた』

 声が。

 少しだけ。

 寂しくなった。

『普通は諦める』

「じゃあ何で諦めなかったの」

 聞いて。

 すぐ後悔した。

 答えはわかっている。

 湊はもう。

 その言葉を言わないと決めている。

『寝ろ』

 案の定。

 逃げた。

「またそれ」

『眠いだろ』

「まだ」

『嘘』

「句読点ある」

『声でわかる』

「そこまで?」

『知ってるから』

 また。

 その言葉。

 でも今日は。

 怖くなかった。

「湊」

『何』

「ありがとう」

『何が』

「忘れないでいてくれて」

 電話の向こうで。

 何かが止まったような気がした。

『……それ』

「何」

『前も言われた』

「僕に?」

『二回目の前』

「同じこと?」

『ほぼ』

「じゃあ取り消す」

『何で』

「前の僕と同じなの悔しい」

 湊が。

 声を出して笑った。

 初めて聞いたかもしれない。

 こんな笑い方。

 静かで。

 低くて。

 でも。

 ちゃんと楽しそう。

 僕も笑った。

「おやすみ、湊」

 言う。

 笑い声が止まる。

『……おやすみ、律』

 電話が切れた。

 僕はスマホを置いた。

 机の上。

 過去の僕から届いた手紙。

 もう一度読む。

『久世湊は、僕が忘れていい人じゃない。』

 指で。

 その文字をなぞる。

 一度目。

 僕は湊を好きになった。

 忘れた。

 それでも。

 二度目。

 また。

 同じ人を好きになった。

 そして。

 三度目も。

 たぶん。

 僕は。

 机の上のスマホを見る。

 今の僕は。

 四度目なのだろうか。

 まだ。

 好きとは言えない。

 でも。

 ひとつだけ。

 もうわかっている。

 久世湊は。

 僕が忘れていい人じゃない。

     *

 翌朝。

 僕はいつもより早く学校へ行った。

 教室。

 まだ誰もいない。

 窓際。

 湊の席。

 僕はその机に。

 クリームパンを置いた。

 牛乳。

 普通の。

 低脂肪じゃないやつ。

 それから。

 小さな付箋を一枚。

『一回目の僕から聞いた。今日もよろしく。』

 書いて。

 少し考える。

 下に一行足した。

『湊へ』

 名字ではなく。

 名前。

 自分の席へ戻る。

 しばらくして。

 教室のドアが開いた。

 湊が入ってきた。

 僕を見る。

 それから自分の席。

 パン。

 牛乳。

 付箋。

 手に取る。

 読む。

 動かない。

「おはよう」

 僕が言った。

 湊が顔を上げる。

「……おはよう」

「どうしたの」

「別に」

「顔赤い」

「赤くない」

「赤い」

「うるさい」

 右手。

 親指を握っている。

 僕は笑った。

「今日も嘘ついてる」

 湊は付箋を握ったまま。

 困ったように。

 少しだけ笑った。

 その笑顔を見て。

 僕は思った。

 一度目の僕が。

 この人を好きになった理由を。

 僕はもう。

 少し知っている。